男は3束、女は2束租稲人にかける税だということがわかる

  『天平十二年遠江国浜名郡輸租帳』を読む

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令内租法
              令前租法 

米升法とものさし 目次    あゆみ(歩) home



田一町が有り

租稲十五束が有り

男五人
or
女七人半が居る

男(3束)5人 or 女(2束)7人半

〔はじめに〕 異形の租法

 大宝令の田令第1条は「凡田、長30歩・広12歩為段。10段為町。」として、その田租は「段租稲2束2把。町租稲22束。」を収めることを命じています。ところが実際には、『輸租式』に基づいて「段租稲1束5把。町租稲15束。」を収めていた。

 准令、田租1段租稲2束2把以方5尺為歩。歩之内得米1升。町租稲22束
 令前租法、熟田百代租稲3束以方6尺為歩。歩之内得米1升。町租稲15束

 慶雲三年(707)九月十日勅(格)は、この意外な事実を、初めて明らかにした史料ですが、言ってみれば、(令)町租稲22束に庇(ひさし)を貸して、母屋(おもや)では(式)町租稲15束という異形の租法が実施されていたわけです。このとき、上の絵のように、(令)と(式)との、租稲1束の単位量は変わらなかった。

 令と式の間において、租束1束の大きさは同じであるとして、
 人にかける税負担には差が生じないとすると、
 (令)租稲22束は寛い田1町に適し、(式)租稲15束は狭い町に適する。

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壹町陸段壹伯参拾参歩

入田

 

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参町

驛起田

 

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陸段

公廨田

 

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肆段

放生田

 

伍町陸段壹伯参拾参歩

不輸租


捌伯伍拾捌町漆段漆拾肆歩

堪佃

 

捌拾参町漆段壹伯参拾伍歩

乗田

 

壹拾陸町陸段貳伯参拾陸歩

墾田

 

壹伯貳拾漆町陸拾歩

口分

 


貳伯貳拾漆町肆拾壹歩

不堪佃


合郡内管田惣壹仟捌拾陸町壹段壹伯肆拾伍歩
濱名郡

依式造天平十二年輸租帳事

遠江国濱名郡租帳夾名帳

天平十二年




 つまり「適材適所」です。

 (式)租稲15束は、田令第3条が「凡給口分田者、男2段。女減3分の1。」というところの狭い町段に適所する適材ではないかと思われます。
 ただ、ここで「狭い」という意味は、やや特殊なので、すこし説明が要ります。

 ここに「田1町」という田圃があったとします。長60歩・広60歩という正方形の土地です。(四至を旁示して)境界を定めたのち、ひとつの戸に(口分田として)与えられています。「田1町」というほどなので、この土地の全部が田圃になっています。
ここで問題です。
 この「田1町」という田圃はいったい何枚の水田に分かれていたのでしょうか?
  @ (1町は10段だから) 10枚に分かれていた。
  A (1段は10畝だから) 100枚に分かれていた。
令前租法、熟田百代租稲3束町租稲15束。によれば、
  B (2段は「熟田百代」だから) 500枚に分かれていた。

〔正解は、B 500枚 とします。〕
 棚田のような水田の様子を(1畝の内に)想像すると、熟田五代の図のようです。(1町の内では)合せて500枚にもなる水田のまわりが畔(あぜ)で囲われているわけです。そうすると、畔が占めるひろさも馬鹿になりません。


合應輸租壹萬壹仟参伯玖拾壹束玖把


壹伯玖拾陸戸

全得

 


参伯陸拾漆戸

損四分以下

 


壹伯捌拾漆戸

損五分以上

 










貳貳仟仟玖参伯伯肆捌拾拾伍伍人人女男

貳壹拾拾肆漆人人婢奴










伍壹伯伯壹貳拾拾伍伍戸戸官神








捌拾陸町陸段捌拾伍歩

乗田

 


壹町

射田

 


陸町

闕郡司職田

 

玖拾参町陸段捌拾伍歩

應輸地子

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.
漆伯伍拾参町肆段貳伯壹拾六歩

口分

 

.

.
陸町

郡司職田


漆伯伍拾玖町肆段貳伯壹拾陸歩

應輸租

 

 そのぶんだけ水田の本地が狭められているので、だいたい耕地の 2/3 くらいを本地が占めていれば満足すべきでしょう。

 「狭い」というのはそういうことで、(式)町租稲15束は、そういう「狭い町」に適所する適材であったわけです。
 『高麗術』は、1畝が36歩あるところを25歩に減数する測量技法です。しかし、この術の手引きによって、(式)町租稲15束が「狭い町」に招かれたと考えるのはおかしい。
 租稲はそういう義理に絡まれるような地税ではないからか?
 いや、
 租稲はそもそも、どのような「地税」でもなかった。

高麗術「以250歩為段」の意外な効能

 租稲は、地税? 人頭税?

 大宝令は「段租稲2束2把。町租稲22束。」の徴収を命じている。これを見て、多くの人は「おそらく租稲は地税である」と考えるでしょう。
 しかし、「租・庸・調」の「租」は、本来が「人頭税」として成立した税目です。それが「地税である」とすれば、どういう風の吹き回しなのか?

