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(3) 南さつま市の事例

 南さつま市の太鼓踊りも多彩だ。大太鼓の桴は、市北部の金峰(きんぽう)では木製の細長いものを、市中部の益山(ますやま)では藁製のものを、市中南部及び西部では藺製の短いものを、南部の坊津(ぼうのつ)では木製の短い桴を用いる(写真15〜27)。

【事例11】尾下太鼓踊り 金峰町尾下(おくだり)に伝わるこの踊りについては実見していないが、桴の分布上重要であるので、聞き書き及び『金峰町郷土史』から整理して紹介したい。保存会の方によれば、もともとはホゼ(秋祭り)に踊っていたものが、農作業の都合もあって8月26日になり、さらに8月30日になったという。しかし、平成に入り、数年前から休止中の状態。田布施郷(たぶせ ごう)庄屋跡に建つ福田寺から多夫施神社(たぶせ じんじゃ)、南方神社、金峰山遥拝所、亀ヶ城神社、麓招魂碑、尾下招魂碑、再び福田寺の順に踊って回る。
 踊り子は、中打(少年で鉦・小太鼓各2人)と平打から構成される。平打は、両肩から腹の前に大太鼓を吊るし、細長い桴で打つ。模造のナギナタをつけた矢旗を背負う。歌詞のある踊りの歌い出しには、「空行く雲」「末殿」「椎子(ワッコ)の忍は」「細川殿」「高橋殿」「豊後の国の」などがある〔郷土史351-356頁〕。
 保存会の方に確認すると、桴はムベの木で作ったしなりのあるもので、郷土誌の口絵カラー写真で確認すると、伊作太鼓踊りなどと類似するものと思われる。

益山太鼓踊り【事例12】益山太鼓踊り 現在は新暦7月24日前後の休日に、益山八幡神社に奉納した後、大字加世田益山(かせだ ますやま)の各集落を回って踊る。小野重朗の報告によれば、「打込の庭」という古墓のある所から踊り始めたという〔小野1993 178頁〕。この太鼓踊りは、明治45年から昭和49年まで中断し、その後復活した芸能で、保存会の方に確認しても「打ち込みの庭」という言葉はすでに伝わっていなかった。古老によれば、益山の中小路集落にある放生会家(屋号オマエ)の前から踊り始める慣わしだったという。
 踊り子の構成は、ナカウチ(カシタガネとヒラガネの鉦2人・小太鼓2人)とヒラ(大太鼓)からなる。2011年のヒラは12人であった。ナカウチは陣羽織に花笠、ヒラは白衣に鉢巻、矢旗を背負う。隊形はナカウチが内側に、ヒラが外側になる二重の円陣を組んで踊る。歌い手は円陣の外におり、踊りの歌詞の歌い出しには、「空行く雲」(ブチマワシ)、「末殿」(チュチン)、「高橋殿」、「豊後の国」(ナマッキリ)などがある。
 大太鼓の桴はヤナギの木を芯に入れ、藁を巻いたもの。先にはシベが着いている。実測したものは、長さ40cm。最近は藁の代わりに間に合わせにゴザを裂いた藺を巻く場合もあるという。
 益山太鼓踊りは、歌の歌詞、踊りの曲調ともに、上山田・下山田と類似し、交流があったことがうかがわれる。

加世田士踊り【事例13】加世田士踊り(稚児踊り) 新暦7月23日、加世田武田の竹田神社夏祭りに奉納される。青年による二才踊り(にせ おどり)と、小学生による稚児踊りの二部からなる。踊りの順番は次のとおり。@稚児触れ太鼓・退場→A二才人場・円陣・縦列・退場→B稚児再入場・円陣・横列・退場。
 二才踊りは裃・帯刀の先払い、歌い手、陣羽織・帯刀・鉢巻の踊り子(鉦・太鼓の採り物なし)で構成される。二才踊りは円陣外の歌い手に合わせて舞う。刀は抜かない。下野敏見によれば、この踊りは戦国時代の成立とされる〔下野1980 86頁〕。竹田神社に祀られる島津忠良が、島津貴久の凱旋祝いに踊らせたとも、あるいは士気鼓舞の踊りとも伝えられている。また、間諜(かんちょう)に分からないように、難解な歌詞にしてあるという。
 稚児踊りは先導に甲冑武者、続いて白装束に陣羽織の手持ち太鼓の踊り子隊が続く。周回するときは手持ち太鼓を水平よりななめ上に向けて、顔の前に両手で持つ。叩くときは、左手の太鼓を右手に持った桴で打つ。一重の円陣で周回しながら歌い、太鼓をたたく。最後に境内上手から下手に一直線に並んでたたき、締める。
 稚児踊りの太鼓は、直径30cmほどの厚みの薄い手持ち太鼓で、桴は木製すりこ木型。市来七夕踊りの本踊りのものと共通している。楽曲は厳かで、念仏踊りを思わせる。

