絵心にささえられて

木脇正敏のALS闘病記
(出版社の掲載許可済)

  それは母が亡くなって一年後の昭和五十年一月、木脇正敏が郷里から大阪に出て丁度
十年目のことであった。正敏は周囲の人や大阪在住の同級生から冗談まじりに、「少し歩行が
おかしいよ。アル中じゃない」とか、母の一年忌の時、兄から「手の動きがおかしい」と言われ
た。自分ではそれほどの感じはなかったが、なにか変だなあとは感じ始めていた。思い切り走
れない。跳び上がれない。やはり以前の自分とは少し違うと感じていたが、姉と共同で経営し
ていた小さなグリル喫茶が繁盛し、順調であったので、忙しさに取り紛れて症状を気にするほ
どのことではなかった。
 しかし、次第に歩行がきつい、包丁を持つ手がだるい、握力が弱くなり手仕事がしにくいと感
じるようになってきた。とうとうコックの命である包丁が握れなくなった。この時、初めて病気で
はないかという思いが脳裏をかすめた。 近くの開業医に診察を御願いした。その医院では原
因がはっきりしなかったので、県立の尼崎病院を紹介してもらった。そこの第三内科で診察を
受け、すぐ検査入院の必要があると言われた。子供の頃から病気一つしたこともなく、健康に
は自信があっただけに入院と聞いて大変なショックを受けた。付き添ってくれた姉も心配して涙
ぐんでいた。
 検査入院の名にふさわしく様々な検査を受けた。筋肉の力が出ないので、筋肉に針を刺し電
流を流して筋肉の検査をする。また、脊髄から注射針で脊髄液も採取した。 

{針電極による筋電図は、患者の手、腕、足などの筋肉に針を刺し、筋肉に力を入れたり  
抜いたりした時に導出される波形を記録する。
誘発筋電図は主に腕や足の末梢神経を電気刺激して、反応した筋肉から導出される波形  
を記録する。刺激開始から筋肉が反応するまでの時間を測定することにより、その神経の  
刺激伝導の具合(神経伝導速度)を評価することができる。
腰椎穿刺(脊椎穿刺)は、髄液を採集する一般的な手段である。手で膝を抱えて、胸部に   
あごを押しつけた状態で、横向きに横たわる。皮膚を消毒し、下部脊椎に局所麻酔を 注   
射する。麻酔は、通常、三番目と四番目の腰椎の間で行われる。標本採集用の針がクモ   
膜下の部分に正確に入ったら圧力を測定し、検査用に脊髄液を採集する。標本の採集が  
終わったら注射針を取り除き、患部を清潔にしてガーゼをあてがう。検査終了後の六時間  
から八時間は、臥位で安静にしている。
髄液検査は 、中枢神経の感染症(髄膜炎、脳炎、梅毒)、クモ膜下出血、脳・脊髄腫瘍 な   
どの疾患に有用な検査で、一般的な検査には、液圧検査、性状、細胞数、蛋白数、グロブ  
リン反応、糖検査等がある。(ホームページから)}

 その他、数え切れない程の検査をしたが、二ヶ月経っても三ヶ月経っても原因は分からなか
った。三月から五月まで入院していた。そして退院することになった。原因が分かり、完治して
の退院なら嬉しいことであるが、原因も治療法も分からないままの退院だから言葉には言い表
せないせつなさと不安があった。退院の時、同室の方々に「しっかり頑張れよ」と励ませれた
が、心なしか寂しげに聞こえた。
 退院後も仕事を続けながら毎月一回、外来診療を受けた。この間も病気は確実に進行して
いった。包丁もフライパンもほとんど持てなくなった。焦りやいらだちで愚痴も多くなり、共同で
店を開いていた姉とも口論が多くなった。
 このままでは自分が駄目になると思っていた矢先、叔母が阪大付属病院の外来診察を勧め
てくれた。尼崎病院に紹介状を書いてもらい、八月に阪大付属病院に入院することになった。
同じ病室に奄美大島の名瀬出身の方が入院しておられ、同郷のよしみですぐ友達になった。
病院の朝はパン食が多い中、その方の奥さんにみそ汁を作ってもらい、母を思い出してとても
嬉しく感じた。不幸にしてその方の旦那さんは他界された。心に残る方であった。奥さんとは後
に奄美大島で偶然会うことになる。今でも交流は続いている。
 尼崎病院同様、阪大病院でも多くの検査を受けた。ここで初めて「進行性筋萎縮症」と診断さ
れた。初めて聞く長い病名に不安がつのった。後に、正式の病名は筋萎縮性側索硬化症(きん
いしゅくせいそくさくこうかしょう)・ALSであると知らされる。

{ALSは、英語名(Amyotrophic Lateral Sclerosis)の頭文字をとった略称で、日本語名は筋  
萎縮性側索硬化症といい、運動神経が障害されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病  
である。アメリカでは、メジャーリーグのニューヨークヤンキースで鉄人と言われた名選手の  
ルー・ゲーリックが罹患したことからルー・ゲーリック病とも呼ばれている。また、イギリスの  
有名な宇宙物理学者ホーキング博士も三十年来の患者である。 国により難病認定されて  
いるこの疾病は病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、話すこ  
とも食べることも、呼吸することさえも困難になってくるが、感覚、自律神経と頭脳はほとん  
ど障害されることがない。進行には個人差があるが、発病して三〜五年で寝たきりになり、  
呼吸不全に至る場合には人工呼吸器を装着しなければ生き抜くことができない。(ホーム   
ページから)}

 数日後、主治医は義兄、姉、それに鹿児島県の徳之島から年老いた父を呼び、正敏の病気
について家族に伝えた。正敏は病室で待っていた。一時間たっても出てこず、二時間くらいして
やっと出てきた。主治医は正敏の病気が「筋萎縮性側索硬化症」・ALSという難病であることを
すでに義兄達に話しており、義兄達がその事を伏せていたことを正敏が知ったのは南九州病
院に入院した後であった。義兄や姉は正敏に心配をかけまいと笑顔で振る舞っていた。しか
し、どことなくわざとらしい作り笑いが、かえって正敏の胸に突き刺さった。姉は部屋を出て、病
棟の隅ですすり泣いている様子であった。前に座っている義兄と父の顔もこわばっていた。「俺
の病気はやっかいなんだ」と直感的に分かった。
 数日が経ち、この病院とも別れることになった。退院後は再び店の手伝いをした。しかし、病
気のことが気懸かりでならない。ある日、町の書店に出かけ、医学専門書のコーナーに向かっ
た。沢山の専門書に戸惑いながら、やさしく書かれていると思われる家庭医学書を手に取って
みた。そこに進行性筋萎縮症・ALSのことが書かれていた。値段は少々高かったが購入し、
家に帰って、目を皿にして読んだ。そこには進行性筋萎縮症は徐々に筋肉が蝕まれていく病
気で最後には寝たきりになり、いまだに医学的解明もされておらず、治療法もない難病の一つ
であると記されていた。
  
{最近の一ー二年の間に、神経難病での遺伝子異常が相次いで発見され、神経難病の原因 
ではないかと考えられ始めている。特に、神経細胞が変化し死滅する「変性疾患」(ALS、   
脊髄小脳変性症、パーキンソン病、ハンチントン舞踏病、シャイ・ドレーガー症候群など)の  
うちハンチントン舞踏病・脊髄小脳変性症・パーキンソン病で、遺伝子異常が発見されてい  
る。神経難病で明らかになった遺伝子異常はほとんどが、特定の遺伝子配列が異常に繰  
り返すものである。正常ならせいぜい二、三十回のところが多いと百回以上も繰り返してい  
る。
筋萎縮性側索硬化症、脊髄小脳変性症、パーキンソン病などいずれも、異常神経細胞内  
には正体不明のタンパクの固まり(封入体)が見られる。特にハンチントン舞踏病では、異  
常なタンパク質の構造とそれを作る遺伝子の場所と内容が判明している。
異常な遺伝子によって作られる異常なタンパク質が、神経細胞の機能を冒し神経細胞を破  
壊すると考えられ、一部実験でも確認されている。 異常遺伝子は体の全ての細胞に等し  
く存在するが、働く=細胞を殺すのは、基本的に神経細胞においてだけである。なぜ神経   
細胞でだけ異常遺伝子が働くのかはまだ謎である。
せき髄にある運動ニューロン(神経細胞)が死ぬ難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患   
者では、細胞死を防ぐ仕組みに欠かせないたんぱく質がうまく合成されていないことを、東  
京大医学系研究科の郭伸・助教授と大学院生の河原行郎らが初めて確かめた。研究チー  
ムは、この「合成ミス」が発症にかかわっていると考えており、患者の九割を占める孤発性  
ALSの原因解明につながると期待される。(東大チームホームページから)}

