米1俵の重さ 弘仁元年(810)十月廿日収納稲事を読む8 2005.9. 8. 目次 home
あとがき(米俵の斤量について) 2006.8.26.
圭表と俵 正午の太陽が最も高いときが夏至で、最も低いときが冬至です。毎年起きることですが、その日時を予測して揺るぎのない暦をつくるには、太陽の高度の変化を継続的に観測しておく必要がありました。実際には、一本の角柱を地面に立てておいて、太陽が南中したときに日陰の長短を見るわけですが、そういう柱のことを「圭表」といっていました。
先年話題になった「米百俵」というのは、お米を詰めた裹(たわら 注1)が100個あるということで、それを「俵(ひょう)」という数詞で数えています。すなわち、こめだわら1個を「米1俵」と数えているわけですが、たわら100個に入っている米の量が均一でないと、「米100俵」と数えることはできません。
要するに俵も「ひょう」と読むとひとつの単位になるのですが、
「人+表」という漢字の成立ちについても同様に考えてみます。
人偏はもちろん人間のことですが、旁の「表」は何でしょうか? 荷を包む裹(俵)〜藁(わら)を編んで作る〜のことなら「拡げる」という意味になりそうですが、人偏があるので、私は、日陰を測る「表」のことではないかと思います。しかし、これは人間の体力を測定する表で、今でいえば重量挙げのバーベルのようなものですが、これを、人ひとりの背に負わせて相当の距離を歩かせ、たいていの人(注2)が耐えて運びきることが出来るという荷物の重さを測定するのです。![]()
Duke Zhou's Gnomon? (History of Science)
(注1) 裹(たわら) 庄園の租穀を納めた際に「裹薦四枚編併縄續人 食一束」が計上されている。
(注2) たいていの人(平均人)の体力を「一人前」とすると、1人にして「二人前」の身体能力を誇る人達もまれにいるわけです。
近世に入ると、60kgもある重い4斗俵が米1俵の基準になりますが、人並み外れた猛者達が体力の限界を極めている場合として一目置きます。米五斗為俵
『延喜式』(平安時代中期につくられた法律集)の中に「米五斗為俵」という文があります。凡公私運米、米五斗為俵。仍用三俵為駄。自余雑物亦准此。其遠路國者、勘重減之。
人が背負って米俵を運ぶとき、俵に入れる米は5斗を最大限にするというのです。
俵には雑多な穀物(米)を詰めることができるのですが、日本で「米」といえばもちろん稲米のことです。こうして俵1個の標準的な重量を米5斗のおもりで決めておいたので、律令国家において、俵(ひょう)はひとつの重量単位になっていた(注2)といえるのではないでしょうか。→ あとがき 2006.8.26.
圭表と俵のつながりは言葉の遊びですが、暦と同様に人が背負う重荷の限度も最終的には国家が管理することになるのは目に見えています。はやいはなしが、何もないところに大量の食糧が運ばれると、そこは都市にもなり、戦場にもなるので、古代国家というのは人民を使役して食糧を遠くまで運搬するシステムのことではないかと思ったりします。(注2)続日本紀<天平11年(739)4月14日>
天下の諸国をして駄馬(におひうま)一匹の負へる重さ大二百斤を改めて百五十斤を限りとせしむ。
(令天下諸国改駄馬一匹所負之重大二百斤、以百五十斤為限。)白米五斗と義倉籾一石四升を京に届ける
藤原宮庄園の出納簿の中で、弘仁元年十月廿六日に穎稲四十七束五把が庄倉から下されています。これの使い途ですが、用事が3件ある内の
1つには、義倉籾の納入に16束を宛てています。
2つには、庄園主のもとに白米5斗を届けることに16束5把を宛てています。
