金峰町の棒踊り - 田布施大田阿多棒踊りの構造棒踊りの成立まとめ鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME

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(4) 若干の考察―金峰町の棒踊り成立過程―

 以上、金峰地区の各踊りを5種類に分類して、この構造を整理した。最後に、それぞれの踊りの比較から、成立過程について若干の検討を試みてみよう。まず、先学の研究を整理しておく。

研究史 下野敏見氏は、棒踊り系芸能を、次の15種類に分類している。〔下野2009 198―200頁から筆者整理〕

【基本形・棒踊り】
@六尺棒と六尺棒 A三尺棒と三尺棒 B六尺棒と三尺棒
【変化形・鎌之手】
C鎌と六尺棒 D鎌と長刀(あるいは鉈) E三尺鎌と六尺棒 F三尺棒と鎌と三尺棒 G六尺棒と鎌と六尺棒
【変化形・その他】
H錫杖踊り I虚無僧踊り Jヨンジー K笹踊り L幣舞い M太刀踊り N鎖鎌

 下野氏は棒踊りの成立について、江戸初期、修験道の影響を受けた棒術家ないしは山伏が、棒術の型から棒踊りを編み出し、田歌の下二句をあてはめて歌ったものを起源とし、基本型から変化工夫され各地に伝播したと述べている〔下野2009 228頁〕。

 田歌から棒踊り歌への発展については、松原武実氏が、@3部分構造の田歌→A3部分構造の棒踊歌→B2部分構造の棒踊歌の成立過程を示している〔松原1993 214頁〕。

金峰町における棒踊りの成立過程 以上を踏まえ、金峰町における棒踊り系芸能の成立過程の検討してみたい。

 まず、採り物に「錫杖」を持つ点から、[A][B][C]の一群と、[D][E]の一群が別の成立過程を持っていると考えられる(以下では、前者をT群、後者をU群と呼ぶ)。T群は、南さつま市内でも各地に伝承されている。一方、U群は南さつま市では金峰以外では見られず、日置から北薩に伝承されている。下野氏の分類でいえば、T群は基本形、U群は変化形のうち鎌ん手以外の踊り群となる。

 U群の[D]刀踊りに類似した笹踊りは、先述のとおり同じ旧日置郡の日置八幡神社のお田植祭りでも見られるが、錫杖・奉踊棒は持たない。下野敏見氏は日置八幡神社と金峰神社の笹踊りについて、「修験者による伝播という点からは金峰町のほうがもとであるといえよう」と述べている〔下野2009 70頁〕。

 U群の[E]シベ錫杖踊りは、下野氏が示した分類の錫杖踊りと幣舞が複合したものと思われる(注1)。金峰では、現在[E]だけを金山踊りと呼ぶが、[D]のことを金山踊りと称していたという伝承も聞かれた。今後さらに確認を行いたい。

 [D]と[E]との関係はどうだろうか。どちらも錫杖を持つが、[D]の服装は、[A][B][C][E]と全く異なる([D]だけがシベ笠を被り、手甲をつけず、錫杖を持つ)。また、シベ竿のことを[D]がある田布施地区だけがマトイと呼ぶ。一方[E]は、歌アゲで棒踊り歌の一節が入るものの、踊りは[A][B][C][D]とは異なり口説き唄に合わせて踊る。以上から同じ錫杖を持つU群ではあるが、全く別な発展を経て、現在の姿になったと筆者は考える。

 [D]の発生・伝播に霊峰金峰山の修験者の役割があったと考えれば、仮説として、次のように考えられないだろうか。

〔図2〕 金峰町棒踊り系芸能の成立過程
図2 金峰町棒踊り系芸能の成立過程

【[D]の成立】もともとT群があったところへ、6人がらみの[A][C]から錫杖を持つ[D]が発生した(奉踊棒が付いた時点でシベ竿「ホコ」を「マトイ」と呼ぶようになる)。[D]はのちに日置8幡へも笹踊りとして伝播した。

【[E]の成立】[B]4人がらみ鎌踊りがあったところに、北薩から伝来した幣舞に[D]の錫杖という要素を取り入れて、[E]に発展した。

4 まとめ

 以上、金峰町における多彩な棒踊り系芸能について、分類と成立過程の検討を行ってきた。まとめると、次のようになる。

 @金峰町の棒踊り系芸能には[A]6人がらみ棒踊り・[B]4人がらみ鎌踊り・[C]6人がらみ薙刀踊り・[D]6人組刀踊り・[E]4人がらみシベ錫杖踊り(金山踊り)があり、錫杖を持たないT群([A][B][C])と錫杖をもつU群([D][E])に分類できる。

 AもともとT群があったところへ、錫杖を持つ[D]の刀踊りが発生し、それがのちにシベ錫杖を持つ[E]へと展開したと考えられる。

 B現在は田植え神事は見られないが、かつてはすべて田植え上がりに、豊作を祈願する踊りであった。

 C踊りの先頭に、多くの集落でシベ竿(マトイ・ホコ)が付く。このことは、[D]の錫杖・奉踊棒の先端が幅広になっている点も含め、シベ竿・採り物で力強く地面を突き、土地に活力を与えようとする呪術を伝えている。

 棒踊りは県内各地で踊られ、どれも同じようにも見える。しかし、採り物という有形文化に視点を置いて、あらためて金峰町の多彩な踊りを整理してみると、いろいろと気づかされることが多かった。例えば「刀踊り」と言っても、それは一方の手に刀を持つだけの踊りではなく、実見してみると採り物は両手に持っている。土地土地で伝承されている踊りの呼称だけでは、見えてこないものがあることを、実感した。

 また南薩だけを歩いていると「鎌ん柄が折れた、3束遅れた」など歌詞の意味が、どうも理解できなかった。先学の研究を読み直し、田歌ではこの例なら「好かぬ殿ごと草刈り行けば」とか「憎い殿じょの切る草は」が前につくのだと気づいて、ようやく理解できた。伝承者は分からないまま今も素朴に踊り続けている。

 変容を遂げた今見える民俗文化から、その意味を探究していく作業は、大変有意義なものである。仮説は立ててみたものの、北薩の状況など、他地区の踊りと見比べながら、今後も検討を続けていきたい。最後に、調査にあたり各地区でお世話になった保存会・踊り子の皆さんに感謝申しあげたい。

〔注〕
1 筆者は北薩のものは未調査なので、下野敏見氏『鹿児島の棒踊り』の写真・図から推測した。

〔参考文献〕
下野敏見 1980 『南九州の民俗芸能』 未来社
下野敏見 2009 『南日本の民俗文化誌2 鹿児島の棒踊り』 南方新社
松原武美 1993 『南九州歌謡の研究』 第一書房
編さん委員会編 1989 『金峰町郷土史 下巻』 金峰町

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