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薩摩半島における太鼓踊りの桴(バチ)

薩摩半島位置図井上賢一著「薩摩半島における太鼓踊りの桴」(『南九州市薩南文化』第6号、2014年、南九州市立図書館編・発行所収)

1 はじめに

津貫太鼓踊り写真 鹿児島を代表する民俗芸能の一つに太鼓踊りがある。太鼓踊りは、薩摩半島では夏から秋にかけて、開拓者の墓前や神社に奉納されたあと、地域内を回って踊られる。踊りの隊形は二重の円陣が基本。外側では大太鼓の青年が、内円では鉦と小太鼓の少年が円陣を作って踊る。大太鼓の背中に華やかな矢旗を指すところもある。

 踊りの名称には「太鼓踊り」の前に地名を付すものと、「踊り」の前に地域の開拓者の名を付して、例えば「伊作田踊り」と称するものとがある。太鼓踊りの由来として、島津義弘の朝鮮出兵にちなむという伝承がよく聞かれ、隣り合った集落では、一方を出陣の踊り、他方を凱旋の祝いなどと伝わっている。

 まず、太鼓踊りの起源と変容について、先学の研究を整理しておこう。下野敏見は、太鼓踊りの二重円陣隊形について、中の輪の鉦の音は念仏踊りに、外の輪の太鼓の楽は田楽にちなみ、太鼓踊りはこの二つの流れが一緒になつたものという。そして、「太鼓踊りの中の輪の人たちは、清らかな少年・少女が氏神の神霊をわが身に招くシャマニスティックな姿を表現していると見ることができる。これに対して外の輪の人たちは、その神霊を慰めかつ感謝しながら盛んに跳躍し、足耕していると見ることができる」と指摘している〔下野2005a 92頁〕。

 小野重朗は、太鼓踊りについて、古くは家々の盆の精霊祭りで、その力で稲の害虫を防除する意味があったという。その後川内川流域から集落の開拓先祖やその他の偉大な祖霊(精霊というより御霊的な偉霊)を祭る太鼓踊りが踊られるようになり、そこにも虫送り的要素が伴ったとする。そしてさらに、御霊的な神から厳しい武神の諏訪神へ対象が変わり、諏訪神社(南方神社)へ太鼓踊りが奉納されるようになつたと述べる〔小野1993 207頁〕。

太鼓踊り写真 また、小野は、太鼓踊りの古い形を「数人の鉦と歌との人々が中央で鉦を打ち歌を謡い、それを円形に取り囲んだ人々がそれを見守り聞き守る形」と想定し、古い民俗の残る黒島や大浦の事例から、かつて太鼓踊りで歌が重視されていたことを指摘する。その後、北薩に見られるように歌は急速に喪失していくが、「太鼓踊りは歌を失うとともに楽の隆盛を得ることになった。太鼓踊りの鉦の音は念仏の鉦の音にもつながり、盆の精霊を慰める音でもあったのだが、そこから新しい音楽としての楽が創られたと思われる」という〔小野1993 208-210頁〕。そして、それに伴い、踊り子の姿かたちの美しさ、踊りの集団隊形の多様さへと変化し変容を遂げたと述べる。例として、戟陣姿や矢旗、北薩のビナ巻や徳重バラ太鼓踊りのマクリの隊形をあげている〔小野1993 213頁〕。

 民俗芸能を考えるうえでの諸要素には、服装、採り物、楽器、歌詞、曲、楽、隊形変化、振りがあるとされる(注1)。本稿では、先学の研究をふまえ、ブチやべと呼ばれる桴(ばち)の種類と分布を整理し、太鼓踊りの民俗芸能としての位置付けを考察してみたい。

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