 小さい頃から病気を知らない正敏にとって難病という文字は受け入れがたく、何度も読み返
すうちに身体の力が抜けていくように感じた。病気の内容が分かることが本当に良いことかと
いう疑問も出た。これから先どうすれば良いのか。やけ酒も飲んだ。あり地獄に落ちた蟻のよ
うにのたうち回りながら、生きる力を失い、自殺も考えた。
 幸いにして友人に恵まれていた。やけ酒を飲んで気を紛らわしていた正敏のもとを訪れた同
郷の友人達は、正敏の荒んだ姿に驚いた様子であった。友人との会話が途切れて気まずい
雰囲気も出た。正敏は経緯について話すことを心に決め、心境を吐露した。涙を流しながら興
奮して話しただけに何を話したのか、真実を話していたのか、思い出せない正敏だが自分だけ
ならよいが、病気で父をはじめ家族に迷惑をかけてしまうと話したことだけは覚えていた。友人
達は正敏のとりとめないのない断片的ともいえる話をよく聞いてくれた。正敏はこの時ほど友
人が有り難いと感じたことはなかった。
 時間が経つにつれ、病気の事をいくらか客観的に見ることが出来るようになた。しかし、治療
法が全くわからないとあってはいかんともし難い。大阪にいることが苦痛になって、姉とも相談
して郷里の徳之島に帰ることにした。将来を信じ、大志を抱いて故郷から大阪に出てきたの
に、こんな理由での帰郷ほど情けないことはなかった。亡くなった母の分まで父に孝行をしなけ
ればならないと思っていた矢先、病気を背負って父のもとに帰らなければならないとは…。徳
之島に帰ることになり、友人達は送別会を開いてくれた。大阪に出てきて十年目、そして正敏
の三十才の誕生日であった。長年暮らしたアパートで想いをこめて荷物を一つ一つまとめた。
六畳一間の小さな部屋であった。その部屋で小鳥を飼い、金魚がいて、カラーテレビ、洋酒
棚、音響器機、冷蔵庫と寝る場所もないぐらい狭い部屋であったが、それでも正敏にとっては
城であった。
 青春の夢を抱いて出てきた大阪とも別れる時が来た。姉と一緒に神戸から船で一路徳之島
へと向かった。天気に恵まれ六甲山もまばゆく見えていた。好きな大阪とも別れなければなら
ない。デッキに立ち、次第に小さくなっていく大阪の街にいいしれぬ寂しさを感じていた。病気
のことを考え始めると不安ばかりが先行する。徳之島での生活がどうなるか想像もつかない。
 翌日の昼前、船は徳之島港に着いた。父や中学時代の友人達が出迎えてくれた。仕事を辞
め、病気との闘いが始まろうとする今回の帰省であったが、故郷のにおいは正敏の良い慰め
になった。見渡せばいつもの懐かしい港の景色と忘れられない人達の顔があった。父も正敏
の気持ち酌んでにこやかに迎え「空気のきれいな生まれ故郷でのびのびと暮らせば、きっと病
気は治る」と声をかけてくれた。父の車で自宅のある岡前へ向かった。

{鹿児島県の離島・徳之島、天城町の岡前は徳之島空港の近くの小さな集落である。岡前  
は徳之島の西海岸にあり、東には四00ー五00米の山が連なっていて朝日を拝むには東  
海岸まで行かなければならないが、夕日は岡前からも綺麗に望める。そこからの夕日は後  
の作品「古里の夕日」のモチーフである。}

 故郷での生活が始まった。年末になると徳之島は砂糖きびの収穫期を迎える。父と兄夫婦
は朝早くから畑に出かけた。正敏は家事を手伝った。大阪で磨いた腕を振い朝早く起きて朝
食の準備、皆が仕事に出かけたら茶碗洗い、昼食や夕食の準備で忙しかった。丁度その頃、
兄夫妻の次男坊は十ヶ月の赤ちゃんで、正敏は義姉に代わってミルクを飲ませたり、おむつを
かえたりと世話をした。その次男坊も今では三十才を越し、徳之島で家庭を持ち頑張ってい
る。今、正敏がたまに島に帰ると逆に世話になる。
 また、ペンキ塗りや屋根の修理をした。製糖工場のペンキ塗りも頼まれ、二十米もあるクレ
ーンにはしごをかけて上り、仕事をしたこともあった。後で思えば、怪我をしなくてよかったと冷
や汗が流れたが、忙しさにまぎれて一日一日が短く感じられ、病気の心配がいくらか薄れた。

 昭和五十年初めのことであった。天城町役場の福祉課から鹿児島市小野町の身体障害者
更正指導所を紹介された。自宅でもなんとか生活は出来たものの、このままだと年老いた父に
も心配をかけることになる、入所して自活の道を探るのがよいのではないかと考えた。
 春四月、再び故郷を離れることになった。同じ鹿児島県だが徳之島と鹿児島市周辺の方言
はまるで違い、入所当初は言葉にも生活にも慣れず不安であったが、同じ障害を持つ人々の
生き生きした姿に救われた。気心の分かる友達も出来て土曜、日曜には外出した。お互い金
がないときには一杯のラーメンと一杯の焼酎を分け合ったこともあった。障害の違いや程度の
差はあってもなんでも話し合える友達と巡り会えたのを嬉しく思った。

{障害者総合福祉センター・身体障害者更正指導所
現在は鹿児島市内の甲突川沿いに位置し、障害者更正指導所・更正相談所・点字図書館  
など複合化された総合福祉センターとして新たに建設された。}

 更正指導所は楽しい事ばかりではなかった。教科内容を覚えるのに一生懸命になっている
時はいいが、病気のことが頭に浮かぶと進行具合が気になってゆううつになり、勉強の気合い
を削がれてしまう。
 最初は軽印刷を学び、皆と一緒に肩を並べて職業訓練に参加した。二年目に入り、手の握
力が弱くなり、文字を拾うことが出来なくなった。技術が少しずつ身に付いてきつつあっただけ
に悔しかった。筋肉の衰えは確実に進み、不安が顔をもたげた。
 ある日、同僚から「南九州病院に筋ジス病棟がある。難病の専門病院であるから一度診察し
て貰ったらどうか」と勧められた。昭和五十二年六月、南九州病院で受診した。自分の病気は
筋萎縮性側索硬化症という名の難病であることをこの病院で知ることになる。ここで飯盛さんと
いう方と知り合った正敏は筋ジス協会のこと、病気に関する資料を送ってもらって、病気やそ
の他病院の事情が分かるようになった。

{国立療養所・南九州病院 (鹿児島県姶良郡加治木町木田一八八二番地) 重症心身障  
害・一二0床、筋ジス・八十床、一般・二百五十床、結核・百床で、理学療法と作業療法を   
主体とした療養施設。特に筋萎縮性側索硬化症(ALS)等の難病疾患及び進行性筋萎縮  
症(筋ジストロフィー)の治療に関する南九州地域の中核施設として、診療及び臨床研究を  
推進している。鹿児島県における重症難病患者医療ネットワーク事業の難病医療拠点病   
院として、難病患者及びその家族の相談・指導を充実するなど、在宅療養の支援体制の整  
備を図っている。(病院案内から)}

ここの病棟から眺める錦江湾に浮かぶ桜島は正敏が気に入っている風景の一つである。

 指導所の修了式を迎えることになった。二年前一緒に入所した人達の殆どは就職先が決ま
ったが、正敏は就職を断念せざるを得なかった。三月に修了式が終わると荷物を整理して翌
日の朝九時半頃、二年間指導を受けた指導教官の車で父と正敏は南九州病院の一般第三
病棟を訪れた。南九州病院の玄関に到着し、中に入ると外来から病棟までの廊下の長さに正
敏はびっくりした。大きな病院だと思った。担当の看護師さんに一般第三病棟を案内してもらっ
た。正敏の部屋は一人部屋で、持ってきた荷物を片付け、昼ご飯をすませて部屋に帰ると年
老いた父が目に一杯涙をためて部屋で待っていてくれた。この心配をかけている父と再び会え
るのはいつになるかと思うと正敏も涙が出て止まらなかった。父は正敏を励ました。病気の我
が子を置いて帰る父は後ろ髪引かれる思いで病院を後にしたのだろう。今思うと正敏以上に
父はつらかったのではないかと思う。一般第三病棟に四ヶ月いた。一般病棟であったので内蔵
疾患や年輩の患者が多かった。正敏は、この期間に社会とは違った人間関係の重要さを学ぶ
ことが出来た。
 昭和五十三年七月、第三病棟から筋ジス病棟に移った。
 患者には歩ける人もいたが、大部分は車いす生活で中には正敏の目から見てもかなり重症
だと感じられる人もいた。その頃、正敏にはまだ歩行能力が残っていた。歩行の残存能力が
あっただけに、筋ジス病棟での生活は退屈なものであった。一日一日が長く感じられた。
 入院当初はバスで鹿児島市まで他人の手を借りずに行けた。しかし、頻繁に転ぶようにな
り、自分一人では危険なので仲間と一緒に外出した。何回も転んでいると起きあがれなくなる。
そんな時でも鹿児島市に出かけるのは楽しかった。道行く人はじろじろと好奇の目で見たが平
気を装った。というより転ばないようにするのが精一杯であった。外出先でも院内でも転ばない
よう転ばないようにと気を付けなければならなかった。
 そんな中、ある患者との出会いがあった。坂田さんである。坂田さんは正敏の以後の闘病生
活を大きく変えるきっかけを作ってくれた恩人になる。
 坂田さんは小さい時から絵を描くのが好きであったが、絵の勉強をしたわけではなく入院後、
独学で油絵の勉強を始めた。正敏は元来絵に格段の関心もなく、坂田さんが床一面に新聞紙
をしきつめてキャンパスに向かっている姿をみてもさほどの感激は湧かなかった。自分でも描
いてみようとも感じなかった。
 坂田さんが夏休みも自宅に帰らず、真剣な眼差しで「ふるさとの漁港」の大作に挑戦している
姿を見るにつけ、坂田さんの絵が気になるようになった。「ふるさとの漁港」とは奄美大島のあ
る漁港のことで、徳之島の漁港にも似ていて、懐かしさを覚えた。そんな時、坂田さんの「絵は
見ているより、描いている方がずっと楽しい」というさりげない言葉に、「俺もやってみようか」と
いう気が少し湧いた。しかし、この時にはすでに食事の時にフォークを持つのがやっとの状態
であり、筆を持つ自信はなかった。筆を口にくわえて描けないか指導員の先生に相談した。試
してみたがよだれは出るし、首がこちこちに疲れてしまう。一週間もしたら首が動けないくらい
に疲れた。この方法は諦めた。片手では無理だが両手でなら持てそうだから、今度は合掌の
スタイルで描くことにした。先ず、スケッチから入った。学生の時から絵の才能などまるっきりな
い上に、こんな描き方でうまく描けるとは考えられない。しかし、苦痛は感じなかった。
 親指が不自由なので皆のようにペンや鉛筆で字を書くことが出来なかった。手紙や書類の記
述は看護師や友人達にお願いしなければならなかった。指先の不自由な人が手紙や文を和
文タイプで打っているのを見てとても感動した。自分でも出来ないかと思った。タイプ打ちに挑
んだ。最初のうちは文字が逆さまになったり、操作を覚えるのに一苦労したが、半年も経つと
手紙が打てるようになった。
 坂田さんの影響で、時には手ほどきも受けながら絵の勉強は少しずつ進んだ。筋ジス病棟で
は毎年十一月には文化祭が開催される。昭和五十四年、正敏の作品が「桜並木」のタイトルで
初めて出展された。筆を持ってまだ二ヶ月しか経っていないにしては上出来で、満足していた。
絵の面白さも分かるようになった。
 絵を始めて三年目の昭和五十六年、病棟の元保母さんに、国分市在住の絵画の先生を紹
介された。大学で絵を教えていた人で、美術教育に熱心で国分市で活動していた先生である。
病院で坂田さんと正敏の絵を見て、アドバイスをしてくれた。二人は緊張して聞き入った。先生
の薦めに従い、今までの風景画に静物画を加えた。
 「この秋、国分市のデーパートで展覧会を開催するが、それに出展しないか」と誘われた。筋
ジス病棟の文化祭ならまだしも外部の展覧会に出せる絵とは考えられず躊躇はあったが、坂
田さんは「想い」を、正敏は「お面」を出品した。それは大きな成功を収めた。話題にもなった。
展覧会の会場で、新聞記者に「今後はどんな絵を描きたいか」と質問を受けた。正敏はためら
うことなく「鹿児島のシンボル桜島を描く」と答えた。この時は深い想いがあって発した言葉とは
思わなかったが、正敏が桜島を描き続けるきっかけの一言になった。
 正敏は、絵は自分のライフワークになるのではないかと感じ始めた。病気を宣告されたとき
には自分の人生は終わったと感じ、姉にも心配をかけた。その心境を兄弟や親戚に話してお
きたいという気持ちに懐かしさも手伝って、大阪に行くことにした。大阪では元住んでいた土地
を訪れたり、包丁を持って頑張っていた頃の姿を思い出しながら往時の雰囲気に浸った。仕事
仲間とも夜遅くまで飲んで話した。
 心配をかけた兄弟達に今の気持ちを話し、「これから長い闘病生活が続くが、心配はいらな
い。絵というすてきな友達が出来た」と話した。姉は特に喜んでくれた。

