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発見! 加世田の歴史

●古代遺跡と文化の源流―先史時代・古代

写真●栫ノ原遺跡

*写真●栫ノ原遺跡
(舟形配石炉と集石)

【かこいのはらいせき】
縄文時代草創期の遺跡
加世田市村原

今から1万2千年前の日本で最も古い土器の一つが,加世田市北部の栫ノ原遺跡(かこいのはらいせき)から見つかりました(隆帯文土器―りゅうたいもんどき)。

最近の発掘調査によって,考えられていたよりもずっと早くから,加世田をはじめとした南九州の文化が,豊かな発展を遂げていたことが注目されるようになりました。縄文時代でも一番古い時代のこの遺跡は,山や海でとれるものを求めて移動していく生活から,むらに定住する暮らしへの変化を,分かりやすく示しています。この遺跡からは土器や石器のほか,当時の人々が火を使って煮炊きをした炉(舟形配石炉―ふながたはいせきろ)や,地下に空気抜けの穴を開けた炉(煙道付炉穴―えんどうつきろあな),あぶった石で食べ物を蒸し焼きにした跡(集石―しゅうせき)など,縄文文化の理解に大切な文化遺産がたくさん見つかっています。加世田市内にはこの他にも,貴重な岩偶(がんぐう)が見つかった上加世田遺跡(うえかせだいせき)や相星古墳をはじめ,たくさんの先史時代の遺跡があります。

古代に入ると,日本書紀や古事記に阿多隼人(あたはやと)が登場します。この阿多の国は加世田を含む吹上浜(ふきあげはま)沿岸の広い地域だといわれています。和同2(709)年薩摩の国ができたころの記録には阿多郡鷹屋郷という場所が出てきます。この鷹屋は,市の西部にある竹屋ヶ尾(山名たかやがお)や,竹屋神社(たかや神社)の名前にも通じるといわれています。

●加世田の成り立ちと島津忠良―平安時代から戦国時代

写真●竹田神社

*写真●島津忠良を祀る
竹田神社と士踊り

【たけだじんじゃ】
戦国武将島津忠良(日新公)を
祀る。加世田市麓地区。

「加世田」の地名が歴史にはじめて登場するのは,薩摩平氏の流れを引く川辺一族(かわなべいちぞく)の別府五郎忠明という人が,荘園の役人として加世田に入る,平安時代の終わりのことです。忠明は治承年間(1177〜79年)のころ,今の市街地南部の台地の上に別府城(べっぷじょう)を築きました。その後9代230年間にわたって,この別府氏が加世田を治めたと記録されています。

室町時代の応永2(1420)年,別府氏に代わって島津氏が加世田に入ります。その後戦国時代になり,島津一族内の勢力争いの結果,忠良が天文8(1539)年に別府城を攻め落としました。この島津忠良は,南九州の文化に大変貢献した人物で,鹿児島では日新公(じっしんこう)として親しまれてきました。「いにしへの道を聞きても唱へても,わが行いにぜずばかいなし」ではじまる「日新公いろは歌」は薩摩藩の道徳教育に用いられ,時代を超えて鹿児島の人々に語り継がれてきました。また,九州の統一を果たした島津義久は,この忠良の孫に当たります。

●地域拠点の時代―江戸時代

写真●商家の土蔵

*写真●万世海運業者の
土蔵内部(分丁)

【ぶんちょう】
万世の丁子屋系列の商家

江戸時代に入ると今の加世田市から大浦町・笠沙町(かささちょう)・坊津町(ぼうのつちょう)・川辺町(かわなべちょう)までの地域が,薩摩藩の一つの行政単位「外城(とじょう)」となりました。その後江戸時代の中ごろ外城は郷と改められ,坊津・川辺を除く地域が加世田郷となりました(天明4・1784年)。いまでも,大隅半島などでは大浦や笠沙のことも加世田といわれることがあります。

この郷の中心になったのが,今の市街地南部にあたる麓集落(ふもと)です。ここには地頭仮屋(じとうかりや)と呼ばれる薩摩藩の出先機関があり,武家屋敷のつづく地方城下町でした。一方市の西部にあたる大崎や小松原では,海をとおした商業が盛んになりました。その他の農村や漁村も,益山用水の完成(明和5・1768年)など,様々な生産・暮らしの改善が行われ,むらとして一歩一歩成長と続けていきました。

●南さつまの鉄道と加世田市の誕生―明治時代以降

写真●加世田駅跡(1991年ごろ)

*写真●南薩鉄道加世田
駅跡(1991年ごろ)

【なんさつてつどう】
薩摩半島にあった鉄道路線

明治に入ると廃藩置県に伴ういくつかの変遷を経て,加世田郷は加世田村(現在の加世田市 中・東部),東加世田村(現在の加世田市西部),西加世田村(現在の大浦町・笠沙町)になりました(明治22・1889年)。加世田村には川辺郡の郡役所がおかれ,南さつまの行政拠点として発展していきました(大正13年町制施行)。一方江戸時代から商業が盛んだった東加世田村は翌14年に万世町(ばんせいちょう)となります。

大正3年,伊集院―加世田間に薩摩半島で最初の鉄道が開通しました。しかし市民から「なんてつ」として親しまれ,南さつまの発展に大変貢献したこの南薩鉄道も,自動車中心の時代となった昭和58年にその幕を降ろしました。今は新しくなったバスターミナルの鉄道資料館で,その面影をしのぶことができます。加世田の文化は,益山で中国の航海神「媽祖(まそ)」が祭られているように古来海を通してもたらされ,鉄道によって運ばれ,今は自動車がその役目を果たしていることになります。

さて,太平洋戦争の終わりごろ,加世田にあった特攻基地,万世飛行場からは,約200人の尊い若者の命が飛び立っていきました。加世田市では平成5年に平和都市を宣言し,平和の尊さを語り継ぐために,平和祈念館をつくりました。

戦後の混乱期を経て,昭和29年に加世田町と万世町が合併して加世田市が誕生し,翌年日置郡田布施村(ひおきぐんたぶせむら)の新川・網揚(あみあげ)地区を編入して,現在の加世田市のかたちができあがりました。その後も南さつま広域圏の行政・経済・文化の中心として発展を続けています。

●語りつがれる伝統文化

写真●加世田鍛冶

*写真●加世田鍛冶
(小湊屋敷)

【かせだかじ】
江戸時代には郷士が営んだ

日本神話を記した日本書紀に「吾多の長屋の笠狭の埼(あたのながやのかささのみさき)」という文章が登場します。加世田の語源はこの笠狭に由来するとも言われています。また,この神話で山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)の両親ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが住んだ場所は,加世田市東部の舞敷野(もしきの)だと伝えられ,今は笠沙の宮跡の碑が立てられています。

さて,江戸時代の薩摩藩では,むらむらにたくさんの下級武士が生活していました。またこの人々は,副業を営んでいて,様々な職人でもありました。特に,その伝統を引く鍛冶屋が小湊(こみなと)などに残っていて,今も「鎌は加世田,はさみは種子島」と言われています。この加世田鍛冶製品は現在,県の伝統工芸品にも指定されています。また,久木野(くきの)には水車を使った製鉄跡も残っています。

その他,綱をひっぱって集落を一周する万世の十五夜綱引きずりや,相星(あいほし)の隠れ念仏跡,内山田の立神,竹田神社の士踊りや津貫の太鼓踊りなど,豊かな伝統文化が市民の暮らしの中にも語りつがれています。

※この文章は,加世田市発行の「市勢要覧」に掲載されているものです。執筆文責井上。

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