3つには、庄垣の工事費に15束を宛てています。穎稲は要するに刈り取った稲穂のことです(この頃は、稲刈りといっても、今のように根元から鎌で刈り取ることはせずに、実った穂先だけを摘み取っていたようです。そのまま保存しておいて、いよいよ食べるという日に、穂を扱き籾(もみ)を搗いて米にする。)
穎稲1把は、ある程度の稲穂を一まとめにたばねたもので、その10把を1束という。
そういう穎稲を現に市場に持っていって売り買いしたというよりも、市場で売り買いされるあらゆる商品が(穎稲)何束何把と値決めされているので、穎稲はひとつの通貨です。しかし、食べられる通貨があったということは今では容易に信じられないので、歴史的な事実として鵜呑みにするしかしかたないですね。
ここでいえば、庄垣作料十五束は、垣の材料費にせよ工作の手間賃にせよ、穎稲でもって手近に弁済したのでしょう。いずれにせよ、穂を扱いて籾にする。また籾を搗いて米にする。そういう手間のかかる作業はたいてい消費者がおこなっており、よほどの事情がないとそれを生産者がおこなうことにはならなかったので、帳簿でもそういうことは、あとの租穀の納入も含めて3件しか見られません。
義倉籾の場合は、穂を扱いて籾にしています。この義倉籾はおそらく平安京に居た庄園主の戸(家族)に課せられたものと思われます。義倉粟といい、戸の財力に応じて粟の何斗かを納めるものの、粟(あわ)のかわりに籾米を納めてもよいことになっていました。
白米五斗の場合は、籾を搗いて黒米(玄米)にしただけでなく、さらに搗いて白米にしています。原料の穎稲12束から穂柄ともみがらと糠が剥がれて、白米五斗になるのですが、この米は「別束八升」の枡では、白米4斗に量られることに注意する必要があります。
。 庄垣作料十五束
。 。
二束運人功料
。 。
一束籾女功食料
。 。
十三束籾料
別
束
八
升。 義倉籾一石四升料十六束
○弘仁元年十月廿六日下冊七束五把 残稲一千四百冊一束五把 合下冊七束五把
小主併従経日食一束五把 白米運夫功二束 料稲十三束 一二束束舂精功代
主国下坐御波多古入白米五斗
帳簿の上では、義倉籾の俵と白米の俵は、それぞれ(穎稲二束で雇われた運夫)一人が背負って行ったことになっています。 荷重は米五斗が標準です。義倉籾一斛四升の内実は(籾1斛から米5斗がとれるので)米五斗とあまり変わりませんが、籾殻の重さが加わるので、すこし重い荷物になります。これを一人の人夫がなんとか担いで行ったのでしょう。
荷札木簡の検索
体力は米1俵の重さを決定する重要な要素ですが、一方に荷の都合というものがあって、俵はつい重くなりがちです。
米五斗為俵という定めが厳守されていたかどうか? 奈良文化財研究所の木簡データベースにアクセスして調べてみました。
全体 36730点 >荷札 2351点
>米 553点
中世・近世の荷札も含まれています。
検索語 件数 例 三斗 172 能登郷戸主粟田公麻呂戸口粟田荒人調塩三斗‖ ・坂田郡上坂郷有羅里戸主坂田老戸・庸米三斗 四斗 36 竹野郡竹野郷白米四斗八升 五斗 357 丹波国氷上郡石負里笠取直子万呂一俵納白米五斗和銅年四月廿三日‖ (五斗八升) (4) ・備前国邑久郡香止里・人夫矢田部未呂米五斗八升 六斗 114 ・備前国上道郡沙石郷御立里・戸主○/秦勝千足庸米三斗/健部臣結三斗‖○并六斗 一石 55 ・坂合郷舂米一石/身人部妹女‖・○天平九年四月五日 こうしてみると「六斗」の米俵も通用していますが、「凡公私運米、米五斗為俵。」との関係はどうなのでしょうか? 木簡の傾向として、六斗の荷札は「庸米」というものが多い。「調米」であって「白米六斗」と記したものはひとつも見当たりません。これはどうしたことか?