 正敏は年に一、二回徳之島で一人暮らしの父に会いに帰った。父は優しい目で迎え、男手で
卵焼きを作ってくれた。豪華なホテルの料理にも負けないもてなしの料理であった。無言の中
に滲み出る親の愛を感じた。出来ることなら元気になり、父を喜ばせてあげたいと思った。家
に同級生や郷里の友達が集って飲んでいると父は目を細めて入って来て、押入にある正敏が
描いた絵を二、三枚出してきて自慢げに、いかにも我が子が描いたんだよ言いたげに、ほほ
えみを一杯浮かべる。そんな父の姿を正敏は今でも思い出す。
 島に帰ると父と一緒にコップ酒を飲むのが楽しみであった。いつものように慣れない手つきで
作ってくれた料理を酒の肴にした。年老いた父と語りながらくみ交わす一杯のコップ酒は格別
な味がした。
 父は母が亡くなった後は一人暮らしであった。帰るたびに慣れない料理を作ってくれた。顔も
手も足も、苦労のしわが増えてきた。世話をしなければならない父から世話して貰っている。ど
うやって恩返しをしたらいいのだろう。病気と闘い、精一杯生き抜くこと、それが父への恩返し
だろうと感じた。
 ALSは筋肉の衰えもさることながら、二次的に転んで怪我をすることが多い。転ばないように
転ばないようにといつも自分に言い聞かせながら生活しているが、それでも転ぶ。楽しみにし
ていた帰島の前日、不注意で転倒し、まつげの上を五針も縫う怪我をしてしまい、折角予定し
ていた帰郷がふいになったこともあった。怪我には細心の注意をしていたつもりがこの始末で
ある。父も郷里で楽しみに待っていてくれたし、友人にも申し訳なく、自分自身も悔しくてたまら
なかった。後で父から電話があり、父の哀しそうな声を聞くと悔しさが募った。
 故郷に帰ると正敏は島の夕焼けを見るのが楽しみであった。自宅から西を望めば子供の頃
から何時も見ていた夕焼けが美しい。それは父の姿に似ているから。正敏は子供の時から夕
日を見るのが好きであった。しかし、子供の頃の夕日は太陽の力強さが気に入っていたのに
今は少し違う。父に関する心情も同じく変わってきた。以前は力強かった父も今は年老いて、
晩年を一人暮らしで過ごさなければならない弱い父になっていた。沈んで暗闇が訪れる夕日と
どこかで印象が重なっていた。

夕焼け
それは 私の故郷であり
そして 私の故郷に住んでいる
年老いた父の姿に似ている
そんな夕焼けをみるたびに
熱いものが こみあげてくる
そして その夕焼けの中に
飛んでいきたいと思う

 つらいときや寂しい時には夕日を見に行く。そして、また昇る朝日に期待して明日も頑張ろう
と思った。父も故郷の島で美しい夕日を見ながら頑張っているのだと思う。父は何年経っても
変わらぬ大きな目標である。一生かかっても超えることは出来ないが少しでも父に近づけたら
と思う。
 そんな正敏の気持ちに答えて、父は励ましの言葉を送ってくれた。
「 明日の命を大事にして、か細い腕をひっさげて文筆に絵画に打ち込み同志と共に励まし合
っている姿は称賛するものである。油絵それ自体の上手いとか良い絵だとかでなく、ひたすら
重度障害者達の描き続ける努力の結晶であるからこそ、生命のひらめきが出ていて価値があ
るというものである。明日の生命の奇跡を頼りにキャンパスに打ち込む姿は、ただ感心と言う
他に言葉はない。油絵に、文集に徹し生き甲斐を感じ、残存機能を十分に生かし、創作活動
に励み、よき人生のドラマを描くよう念願する」
 郷里に帰ったら熱気と迫力のある闘牛を見るのも楽しみの一つであった。徳之島は闘牛の
本場だ。子供の頃から闘牛の力強さに魅せられた。島にはこれといった娯楽がないので年
二、三回の闘牛見物が唯一の楽しみであった。今はサトウキビの収穫後、週一回の割で開催
される。
 子供の頃、開催日には親から小遣い銭二十円を貰い、小さな手でしっかり握りしめて四キロ
の道のりを歩いていった。闘牛にも相撲のように、横綱、大関、関脇、小結などの番付があ
る。天城町以外から、横綱牛の出場を依頼したら、今では百万円くらいの費用がかかるとい
う。開催日の前日には親戚、隣近所の人達が集まって、必勝を祈り、牛に生卵を飲ませたりし
て景気付けをする。若い人も年寄りも牛の持ち主の家に集まり、一晩中語りあかす。朝には部
落中の人達が牛の頭に塩を載せ、ラッパや太鼓・口笛やワイローワイローの声で応援し、闘牛
場に送り出す。闘牛場に出された二頭の雄牛は興奮が最高潮に達する。闘牛場が乾燥してい
たら土煙、雨でも降っていたら泥沼の中で激突する。互いに負けじと押しあう。簡単に勝負が
付くときもあり、なかなか勝負が決まらず、二頭ともへとへとになってしまうこともある。それでも
戦いは止めない。勝負が決まったら、負けた牛はうなだれて退場し、勝ち牛は意気揚々と凱旋
気分を味わう。その感情は人間と変わりはないようである。勝ち牛の持ち主やその親戚は牛
に飛び乗り、勝利をたたえる。牛も安堵の気持ちから皆の祝福を静かに受ける。この情景は
正敏の頭に焼き付いている。作品「闘牛」がそれである。

昭和五十六年から成人大学でも絵画を選択し、専門的な指導を受けることになった。「桜島」
にも本格的に挑戦した。南九州病院から見る桜島は鹿児島市内から見るのと形も趣も違う。
北側から見た桜島は富士山のようにそそり立っている。その桜島の力強さを出すため黄土色
を基調にして描いていた。
 その年も国分市のデパートで開催された展覧会に出品した。三回目の出展で、少しずつファ
ンも出来た。展覧会会場からの帰り、坂田さんが「鹿児島市で三人展をやろう」と提案した。そ
れは夢であった。他の展覧会は主催者が了承すれば出せるが、自分たちだけの展覧会となる
と会場の借り受けから始まって、多くの課題を解決しなければならない。簡単ではない。坂田さ
んの強い意志に押されて正敏もその気になった。メンバーは坂田さん、正敏、それに同じ指導
所から入院した絵仲間の福田さんの三人である。計画は少しずつ進んだ。一番の心配であっ
た会場は、元病院内にあった加治木養護学校の先生が南日本新聞社の知り合いの方に紹介
して頂き、すんなりと決まった。後は案内状の作成、会場設営、絵の配置など作業は多かった
が、病棟職員の助けで準備は順調に運んだ。
 会場は南日本新聞社一階ロビーで、「今日を生きる為の油絵三人展」と題して開催する事に
なった。開催日は昭和五十八年、十月八、九、十である。新聞やテレビで開催の宣伝もしても
らった。徳之島からは父が、名古屋の兄、大阪の姉二人もわざわざ見に来てくれた。姉は大阪
時代の苦労を知っているだけに涙を流して喜んでくれた。多くの人達の協力を得て、「今日を
生きる為の油絵三人展」は大成功であった。終わってから、多くの方から激励の手紙も頂い
た。中には正敏の絵を見て「人生を考えさせられた。不自由な身体なのに素晴らしい絵が描け
ている。美しい色彩、温かい思いやり、優しさが印象的であった。失われていく機能を惜しみ、
残された機能を最大限に生かして努力する姿は尊く、密度の濃い人生である。それに比べ、
生涯を振り返っても情熱を燃やす事がなかった自分だが、見習う事が多かった」という手紙も
あった。多くの人達が絵を見て、そして感想を送ってくれたことで正敏は勇気づけられ、生きる
気概を持てたと感じた。
 正敏は坂田さんから絵の楽しさや厳しさを学んだ。それは正敏の人生のテーマになった。正
敏に影響を受けて絵を書き始めた人もいた。その人は正敏と同じような症状で手が使えない
ので口で描いており、何度かの失意があったが、手が使えなくなっても足で描く正敏の執念に
押されて絵を描き続けたという。病棟という狭い社会では与えたり、受けたりする影響力が強
いのかもしれない。

