お知らせ 2010. 7.23.
〔運ぶ米升〕と〔食べる米升〕の
二人羽織体制 を信奉する筆者が、
日本財政史の定説なる〔吾一升〕の危うきに近寄ってみました。
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はこぶ米 ..........
1升 = 1斤 160匁(600g) 現在の4合
食べる米 ........ 1升
= 0.8斤 128匁(480g) 現在の3合2勺 田んぼは 踊るタコ焼きプレート http://www.gamenews.ne.jp/archives/2007/10/_12_1.html http://champoolcan.seesaa.net/article/130541424.html (右上より続く) 昔の人は、水田の観察を怠らず、その地面に、2つの要素が、すなわち「田」と「町」があることを片時も忘れなかった。 (右に続く) .
問題 とくに慶雲三年九月十日格において折衷の意味は?
〔1〕二つの異なった考え方のよいところをとり合わせて、 〔2〕大きさ(数量)が異なった二つのものを、合せて一つに 解説 かりに〔1〕のごとく、ごつい物量の折衝に一度も立ち入ることなく、形式が異なるところを擦り合せて、ぺたっと貼り合せたただけで、厄介な揉め事が即座に仲裁されるとすれば、夢のような。数学のようにエレガントな解法です。こんな虫の良い話は、耳たぶに唾を付けて聞くべし。 田圃のことだから多少泥臭いところが無ければ嘘。やはり物量の折衝に立ち入ったごつい解法が望ましい。というのは、新しい田租制(町租稲15束)の実施状況を見たときに、ごつい物量の折衝に直面しているという事実があるからです。
西 南 山 山 北 東 東 天 検税使というのは、諸国(郡)の正倉に貯蓄されている租穀の検査官です。今や「町租稲15束」ではなくて(これを扱いた)「町租穀1斛5斗」を収めているけれども、ものは同じなので、新しい田租制の実施状況がわかるというものです。つまり、 (東海、山陽道) 〔町〕租穀〔4050寸〕を収めていた。 『宝亀七年畿内并七道検税使算計法』の後、『今案』は通観して「天平六年使七道異率。宝亀七年使共是一例。」と言っていますが、倉積み穀の斛法を「七道異率」にした原因は何か? 凡給口分田者男2段(女減3分之1)。5年以下不給。其地有寛狭者従郷土法。易田倍給。給訖、具録町段四至。 西海道は筑前国の〔町〕は其地有寛、〔町〕租穀〔4800寸〕を収めるほど広大であったので、口分田にすると、男6人ぶん、または女9人ぶん弱のものがあった。そこで、「〔町〕租穀1斛5斗」については、男1人が「2斗5升」、女1人が「1斗7升5合」づつ納める勘定になり、(額面上)少なめに納めます。 大和朝廷の下、すべての法規範が律令という一つの様式に集め固められ、地域的な特色に乏しいと思われる時代に、無くて七癖、7つの道が3つの色に塗り分けられていた。 ^ 自 可 主 今 粟 糒 委 宝 .
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お知らせ 2010. 7.23. 左に 米升法とものさし
というのは、花の咲かない番外地シリーズというか、出来損ないのページ集ですが、そろそろまとめにかかりたい今日この頃です。
肇興/貴州/中国/Apr
2006 早速、写真(上)を見てください。棚田の風景ですが、これを見て考えたいのは、 (左下に続く) .