料稲12束からできる玄米は6斗で、白米は5斗という上の例にならって、玄米(庸米)は6斗を俵にし、白米(調米)は5斗を俵にしているとも考えられますが、ここで1斗の重量差を認めると、庸米を運ぶ人民の背中には米5斗俵+1斗の負担が余計にかかることになります。
「調米5斗」なる米1俵は天下の1俵(米5斗為俵)なれば、「庸米6斗」なる米1俵が「5斗俵」を凌駕して重たいこともないだろう。
〔あとがき〕
悩まされますが、似たようなことが「糒(ほしい;干し飯)」の場合にありました。 十合升(減大升)は実在した。(前編)「糒6斗俵」が隠岐国にあり「糒5斗俵」が越前国にあるというはなしですが、「糒6斗俵」を背負わされる隠岐国の兵士達が格別に力持ちだったとも思えない。
「6斗俵」というありかたが案外広範に見られるという例です。
2つの俵のありかたの違いは、察するところ、「米升による米升法」と「米俵による米升法」の相違に基づいているらしい。
これはまったく普遍的なことだから、この悩ましい事件が、早く世に知られて、皆様を悩ませてほしいものだと思います。
雨にも負けず日食2把
ところで、さきに小主らは平安京に向かったといいましたが、確かな根拠はありません。ただ 小主併従経日食一束五把 によって、これが往復5日の旅程であったことは確実です。あとの「小主併従経八日二束六把(自十二月廿日迄廿七日)」という記事によると、この庄園では、主従2人の旅の場合1日当り穎稲3把(主2把・従1把)を給わるきまりになっていたようです。5日の旅程は、往路に3日、帰路に2日という感じでしょうか。
この時代の史料では、男1人の1日分の労働食料は穎稲4把もしくは米2升を支給するのが普通です。(注3) 穎稲2把の手当はだいぶ控えめですが、安静時の腹八分目の食料というふうに理解しておきましょう。
この穎稲2把(→黒米1升)という食料は、近代の「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」るという質素な食生活の観念と比べやすいので、玄米四合(720cc・600g)という量を目安にして、だいたいこれくらいのものだろうと見当がつきます。これには今も昔も生存に必要なカロリーは変わらないという栄養学的な根拠がありますが、たまたまそういう食料が俵に詰めて運ばれているところです。人はそれだけの重さの荷物を担げるという根拠が追加されねばならないと思います。![]()
玄米4合(600g)
(注3) ちなみに「二束運人功料」また「白米運夫功二束」を、5日で割ると、4把になる。
重量30kgの俵
1200年前の米1升は今の4合くらいのものに推定されています。これは「別束八升」の枡についてのことだと思いますが、推定自体はだいたい当っていると思います。重さでいうと、今の米1石は150kgで、昔の米1斛は60kgという感じです。
したがって、米五斗為俵という標準的な荷物の重さは約30kgということになりますが、1日玄米1升(600cc・500g)という食生活の人が、この重荷に何日も耐えて、歩きとおすことができるかどうか、気になります。
升の容量がもっとあると、もっとたくさん食べられるのですが、俵の重荷も同様に増加します。
もし玄米1升(720cc・600g)の食生活になると、米6斗(36kg)を担がないといけない。荷があまり重くなるのも困ります。人は常食の50日ないしは60日分を担がねばならない。仮にそういう法則があるとするなら、1200年前の米升が制定される際に、人間の担力も、関連する重要な要素として考慮されたかもしれない。
法則は冗談ですが、こんなふうに人間の体力という側面からも、1200年前の升の実情に迫ることができそうです。
あとがき(米俵の斤重について) 2006.8.26. 本文を書いて1年経ちましたが、いいそびれたことを書き加えます。
米五斗為俵 仍用三俵為駄。(延喜式)
「三俵為駄」というと、鞍の真上に1俵を置いて、2俵を左右に振り分けるので、荷が安定してよさそうです。なるほどと感心したところで、つぎの法令との関係が気になります。つぎの法令というのは、天平11年(739)に、
天下の諸国をして駄馬一匹の負へる重さ大二百斤を改めて百五十斤を限りとせしむ。
とした条例のことです。斤という単位
「大二百斤を改めて百五十斤を限り」にしたとき、「大斤」から「斤」へ名称の変化があったようですが、実質的な内容の異同は不明です。なお「斤」という単位はもちろん重量の単位です。(雑令第1条)凡度10分為寸。10寸為尺。1尺2寸為大尺1尺。10尺為丈。
量。10合為升。3升為大升1升。10升為斗。10斗為斛。
権衡。24銖為両。3両為大両1両。十六両為斤。しかし、みなさんには「1斤=160匁」と説明したほうがわかりやすいでしょう。
近代の尺貫法では、1匁(もんめ)の重量は 3.75g と決められていましたが、もともと「もんめ」は 文目 で、(銅)銭1文の目方という意味です。なお、銭1000文 をもって 1貫文 と称したので、1貫は 3.75Kg になります。秦の半両銭は、後世の鋳造貨幣の基本例を提供した。漢代の5銖銭は、これをさらに洗練化し、形式、品質、重量の面で、流通に適する銅銭とされ、長期にわたって銅銭の標準型と目された。唐代は、618年に開元通宝が鋳造され、銖のかわりに銭を貨幣の単位にした。1両は10銭に相当し、1斤4両の重さを1000銭の重量にした。