 母が生きていたら見せてやりたいと思うが、母は正敏が治療不能の難病に罹っていることを
知らないままこの世を去った。それは母にとって幸福であったのかもしれないが釈然としない
気持ちが残る。母が亡くなったのはまだ正敏が大阪にいた頃であった。
 昭和四十九年一月十八日早朝、電話がけたたましく鳴った。半分眠りながら受話器を取っ
た。それは母の死の報せであった。耳を疑った。名古屋にいた兄と大阪空港で待ち合わせ、
奄美大島経由で徳之島に帰ることにした。しかし、運悪く奄美大島に着くのが遅れ、その日に
徳之島に帰ることが出来なくなってしまった。その夜は空港近くの民宿に泊まった。電話連絡
を入れると母の葬儀は既にその日の四時に終わっていた。この時期はサトウキビの収穫期で
親戚や村の人達に迷惑はかけられない。その夜は涙が止まらなくなった。
 翌朝の一番機で徳之島に向かった。そのまま母の眠る墓に行った。兄も母の墓石にしがみ
つき、泣き崩れた。母の苦労を思い出させる涙であった。
 病気は非情で、確実に進行していった。三人展の成功の感激も覚めやらない十一月、いよ
いよ手が不自由になり、明けて昭和五十九年二月にはスプーンが持てなくなり、食事も他人の
介助を必要とした。三人展で培った自信が砕けていくように感じられた。
 「これ以上筆を持つことは出来ない」という思いが脳裏をかすめた。残された時間が少なくな
っていくようにも思えた。身体が弱っていく実感に比例して故郷の記憶が鮮明になり、何時も見
ていた景色や友人達の笑い顔が目に浮かんだ。故郷の友人達に作品を見て貰おうと考えた。
漠然とした希望は「ふるさと個展」の実現に向かった。
 正敏の気持ちは周囲の人達へも伝わっていった。「ある人が徳之島の天城町町長に正敏の
意向を話したら会場が確保された」と病棟婦長から突然聞かされた正敏は驚いた。数日後、
今度は奄美大島の南海日日新聞社から新聞の切り抜きが送られてきた。ふるさと個展のこと
が社会面の半分を使って書かれ、正敏の写真も添えてあった。個展を開くまでの経緯も詳しく
書かれていた。正敏はどうしてその記事が書かれたのか不思議に思った。謎は間もなく解け
た。天城町の会場の件でお世話下さった正敏の受け持ちの先生が、新聞社にも情報を提供し
て事前PRに尽力して下さっていたのである。新聞記事のおかげで個展は大きく広がることに
なった。五月のことであった。中学校の友人から手紙が来た。ふるさと個展のことを知ったので
手伝いをする、勝手ながら「木脇正敏を激励する会」も立ち上げて、天城町のみならず、関東、
関西にも連絡事務所を開設すると記されていた。正敏は大変なことになったと思った。こうして
故郷の同級生達を中心に昭和五十九年八月、「今日を生きる為のふるさと展」と題して故郷の
天城町中央公民館で個展を開くことができた。涙がでるほど嬉しかった。故郷の情景や子供
の頃の記憶が走馬燈のようによみがえった。決して満足な生活ではなかったが憧れの大阪在
住十年にして引き上げざるを得なくなったことは、この時もまだ正敏の心の傷になっていた。今
度の個展はその傷をいくらか癒してくれた。

 正敏の生い立ちと発病までの経過について触れておきたい。
 戦後間もない昭和二十年十月、徳之島の岡前に正敏は生まれた。六人兄弟の末っ子であっ
た。島は空気が澄み、海もきれいで自然の美しさに恵まれている。
 まだ日本が貧しかった時代に小学校に入った。茅葺きの粗末な校舎は雨漏りがひどかっ
た。少年時代は家庭の菜園の手伝いを無我夢中でやり、それに打ち込んだ。楽しい時間であ
った。作った野菜を母が街まで売りに出かけた。
 中学生になると近代的な校舎になった。同級生の殆どは、進路に就職を選んだ。正敏も地元
のバス会社に整備工として就職、初任給で父母にお茶をプレゼントした。この会社で一年半働
いた。
 そして、憧れの大阪に出た。昭和三十九年、東京オリンピックの年であった。徳之島から鹿
児島まで一昼夜船で揺られた後、夜行列車で鹿児島を出発、三日目の朝ようやく大阪に着い
た。会社の人と姉夫婦が迎えにきてくれた。田舎育ちの者には大阪は人や建物がやたらに多
く、戸惑いと不安が襲ってきた。
 就職先は大手機械メーカーの下請け会社である。従業員は二十名程度のこぢんまりした会
社であった。そこで旋盤工として働くことになった。専務さんが温かく迎えて頂き、従業員にも紹
介された。緊張で足ががたがた震えたことを覚えている。
 いよいよ都会暮らしが始まると思うといいしれぬ寂しさに襲われ、故郷がやけによく見えた。
故郷を遠く離れた職場に就職して先ず苦労したのは、仕事ではなく言葉であった。徳之島の言
葉も本土の人には分からないといわれるが、早口の大阪弁には往生した。時が経つにつれ少
しずつ言葉にも慣れ、職場の仲間とも話せるようになった。仲間の多くは、正敏と同じく高校進
学をあきらめ、口べらしとして都会へ追い出されて来た連中でよけいに親近感がわいた。
 身体が小さい上、誰が見ても純田舎風の風貌故、悪い人にだまされるのではないかと不安
が起きた。姉が月に一度は大阪の街を案内してくれ、地理や街の様子がだんだんと分かるよ
うになり、都会の喧噪も快く感じられるようになった。
 会社にも徐々に慣れてきた。良い先輩にも出会えた。身体が小さいというハンデを持ってい
るため技術を早く習得するようきびしく指導された。当時は正直言ってきつかったが、でも今思
えば温かく指導して貰ったと感じている。仕事を続けてみて自分の身体ではこの力仕事はもた
ないと感じ始めた。他の人に比べ身体が一回りも二回りも小さなものにとって仕事は過酷で、
不安の方が先立った。折角お世話になった職場だが、会社を辞めることにした。しかし、辞め
ると決心したものの単に身体が小さい、力が足りないという理由で退職するのは自分自身でも
違和感が残り、自己嫌悪に陥った。
 会社を辞めた後は義兄の工場で働くことにした。義兄は配管の仕事をしていた。阪神野田駅
の近くにアパートを借りた。六畳一間が我が城となった。敷金七万円、家賃七千円は正敏にと
って決して安いものではなかった。それでも大家さんが同じ奄美の喜界町出身で、優しくして頂
き助かった。朝六時に起き電車とバスを乗り継いで職場に向かう。仕事は八時から四時半ま
でであった。通勤電車はいつも満員で、時には乗客にはねとばされそうになった。慣れてくると
潜り込む術も覚えた。
 数か月経って、中学時代の同級生ですでに大阪でコックとして独立している友人が訪ねてき
た。彼は中学を卒業するとすぐ大阪にきて、コック見習いをしながら資格も取った努力家であ
る。話すうちに意気投合し、今までの経緯などを話した。彼は「大阪で独立して暮らすのは容易
なことではない。よければレストランで修業して将来店を持つことを考えないか」と誘ってくれ
た。義兄のところでお世話になることを決心したばかりだから、その提案をすんなり受け入れる
ことは出来なかった。彼もそれは理解できるから、仕事が終わったあと修業したらどうかと言っ
てくれた。正敏も異存はない。昼働き、夜はコックの修業となると体力的にかなりきついとは考
えたが、実際働いてみたらなんとかいけそうであった。しかし、夕刻六時から十二時までの見
習い仕事はかなりの重労働で家に帰り着くのは午前一時頃になった。後で考えると、よくそれ
で身体が持ったものだと思う。時間的には分刻みの慌ただしさであったが充実感はあった。土
曜日になると同じ故郷出身の先輩や後輩が集まり、沖縄民謡や島唄などを歌いながら夜が明
けることもしばしばであった。コックの修業はきつかった。皿を割っては怒られ、掃除がまずい
とこずかれる毎日であった。そんな時には辛抱、辛抱と自分に言い聞かせながら耐えた。
 しばらくそんな状況が続いた後、根性を見込まれたのか先輩は親切に教えてくれるようにな
った。友人と店を出す相談が出来るまでになった。ついに夢に見た自分たちの店が持てる手
はずが整った。友人と姉と三人で阪神野田駅前に店を出すことにした。駅前ということもあって
資金は少々高く付いたが、なんとか開店にこぎ着けた。客足も多かった。昼は定食もの、夕は
飲み屋兼食堂であった。それは夢の「小さなグリル喫茶」であった。しかし、駅前の商売は競争
率が激しかった。最初は目新しさや開店祝いの為、満員である。開店祝いの格安メニューがよ
く売れた。二、三日は忙しかった。しばらくして落ち着いてくると、今度は客が来ないのではない
かと心配になった。店の特徴を出す工夫や固定客の獲得に努力した結果、一年が経つ頃には
軌道に乗ってきた。三人ともほっとした。更に売り上げを伸ばしたいと考える余裕も出てきた。
正敏の大阪での生活は順調に見えた。しかし、暗雲が忍び寄っていた。その後、体調に異変
が出ることになる。

