麻の葉を持つの田の神 - 田の神社会組織浦浜の田の神鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME

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3 京田集落の景観と社会組織・信仰伝承

(1) 京田の景観

 京田は、竹原、塩屋堀とともに、近世には田布施(たぶせ)三か浦と称された。幅2キロの砂丘を越え、吹上浜(ふきあげはま)に通じる、半農半漁の浦浜集落であった。

 集落は、西に吹上浜砂丘の松林が続き、北側と南側に水田がある。東側は薩摩芋畑で、かつて南薩線北多夫施(きたたぶせ)駅があった。現在鉄道跡は広域農道になっている。

 京田では、漁網にも使う麻苧の栽培が行われていたとされ、現在でもオバタケ(苧畠)の地名や、麻神「アサドン(麻殿)」の祠が残る。

 小林孝子が執筆担当した鹿児島大百科事典「衣料」の項を要約すると次のように記されている――麻は狭義に大麻、広義の苧麻なども総称して「あさ」といい、これらの植物繊維を「お」と称した。薩藩内の大麻は、伊佐郡・日置郡・日向の綾などで産した。麻を蒸すのは大掛かりで、部落合同で行うことも多かった。麻は衣料だけでなく、網や畳のへり・蚊帳用としても織った。〔同書85頁〕

 京田では、アサドンや、麻の葉を持つタノカンサァを祀る組織として、タカ(浜高組合)が存続し、現在も祭祀が行われている。社会組織タカの名は、吹上浜南端の加世田(かせだ)小湊にも伝わる。

 田の神石像は、集落南西の小川(迫田川)のそばに祭られている。集落の西側には、松林の端の丘に、山王神社が祀られ、両脇アサドン・若宮の石祠がある。アサドンは、戦後まで小川を跨いで田の神石像向かい側にあった。

京田の田の神石像周辺図

(2) 京田の社会組織伝承

 浜高組合T氏からの聞き書きを記す。

@高 今は25世帯で構成。分家したり、親戚のものを受け継いだりするので現在は25世帯。

持ち分1 の世帯:19世帯 1 ×19=19
持ち分0.5の世帯:4世帯 0.5× 4= 2
持ち分1.5の世帯:2世帯 1.5× 2= 3
        合計25世帯  持ち分24

「ハマダカ」とも単に「タカ」とも呼ぶ。構成世帯の名称でもあり、田畑の持ち分(取れ高)でもある。

A脇 ワキ(ワッ)と呼ぶ。タカ以外の世帯。転入者もある

Bタカ 共有田・畑山林の現状現在29筆ある。

 明治時代の共有名義のまま。T畩二郎外22名など(畩二郎は従妹の先祖)。入会林野整備事業での名義直しは行っていない。広域農道の買収の時も、代表者名で売却した。

 田畑は利用権を設定している。貸主は「浜高組合」名。

 田は、サコダという場所。田の神さあの前。今は荒地。浜ん田とは言わない。集落の南側は、それぞれ個人が持っている(ここが高のものだったかどうかはわからない。転入者の分もある―購入したかもしれない)

 畑は、オバタケという。駅跡の北西側など何か所かある。昔は麻と栽培していたようだが、自分たちは麻栽培や苧作りのことは知らない。

 共有林は、テラヤマという。山王神社の裏山。毎年2月初めに草払いをする。86水害の年までは、杉を植えていたが、流れて今は竹藪になってしまった。

 地引網をしていた時代のことは、自分たちは知らない。大きいほら貝が公民館に伝わっていたが、それが地引網に用いられたのだろうか。

(3) 京田の信仰伝承

 引き続き、浜高組合T氏からの聞き書き。

@山王神社 六月灯がある。集落全体でしている。

アサドン(麻殿)Aアサドン 昔は、田の神さあの南西側の国有林との境界付近にあった。十五夜もそこでしていた。六月灯も、タカで主催して、山王神社の六月灯の前日にあった。

 アサドンの祭りをアサコと呼ぶ。帳簿には「浅講」と書いてあるが、麻の講だと思う。

 エッシュは1人で当番制。エットは昔は2〜3人いたが、今は直会に仕出し弁当をとるので、1人で担当する。

 公民館の直会(「アサコの総会」と呼ぶ)は、昔はエッシュの家で行い、食事の準備もエッシュとエットでしていた。

 直会では、引継ぎの儀式として、前のエッシュから次のエッシュへ、三角の大根を渡す習わし。新しいエッシュは、台所など目の付くところに、しばらくそれを供えておいた。

B若宮 何の神か知らない。

C田の神 前述の通り。

Dシッチンドン 水神。

E油講 女性の油講もあった。

(4) 京田における社会組織・信仰伝承の変容

 ここでは、京田の社会組織・信仰について、小野重朗報告〔小野1981 232-239頁〕からの変容を整理してみる。

1992年の京田田の神石像 まず麻講の講員であるタカの戸数は、現在25世帯となっているが、持ち分換算では、小野調査時と同じ24のままである。小野は24戸の浜高に、水田各戸5畝ほど、上等ではない畑3反ずつが割り当てられ、畑はオバタケ(苧畑)と呼び麻を作ったと思われる〔前掲書233頁〕、としている。オバタケの地名は今も伝わっているが、麻づくりについての伝承はすでにない。

 小野は、「浜高24戸は主として吹上浜の地引網漁を行ない、その漁業関係の中心にベンザシ役がいて世話を焼いた」〔前掲書233頁〕と記している。今回の筆者調査では、地引網漁やベンザシの伝承はなかった。

 田の神について、小野の報告では「廃仏毀釈のときに湿田に埋めて隠したのを後に掘り出した」〔前掲書234頁〕とあるが、すでにこの伝承は伝わっていない。田の神の位置については、参考に1992年に筆者が撮影した写真を付けてみるが、小野の調査時と変わっていない。

 麻講の期日は小野の報告では正月15日か18日とあるが、現在は月遅れの2月17日前後の休み日になっている。田の神講はかつては別の日にあったが、今は麻講と同時に祭る。

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