〔租庸調 そようちょう〕 租、庸、調という律令制における代表的な3種の税。租庸調制は中国の北魏で創始され、唐代初期にととのえられた税制で、これらは一定年齢の成年男子ひとりひとりが負担しなければならない人頭税であり、唐代前期には唐王朝の公課の中心であった。
日本でも、それにならう全国統一の租税制度が7世紀にとりいれられ、大宝律令(701)によって確立した。しかし、唐の租庸調制とはかなりちがったものであった。とくに租が人ではなく土地に賦課される点が大きくことなっており、調・庸(ともに物納税)と雑徭(力役。労働税のこと)の3種の人頭税が課役の中心であった。(略)

646年(大化2)の大化の改新の詔(みことのり:大化の改新)によると、田租(でんそ)ともいう租は田の面積に応じた課税。(略)

詔以後の変遷は明らかでないが、大宝令制では以下のとおりである。租は地税で、平均収穫稲の約3%にあたる段別2束2把(わ)を、9月中旬〜11月に国庁へおさめた。この稲は、所定の国が舂米(しょうまい)として都におくる以外は、すべて正税(しょうぜい)として非常用に国郡の正倉(しょうそう)に保存された。これらの使用には政府の許可が必要で、のちには国家的大事業をささえる軸となった。(略)

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161531609/content.html

 地税× 人頭税○  私に言わせれば、「租・庸・調」の「租」は、(日本の律令格式制においても)、断じて人頭税です。
 ただ、そのための大胆なアイデアとして、「人間であれば、誰でも、租稲を負うことが出来る」という奇抜な見通しが立てられていた。

 戸籍という家族的な構成に組み込まれた人は、老若男女を問わず、誰でも租稲を負うことが出来た。口分田の授受を通じて、「男は租稲3束を負い、女は2束を負う」とき、租稲はすこしも地税ではなかった。   合受田戸750戸
  口5371人
  2385人 男。 2945人 女。 17人 奴。 24人 婢。

 これは、大宝令が「給口分田者、男2段。女減3分之1。5年以下不給。」を命じているのを見てから考えたことですが、

 「熟田百代租稲3束」を5倍すれば「町租稲15束」。男5人ぶんの口分田になります。これすなわち「男(2段)租稲3束」です。「女」の給田は、3分の1を減じる。「女(1段120歩)租稲2束」です。こうして、人(6歳以上の男女)と租稲の関係が先立つので、田地と租稲の関係はこれに追従する。  輸租田759町4段216歩の租稲は11391束9把を数える。
 11,391束9把÷759.46町=15束(/町)
 輸租式の「町租稲15束」が実施されていたことがわかる。

 したがって、「町租稲15束」というのは後知恵です。「町租稲22束」というのは、さらにその後を追って考案された、後知恵です。
 「平均収穫稲の約3%にあたる段別2束2把をおさめた」というような(わざと)凝縮した説明はよく聞きますが、これでは、後知恵を古飾して、事実めかすようなものです。それよりも、私は、租稲の均等性が不条理なことを打ち明けて説明したほうがよい。つまり、「上田(穫稲500束)」でも「中田(穫稲400束)」でも「下田(穫稲300束)」でも、均しく「町租稲15束」を収めるところの不思議さを説明したほうがよい。

 私は、日本の律令格式制の新境地はここにあると思うので、「租は(人ではなく)土地に賦課される」という説明を聞くと、ひどくムカツキます。

 それにしても、田令第1条と第3条の間で、「町・段」の定義が互いに相違しているという事態は、容易に信じられることではありませんが、
 これも、慶雲3年の勅文において、はっきり認識されていることです。

 右件2種租法、束数雖多少、輸実猶不異。
 2種の租法を単純に比較すると、(22束と15束という)束数の多少により、納入される租穀の量は、令内租法が多く、令前租法が少ないけれども、
(全体的に見たときの)収量はすこしも異ならないと言っています。
 しかし、而令前方6尺升漸差地実。また、遂其差升亦差束実
 そこで、是以取令前束、擬令内把。というふうに比較すると、
 (全体的に見ても)令条段租其実猶益。という結果になるという。

 ただ、このように"格式ばった"文章は、法的諸事実とその諸関係を厳密に定義しようとするあまり、具体的な事柄への案内に丁寧さを欠いている憾みがあります。右下に、田令の第1、2、3条を掲げましたが、同様の傾向があることはいうまでもなく、こういうところで内輪に読み合せてみても、堅苦しい法文に囚われて、身動きがとれなくなるのは必定です。

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第一断片
おわり


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□見輸租穀陸伯壹斛伍斗伍升




伍貳拾拾町壹陸町段捌壹段伯貳玖伯拾陸貳拾歩肆官歩

 

 

壹伯壹拾肆町玖段参伯参拾陸歩

全得

段肆貳拾伯貳肆町拾肆


壹伍伯拾捌肆拾町町陸肆段段貳漆伯拾壹貳拾歩陸官歩

 


貳伯捌拾陸町壹伯肆拾肆歩

壹伍拾拾陸町歩玖神段戸貳


肆貳拾拾漆伍町町壹参段段貳壹伯伯捌肆拾拾捌肆歩歩官封





伯貳拾肆町漆段貳伯壹拾陸歩



伯貳肆拾拾貳肆町歩貳神段戸壹


陸伍段拾官漆

 

肆伯壹拾町捌段

損四分以下半輸

捌漆拾拾町参封町


貳神
伯戸


壹伯陸町貳段貳伯陸拾肆歩

 


壹伯貳拾漆町参段参伯参拾陸歩

.