 ここでふるさと個展の話に戻る。
 故郷のためにも、周囲の期待を裏切らないよう個展を是非成功させねばならない。決意は固
まった。準備は大変だったが、多くの人達の手伝いを得て着々と進んだ。
 正敏が故郷を離れたのは昭和三十九年であるから、既に二十年が過ぎていた。その半分が
闘病生活になっていた。この時期は歩くことはなんとか出来るが、手の力が極度に落ちて字が
書けない状態になっていた。かろうじて残った両手の力で絵を描いた。字はタイプを使って手
紙を書いた。そういう状態ではあったが、長年の夢であった故郷での個展が実現することにな
り、以前にも増して活力が湧いた。それは生きる力であった。前年の新聞社ロビーでの三人展
の成功である程度の自信はついていたが、生まれ故郷だけに緊張感で一段と引き締まる思い
がした。
 難病にとりつかれ、身体機能を失い、職場を失い、希望を失った正敏であるが、絵との出会
いもさることながら、周囲の人達の温かい真心と励ましが何よりも得難い宝物となっていた。正
敏はこの心境を「健常者の時には感じ取れなかったから、身障者になったことを幸いに感じて
いる」と表現している。これは正敏が身障者を希望したわけではないが、人生の中で何が大切
かを語るたとえにしたものであろう。その文を引用してみる。
 時として自分が身障者であってよかったと思う時がある。それは、ほんのわずかの時間の中
で、一生懸命に生きていく素晴らしさを感じとれるからである。この言葉を聞いても誰も信じな
いかもしれない。身障者の方が世の中を生きていくことのつらさや苦しみを知ることが出来た。
同時に周囲の暖かさも感じることが出来た。
 南九州病院に入院した正敏は、健常者から身障者に変わった。元気な時は歩くということは
ごく普通のことと感じていた。しかし、難病にとりつかれた後は歩くということは大変なことだと
分かった。元々歩くことには自信を持っていた正敏であったが自分一人ではバスや電車に乗
ることは出来なくなってしまった。自分の足で北海道や鳥取の砂丘を散策したことを懐かしく思
った。
 身障者としての生活で残された僅かな力で努力し精一杯生きていこうとする姿になり得た。
身障者というだけで社会から見放され、差別され、健常者の中では仕事もまともに出来ない。
それ故、生きていくことや自立することの大切さをより感じ取れた。一日一日を充実させること
が出来る。悔いのない人生を送りたいと感じている。これは有り難いことである。負け惜しみに
終わってはならないと思った。
 ふるさと個展の期日は昭和五十九年八月十七日から三日間。ふるさと個展を開くことを決心
したのが正月早々であるから準備から開催まで半年以上を要したことになる。病棟の坂田さ
ん、福田さん等が実行委員となり、地元の天城町に出来た「木脇正敏を勝手に励ます会」と協
同して個展の計画は着実に進んだ。
 展示作品は全部で二十五点を出すことにした。それに同じ徳之島出身の絵画愛好家が友情
出展として五点を添えてくれた。正敏の作品は主題となる桜島を描いたものが九点も含まれ、
勿論、生まれ故郷を描いた作品も加えた。今では珍しくなったわらぶき屋根、兄の家、友人の
家、闘牛、夕日など懐かしい風景を描いた絵である。
 開催日は、朝から風雨が激しく荒れ狂っていた。台風十号であった。前日に同級生や仲間達
が天城町中央公民館の玄関に看板を設置してくれたのに、台風が接近して飛んでしまうので
はないかと思われた。それでも沢山の人達が集まり、祝辞を述べ、祝電を披露し、涙ぐみなが
ら絵を見てくれた。絵画に感動した言葉に加え、「筋萎縮症に関する知識が今までなかった」と
述懐する祝辞には多くの観客がうなずいた。正敏の父も涙を浮かべて謝辞を述べた。
 翌十八日は、前日より更に風が強くなった。それでも多くの人達が絵を見に集まってくれた。
夜には雨と風が強まる中、岡前生活館に多くの人達が集い、「ふるさと個展激励コンサート」が
開かれた。参加バンドは地元の「月下美人」、隣町の「ブギブギバンド」、加世田市から来て貰
った「中村淳一とフレンズ」で大いに盛り上がった。
 十九日も暴風雨は止まなかった。台風は三日とも付き合ってくれた。台風の来賓はありがた
迷惑ではあるが、それでも多くの人達が足を運んでくれた。計画担当者と正敏がお礼の言葉を
述べて閉幕となった。関係者は正敏の家に集まり、慰労会を兼ねて、個展の成功祝賀会を開
き、朝まで飲み、語った。
正敏の故郷での個展はこうして多くの人達の支援を得て無事終わった。翌日はやや風も収
まり、正敏は病棟から来て貰った指導員の先生、兄に同行してもらい、お世話になった町役場
をはじめ正敏の母校、小中学校、会場を提供して下さった中央公民館にお礼代わりとして正敏
の絵画を寄贈して廻った。
 奄美群島選出のある国会議員が沖縄に行く途中、この台風の影響を受けて行けなくなった。
たまたま正敏の絵画展を観覧した。その際、正敏のプロフィールの一番下、好きな歌手の欄に
「八代亜紀」と書いてあるのが目に付いた。議員と八代さんのマネージャーは知り合いで、正敏
が個展と同時に発行した小さな冊子を東京に持ち帰り、早速八代さんに見せた。感動した八
代さんはサイン入りの色紙と、本人の声で励ましのメッセージをカセットテープに録音し、奄美
大島に帰る議員に託した。議員は正敏の病棟に色紙とメッセージを届けてくれた。そして翌昭
和六十年一月には、これまた議員の配慮で鹿児島市の市民文化ホールであった八代亜紀コ
ンサートの時、初めて八代さんに会うことが出来た。以来演歌は勿論のこと絵を描くという共通
点もあり、正敏は現在でも八代さんと交流をさせて貰っている。

私は 歌の中でも演歌が大好きである
演歌は 私の心をゆさぶる
演歌は 田舎の山や川
土のにおいがする
そんな演歌が大好きだ
演歌は 父のにおいでもある
演歌は 私が若かった頃から
今 こうして療養している今も
私をなぐさめてくれる

 きまじめな正敏だが、焼酎は今でも飲むし、歌も好きである。声が出なくて歌えなくてもなんら
気にしない。中でも八代亜紀さんの演歌は大阪時代から好きであった。正敏の「ふるさと個展」
をきっかけに、八代さんと交流が始まって益々、八代ファンになった。そして八代亜紀コンサー
トが鹿児島である度に楽屋を訪ね、会って記念写真を写して貰ったりもした。
 
{八代亜紀さんは歌手であると同時に画家でもあり、陶芸もやる多才な人である。ホームペ  
ージももち、幅広く活動している。} 

 病院の副院長は正敏のことを不思議な人だと表現した。この副院長によると「神経内科医と
しての立場から改めて診断しても明らかに筋萎縮性側索硬化症であるのに、発病して三十年
も生きていて絵を描いたり、個展を開いたり出来るとは医学の常識では考えられない。進行経
過が極めて長いし、焼酎が飲めるのは一般の患者とも違う。その秘密は強靱な精神力であっ
て、自立心、共生、闘病意欲、開き直りなどの要素が作用しているのであろう」と言う。確かに
和文タイプ、絵画、今ではパソコンによるワープロなど気が遠くなるような作業を延々と続けて
いる。この根性は真似が出来ない。正敏自身も感じていることだが、「発病してから最初の時
期は病状の進行が早かった。その時は目の前が真っ暗になり、自分の人生はもう終わりと考
え、自殺したい気持ちも湧いた。絵を描き、文を綴り、自分の生き甲斐を見つけた後は病状の
進行は遅くなったように感じる」という。
 正敏は副院長が感じているように強靱な精神力の持ち主である。発病前も発病後も人生へ
の取り組みがきまじめで、粘り強い性格であって、それは正敏自身が、誇りにした面がある。
それを正敏は次のように表現している。
 「生きるということは大変なことだと思う。新聞やテレビでは自ら命を絶つことが伝えられる。
情けないことだ。健常者も障害者もそれぞれに悩みはあると思う。重たい、軽いの差はあって
も荷物を背負って歩いている。その荷物を少しでも軽くしようと皆一生懸命に努力して生きてい
る。少しのつまずきで自殺する人がいる。情けないことだ。人間は必死になって頑張れば何事
も出来るはずだ。私自身、不自由な身体であるが、障害に負けることなく一日一日を大切に生
きていきたいと思う」
 絵や文章から見た正敏像はきまじめ一本の男に見えるが、看護師から見た正敏像は違うよ
うだ。病棟生活では、頑固さあり、居丈高な脅かしあり、真面目な話し合いの中で宴会の話を
持ち出してひんしゅくをかったり、脱線事項も多い。看護師をつかまえ、「今日は胸が大きく見
えるよ」と気にしていることを平気で言う。これに親友の坂田さんが加わると漫才になるらしい。

 三人展の仲間の一人、福田さんは「三人の桜島」の完成を待たずにこの世を去った。桜島の
全景を坂田さん、福田さん、正敏の三人分担で、三人三様の描き方で作成、絵を並べると桜
島の全景が出来上がる仕組みだ。
 福田さんに変調が出たのは、生まれ故郷の奄美大島で個展を開く坂田さんの応援に出かけ
る際、空港で体調不良を訴えたのが始まりであった。その後回復し、「加世田市で三人展を開
くのだ」と一枚でも多くの作品を出品するために気合いを入れて取り組んでいたが、加世田市
の三人展を待たずに福田さんは他界した。加世田市の三人展は彼の供養展に変わった。三
人が協力して開こうと計画中であった福田さんの故郷吾平町での個展も正敏等が執り行わな
ければならなくなった。

くやしさの中に
いらだちの中に
不安をだきしめながら
私達は 明日を信じて一生懸命に
「進行性筋萎縮症」と闘っている
あたたかい人間愛につつまれて
希望に向かって
たくましく 清らかに
力強く生きている
なのに
純粋に頑張り続けた
幾つかの生命は
静かに星になってしまった
一人の生命の哀しみ
哀しみは もういらない