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/nukata/fukusei3/f32.html
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租・調・庸というのは、律令国家が人民に課していた現物税ですが、租は稲を官倉(正倉)に納めたので租稲といわれる。その数は、大宝律令(701)では田令第1条に規定があります。 1
田令第1条は「凡田、長30歩広12歩為段。段租稲2束2把。」
2 田令第2条は「凡給口分田者男2段。女減3分の1。」という。
3 〔運ぶ米1升〕は、〔食べる米1升2合5勺〕に相当した。 これは要目の1と2に関して言えることですが、 慶雲3年格は、その22束をだいぶ負けて
18束7把半
でよいとした。この処置は、格文が「既斗升平」と言うように、〔食べる米升〕と〔運ぶ米升〕の使い分け(要目3)を便りにしています。今までは〔食べる米〕で「稲15束」を収めていたけれども、今後は〔運ぶ米〕で「稲15束」を収めるというものです。 そこで、私の要目として1つの事実を惜しみなく追加します。 4 〔運ぶ米1升〕に基づいて町租稲18束7把半を収めたときには、(三不得七法により)4年に1回ほど租納が免除された。 馬鹿も休み休み言えば、高過ぎる年貢は休み休み収めた。 つまり、長い目で見るならば、租稲の負担が増加したということはなかったといえます。安心してください。 いわゆる田積三転の中、異形の「250歩為段租稲1束5把」については、残念なことに実施かたを具体的に記録した史料を欠きます。しかし、傍ら〔みちのり〕の数え方をみると、
5 出雲國風土記(天平5年 733) (食べる米)....... 6尺歩 段積360歩 300歩
= 1里 (535mくらい) 図解が不足していますが、大体こんな感じで全体の見通しがついた気がします。 今や、斗 と 升は既に平らかなり。 こうして『斗』と『升』が比較されるのは、おそらく2つの米量単位系列があり、呼称(斛・斗・升・合・)は同じで、単位の意義と大きさが相違した。斛・『斗』・升・合・は〔運ぶ米〕の〔重さ〕を秤り、斛・斗・『升』・合・は〔食べる米〕の〔かさ〕を量っていた。 今や、〔食べる米 1〕斗 と 〔運ぶ米 8〕升は、既に平らかなり。 私が受けた印象を読みに反映することができて、本文との葛藤がほぐれた感じですが、この「8升」は、つぎの史料から移植したことにしておきたい。 藤原宮庄園の出納簿木簡に、弘仁元年(810)の租穀を納めた記録があります。 二不得八定田三町百廿歩 可上租穀四石五斗四升料穎五十六束八把 別束籾得八升 通常の米枡では、穎稲1束を扱いて籾1斗が得られ、搗けば米5升が得られた。これは〔食べる米〕です。「別束籾得八升」というときには、穎稲1束を扱けば穀(籾)8升が得られ、搗けば米4升が得られる。これは〔運ぶ米〕です。
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備考
〔運ぶ米升〕と〔食べる米升〕の
二人羽織体制 を信奉する筆者が、
日本財政史の定説なる〔吾一升〕の危うきに近寄ってみました。
復刻 奈良朝時代民政経済の數的研究 澤田吾一著 田名網宏解題 柏書房 昭和47年
要点を掻い摘んで、澤田説の展開を追ってゆきます。
第四篇 斗量
ここでは、正倉(穀倉)の構造、測定によって収納体積の計算、斛法(石・斗・升・合)と今量(京枡)との
関係などを明らかにし、当時の一升は京枡の四合余にあたることを明らかにした。これは、今日定説として、そ
のまま継承されている。このような研究は、著者にして初めてよくするところであり、律令国家の財政史の研究
に多大の寄与をなしている。(p.752) 〔解題 田名網 宏〕
| 「今日定説として、そのまま継承されている」と言うことですが、何でも長くやっていると変質するものだから、「そのまま」というのは言い過ぎでしょう。それにまた、吾一が 「当時の一升は京枡の四合余にあたることを明らかにした。」というのは、本人がそう思っていただけのことで、〔運ぶ米升〕と〔食べる米升〕の二人羽織体制を信奉する私に言わせれば、 〔運ぶ米〕の一升が京枡の四合にあたることを明らかにした。 のがせいぜいです。それでも大発見をしたのですが、あとがいけない。危い独断を行使して、 研究し得たる斛法は一般的のものならざる可らず。(P.420) を決めこんだ。 吾一は吾一にして吾二にあらず。 |
