名勝、旧跡

1、京之峰(陶石鉱床)

 京之峰は、標高140メートルの山である。明冶28年までは、この山の東側中腹を枕崎街道が通っていたが、現在は林道京之峰線が通じている。

 京の峯の鉱床は、旧干河駅の北東約1.2キロの干河と武田の境にあり、薩摩焼の原料である白色と褐色の堅石が産出されている。ここの始まりは、島津義弘が薩摩藩の事業として朝鮮より陶工を連れ帰り、焼物を奨励した際、陶石が必要ということで、藩は「国中すみずみまで堀りかえしてでもさがせ]という命令で今から約300年ぐらい前からで、昭和40年ごろまで堀っていた。この陶石鉱床は、石英粗面岩で陶土化した部分はなく、鉄分の含有旦里が多いために陶石原料としては優良ではなかった。しかし、昔の薩摩焼は、笠沙の土で形を作り、成川の土で肉をつけ、霧島の土で色を出し、京之峰の土で美しさを出したと言われるように、京之峰の土は、広く焼物のうわ薬に使われていた。また、この陶石鉱床は新田、大原の人10人ぐらいの共有のものでこの中の二人ぐらいで堀り、馬を便って新川港まで運び、新川から市来の港を経由して、苗代川や鹿児島の立野方面へ送りだしていた。

 近年は、大原喜右衛門とその子孫、新田伝助とその子利雄、川床富吉らが従事していた。明治後も採掘は続き、戦後は30キログラムずつかますに入れて、トラックで苗代川や鹿児島市に出荷していた。しかし、昭和45年、45俵(模合収入600円)の出荷を最後に、現在は採掘を中止している。

 この砂取場には、「荒神」が祭られているが、弘化4年(1847)3月に、苗代川焼物師やその見習ら11人の名前の書かれた花瓶が供えてある(高さ39.5センチメートル上部の口径21.7センチメール)。
(「加世田市史下巻」、「津貫の歴史」参考)

2、石堂井堰

昔から米は大事な食糧であり、財力を示す基準であったので、幕府も藩も米作りを奨励した。特に文政年間は、開田が盛んに行なわれた。この石堂井堰は文化・文政(1804〜29)のころ、西彦四郎の先祖が石堂の山野を開墾して水田一町歩(1ヘクタール)、畑5町歩(5ヘクタール)を開いたが、そのとき加世田川に設けたものである。この井堰は現在でも使用されている。なお当時の西家は、麓から派遣された庄屋の分家と思われる。
(「加世田市史下巻」、「津貫の歴史」参考)


3、干河太鼓踊り

 踊りは、中央に女神姿の鐘・小太鼓4人の中打ちが入り、それを16人の白装束の太鼓団が囲んで円陣を作り、勇ましく優美に踊る。また、三人の歌あげが老神として指揮をとっている。毎年10月27日、天御中主神社に奉納している。
(加世田市史下巻より)


4、干河上の田の神

庚申供養を集合した珍しい田の神で、建立の詳しい年代は分からないが、江戸時代末期のものとも言われている。
(「加世田市史下巻」、「津貫の歴史」参考)


5、宝聖寺(中村)

本坊浅吉兄弟の尽力により、昭和16年に起工、翌年に上棟したが、戦争のため中断し昭和24年3月に竣工した。同年十月には真宗大谷派宝聖寺として、寺号を認可された。境内に津貫保育園も開設されている。
(加世田市史下巻より)


6、石原寺跡(中村)

 加世田今泉寺の末寺で、真言宗の寺であった。古くからの寺で、鎌倉時代の後鳥羽院作の本尊が祭ってあった。明治初年の廃寺で跡形はないが、跡地一帯の墓を「寺ん墓」といい、そこには法印恵賢・法印快平・法印成承の墓が残っている。
(加世田市史下巻より)


7、田の神(原向)

江戸時代の百姓たちは、薩摩藩の高い年貢米のとりたてや、自分たちの力ではどうすることもできない災害を、神様に守ってもらうために田の神像を造ったと言われている。特に、薩摩藩では石造りの田の神像が特徴であった。現在市内14カ所に田の神がある。