 福田さんの冥福を祈って「今日を生きるための油絵三人展」を福田さんの郷里、鹿児島県肝
付郡吾平町の振興会館で開いた。昭和六十三年十月八、九の二日間であった。福田さんの
同級生や町民の皆さんから開催へ向けて沢山の協力を頂いた。天城町でのふるさと個展の際
も加世田市から駆けつけてくれた「中村淳一とフレンズ」と鹿屋市の「わたぼうし会」の協力を
得て、夕方には盛大なコンサートも開催した。
 観客は涙を拭き拭き福田さんの作品に見入った。この光景を見た正敏は福田さんが残した
素晴らしい作品を出身地の人達に見て頂く機会を持てて本当によかったと感じた。
 コンサートの時、生前の福田さんのスライドが映し出され、中村淳一さんが福田さんのために
作った詩に曲を付けた「若くして燃えつきて」が流れた。正敏達は福田さんは必ず極楽に行け
ると信じた。

 故郷に一人暮らしをしている父が癌と診断され、大阪の病院で手術を受けた。久し振りに親
戚が徳之島に集まり、徳之島の慣例に従い八十五才の父のお祝いをしたいと思ったが、まだ
療養中のため、父不在のままでのお祝いとなった。正敏は父の八十五才の記念に肖像画を描
いて贈った。
 高齢での手術であったが父の病状は快方に向かい、郷里の徳之島に帰ることが出来た。し
かし、三年間の闘病生活の末、平成四年六月、八十六歳で亡くなった。
 正敏は父の一年忌にあたり、「子を思う心、親を思う心」という題の短文を書いた。「子は親に
孝行しなければならないのに、難病に罹り逆に心配をかけてしまった。孝行するには不自由な
身体の残存機能で一生懸命生きるしかない。それでも父が私をいとおしく思い、優しく故郷の
島に迎えてくれたことに感謝する」という内容であった。この文章を鹿児島市のある教師が中
学校の生徒に読ませ、感想文を書かせて、正敏の元に送ってくれた。正敏は感想文を読ん
で、子供達の温かい励ましに感謝した。それは正敏に春の訪れを感じさせた。
 
春 それは四季の中で
一番 好きな季節である
それは いろいろな草花が咲き
私の心をなぐさめるからである
花の命は短いけれど
それでも力一杯 咲いている
その花のように
私も一生懸命に生きて
みたいと思っている

 時々、小学校から正敏の絵を借用したいとの申し出がある。 小学校だけではない。方々か
ら絵の貸し出しや出展依頼は多い。東京へ二回、金沢九回、県内サムホール展十五回、霧島
洋画八号展十五回、末吉町三号展五回、蒲生町老人ホーム九回などなど、数えきれない。正
敏は依頼には気軽に応じて、「上手な絵ではないが、よろしければ貸します」と先生達が希望
する作品を貸し出す。また、個展を開くと小学、中学の生徒が沢山見学にやってくる。その生
徒達は先生の指導もあって、感想文を書いて送ってくれる。その感想文を読むのが楽しみの
一つである。ふるさと個展に加世田市から支援してくれた中村淳一氏の娘さんもその一人であ
る。中村淳一氏と正敏との出会いは、指導所時代の仲間が結婚して鹿児島市内に住んでいた
昭和五十五年の頃である。十二月初め、その友達から電話がかかってきて、忘年会を兼ねて
飲み会を自宅で計画しているが来ないかという誘いがあり、坂田さんと二人で出かけた。指導
所時代の仲間達やそのほかに数名が来ており、互いに焼酎を酌み交わし少し時間が経った
頃、ギター一本持って入って来た中村さんを紹介されたのが最初であった。焼酎好きな中村さ
んと焼酎を飲みながら語った。中村さんはバンドを組み、仕事の合間に音楽活動もしていた。
それ以来、交流を深めていったが、坂田さんと二人で作った未熟な詩文集を送ったところ、中
村さんが正敏等の詩に曲を付けて下さった。地域で中村さん達がコンサートを開催する度に正
敏達二人の唄を歌ってくれる。こうして「中村淳一とフレンズ」のメンバーとも二十年来の交流
が続いている。その他、フォークの神様と言われている人をはじめとして多くの歌の仲間にも
出会えた。
 中村さんの小学三年生の感想文を紹介する。
   わたしのお父さんは、いろんな所で歌を歌っています。加世田では、みさかえ学園や光の
  里などでも歌いました。お父さんには、体のふ自由な友だちがたくさんいます。とくにしたし 
  いのは加治木の国立病院のさかたさんときわきさんです。
   二人は、車いすにのっていて、きんジストロフィーという病気にかかっています。でも絵  
  がとてもすきです。わたしもかぞくで何回か加治木の病院にお見まいに行きました。さかた
  さんもきわきさんも手にふでをくくりつけて書いていました。でもわたしは、だれもこの絵は 
  書けないくらいじょうずだなあと思いました。わたしは、けんこうでちゃんとした手で書いてい
  るけど、二人の半分も絵がとても大すきなんだという気持が表れている絵なんて書けませ 
  ん。わたしは、その二人のいっしょうけんめい絵を書くことにしても、一歩でも歩けるようにな
  るにしても、とにかくいっしょうけんめいするすがたを見てとてもはずかしいです。わたしもそ
  の人たちをたすけてあげたいけどできません。わたしにできるのは、だまって見ておうえん
  することや花をたくさんつんできて、さかたさんときわきさんにあげることです。とてもよろこ
  んで電話でもありがとうといってきました。その時は、わたしもとってもうれしいでした。
   わたしは、ふじゆうな体でもないのに何もやろうとしないので、はんたいに体のふじゆうな
  人たちに教えられているような気がします。わたしは、ふじゆうな体じゃなくてよかったです。
  でもよくお母さんが、自分たちもいつふじゆうな体になるのかわからないから、そういう人た
  ちをみかけたら何でもできることは、手つだいしなさいといいます。わたしも体がけんこうな
  のでできることなら何でもしてあげたいです。
   さかたさんときわきさんの書いた絵は、わたしの家のげんかんといまにかざってあります。
  それは大切なたから物だとお父さんはいいます。わたしもその絵を見るたびに、きわきさん
  さかたさんは、いまどうしているかなあと思います。
 また、溝辺小学校の四年生はきれいな絵手紙に言葉を添えて送ってくれた。
 「さくらじまをまっしょうめんから見た絵が大好きです。足であんな絵を描くとはすごいですね。
あのさくらじまの絵は本物みたいです。これからもさくらじまの絵を描きつづけて下さい」
 中村淳一氏に曲を付けて貰った歌を紹介したいが、残念ながら紙面では曲は無理である。
正敏の歌詞を紹介する。


          飲んで歌うその唄は

     おでんに焼き鳥 焼酎一杯 冷えた体にしみわたる
     仕事が終わった帰り道 いつもかよった一杯飲み屋
     飲んで歌うその唄は 島に伝わる古い唄

     調理師の免許をとった夜 兄貴と二人でうれし酒
     いつかは小さなレストラン それがおいらの夢だった
     おふくろに手紙を書いた夜 ペンが指からするりと落ちた

     希望の持てない病気と知ったとき 世の中恨んで自分を恨んで
     いっそ死のうと思ったけれど くにのおふくろ思って泣けた
     あれから五年の月日が流れて 今では毎日病院暮らし

     きのうとなりのあいつが死んだ 涙があふれて仕方ないけど
     負けるわけにはいかないさ 君の分まで生きてやる
     いつかは分かるさ治療法 かじりついても生きてやる

     おでんに焼き鳥 焼酎一杯 今でもおやじは元気だろうか
     自由にならない体だけど もう一度行きたい一杯飲み屋
     飲んで歌うその唄は 島に伝わる古い唄

周囲の温かい励ましや支援にも拘わらず、正敏は病人であり、悩みも多く、生活面でままな
らない事柄も多い。不平不満を言ってはならないと肝には銘じていても、それも限界がある。
 歩けない、手が使えない、難病故に完治の目途もない患者は、病棟でただ時間が過ぎていく
のをじっと我慢しなければならないのか。多くの患者は生き甲斐を求めて、絵画、刺繍、貼り絵
など自分に出来る課題をこなしている。しかし、それには限界がある。病棟に押し込められた
生活は耐えられない。正敏はまだ良い方で、近くの食堂に焼酎を飲みに出かけることが出来
る。それでも限界がある。
 姶良町や鹿児島大学のボランティア・グループがウォークラリーを計画してくれた。史跡研修
を兼ねた町内一周、長距離を歩き抜く催しなど、久し振りの外気に触れて命が延びるように感
じた。中でも、鹿児島大学の難病研究会の学生さん達が霧島連山の山登りを企画してくれて、
連山の一つである高千穂峰の中岳に登ったのは素晴らしかった。しかし、背負われての登山
で、支援者には気の毒だと思った正敏は、お礼も兼ねて、印象に残った高千穂峰や韓国岳の
風景を心を込めて絵にした。その時の絵を霧島洋画八号展に出品した。本当に有り難いこと
である。

 「我が心のふるさと展」と題して故郷徳之島で二回目の個展を開く話が持ち上がった。前回
の個展が成功裏に終わったこともあり、その後.足で描いた絵に興味をもたれたからである。
この話を聞いて、地元の教育長は別な期待感を持った。人口の老齢化に伴い、中、高齢者を
対象とした生涯学習計画を進めている市町村は多い。盆栽であったり、園芸、パソコン教室な
ど市町村により違うが、似通っている。市町村の呼びかけに多くの人達が参加して、時にはくじ
引きで受講者を決めなければならないことがある。受講者は女性が多く男性が少ない傾向に
ある。生涯学習への参加人員が多いわりには、生涯学習への理解はまだ完全ではない。教育
長は、正敏が自己実現へ向けて絵画や文集を作り、生涯学習の模範を示していると判断し
て、生涯学習の見本を示して貰おうと考えたのだろう。正敏を男性軍応援団の代表と教育長
が考えたかどうかは分からない。
 二回目のふるさと個展は平成七年、前回同様に同級生と町の教育委員会の支援を得て盛
大に催された。
 同じ年の十二月初め、正敏に悲しい事が起きた。母亡き後、木脇家を兄貴と共に守ってきた
義姉(四十七才)の突然の死である。姉は故郷での二回目の個展を人一倍喜んでくれて、接
待から正敏のことまでも面倒を見ながらぐち一つ言わずに頑張ってきた。そんな姉に何一つ恩
返しが出来ないまま、こんなに早く別れなければならないとは…。やるせない気持ちで一杯で
あった。今でも姉は夢の中に出てきて正敏を励ましてくれるという。

