津貫中間地区の白然・風土・歴史・産業

(1)白然・風土

 津貫(つぬき)地区は南さつま市加世田(かせだ)市の南部に位置しています。

 私の住む津貫の中間(なかま)地区は、西山、原向(はらむき)、中村、堂原、中間上(なかまかみ)の5集落で構成され・現在270世帯730人(平成10年4月常住人口調査)が生活し、他の農村地域の例に漏れず高齢化が急速に進んでいる地域です。

 地形的には、万之瀬(まのせ)川支流の加世田川に沿って長く伸びている中央溝状低地の最も奥まった部分にあり、東を蔵多山(くらたやま;475m)山系の山々が、西を長屋山(ちょうやざん;513m)山系の山々がそれぞれ南北に連なっています。

 中間地区はちょうどそれに挟まれ八方を山に塞がれた典型的な盆地で、加世田川によってできた平野部は、狭いながらも水資源に恵まれ、台風の惨禍も少なく稲はよく実り、野菜の発育にも適しています。しかし、耕地が狭いために先人は山の裾野に集落をつくり少ない平野部を最大限に利用しました。後背地の山間部は、段々畑を開墾し、水利の効く谷部はかなり高いところまで山田として開墾するなど、地元の人々は地形の効果的利用に苦心していました。

  明治以降アメリカ・ブラジルヘの移民が多かったのもひとえに耕地が狭かったためと思われます。また、特産のみかん栽培が盛んになったのも、温暖な気侯と山の傾斜地を有効に使えるからであると考えられます。


(2)歴史・産業

 白然豊かなこの中間地区では、大昔からわれわれの祖先が生活していたらしく、湯舟ケ迫では縄文時代のものと思われる磨製石斧、提谷(さげんたい)では、弥生式土器片がそれぞれ出土しています。

 遣唐使船が盛んに行われた奈良・平安時代には、日本三津の一つとして栄えた坊津から加世田方面への通過地点として重要な地区であったといわれています。津貫の地名も加世田から坊津へ貫けるという意味で「津貫」と呼び、中間と呼ばれているのは、その中間にあるためであろうと一般にいわれています。南北朝・戦国期の名田(みょうでん)名に「津貫」が登場していることから、この頃にはすでに津貫という地名が確立していたことがわかります。

 江戸時代、加世田郷(今の加世田市、大浦町、笠沙町)は、薩摩藩の直轄地で、13の農村があり津貫村もその一つでした。当時は国や村の大きさは米の量で表しましたが、江戸末期(文政7年1824年)加世田郷は13,000石、津貫村は約1,240石ぐらいで、410軒、2,415人でした。津貫村の庄屋役所は現在の津貫小学校内にありました。当時の農村は、薩摩藩独特の「門(かど)」に分けられており、土地も年貢も全て門に割り当てられ、生産、納税共同体のようなものでした。現在の津貫にある姓のほとんどは明治時代になって農民も名宇を付けることが許されたとき、門の名をそのまま名乗ったものです。門の長は名頭(みょうず)と呼ばれていましたが、普段は乙名殿(おんなどん)と呼ばれ、乙名家以外の人は名子(なご)といい、乙名の中から名主が選ばれ村の行政体系ができていました。

 藩政から明治の新しい政治に移り変わった約10年間は、制度が目まぐるしく変わり落ち着かない世の中でした。津貫は県下第6大区第7小区となり、明治12年には津貫戸長役場が開設されたが、同17年には麓の役場に統合され、庄屋役所から続いた津貫の役所は廃止されたそうです。庄屋にかわって干河・中間には新しく世話人が置かれ、世話人はそれぞれの地区をまとめる仕事の外、役場の窓口となって、お知らせや税の徴収、出生届などを一括して受け持っていました。

 明治11年には津貫小学校が開校され、少しずつですが近代化への道を歩みはじめていましたが、明治末期から大正にかけて中間地区からは多くの若者たちが海外、特に北米、南米へ出稼ぎに出ていきました。盆地で耕地が少なく、当時はこれと言った産業もなかったため、若者たちは「三反百姓より海外で自活を」と夢を海外での成功に求めたのでしょう。大正12年に記された津貫青年団の記録によると、干河・中間で戸数397戸、人口2,950人(うち海外渡航者207人)となっていることがらもその数の多さがわかります。

 出稼ぎの多かったこの頃から、津貫にも新しい産業が芽生えつつありました。本坊浅吉氏は、明治42年に焼酎製造(本坊酒造)を開始し、兄弟7人が力を合わせて現在の本坊グループの基礎を築きました。事業を拡大するたびに、当時産業に乏しく出稼ぎの多かった津貫地区の若者を雇用し、会社の発展とともに地域の発展にも大きく貢献しました。この頃は、交通通信の分野でも、大正5年に津貫郵便局が開設され、昭和6年には加世田枕崎間の鉄道が開通し、地域の産業経済の基礎ができた頃でもありました。しかし、最盛期には240人ほどの従業員を抱え、まさに津貫の経済を根本から支えていた本坊酒造が成長するにつれて、昭和37年には本社が鹿児島市へ、同49年には主力となるアルコール製造の蒸留装置も同市へ移転されました。これに伴い現在では以前より規模が縮小されているますが、地域の様々な活動に対し、現在でも多くの支援を続けています。

 本坊酒造とともに津貫の経済を支えてきたもう一つは、特産の「津貫みかん」の栽培です。明治の頃までは、庭先に川畑みかんを2〜3本植えている程度したが、大正5年、石原岩太郎氏が津貫小学校農園に実習園として普通みかん約70本を植え、更に、大正14年には本坊浅吉氏が自ら約1反のみかん栽培を始めたのを手始めに、昭和2年当時の地区の有志11人が津貫園芸組合を設立し本格的に地区の基幹作物としてのみかん栽培に取り組みはじめました。温暖な気侯に加え、盆地で水はけのよい傾斜地が多く、風の害が少ない条件がみかん栽培に適していたのでしょう。その後、ほとんどの農家が換金作物として収益の上がるみかん栽培に取り組み、昭和30年代からは生産が飛躍的に伸びていきましたが、現在は全国的な生産過剰による価格低迷と生産者の高齢化のため、新たな経営の転換期を迎えています。

 現在の津貫地区は、2大産業である本坊酒造とみかん栽培にかげりが見え、全国の農村の例に漏れず過疎と高齢化が進んでいる地区ですが、地元住民が力を合わせて様々な課題を乗り越え,元気のある村づくりを目指して活性化に取り組んでいるところです。

 平成8年度から3年計画で中間地区に基盤整備事業が実施され、基盤整備事業も終了しました。