.

壹肆伯拾肆漆拾町漆捌町段捌神段戸貳伯参肆拾拾捌歩町官封

 

.

貳伯参拾参町陸段貳伯肆拾歩

損五分以上見不輸

 そこで考えたことですが、諸事実の意味を凝縮した言葉や、諸事項を緊密に結合した文章は、原材料にした諸事実が雑然と群集しているところに混ぜ入れて、言葉の濃厚な意味もすこし薄まり、事項の連結も緩慢になったところで、あらためて読み直してみてもよさそうです。

 この輸租帳は、そのためには、とにかく格好の文献ですから、
 早速読み合せてみたいと思います。 

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租法の形式とその内容(実量)の吟味

 濱名郡 依式造天平十二年輸租帳事 

 これは所定の『輸租帳式』を模範にして作成した文書である。単にそう言っているだけですが、こうした作業のすべてが広範な『輸租式』の下に実施されたことは明らかです。『慶雲三年九月十日勅(格)』においても、『輸租式』をいかに運営してゆくかということが中心にあった。

既斗升平。望請、輸租之式折衷聴勅者。
朕念、百姓有食萬条即成、民之豊饒猶同充倉。
宜収、段租稲1束5把、町租稲15束。主者施行。

 『輸租式』の最たるもの、しくみの大本になる規約が、「租法」です。

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 `

具録町段及四至
  ゚

不給
  ゚
其地有寛狭者
 `
従郷土法
  ゚
易田倍給
  ゚
凡給口分田者
 `
男二段
  ゚






  ゚
五年以下

第三条

卅日以前納畢
  ゚

卅日以前納畢
 ゚
其舂米運京者
 `
正月起運
 `
八月
凡田租
 
`
准国土収穫早晩
 
`
九月中旬起輸
 
`
十一月
.

第二条

段租稲二束二把
 ゚

町租稲廿二束
 ゚

凡田
 `
長卅歩
 `
広十二歩為段
 ゚十段為町
 ゚

第一条
田令第

凡参拾漆条

 

`

`

 

  ここでは、天平12年(740)濱名郡輸租帳が準拠した「租法」の形式に留まらず、できれば内容(実量)にも迫りたいので、
  慶雲三年(707)の時点に戻って、再スタートします。

 旧来おこなわれていた「令前租法」は、
 熟田積の数え方を「広1歩、長250歩為段。10段為町。」として、

 250歩で段租稲1束5把。10段で町租稲15束。(旧)

 というものでした。輸租之式折衷するというのは(田積の数え方に)「令内租法」の流儀を取り入れようということで、これがつぎのように改められました。
 熟田積の数え方を「広1歩、長360歩為段。10段為町。」として、

 360歩で段租稲1束5把。10段で町租稲15束。(旧)

 どうしてかというと、熟田1段には、面積が「250歩」になる本地(田圃)の外に、これを囲繞する畔地の面積「110歩」が元来与えられており、耕地の面積を数えると「360歩」になるものでした。

〔図〕 左の町に描き置いた四至(・・・・)の内に、田1町があるものとしていうと、この耕地3600歩が本地2500歩を含むものと看做されるのは、(高麗術による)昔からのきまりごとであった。

耕地のひろさ 117アールほど (108m×108m)
本地のひろさ  81アールほど 
( 90m×90m )

令前租法                   折衷租法

熟田百代租稲租稲三束

凡給口分田者男2段(女減3分之1) 男(3束)5人 or 女(2束)7人半

. したがって、この折衷という操作は容易になしうることであったし、もちろん租稲1束の大きさも以前のままでよい。
 以上を要するに、慶雲三年(707)九月十日勅(格)は、
 田積の表現形式に多少の変更を加えたけれども、令前租法の内容(質量)はそのまま引き継いだと考えているわけです。

 

成績はアップしても実力が伴わない改革
〜養老六年(722)『良田百万町開墾政策』は日本の輸租田の様相を一変させたけれども〜

 令内租法「町租稲22束」のための頴稲1束と、折衷租法「町租稲15束」のための頴稲1束と、その大きさに相違はなかった。
 これは8世紀初頭のことです。ところが、8世紀中半の天平時代に入ると、前者と後者の値は異なるといわれるようになります。

令文廿二束與今十五束。員殊實同。但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。(令集解)

 「今」の租稲束は、「先」の租稲束(=)よりも、いくらか大きいというのですが、
 「今」の租稲束はいつ頃から始まったのでしょうか?