内山田太鼓踊りのヒラ【事例14】内山田太鼓踊り 7月25日に、加世田内山田の近戸神社(ちかど じんじゃ)六月灯(ろくがつどう - 旧暦6月に行われる夜祭り)で奉納される。踊り子は、鉦2人・小太鼓2人の中打ちと、平太鼓(大太鼓。2011年は12名)で構成される。中打ちは、そろいの花笠に振袖姿。鉦は左手に鉦・右手に撞木を持つ。小太鼓は肩から胸の下に垂直に吊るした太鼓を、両手に持った桴で両側から叩く。平太鼓は白装束に鉢巻姿。背中に矢旗を背負い、太鼓は肩から腹の前に吊るす。矢旗は今はビニールテープを垂らしている。中打ちと平太鼓で二重の円陣を組む。歌い手は円陣の外から歌う。歌詞には、歌い出しが「高橋殿」「けさ結た髪」の二つがある。
内山田太鼓踊りのバチ 桴は藺草製で、長さは実測したものは長さ16cm。もっとも太い部分は直径4.5cm。藺草は、今は畳屋に頼んで古畳をほどいたものなどを使う。手元は凧糸ほどの紐で二か所を締め、先を伸ばして結び、下げ紐にしている。平太鼓の音はほとんど聞こえず、鉦の音が響く。

【事例15】津貫豊祭太鼓踊り 10月27日に加世田津貫(つぬき)の天御中主神社の豊祭で奉納され、各集落を回る。踊りは、中間区(なかま く)・干河区(ひご く)・上門集落(うえのかど しゅうらく)の三つがあり、同じ日に奉納される。上門・干河では、大浦から伝わったという伝承がある。
津貫中間豊祭太鼓踊り 踊り子の構成は三地区とも同じで、中打ちと呼ばれる鉦2人・小太鼓2人、平打ちと呼ばれる大太鼓20名ほどと、歌い手3名からなつている。中打ちは4人とも花笠を被り、鮮やかな朱色の振袖姿。鉦・小太鼓の持ち方、叩き方は内山田と同じ。平太鼓は、自鉢巻きに白装束。山鳥の羽で作った矢旗を背負う。太鼓は両肩から腹の前に垂直に吊り下げ、両手で両側から打つ。

 隊形は、中打ち4人が内円、平太鼓が外円となり、二重の円陣を組む。歌い手は中打ちと平太鼓の間に並ぶ。歌詞には、「せんぎの町」「ひんよ島原」「末どん」「鎌倉」などがあり、太鼓の音はほとんど聞こえず、鉦の音が響く。
干河太鼓踊り 大太鼓の桴は中間ではベー、干河・上門ではブッと呼ばれ、藺草製(中間は現在、藁製。注3)。中間『復活50年記念誌』〔23頁〕に図示された作成法をまとめると、次のようになる。@長さ35cmほどの藺草の束の真ん中をくくり、Aその下部に芯の釘束を詰めて藺束を膨らませてそれに紐を巻きつけて締める。B上部を折り曲げ(ここで二重になる)、Cわさをかけて上部から絞り、D畳のヨマで手元を3か所縛る。
 実測したものの長さは、干河が16cm、上門が15cm、中間が17cm。直径は太いところで3.5cmほど。干河では付近に生えている藺草で作り、最近は熊本県八代に行って買ってくることもあるという。2・3年使い、痛んだら作り直す。上門では大浦の海水と淡水が交わる辺りに生えている、切る口が三角形の藺草を使っている(写真22)。刈ってきた藺を一週間陰干ししたあと作る。
 津貫の太鼓踊りは、太鼓を響かせるというよりも、太鼓を付けた踊り子が、優雅に踊りを見せているもののように思える。太鼓は楽器というよりも、採り物といってよい。

中間太鼓踊りのばち干河太鼓踊りのバチ上門太鼓踊りのバチ三角藺のバチ(上門太鼓踊り)