二人羽織(箸を運ぶ人と食べる人は別人) |
さらに進んで、間宮海峡を発見し、樺太が島であることを明らかにした林蔵ではなかった。
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第四篇 斗量
第廿五章 穀倉の研究
〔第一節 和泉監正倉の稲穀〕
天平九年和泉監正税帳(古文二巻七五頁乃至九七頁)には正倉の記載の明なるもの十一倉
あり。其の中、七倉は不動倉にして、四倉は動用倉なり、 (P.393)〔第四節 天平六年七道の斛法〕
全国の概括的大勢の斛法。斯の如く七道檢税使算計法が是認せらるヽに
於ては、當時の斛法は全國劃一的にあらずして二七○○寸より三二○○寸ま
で擴がるものなり。 故に(縦ひ畿内國が二七○○寸若くは二九○○寸なりと
しても)全國の概括的大勢は二八○○寸に來るを以て、奈良朝の斛法を一數に
て表せんには二八○○寸を以てす可きなり。
一斛が二千八百寸なるときは一升は今量の四合○六撮許となる。(次の附
記第一を見よ。)但し以下行文の便宜を計り、一升今量約四合なる語を用ふる
こと多し。又概数にて足れる場合(日粮の研究など)は一升を今量四合として
計算することあり。 (P.404)〔附記第一〕 斛法と今量
一升の今量(一尺を九寸八○として) 二千七百寸 三・九二。 二千八百寸 四・○六五。三千二百寸 四・六五。正確に言うと「正倉穀の斛法と今量」です。
〔第六節 正倉の斛法と諸計算の關係〕
第二節及び第三節に於て研究したる斛法が天平の檢税使算計法に記せる
斛法を裏書きするものなるは第四節に述べたるが如し。 然れども人或は此
斛法は一般常用のものに非ずして特殊の斛法なりやも知る可らずとの疑を
懐くものなきに非ざるべし。仍て正倉の斛法と正税帳の他の部分との關係
を左に述べて其の疑を解かん。(P.417-418)和泉監の正税帳は残簡にして缺脱せる部分甚だ多し。然れども幸に此の
關係を示すに必要なる部分の完全に残れるは實に天祐と云う可けん、即ち正
倉の穀量の記載中に天平九年四月及び九月に行なわれたる賑給穀を動用
倉より出して計算せる條あり。(P418)又前記北第六法倉の穀は、日野郡雑用の部(同書八九頁)に記せるもの、即ち
依民部省天平九年四月廿一日符、急戸八十九烟、口二百八十二人賑給稲穀八十九斛八斗
依五月十九日恩 勅賑給僧並高年鰥寡惸獨等三百七十六人、稲穀一百五十一斛六斗
依九月廿八日恩 勅高年八十年已上二十四人、賑給稲穀二十七斗に正しく一致す。
故に正税の穀を量る斛法は即ち正税帳の計算に用ふる斛法と同一なるを
知るべし。後者は正確に言うと「穀の斛法」です。正税帳の計算に用ふる穀の斛法と同一なるを
知るべし。ですが、「米の斛法」については「同一なるを知るべき」いわれはない。而して正税帳には官吏・傭夫等の日粮は勿論、其他各種収支の條目
ありて之を計上するものなれば、此等皆正倉の斛法と同一なるべきは一點の
疑なし、されば第一節以降研究し得たる斛法は一般的のものならざる可らず。(P.420)従来、横山氏の「一升の今量五合八勺説」を是認したる史家は、天平六年檢税使算計法の
斛法を以て一種の特別法と看做し、一般的のものに非ざるべしと為したるものヽ如
し。然るに本節の考證は斯かる疑惑を氷解するもの也。(P.421)いや、全然氷解していない。なぜなら
「此(穀倉の)斛法は特殊の斛法なりやも知る可らずとの疑を懐くもの」は、
雑用の頴稲にしたがって一般常用の斛法があることを願っているので。
疑惑は永遠に不滅です。第廿六章 日粮
〔第一節〕 日粮の意義
當代の文書記録に於て官吏及び勞働者の日粮は稲四把又は米二升と記す
を通例とす。(P.422)〔第二節 官吏巡行の食稲〕
奈良朝時代の一升が今の約四合に相當することに關し緊密切實の適例は
正税帳に散見する所の官吏巡行又は傳使等の場合に於ける食稲とす。(P.427)〔第三節 三把より少き場合〕
雑使仕丁に對する日粮の一升二合は、小額に相違なしと雖も、今日の四合八勺
餘に相當するものなれば江戸時代の所謂五合扶持にも比すべく、加之、盬醤菜
菹の給與も乏しからざれば、日粮として適當なるべし。(P.435.)この米は、正倉の頴稲倉に保管されていた頴稲に由来する。しかも、「食べる米」の例なので、
「(穀倉が)特殊の斛法なりやも知る可らずとの疑を懐くもの」を説得するには、まだまだ、証明不足。〔第四節 日粮概括〕
されば當時の一升が今の約四合に當ることは、單に日粮の研究のみに基づ
きて立論するも殆んど動かす可らざる所ならん、況んや税帳の正倉より算出し