 養老六年(722)『良田百万町開墾政策』によって、
 日本の輸租田の様相が一変したときからではないかと、私は考えます。
 その翌年には、待っていたかのように『三世一身の法』が言い出された。
 おそらく『三世一身の法』との関係から推測すると、
 『良田百万町開墾政策』は、ここまで変わらずに来た令前租法の内容(実量)に変更を加えるために仕組まれた政治的策略です。良田百万町を「欺作」して、はじめて租法の内容(実量)を変更できたのだと思います。かくして『墾田の租稲』がここに誕生した。これには、(口分田の)人的な属性を離れて、純粋な地税として存立することが期待されていた。とにかく、『租稲』という口分田に固着した税目を『墾田』にも移植できるようにするのが、『百万町』を1年で開墾するという途方もない企ての、真の狙いであったとも思われます。

 ただ、口分田の内部においてはどうかというと、その租稲の属人的な性格を打ち消して、純粋の地税として再構成するようなドラスチックな変革がおこなわれたとは考えられないので、(戸籍において)租稲を家族的に構成する方式は相変わらず維持されていると思います。
 『天平十二年遠江国浜名郡輸租帳』においても、租法の形式の変わらない姿を見ることができる筈です。

『男は3束、女は2束。』 租稲は「人にかける税」だということがわかる。

輸租帳に見る租の本質

 「227町41歩 不堪佃荒廃 」の内、「127町60歩、口分。16町6段236歩、墾田。83町7段135歩、乗田。」
 それでありながら、「858町7段74歩 堪佃」の内に、「墾田」がひとつも見られないのはどういうわけか?

 律令制国家が人民に課した税は「租・庸・調」と並び称されています。
 租は口分田の広さに応じて稲をおさめる。(庸は労役の代わりに一定量の布をおさめ、調はその土地の特産物をおさめる。)
 このとき、「庸・調」の課税対象は何かというと、人民(成人男性)の生存であり、「人にかける税」なので、「租」もそのようなものであってこそ、並び称されるものたちの先頭に立つにふさわしいと思われます。
 ところが、「町租稲15束」が(口分田に)割り当てられるところを見ると、口分田に対して『田租』という不動産税がかかり、受田戸は、物件所有者の義務として、これを納めているような印象を受けます。
 また、墾田は、人民が自由に開発した水田で、養老七年(AC723)に三世一身の私有が認められたことで有名ですが、その私有に際しては(口分田同様に)「町租稲15束」が課せられたことには注意すべきで、墾田もまた『租田』であることには変りありません。
 かれにこれを合せて考えていると、「租は水田にかける税」すなわち「田租」であるという認識に傾いてしまいます。「租は人にかける税」と思う人は勉強不足だということになりますが、しかし、租の本質(核心)は何かと尋ねたとき、本当にそうなのか。根っからの「田租」のように見てしまうのは、枝葉末節の現象に囚われて本筋を見失ったせいではないか。私は、この輸祖帳を再読して、「租は人にかける税」だということは、律令格式制の開始において、常識ともいうべきことだと思うようになりました。

 浜名郡の「227町41歩 不堪佃荒廃 」の内に「16町6段236歩、墾田」が計上されていますが、同郡の「858町7段74歩、堪佃」の内に、それがひとつも見られないのは不審です。本当に僅か16町余りしかないものが全て荒廃して、それで終わりとはとても思えない。健全な墾田も多くあり墾田の租を収めていたのだが、班田の租を収める『輸租帳』式においては、墾田の租は(想定外のことで)取り扱いかねたので、(近親憎悪的な態度でもって)健全な墾田はその存在すら否認していたというふうに、私はとりあえず考えておきます。
 また、「郡司職田(6町)」が、応輸租田(759町4段216歩)の一部として、計上されていますが、「闕郡司職田(6町)」があることを見ればわかるように、もともと「郡司職田(12町)」は乗田を割いて設定された田であり、班田の租を収めることとはまた別のことがらです。
 こうして、輸租帳は、以上2種類の輸租田を非本来的なものとして排除或いは区別しているので、私もその考えにならうことにします。
 そうすると、「753町4段216歩 口分」が、班田収授の手続きを経て成立した純粋の輸租田として残ります。これが『遠江国濱名郡租帳夾名帳』の核心部分であることは、すなわち各受田戸主の前がここに差しまれることでもわかります。

人に負われて租稲となる

 律令制では、....、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられていた。
 というふうに説明しながら、どうして「租が人ではなく土地に賦課される」と言えるのか?
 輸租帳は、「合受田戸750戸」のもとに「口5371人」が居たことを明らかにしています。この内5歳以下の幼児は除かれます(5年以下不給)。
 残る(6歳以上の)人々が、合せて「753町4段216歩」の口分田を受け給わったので、(その代償として)

 合受田戸750戸 口5371人 2385人男。2945人女。17人奴。24人婢。
 
187戸 損5分以上  367戸 損4分以下  196戸 全得
 
合應輸租11391束9把

 「11391束9把」の租稲が(人々に)賦課されている。 それでいいのだ!

 人口5371人の内訳は、男2385人、女2945人、奴、婢24人。です。
 「男は3束。女は2束。」ということはまだわからないが、仮にそうであるとして、
5371人全員の租稲は13100束ほどですが、6歳以上の人々が「11391束9把」を負っているので、(13100束−11302束)÷13100束=0.137...
 5歳以下の幼児が人口の14%ほどを占めているようなので、租稲を負っている人数は4620人ほどではないかと思います。

 合應輸租(稲)11391束9把→(6015束5把)

口5371人  租稲 13045+α束
 男2385人  3束  7155束(但し全員)
 女2945人  2束  5890束(但し全員)
 奴  17人  (不明)   α束
(せいぜい50束程か)
 婢  24人  (不明)
口分田
753町4段216歩
郡司職田 6町
乗田
(剰田)
86町6段85歩
租稲