 正敏は個人新聞も発行していた。「パパイヤだより」である。平成六年の夏には二十四号を
数えるに至った。発刊から数えたら十三年が経っていたが、前号の二十三号から二年もあい
てしまった。その間は正敏にとって危機であった。平成四年、心配をかけた父が亡くなり、長兄
まで死亡してしまった。父と長兄は大きな心の支えであっただけに、心に空洞ができ、無為に
過ごす時間が多かった。しかし、正敏はそれでもうちひしがれてはいなかった。平成五年の暮
れには作品集「続・明日に向かって」を発行した。一号は昭和五十九年発行である。一号の
「明日に向かって」には生い立ち、詩、エッセイ等を載せた。「続・明日に向かって」には友人か
らのメッセージ、詩、「パパイヤだより」からの抜粋等を載せた。
 「パパイヤだより」では期間中の出来事を細かく紹介した。また、その時の心境や詩も添え
た。元々は手が不自由になって、一人一人に手紙で返事を書くことが時間的にも、作業量でも
追いつかないため、まとめて書くつもりが新聞になってしまったのである。簡単なつもりの新聞
も、いざ作るとなると編集作業にかなりの労力を要した。記事が無いときや作業が遅れたとき
には三月に一回の発行が半年に一回になったり、長いときには二年に一回になってしまった。
この便りも手の機能が落ちて来るのにつれ、発行が無理になっていった。
 絵は外部からの依頼でまだ今も提供を続けているのがある。今から十年前に鹿児島市内の
ある共同作業所の人達が毎年カレンダーを作成して作業所の運営資金に当てていた。正敏と
坂田さんにもそのカレンダーに乗せる絵の依頼があり、正敏は燃える桜島を掲載して貰うこと
にした。それが福岡県大川市の方の目にとまった。その燃える桜島を気に入って頂き、それ以
来この十年間毎年正敏の絵をカレンダー作成に利用して頂いた。
 「パパイヤだより」発行が二十四号を数える頃になると、正敏の手が殆ど使えなくなってい
た。作業療法士に足に絵筆を着ける装具を作ってもらい、絵は足で描くことになった。また、前
年までは歩行器を使って歩いていたのが全く歩けなくなり、電動車いすに頼ることになった。こ
の頃は構音障害もひどくなり会話による意思疎通が出来なくなっていた。慣れていない人は看
護師などの通訳を要した。

{構音障害・病状が進行すると舌下神経核が障害されやすく、舌筋の萎縮により構音障    
害、嚥下障害や呼吸困難を生じる。発声が困難になり言葉が聞き取れなくなる。}

 正敏がほぼ二十年間使ってきた和文タイプライターが、使用不能になった。この状況を見た
ALS協会熊本県支部の笠井氏は、県支部で持っていたパソコンを利用してみることを正敏に
勧めた。正敏は躊躇した。このパソコンはマッキントッシュで、特殊なソフトが組み込まれてい
た。通常のパソコンで文字を入力する場合、キーボードやマウスを使用する。正敏のように手
が使えない状態では、タイプライターと同様に使うことは無理である。このパソコンの入力装置
は、単に一個のスイッチがあるのみ。スイッチを入れたり切ったりする操作で文字の入力が可
能になる。正敏の場合は、手の力は弱くなっていたが、幸いに足の力が残っている。足でスイ
ッチを踏んで入力を行うのである。パソコンを勧められた正敏は、すぐパソコンは横文字が必
要と感じた。元来、横文字には弱かった。笠井氏がパソコンを勧めた時に躊躇したのは横文
字に自信がなかったからである。しかし、笠井氏は正敏の文字との付き合いはこれしかないと
感じて強く勧めた。熊本支部のパソコンを南九州病院に運び入れ、正敏のパソコンとの格闘が
始まった。平成十三年六月のことであった。
 正敏の粘り強さはここでも発揮された。瞬く間に基本的な操作は覚え、文字入力であれば不
自由はしなかった。ここで一つの問題が持ち上がった。パソコンを指導してくれた笠井氏は熊
本在住である、鹿児島県の正敏の所まで通ってパソコンの支援を続けるには、時間的にも労
力的にも支障が出る。近くの人の支援を得ることは出来ないか。その事情は南九州病院か
ら、地元の加治木町の社会福祉協議会に伝えられた。社会福祉協議会のコーディネーター・
竹田さんは、出来れば加治木町の中に正敏のパソコンの支援をしてくれるボランティアはいな
いかと考え、広報紙にその旨の記事を載せて町内の回覧に廻した。この広報紙を見て支援可
能であると連絡を取ってくれた人が数名いた。その中の一人が須田さんであった。南九州病院
のすぐ近くである須田さんの家から病院までは自転車で簡単に行ける距離である。須田さんは
定年退職後、他にもパソコンのボランティア活動をしていたこともあり、引き受けてもよいと竹
田さんに返答した。
 須田さんは正敏のところに行ってみた。正敏の入力の腕は十分に上達していた。正敏には
自前のパソコンを購入したいとの希望があって、そのパソコンを使って上達するまで技術の支
援をして貰いたかったのであった。須田さんは一瞬躊躇した。須田さんはマッキントッシュには
不慣れで、今からそれを勉強するにはかなりの時間を要する。資料も少ない。第一マッキント
ッシュは時流として少数派になっている。須田さんは新たに購入して始めるにはウインドウズが
よいのではないかと言ってみた。病棟でもかなりのパソコンが入っていて患者はそれを利用し
ているが、ウインドウズばかりでマッキントッシュはなかったし、皆と同じタイプがなにかと便利
でもあった。
 パソコンに組み込むソフトは、どちらのタイプのパソコンにもある。使い方もほぼ同じであるか
ら、正敏が新たに練習をする必要はない。問題はパソコンにソフトを入れて、それが正常に動
くようにするのが少し難しいだけである。何回かの試行錯誤の末、使用環境は整った。一ヶ月
ほど、須田さんは殆ど毎日通って、細部の操作の手ほどきをした。三ヶ月もしたら、須田さんよ
りも正敏の方が上手に入力できるようになり、ワープロ操作、インターネット・メール、それにウ
ェブの閲覧も殆ど問題なくこなせるようになった。これでタイプライターの世界から、パソコンの
世界への引っ越しが無事に終わったことになる。
 須田さんは正敏のパソコン操作が一応の完成をみた時点で、もう一つの提案をしてみた。ホ
ームページの作成である。ホームページのなんたるかは正敏も既に知っていたので乗り気に
なった。今まで描いた絵をホームページに掲載するのである。名前を「木脇画廊」にした。気に
入った絵十数点をデジタルカメラで撮影し、正敏のメッセージを載せてホームページはスタート
した。正敏は満足していた。正敏は全国の同病の人達の励ましになればいいと考えて、「私か
らのメッセージ」と題して絵の他に意見を発信した。それへの応答があり御礼のメールが届い
た。正敏は有り難いと思った。
 パソコンに慣れたとはいっても全部を正敏が自分一人で使いこなせるかと言えば、それは無
理である。何時もたまり場になっている作業室には、同じタイプのパソコンを使っている高田さ
んがいる。女性患者の高田さんは視野の狭窄や弱視がひどくてパソコンの画面を見るのも通
常の画面では見づらいため、拡大して見ることが出来るソフトを使っている。しかし、入力につ
いては正敏よりはるかに自由度があるから、正敏の名簿録を作るのを手伝っている。なにせ、
有名人になった正敏への年賀状は三百五十枚を超える。この枚数の宛名書きだけでも大変な
作業だ。
 正敏は年賀状を印刷するときには須田さんに援助を申し出ることもある。しかし、丁度その
時が看護学生の実習の時であれば、須田さんよりも実習生に頼みたいらしい。正敏も普通の
男性同様、若い女の子達と一緒にいるのが幸福であり、それを楽しみにしている。
 言葉さえも失われつつある正敏にとって、パソコンは重要な情報交換の手段である。と言うよ
り唯一の意思伝達と言う方が正しい。横文字の苦手な正敏が須田さんの指導を受けてパソコ
ンと向きあってから三年、今ではパソコンは正敏にとってなくてはならないものとなった。今回
のこの詩文集作成も須田さんとメール交換をしながら作成した。
 患者の大きな悩みには性の問題もある。特に若い患者は筋肉が衰えるといえども性への関
心、恋心、結婚願望は健常者と変わらない。しかし、発病と同時にそれへの望みは消される。
多分にその思いを、正敏は絵に、坂田さんは絵や色紙に思いを縷々つづっている。若い男性
患者は淡い恋心を詩に託し、叶えられぬ願望を形に残そうと懸命に書き綴っている。ホームペ
ージを持っている患者には性の悩みを赤裸々に吐露する者もある。叶えられぬ願望は洪水の
様に力強く流れ下り渦を巻いているように感じられる。
 