たるものなるをや。
〔附記〕斛法の不均一と日粮
税帳に於ける國司巡行の日粮が全國平等にして、吏正以上稲四把、従者三把
の同一形式なる事と、天平六年檢税使算計法に二千七百寸、二千八百寸、三千二
百寸の三様ある事とは均衡を得ざが如し雖も、東海東山北陸山陽南海の五
道に於ては、日粮に及ぼす所の差異は僅々二勺餘に過ぎざれば、此等は論ずる
までも無けん。山陰西海の二道は他道に比して約一割五分の増加を呈す、然
れども是れ只増加なれば被給者に於て不平なかるべきは勿論也。又給與者
即ち地方官廰に於ては、物價の標準の相違と同一にして収支とも此標準に従
ふものなれば、別に困難を感じざるべし。唯掛念すべきは納税者の負擔が他
道に比して稍〃重き事是なり、然れども或は収穫の多大なるか(若くは地積の尺度に延びあるか)或
は何等か之を償ふ所あらん。若し然らずとしても官権強大の時代なれば、古來
の習例として之に慣れたる可けん。徳川氏封建時代に於て各藩に於ける給
米の不同又は租税納品等の區々なるに考え合せんには思い半ばに過ぎん、西
海道に於ける斛法三千二百寸は、或は筑後の正税帳に於ける浮囚及び貢上鷹
養人の日稲二把(斛法三千二百寸なるときには今量米四合六勺餘に當る)に對する好説明ともならんか。
(P.438)斛法の不均一の影響 租稲(正倉穀)には、影響あり。 頴稲、運ぶ米、食べる米には、影響なし。
下線部を除き、すべて杞憂にして終ること。あること無いこと書き立てて、こうも言い訳が激しくなると、駄目だこりゃー
第二十八章 斗量結論
〔第二節 和銅大量〕
政事要略、第五十三、額田國造今足の勘文及び令集解によれば、
和銅大升(即ち令前大升)は、一町の穫稲五百束に關聨す。
減大升は一町の穫稲七百二十束に關聨す。
而して前節に於て税帳の記事に依り一町の穫稲五百束なる事を発見し、又第
廿五章第六節に於て税帳の諸計算に用ふる斛法は正倉の斛法と同一なるこ
とを證明したり。又其の正倉の斛法は結局二千八百寸(即ち一升今量約四合)
に歸着すること、同章第三節第四節に縷陳したるが如し。(又第廿六章、日粮の
研究も大に之を肯定するものなり。)されば一町の穫稲五百束なる事と一升
今量約四合なる事とは一聨の計量に屬す。即ち五百束の穀五十斛は今量約四
斗の斛を以て計りたる事となる。仍て所謂和銅大升の一升は今量約四合な
ることに歸結す。
又今足の勘文に依り和銅大升と減大升の關係は三十六と二十五の比例な
りとすれば、減大升は今の約二合八勺餘となる。古狸、額田今足の口車に乗っても仕方がないが、どうしても乗りたければ、傍注(十二合之升・十合之升)に乗りなはれ。
第五編 地方政治の実質
ここでは、財政や民政経済に関する数的研究が収められている。これまでの研究の副産物というべきものである。
(p.753) 〔解題 田名網 宏〕第三十三章 運夫
〔第一節 駄量及び人擔〕
當時の一斛五斗(即ち三俵)は今の約六斗にして其の重量は約二十四貫目なる
可ければ、(尚ほ此外に馬の食料若干を負はしむるならん)當時坂路多き自然的道路の駄量として、極めて
適當なるべしと信ず。(P.494)米1斤が160文目(すなわち銅銭160枚の重さ)であるとの説明を見失ってしまいましたが、確かどこかにあったはず。
當時の斤量に付て二説あり、一は今日の百六十匁(狩谷氏)とし、一は百八十匁(穂井田氏)とす。(P.559)
米3俵=150斤(駄量上限)により、駄量上限の「其の重量は約二十四貫目なる可」。 米1升=1斤=160文目。
こういう明解な筋道を、吾が心の闇に隠して、あけすけに説明しない吾一ではあるが、
今の米1石は40貫目だから、米1斛(石)16貫目は、今の4斗に当ります。しかるに、これは、重量が秤られるによって、「運ぶ米」の例です。体積が量られる「食べる米」の例では決してない。
〔感想〕
正倉にある稲米は、(1)田租を収めた稲穀と (2)公出挙を収入源とする雑用稲 がありますが、両者は倉室を同じくせずして互いに隔離されていた。そこにおいて、(1)なる斛法と(2)なる斛法があるときに、両者の目方が相違したとしても何も困ることは無い。かえって、天下を七道に分けて、2700寸、2800寸、3200寸なる倉穀斛法が乱立しているときには、その方が好都合ではないか。それは、「一般的のもの(食べる米を量る升)」が扇の要になり、「特殊のもの(運ぶ米を秤る升)」を扇の末にして、末広がりに広がっているというイメージですが、
吾一は吾一にして与一にあらず。
「斗升既平」なる平氏が掲げた扇の的を見事に射落した那須与一宗高ではなかった。