租稲
地子稲

町租稲15束
11301束9把
   90束
田品により穫稲の2割を収める。
  233町6段240歩 損5分以上(戸)見不輸
    127町3段336歩 損 @
    106町2段264歩 得 A
  410町8段 損4分以下(戸)半輸
    124町7段216歩 損 B
    
286町144歩  C
  
114町9段336歩 全得 D
  (合401町120歩 得)
 □ □見輸租穀601斛5斗5升 
---------- 第1断片おわり------------
人に租稲を賦課し、田から租穀を収めている。

 この年は天候不順で台風にも襲われたのか、口分田358町4段96歩(@AB)の出来が思わしくなかったので、応輸租稲11391束9把の内、5376束4把が免除されて、現実には401町120歩(CD)を豊作田と認定して租稲6015束5把を納めさせることになった。ただし、租稲は「穀(籾米)」にして差し出さねばならないということです。
 不熟の田の租稲を免除することは、賦役令の第7条に定めてあります。

凡田有水旱蟲霜不熟之処。国司検実具録申官。十分、損5分以上免租。損7分免租調。損八分以上課役倶免。若桑麻損損尽者各免調。其已役已輸者聴折来年。

 損7分免租調。、そういう免租の手続きを見ると、租と調庸とは「切っても切れない関係」にあることがわかります。そうでなくても、「田租」と人との関係は容易に絶ちがたいという。これは、もし「損5分以上見不輸。」の意味を理解したければ、「損5分以上(戸)見不輸。」として、(戸)を補って見る必要があることからもわかります。
 なお、「損4分以下半輸。」についても、「損4分以下(戸)半輸。」として見る必要がありますが、これは令義解が謂う
  其戸内之口、或損或得者、止免其分租。不免調庸。
に該当しています。1戸の内、戸口幾人かの租稲のみが免除されるので、1戸としては、部分的に免租を受けるというものです。
 ここに至っては、租稲の人属性、すなわち「男は3束、女は2束。租稲は人にかける税。」という法的事実の存在は隠しようがない。

「田賦」というのは気がはやい。

 賦役令は、租調庸の内、「調庸」のみを規定しているので、令義解も「賦者、斂也。調庸及義倉、諸国貢献物等、為賦也。」と謂う。
 私の考えでは、賦役令において「おおよそ租稲は、男3束。女2束とする。」と定めてもよかったけれども、立法者においては何か考えがあったのでしょう。「租」を規定することは、田令に任されたので、その第1条の田積規定の下に、中文字でもって、記されることになった。
 凡田、長30歩、廣12歩為段。10段為町。段租稲2束2把。町租稲22束。
 令釈はこれについて「田賦為租也。」と解説しています。しかし、これが第2条の「凡田租」になるかと思えば、さにあらず、輸租式(令前租法)の「熟田百代租稲3束」のほうがよほど「凡田租」に相応しかったわけです。すなわち、第3条「凡給口分田者男2段(女減3分の1)」の下には、「男租稲3束(女2束)」という暗示がぶらさがっていたようなものです。
 8世紀初頭大宝律令制定の時点に立ってこの間の事情を考えると、租稲は人にかける税であり、それがまた戸籍という家族的な構成を通して、ほとんど全ての人口にかけるという究極の人頭税を徴収する仕組みが既に作り上げられていた。男は3束、女は2束の租稲を負う。それをまた「町租稲15束」と数えて収めることが出来たのは、なによりも家族的な構成を通して租稲を徴収する仕組みが確立されていたからです。
 もっとも、ここに墾田の租稲が加わる"未来日記"には、租が人ではなく土地に賦課される」ということが書かれてあったかもしれない。
 また、この"未来日記"には、「町租穀1斛5斗を収める。」ということが書かれてあったかもしれないので、
 「合 □ □見輸租陸伯壹斛伍斗伍升」という記述は、「ここが変だよ」と思って、特に注意して見なければならない。

男は2段。女は1段120歩を受けていた。

 この『天平十二年遠江国濱名郡租帳夾名帳』残簡は、いわゆる
「郷里制」に関しても重要な史料です。

 里制は大化改新のときに採用され,690年(持統4)までにはほぼ全国にわたった。令制では原則として50戸を1里とし里長を置いた。715年(霊亀1)に郷里制が施行されると,里を郷,里長を郷長とそれぞれ改め,郷の下部単位として2ないし3里を置き,里正を置いた。740年(天平12)郷里制の里の名称を廃止し,50戸を1郷とした。
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F141C100.HTM

 つまり、〔郡−里〕が〔郡−郷−里〕に改まり、さらに〔郡−郷〕に改まった直後ですが、夾名帳に2つの郷のプロフィールが見られます。

 新居郷官戸110  50 郷戸。 60 房戸。
 津築郷官戸 38  22 郷戸。 16 房戸。 

 規模が小さい津築郷は「余戸」の流れだと思います。新居郷は50戸の郷ですが、郷戸には房戸が付属していて、相共に「受田戸」を構成することになる。(浜名郡全体の「受田戸」は「750戸」でした。)




断片

第二断片

 

第三断片

 