 中間田の神は市道津貫・鉄山線沿いの原向集落の南にある。昔は中問の田んぽの中央に建てられていた。その田んぼも逐次埋め立てられ、田の神の存在も薄くなりつつあるが、この一帯の小字名は「…の神」である。江戸時代末期のものと思われる。
(「加世田市史下巻」、「津貫の歴史」参考)


8、清木場遺跡(清木場)

国道から約4キロメートル、清木場から200メートルほどはいった農道の傍らに高さ約3メートル60センチ、周囲約15メートルのドルメン式大石塊、対面に石碑三基が並んでいる。いずれも高さ77センチ幅60センチぐらいのもので、向って右方の石碑正面に山神宮の3字、中央の石碑には正面に南無薬師如来とあり、左右上方に日大月天の四字2行に書かれ、日大の下方に13神、月天の下方に梅翁更とある。さらに左端の第3石には碑文があるが、文字は消えて判読し難く、下方に孫兵衛・伝左衛門・冶左衛門の三人の名が彫り連ねられ、左方に元文元年(1736年)12月12日梅翁実仙受講話とある。(加世田史誌より)巨大な石塊には二つの対になった穴があるが、これは鬼が山から背負ってきたときにできた穴であるとの話が残っている。…現在でも清木場では、毎年一回、氏神祭りの日に、赤飯を炊き、ひとんぎを作ってこの石基を祭っている。
(「加世田市史下巻」、「津貫の歴史」参考)


9、天御中主神社(六本木)

昔は、北辰(北極星)を祭る妙見社で清木場にあったが、延宝8年(1680)中村(現在の自治公民館付近)に移された。明治初年に天御中主神社となり、明治42年に久木野の大山砥神社を合祀して、大正元年現在地に移転した。10月27日の秋祭りには、近在の太鼓踊りでにぎわっている。
(加世田市史下巻より)


10、田尻荒兵衛の供養塔(六本木)

『名勝史』に次のように書かれている。(中略)昔は街道の松並木の所にあったが、県道工事や神社移転のときに、現在地に移したものである。

◎田尻荒兵衛荒兵衛は、もと百姓であった。天文7年(1538)、日新公の別府城攻略の際、武将新納康久は「戦いに勝てば、自分の娘を与えよう」と約束して、荒兵衛を用いた。荒兵衛は、真っ暗やみの中、川畑から勝目・舞敷野・別府城と、よく先導を務めた。戦いは勝ち、新納康久は加世田地頭職となった。荒兵衛は約東どおり康久の婿となり、士分に取り立てられて津貫に居住した。西山の酒瀬川医院付近が、その屋敷のあった所といわれ、現在の小字も田尻となっている。荒兵衛は、鹿篭勢に備えて高い崖の上に穴を掘り、そこから見張りをしていたと伝えられているが、その崖は国道工事のため、削られて今はない。天文17年、島津貴久が姫木城(現国分市)を攻めたとき、荒兵衛は、素早く城中に入って火を放ったので、姫木城は混乱し落城した。六本木の供養塔は、この翌年に建てられたものである。その後、天正20年(1592)6月、秀吉の朝鮮出兵に際し、肥後で梅北の乱があった。朝鮮出兵に対する不満から、梅北国兼らとともに、荒兵衛及び荒次郎・荒五郎の二子も参加して、佐敷城を攻めた乱であった。しかし、夜襲に遭って荒兵衛父子ら200人は戦死した。荒兵衛夫妻の墓は石原寺にあったが、現在、西山(しがえ)の墓に移され、西山の黒江家が花呑を供えている。この墓についてはほかにも説があり、今後の研究に待ちたい。
(加世田市史下巻より)


11、早馬碑と戦役記念遊園碑(六本木)

 天御中主神杜の東側に建てられている。1825年、青年の人たちが建てたものである。早馬は、牛馬の神、又はその祭りのことである。

 日露戦役記念津貫遊園碑日露戦役記念として、明治38年10月14日に遊園地が設けられ、碑には津貫・久木野の24人の氏名が刻まれている。
(加世田市史下巻より)


12、中間太鼓踊り(県指定無形文化財)

 昔から中間の青年たちが、4人の子供の鉦や中太鼓に合わせて、豊作祈願として踊っていたもので、現在は、天御中主神社のほぜ祭り(秋祭り)に毎年踊っている。昭和39年「津貫豊祭太鼓踊」として、県の指定無形民俗文化財として指定された。
(加世田市史下巻より)