【事例16】小湊太鼓踊り 10月15日(現在は10月第3日曜日)に、加世田小湊の寄木八幡神社豊祭(よりき はちまんじんじゃ ほぜ)に奉納された後、集落内を回る。大浦から伝わったという伝承がある。
小湊太鼓踊り 踊り子の構成は中打ち4名(鉦2人、小太鼓2人)、平太鼓(2011年は24名)で、他に歌い手3名がいる。中打ちは白装束に花笠を被る。鉦・太鼓の持ち方・打ち方は内山田及び津貫と同じ。平打ちは、白装束に鉢巻姿。背中に矢旗を背負う。太鼓は直径48cmで肩から腹の前に垂直に吊るし、両手に持った桴で両側から打つ。踊りは、中打ちが内側に、平太鼓が外側に、二重の円陣を組み、歌い手は中打ちと平の間に並ぶ。歌には「年のうちより」「桜の下の」「しぶ山」がある。
 平太鼓の桴はブッと呼び、藺草製で、実測したものは長さ16cm。太鼓の音はほとんど聞こえず、鉦の音が厳かに響く。手首を捻ったり、手のひらを泳がせたりと、ゆったりと優雅に踊る。中打ちの白装束は、この太鼓踊りが清らかな踊りであることを伝えている。この踊りは戦後中断し、復活した太鼓踊りだが、伝承が一時中断したからこそ、古い衣装を踏襲しているのかもしれない。

大浦太鼓踊り【事例17】大浦の太鼓踊り 8月15日の盆に、大浦町永田の日新祠堂(じっしん しどう)に奉納したあと、各集落に分かれて踊る。「盆踊り」とも呼ばれるが、集落民全員が踊るのではなく、踊り子隊だけが踊り、集落民は観客となる。かつて各集落に踊りがあったが、2006年に5集落になり、現在は2集落(永田・上之門 - うえのかど)のみで伝承されている。
 鉦2人(イリ鉦・頭鉦)・小太鼓2人(イリコ・シイデコ)の中打ちと、大太鼓のヒラ、ウタ者で構成される。中打ちは、浴衣に花笠を被る。鉦・小太鼓の持ち方・打ち方は内山田・津貫・小湊と同様。ヒラは白装束に鉢巻き姿。肩から腹の前に大太鼓を吊るし、両側から桴を打つ。歌者は紺の着物に、色紙を垂らした菅笠を被る。隊形は中打ちと平太鼓とで二重の円陣を組み、歌者は中打ちと平太鼓の間に並ぶ。『大浦町郷土誌』〔539−543頁〕で歌詞を確認すると、歌い出しには「高橋殿」「朝露に髪結懸けて」「末殿」などがある。今は踊られないが、平原には「年の内より」「しぶ山」があり、小湊と共通している。また、柴内に「鎌倉」があった。
 平太鼓の桴は藺草を束ねて折り曲げ、手元をくくってある。長さは約15cm。太鼓はほとんど叩かず、桴を頭上で回したり、太鼓を桴でこすったりして、動きを優雅に見せる。大きな音を立てるのは禁忌とされており、品(しな)を綺麗に見せるよう先輩から指導される。
 小野重朗は、「回向踊り(えこう おどり)ともサベ踊りともいわれ盆の精霊を回向し慰めて稲虫の害を除いてもらうための踊り」としている〔小野1993 200−201頁〕。

久志太鼓踊り【事例18】久志太鼓踊り 盆に坊津町久志(くし)の九玉神社(くだま じんじゃ)に奉納したあと、大字久志の各集落を回って踊る。「盆踊り」とも呼ばれるが、踊り子以外の集落民は踊りには参加せず、観客となる。鉦2人(頭鉦・平鉦)、入り鼓1人、大太鼓約30名ほどで構成。鉦2人は、振袖に花笠を被る。小太鼓は陣羽織に花笠姿。大太鼓は白衣姿に、手拭を縫い込んだ笠を被り、背中には山鳥の羽根を付けている。太鼓は、肩から腹の下に垂直に吊るす。これまで見てきた南さつま市の他の太鼓踊りより、太鼓の位置が低い。隊形は鉦・入り鼓の3名が内側に、大太鼓が外側に、二重の円陣を構成する。途中、大太鼓の1人が中の円陣に打ち込む見せ場がある。その場面では内側の輪が4人構成になる。歌い手は円陣の外から歌う。
 大太鼓の桴は桐製で、長さ約20cm。太鼓はほとんど叩かず、擦りながら踊る。

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