第四断片

(始行) 遠江国濱名郡租帳夾名帳 天平十二年 歳 次 庚 辰
           〜 遠江郡輸租帳(総記) 
(末行)  合 □ □見輸租穀陸伯壹斛伍斗伍升
--------------------------------------------------------
(始行) 戸主敢石部佐理戸敢石部夜爾倍田壹町 陸段、遭風 損六分
      〜 9(房)戸 (郷名不詳郷の損戸夾名の一部分) 
(末行) 戸主敢石部佐理田壹町貳段 肆段貳伯捌拾捌歩、遭風 損四分
--------------------------------------------------------
(始行) 戸語部足麻呂田六段 貳段〔 〕 損二分
      〜 5(房)戸 (郷名不詳郷の損戸夾名の一部分) 
     新居郷官戸壹伯壹拾 伍拾 郷戸。 陸拾 房戸。
      〜 新居郷の輸租帳 
      〜 68(房)戸 (同郷の損戸夾名の大半) 
(末行) 戸宗宜部得背戸敢石部〔      〕 参段、遭風 損三分
--------------------------------------------------------
(始行) 津築郷戸参拾捌 貳拾貳、郷戸。壹拾陸、房戸。
      〜 津築郷の輸租帳
      〜 23(房)戸  同郷の損戸夾名の全部 
      〜年日 署名 〜
(末行) 正六位上勲十二等大伴宿祢名負 従七位下行少目我孫君嶋道

. したがって、新居郷の受田戸は110戸ということになります。

新居郷官戸110  50 郷戸。 60 房戸。
 口677人 (男)322人。(女)351人。(奴)2人。(婢)2人。
   31戸 損5分以上
   53戸 損4分以下
   26戸 全得
 見管田97町253歩 口分
  37町4段240歩 損5分以上不輸
    
20町3段264歩 損。@ 17町336歩 得。A
  53町 損4分以下半輸
    
16町5段 損。B 36町5段 得。C
  6町6段 13歩 全得 D

 補足すると、口分田受給者の応輸租は「1456束0把半」で、
 見輸租田は、CDを合せ、「43町1段13歩」を数え、
 その見輸租は、「64斛6斗5升6合」になるはずです。

風肆損段六分遭

戸主神人部安麻呂戸語部紀麻呂田陸段貳伯肆拾歩
戸主語部荒馬田玖段壹伯貳拾歩

遭伍風段損貳六伯分壹


 

陸町陸段壹拾参歩

全得

 

 

 

伍拾参町

損四分以下半輸

参壹拾拾陸陸町町伍伍段段

得損

壹貳拾拾漆町町参参段伯貳参伯拾陸陸拾歩肆
歩得

 

参拾漆町肆段貳伯肆拾歩

損五分以上見不輸


見管田玖拾漆町貳伯伍拾参歩

口分

 

 

貳拾陸戸

全得

 

 

 

伍拾参戸

損四分以下

 
 

参拾壹戸

損五分以上


口陸伯漆拾漆人

参参伯伯伍貳拾拾壹貳人人

女男

貳貳人人

婢奴

新居郷官戸壹伯壹拾

陸伍拾拾

房郷戸戸


戸主和爾神人麻呂田陸段貳伯肆拾歩

歩壹
段遭貳風伯損陸二拾分肆

 夾名帳に記された損戸の田数を分析すると、男は2段。女は1段120歩を受田していたことが判明します。
 もちろん、男は租稲3束を負い、女は租稲2束を負っていたことも、確かめられたわけです。
.

受田

租稲

構成、例えば  見輸租穀

正六位上勲十二等大伴宿祢名負

従七位下行少目我孫君嶋道

 

 

 

 

大御贄使

 

 

 

 

 

朝集使

従五位下守守勲八等百済王

正六位上行大掾勲十二等掃守宿祢

 

天平十二年十一月廿日

正六位下行大目呉原忌寸広根

 

位上大伴宿禰名負申上

以解

謹件天平十二年輸租夾名具注如件

仍附貢調使介正六


戸白髪部得麻呂田壹町

貳段

遭風損二分

 

 



戸主宗宜部爾倍佐田壹町肆段貳伯肆拾歩

歩伍
段遭参風伯損壹四拾分貳


戸主神直許等比田壹町貳段貳伯肆拾歩

歩伍
段遭参風伯損壹四拾分貳


戸主神直黒金戸敢石部形麻呂田捌段

遭参
風段損漆四拾分貳


戸主神人部老田壹町肆段






 

 

 

 

中略


戸主敢石部首田貳町貳伯肆拾歩

肆壹歩町
貳遭段風壹損伯六貳分拾

 

陸段貳伯捌拾捌歩






戸主敢石部麻呂戸敢石部荒山田壹町壹段壹伯貳拾

戸主爪工部小人田捌段



貳伯捌


遭風損
六分


戸主神直老田肆町壹段伯貳拾歩

捌貳歩町
肆遭段風貳損伯六捌分拾

6段240歩 10束  男2人+女2人
 4段 2段240歩
  7斗
損2分(半輸)
9段120歩 14束  男3人+女4人 損6分(不輸)
6段240歩 10束  男2人+女2人 損6分(不輸)
4町1段120歩 62束  男12+女13 損6分(不輸)
8段000歩 12束  男2人+女3人 損6分(不輸)
1町1段120歩 17束  男3人+女4人 損6分(不輸)
2町0段240歩 31束  男7人+女5人 損6分(不輸)
1町4段000歩 17束  男3人+女4人 損5分(不輸)
8段000歩 12束  男2人+女3人
 4段   4段
  8斗4升
損4分(半輸)
1町2段240歩 19束  男3人+女5人
 6段 6段240歩
1斛3斗3升
損4分(半輸)
1町2段240歩 19束  男5人+女2人
 1町 2段240歩
1斛3斗3升
損4分(半輸)

〔追記 2008.4.15.〕  この文章は無秩序に書き加えた結果、段取りが最悪になりました。同じことを何遍も言っているので、私自身が読みづらく感じています。以下の記述はまた一段と乱雑ですが、もうしばらくご辛抱ください。

『町租穀1斛5斗』の実量は?