 筋ジス病棟の患者は療養なのか、治療なのか。どちらでもない。筋ジス病棟は生活の場であ
る。しかし、その生活の場を変えたら生きてはいけない。病棟生活が好きであろうが、嫌いであ
ろうがそこしか生活の場はない。当然、気の合う患者、嫌いな患者、また、好きな看護師、嫌い
な看護師が色分けされても、それを避けては通れない。
 正敏は難病に罹り、何時死ぬか分からない状態のままで療養生活を続けている。近い将来
死ぬだろうと思い始めてから、生きるということの意味が分かるようになった。元気な内は死ぬ
ということに現実性はなかった。死について深く考えたこともなかった。それが自分に残された
時間はあまり多くはないと分かってから、残された時間を大切にしなければならないと考えるよ
うになった。死ぬことが分かって初めて生きる意味が分るのかもしれない
 難病に罹ったり、生まれながらの障害があったり、人間の力ではどうにもならない状況にある
人は、周囲から「神様はおられないのか」という意味の言葉をかけられることが多いらしい。ま
た、自身でも「何故、私が」という疑念から神様は何故私を選ばれたのかと、神様を信じないと
いう人もいるらしい。
 正敏は、こんな言葉とは縁遠いところにいる。気遣い人間の正敏は、周囲にばかり気を配
る。時にはお節介にもなるらしい。不幸な人間は、不幸になったのは人のせいだとか、世間が
悪い、政治が悪い、はたまた神様が悪いという。それからいうと正敏は幸福な人間の部類に入
る。だから、何事にも一生懸命取り組めるのかもしれない。それでも正敏は、父母に孝行も出
来なかったと涙を流した。

 正敏はすっかり有名人になった。南九州病院がある町の人に木脇正敏の名を出すと「ああ、
足で絵を描いている人でしょう」との返事が返ってくる。正敏は坂田さんに描くことを習ってか
ら、絵に打ち込み、沢山の作品を描いた。その絵を展覧会に出したら意外な好評を得た。その
度に新聞社、テレビ局などの報道機関からの取材を受けた。時にはテレビカメラが展覧会の
始めから終わりまでつきっきりで取材することもあった。正敏はすっかりマスコミ格好の取材対
象になってしまった。絵では坂田さんの方が先輩であるが、それを越して正敏は躍進した。正
敏は特に報道機関を意識した目立ちたがり屋ではなかったが、展覧会を開くにはなるべく多く
の人達に見てもらいたいという願望がある。そのため展覧会の開催案内を新聞やテレビの報
道に期待した面がある。独自の宣伝やパンフレットの配布は費用的に無理があるため、費用
節減のためにも新聞などの展覧会紹介は有り難かった。また、展覧会の支援者は努めて報道
機関に頼った。
 平成十五年、正敏の同級生が徳之島でミニ作品展を企画してくれた。ミニ作品展の模様を
新聞記事で見たNHKの若いディレクター田辺氏は不思議な魅力を感じた。田辺氏はいつも持
ち歩くテレビカメラを持って南九州病院を訪れた。正敏が足で絵を描いている現場を見たかっ
たのである。病棟の一角に作業室が設えてあって、そこでは絵や貼り絵など各人の趣味を実
現出来るようにしてある。正敏はその一角にキャンパスを置き、床には絵の具やパレット、絵
の具を溶かすオイルなどが置かれている。足に絵筆を固定する装具を特注で作ってもらい、そ
れを右足に固定する。固定作業は自分では出来ないから、看護師や介助者の手助けが必要
である。絵筆に絵の具をつけたら、キャンパスの位置決めをして、電動車いすをわずかに動く
手で操作して動かし、筆の跡を作り、絵を描く。この作業は試行錯誤が多く、気に入った線や
色合いを出すのにかなりの試行と時間を要する。油絵具は重ねて塗ってもよいから時間を十
分にかければ絵を完成させることが出来る。最初の頃は、まだ手が使えたので細めの筆と太
めの筆を使い分け、主に模写をしていた。しかし、足で描くようになり、太めの筆しか使えない
ようになってからは、大胆な筆遣いと赤とオレンジ色をふんだんに使った燃えるような桜島を描
くようになった。赤は命の色だ。その理由は単に足しか使えなくなったからというだけではなか
った。桜島を描き始めてから、今までの描き方だけでは満足しなくなり、模写から抜け出して自
分だけの桜島に取り組もうと思ったからである。自分だけの桜島には力強さが欲しかった。男
らしい逞しい絵にこだわった。力強さは太い筆でしか表現出来なかった。正敏は力強さのある
桜島を描き続けた。しかし、何度描いても自分の満足のいく桜島は描けない。いつかは理想の
桜島を完成させようと今も一生懸命に取り組んでいる。桜島は正敏にとって永遠のテーマとな
った。田辺氏は、この作業を丹念にカメラに収めた。収録しながら、この映像はドキュメンタリ
ーになると考えた。田辺氏は正敏の絵との出会いや苦労話、あるいは正敏が盛んに描いてい
る桜島を何故描き続けているのか質問した。正敏はそれに丹念に答えた。田辺氏が目論んだ
ドキュメンタリーは出来上がった。正敏は桜島を描くことで桜島から火山の力を得て、自分の
筋肉が衰えていくのを防ぎたいと考えていた。桜島は錦江湾の真ん中に位置し、暴れん坊であ
る。何時噴火をするのかも分からない。迷惑に思える時もある桜島だが、正敏にはエネルギー
の固まりに見えた。そして、そのエネルギーの一部でも自分に貰えたらと考えた。桜島をエネ
ルギーと見た反面、毎日病院から眺める桜島、鹿児島市から見える桜島、あるいは飛行機の
上から見る桜島は、何時も側に付き添ってくれる父の威厳と母の優しさを連想させるものでも
あった。ある時、鹿児島市の公園から桜島を見ていた正敏は、桜島が励ましてくれているよう
に感じた。それは父母であると感じた。そんな感慨を持ちながら正敏は桜島を描き続けてい
る。
 この映像は午後五時の番組で放映された。須田さんも正敏から放映時間の連絡を受けてい
たので見ることが出来た。映像は二十分強のドキュメンタリーとして作られていて、正敏の絵を
描く場面と絵を描くようになった経緯の紹介であったが、足で一生懸命に描く映像は多くの人
の感動を呼んだ。放映中にスタジオのアナウンサーが涙を流したため番組進行としては失策
であったかもしれないが、それがまた一般視聴者から感動を得ることとになった。後日談であ
るがこの番組を見た視聴者の一人がわざわざ病院を訪れ、絵を販売して欲しいと申し出てき
た。売るための絵ではないと正敏は断った。
 番組の反響が大きかったため、再度午後七時半の番組に格上げされて放映されることにな
った。今回は、最初から撮り直して構成に少し手を加えられた。第二弾は平成十六年新年
早々から取材を受けて二月に撮り終えた。その時も好評を得た。この取材でも田辺氏は正敏
の言葉が聞き取りにくいために昼間は病棟内で映像を取材し、田辺氏は放送局に帰り、お互
いメール交換しながらナレーションの構成を進めた。この時ほどメールのありがたさを感じたこ
とはなかった。正敏のように言葉の不自由な者にとってメールは本当に便利である。この二回
の放映で正敏は鹿児島県ではほぼ確実に有名人になってしまった。悪い気はしなかった。そ
の後、NHKは世界放送でこの映像を流した。これを見たフロリダ在住のご婦人は「TVジャパ
ンという放送局でNHKの番組は殆ど見られます。一言ありがとうと言いたくてメールをしていま
す。木脇画廊の作品も見させていただき、心がふるえます。エネルギーが伝わってきます。こ
れからも木脇さんのホームページを時々拝見させていただきます。有り難うございます」という
メールを送ってくれた。そのご婦人とは今もメールのやりとりをし、励まし合いや土地柄の情報
交換をしている。
二十七年間住み慣れた病棟から十五年十一月、近代的な新病棟に引っ越しする事になっ
た。新病棟には今までのように趣味の部屋がなく、正敏は時期的にも寒さに向かっており、正
敏は新病棟から旧病棟まで行って絵画製作をするのは大変だと思った。看護師さんにも簡単
には頼めない。正敏は絵を描く時の介助ボランティアを頼めないかと須田さんに相談した。須
田さんは社会福祉協議会のコーディネイターの竹田さんに連絡をとってみた。幸いに正敏の番
組を見た主婦がいて、ボランティアを引き受けてよいとの返事を得た。でも正敏に一つの悩み
があった。それは言葉の問題である。正敏の言葉が三人の方に通じるかと心配していた。しか
し、一、二回のボランティアの支援を受けたあとは殆ど問題はなかった。
 竹田さんはボランティア登録している人を大勢知っていたから、正敏の絵画製作介助を頼む
人を選ぶのはそう難しいことではなかった。しかし、一般論として、ボランティア支援をする人と
支援を受ける人の相性もあり、コーディネイトは難しい。正敏はその点、恵まれていると言え
る。それは正敏の性格によるものと思われる。正敏はおおらかな性格で外向的なところが幸い
した。人と人の関係がうまくいくタイプである。多くの患者の中には支援を受けたくても躊躇した
り、引っ込み思案になって機会を失っている人もある。また、ボランティアを申し出て、支援の
気持ちは持ちながら気の合う相手を見いだせないでいる人もある。人間の付き合いの難しい
面である。
 身体の衰えは日に日に増しているが、三人の主婦のボランティアの方が心配していた聞きに
くい正敏の言葉にも慣れ絵画制作は順調である。
 正敏が大阪の大学病院でALSと診断されて約三十年。還暦を迎えようとしている。身体は動
かないが気力は十分、自分の人生、まだまだこれからだと強調する。

明日にむかって 夢と希望を持って
明日にむかって 精一杯に生きる
明日にむかって 一生懸命に生きる
この命のある限り
この大空にむかって生きる
たとえ この私の体がこれ以上
不自由になろうと
夢と希望をすてずに
私はただひたすらに
明日にむかって生きていく

 絵画に出会い、この絵画を通じて実に多くの人達に出会う事が出来た。正敏が、発病以来約
三十年間も頑張ってこれたのは親兄弟は勿論の事、親戚の方々と同級生達、そして多くの人
達の励ましのお陰だと思っている。
 毎日の生活の場では、病棟の看護師さん達から正敏の命を守って貰った。母や父の代わり
もして頂いた。これからもお世話になる。感謝を忘れてはならない。この三十年と来年還暦とい
う人生の中での一つの大きな節目に際して、新たな夢と希望を持って「明日にむかって」精一
杯生きて行きたいと思っている。
         

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