http://www.ngu.ac.jp/~consami/NGU/eh/ehs/s13.html隋末の混乱を収めた唐は、当時流通していた銭貨が粗悪であることから、新しい貨幣を発行することにした。それが開元通宝であり、唐代の間ずっと開元通宝が鋳造された。開元通宝の重さは、2.4銖であった。もっとも、唐の1銖は1.55グラムであるから、開元通宝は3.73グラムとなり、3グラム強であった前漢の五銖銭よりやや重くなる。ここで注目したいのが、銭貨の名前は今までは、半両銭にせよ五銖銭にせよ重さ(ただし、必ずしも実際の重さではないが)が貨幣に刻まれていたが、開元通宝には、ただ開元通宝と書かれていただけであることである。これ以降、銭貨には重さを書かなくなった。また、開元通宝は唐の周辺諸国にも影響を与えた。たとえば、日本の和同開珎(珎は宝の異体字)も唐の開元通宝を真似て作ったものである。(フリー百科事典『ウィキペディア』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B21両は10匁(37.5g)ですから、16両なる1斤は160匁(600g)です。このg重量は近代の尺貫法が規定したものですが、さかのぼって奈良時代の斤量にもほぼ通用するというのは有難いはなしです。
余談ですが、尺の系統とは別に、通貨(一文銭)の直径を基準とする「文」(もん)という単位があった。一文銭の直径は時代により若干の誤差があるが、おおよそ25ミリメートルであった。文は足や靴の単位として用いられた。十文(ともん)は約25センチメートルである。(フリー百科事典『ウィキペディア』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E8%B2%AB%E6%B3%95ジャイアント馬場さんの「16文キック」がなつかしい。
米1俵は 50斤(=30Kg) であった。
一方は「米五斗為俵仍用三俵為駄」と言い、他方は、「駄荷は百五十斤に限る」という。2つの法令が交錯するところでは、すなわち「3俵=150斤」という帰結は避けられないように思えます。
そうしたとき、「米1俵(5斗)=50斤」ということになっています。(米1升の重量は1斤であるという)1斤の重さは 600gほどと見ても大きく違うおそれがないようなので、50×0.6Kg=30Kg により、「米1俵の重さは 30Kgほど であった」ということが大胆に推定されます。
本文の中で、人間の体力の限界を考えて、やはり 30Kgほど という推定をおこないましたが、その裏にはこういう目論見が隠れていたということです。成斤の頴稲1束とは、10把から米5斤が得られるたばね方をいう。
令前束は「成斤の束」であり、令内束は「不成斤の束」であるといわれています。(令集解;田令第1条解説)
令文廿二束與今十五束、員殊實同。但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。
それで「斤を成す束」とはどういうものかという問題ですが、「米1升の重さは1斤とされていた」という推定を延長して考えると、ひとつの答えに導かれます。なにも難しいことはないでしょう。
米1升の重さは1斤とされているので、頴稲2杷→米1升 の関係を通じて、頴稲2把から米1斤が得られるような頴稲のたばね方が想像されます。いいかえれば、頴稲1束から米5斤が得られるのですが、「今十五束(令前束)が斤を成す」とは、まさに「米5斤を成す」ことを述べているのではないでしょうか。近代尺貫法の、玄米または精米の1升の重さは およそ1.5Kg といわれます。そうすると、成斤の束による米1升は、重さが1斤の およそ600g だから、宮沢賢治の「玄米4合」とは、ほとんど同量ということになります。
ところが、この庄園においては租穀1斛5斗を造るのに「別束得八升」という格別大きな枡が用いられ、頴稲18.75束を要しています。これは、格別大きな枡による玄米または精米において 米1升=1斤(600g) ということであっても、日常通用する枡において 米1升=0.8斤(480g) であるということを意味します。
したがって、
いま運んでいる「白米五斗」俵の中身は、50斤(30Kg) ではなくて、せいぜい 40斤(24Kg) しかないのです。
また、小主に支給された1日食の 頴稲2把 が 玄米1升 となって食べられるとき、1斤(600g) ではなくて、せいぜい
0.8斤(480g) しかないのです。この1束は「米4斤を成す」けれども、2把半で米1斤を得るので、「不成斤の束」といわれているのではないでしょうか。律令時代初期の米1升は概ね近代の米4合に当たるといわれています。これは 成斤2把から得た 米1升(600g) のことを述べている限りにおいて間違いではないのですが、不成斤2把から得た 米1升(480g) が小主の1日食となるような暮しが営まれているとき、この説明はものごとの一端を述べているにすぎない。