 見輸租田401町120歩の輸租穀は601斛5斗5升を数える。

 慶雲3年からさらに34年の歳月を経て、天平12年、東海道は遠江国の浜名郡において、どのような「租法」が実施されていたのか? 租法の形式ということでは、やはり「360歩で1段、10段で1町の租稲は15束」を課していた事実を早々に確認することができました。これだけでも輸租帳に目を通した甲斐があったというものです。
 しかし、『町租穀1斛5斗』を収めていた租法の内容(実量)はどうなのかということでは、何も得るところは無かった。
 変らない形式に含まれている租法の内容(実量)はどうなのかということは、外から見て、想像するしかありません。

「旧(舊)」の字に掛違えた思い

 まだ西も東もよくわからないときに、租法の目に見えない変化は、田積の数え方に現れはしないかと思って、

  合郡内管田惣1086町1段145歩

 「1086町1段145歩は舊(旧)式に拠っている」という変な言い掛かりを付けていたのですが、これは私の思い違いでした。
 おそらく新たな検田作業が進行していただけのことでしょう。今は違います。

  □ □見輸租穀601斛5斗5升 

 目に見えない変化は、「租穀を収める」という実務に現れている。
 慶雲三年九月十日勅は「宜収段租1束5把。町租15束。」を施行するように命じていた。租穀を収めている。この相違に驚けばよい。
 
ただ、この言葉(旧)に掛違えた思いは今も変らない。

(旧) 360歩で段租稲1束5把。10段で町租稲15束。

 天平十二年の今、「租法」はさらに新しいものに変っており、下地の田圃は旧態依然としていても、良い田を装うことが強制されて、

(新) 360歩で段租稲1束8把。10段で町租稲18束。

 このときには、1束2把1束に換えて「15束」と言う。
 しかし、「町租稲十五束」と表現されている史料において、即座にその新旧を見定めるのは困難です。ただ、仮に「成斤之束」というような注記が添えられていれば、それは(新)良田租法だということが私にはわかります。

 本地のひろさは81アールほど      本地のひろさは97アールほど
     (90m×90m)                (99m×99m)

.   令文廿二束與今十五束。員殊實同。
   但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。(令集解)
男(3束)5人 or 女(2束)7人半
折衷租法

男(3束)5人 or 女(2束)7人半
良田租法
1束2把1束に換える)

 また、「不減」という注記が租稲束に添えられている場合も、(新)だということが私にはわかります。

 天平七年十二月十五日というと、天平六年(734)七道検税使算計法の翌年ですが、
この日に作成された「讃岐国山田郡弘福寺領田図」に、そのような「不減束」の記事があります。

 弘仁十二年(821)明法博士額田国造今足勘文において、
 「減大升」は十合の升に当る。「大升」は十二合の升に当る。と説明されている。
 この「大升」に対しては、別に「不減大升」という言い方がされていてもおかしくない。
 それで、この租稲束不減は「成斤の束」に当ると考えたわけです。また、500束代でもって1町になる「束代」さへも、「束不減代」ということができそうです。
 「上下田都合20町10束不減代」 すなわち「10010束不減代」を数える水田を対象に
 「町租稲15束不減」にしたがって、「租稲300束3把不減」が計上されている。
 
 こうして「不減束」および「不減束代」を検出しました。これが不減升を伴うのは当然です。
 この不減升は、「直米105石」の升(減)に対して、どれほど増大しているのか?
(〔熟田:良田=5:6〕の本地比率を反映して、3000歩=500束不減代 としています。)

(新)1.2本地60060歩)10010束不減(120%)代  租稲300束3把不減
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(旧)1.0 本地52500歩)10500束(95.33%)代 2100束 → 「直米105石

 50050歩52500歩 ⇒ 2500歩2622歩 または 2383歩2500歩

 本地比率に歩単位の相違を加味して、不減升の大きさは、減升の 3146/2500(1.258倍)。
「歩の内得米1升」をあてはめた結果ですが、おそらく、
 直米を量る減升の大きさは、慶雲三年頃の升(減大升)の大きさに近い。そして、

.  

租稲合三百束三把

いこ
とこ
いも
け不
な減
いで
゚ な

上下田都合廿町十束代

直米百五石

.  