13、みかん園碑

昭和初期まで、本県の主な産業は農業で、小学校上学年には農業を教えていたが、その当時、石原岩太郎は津貫小学校の農業の先生であった。当時、加世田の耕地は、農家平均約40アールで、農業だけで生計を立てることは難しかった。そこで石原岩太郎は、みかんに目をつけ、大正5年、学校の実習地に70本の温州みかんを植え付けた。5年後には実をつけ、10年後には北九州に出荷するまでになった。これに刺激されてみかん園が広まり、昭和2年には、津貫園芸組合が結成され、今では市内みかん園の8割までが、津貫に集中している。昔の普通温州は極早生にかわり、また、きんかん園も増えたが、この基となった津貫小学校の実習地に、原園の碑が建てられた。所在地:津貫西山津貫小学校実習地
(加世田の歴史と文化財 第2集)


14、長屋山

加世田市には天孫降臨の神話に関する事が多いが、長屋山の由来も、日本書紀の「吾田長屋笠狭之崎」の遺名であると考えられる。また書紀に登場する大山祇命や事勝国勝長狭命を祭神とする山神が、この山を中心に、津貫、内山田、大崎、川畑、武田、小湊、その他大浦や赤生木、片浦と祭られていることから、山神信仰の大本であったと考えられる。頂上には「神代聖蹟長屋」と刻まれた顕彰碑があるが、これは紀元2600年記念事業で建立されたもので、地元小学児童の、砂・砂利・セメントの分配運搬の勤労奉仕によるものであった。山麓は、寒蘭、みつばつつじ、えびね蘭が自生していたが、ブームにより乱掘され、その姿を見ることは殆んどできない。現在は運輸省航空路監視レーダーが開設され、又長屋山公園ができ展望所、道路、駐車場と完備され、眼下に加世田市全景はもちろんのこと、吹上浜や野間岳、金峰山、桜島、開閉岳、遠くは甑島、屋久島と絶好の眺望の場となっており、訪れる人があとをたたない。


15、鉱山跡

 蔵多山中腹の山深く寂しい所に、以前一獲千金を夢みた人々の鉱山跡が残っている。小谷ノロにある鉱山は、明治中頃掘られたが、ほとんどものにならないうちに、閉山になったといわれるが、詳しいことはわかっていない。昭和になると、再びこの宝の山(蔵多山)が脚光を浴びた。鉱山で働いていた新沢吉二さんは当時のことを次のように話してくれた。昭和12年頃、山おじ嵐で試掘が姶まったが、翌年、サンノスの坑道から有望な鉱脈が見つかったので、1年で廃鉱になった。サンノスでは三十センチメートルから一メートル位の鉱脈があり、充分採算がとれ、地元の人や、久木野、枕崎からも働きに釆て、総勢百人程であった。賃金も高く、当時人夫賃金が五十〜六十銭だったが、こ乙では一円二十銭だった。鉱山から津貫駅まで、馬車三合を二十往復して大分の佐賀の関や、串木野の精鉱所へ送られていた。しかし、戦争が激しくなるにつれて、掘る人も少なくなり5年ほどで中止となった。また、鉱毒の影響で下流の田畑が10年以上も被害を受けたが、何ら補償もされなかっだということである。これより少し遅れて、平野長田でも試掘がなされたが、採算が合わずに閉山となった、現在、サンノス鉱山の権利は田布施の人が持っており、掘る意志はあるが、鉱害を恐れる地元の反対でそのままになっている。
(「津貫の歴史」参考)


16、田尻橋・中間橋

中間には田尻橋(地区公民館前)と中間橋(石原商店前)の二つの石橋が残っているが、これらは昭和9年、加世田の田中橋が河川改修の際撤去される石を使って架け直したものである。この田中橋は、安政2年(1855年)に石橋となったが、当時加世田郷内9つの橋のうち石橋はこの橋だけであった。眼鏡橋だったため、ちょうど半分づつ二つの橋を架けるのに都合がよかったようである。田尻橋は今もよく使われているが、中間橋は蔵多橋ができたので欄干の一部が残っているだけである。
(「津貫の歴史」参考)