田租稲百七十七束三把六分


右田数十一町四百十二

直米六十石四斗

 

田租稲百廿二束九把四分


の咸略は字減

右田数八町九十八束代

直米四十一石六斗

 租穀を量る不減升は、天平六年検税使算計法の「南海道以2800寸為斛法」につながる。

上座

 

 

 

 






 

三綱 都維那

 

 

天平七年歳次乙亥十二月十五日田図定縁勝

 

 

租稲合三百束三把

いこ
とこ
いも
け不
な減
いで
゚な

 

右米合百十一石九斗

畠墾田直米三石四斗 見畠直米三石五斗 合墾田四百九十束代 租者丙子年□
□取
上下田都合廿町十束代 直米百五石 .
廿束代悪



三百六十三束代三宅之内直不取

六百九十束代見畠 直米三石五斗

三百四十束代墾田得

直米三石四斗

畠数一千四百十三束代之中 合墾田三百一束代 租者丙子年□
□取
  田租稲百七十七束三把六分


右田数十一町四百十二代 直米六十石四斗

 

地図略す .

 

□田十町



合墾田百八十九束代 租者丙子年□
□取
  田租稲百廿二束九把四分


の咸略は字減

右田数八町九十八束代 直米四十一石六斗 地図略す 寧楽遺文

 

山田香河二郡境

山田郡□
□郷船椅田

.
 この事例は事実関係がややこしすぎたので、閉口されたと思います。いくぶん簡単なつぎの事例で口直ししてください。
 1.2倍以上に増大した穀升に基づいて「町租稲15束」というのと結果的には同じことですが、
 18束以上の頴稲を扱いて「町租穀1斛5斗」を納めている場合には、それは(新)だということがわかります。

藤原宮庄園、弘仁元年(810)出納簿木簡 (更十二月廿五日下。......)
二不得八定田三町百廿歩  可上租穀四石五斗四升料穎五十六束八把
(別束籾得八升)

 ここで日常用いている升では「別束籾得1斗」なので、(減)は(不減)の /(=80%)になっている勘定です。
 この史料にはあと1つ注目すべきことがあります。租「穀」の納入が、十二月の末にもなって、ゆうゆうとおこなわれていることです。
 この時期遅れから考えられることは、大宝令「凡田租、准国土収穫早晩。九月中旬起輸。十一月卅日以前納畢。」の規定においては、収穫した租「稲」をさっさと納入させていたので、納入時期が早かった。(この頴稲は、あとで正倉内で「実」に精製して蓄える。)
 租「穀」を納入する場合は、穂稲を扱いて籾米にする作業を自家でやるので、納入時期が遅らされる。(稲穀はそのまま蓄える。)
(両者の識別は明解です。正倉に「実」が蓄えられていれば租稲が納入されており、穀が蓄えられていれば租穀が納入されている。)
 こうした租「穀」の納入は、やはり良田租法の開始につれて始まったことらしい。天平11年伊豆国正税帳を読むとわかります。

 賀茂郡管内の正倉に、「定肆萬捌仟捌伯漆斛参斗漆升」が蓄えられている。これは「実」です。
 ほかに、「未簸貳萬肆仟貳伯参拾斛壹斗伍升」が蓄えられている。
 これが「穀」ですが、この「穀」を、もし「実」に精製しようとすると、
「一万一千三百四十九斛六升二合」は斛別に「七升」が振い落される。
「一万二千八百八十一斛八升八合」は斛別に「一斗」が振い落される。
ということも書いてあります。
 今ふと思いついたのですが、「1斗」が振い落されるようになったのは、天平六年(734)七道検税使算計法の「東海道以2700寸為斛法」を受けてのことかもしれない。ただしこれは、租「穀」の納入が、その斛法を2700寸として、もっと早く開始されていたとしての話になります。
 今まで、この検税使法は租「穀」斛法に注目していると思っていたのですが、租「実」斛法に依然注目していたのかもしれない。"その実体は喪失したにもかかわらず"です。これはまだ「実」斛法で、東海道の検税使斛法は2200寸→2640寸→2700寸というふうに推移してきたとすれば、うまい話です。

天平六年(734)七道検税使算計法

 立ち入ったことを言うと、60寸の増加は、「町租稲22束」が良田にかける「18束3把333」に対して「町租稲18束」の不足を補填したことになりますが、要するに、伊豆国において、租穀を量る不減升は、天平六年検税使算計法の「東海道以2700寸為斛法」につながっています。

 ここで明らかになったのは伊豆国の租法の内容(実量)ですが、同じ東海道の遠江国浜名郡のそれを代弁しているものとします。
 すくなくとも租穀を収めているだから、「町租稲十五束」でも、これは(新)良田租法のほうに組する。 最低でも、この判別式は持ち込まれます。

おわりに

 法令の難解な文章を解きほぐしてみたいということで、『遠江国濱名郡輸租帳』に眼を通しましたが、そこでは、男は3束、女は2束。租人にかける税であったことは、おわかりいただけたと思います。なおいえば、
 男(3束)は口分田2段を給わり、女(2束)は1段120歩を給わっていた。
このとき、人と租稲と田圃の関係は、互いに可逆的であり、循環的であり、不可避的であるような因果の連鎖をなしていたわけです。

 准令、田租1段租稲2束2把以方5尺為歩。歩之内得米1升。町租稲22束
 令前租法、熟田百代租稲3束以方6尺為歩。歩之内得米1升。町租稲15束

 これを踏まえて、『慶雲3年9月10日勅(格)』の難解な一節を再見したとき、
「このように"格式ばった"文章は、....、具体的な事柄への案内に丁寧さを欠いている」と恨み言を述べたのは昨日のことで、男・2段・租稲3束という常識をわきまえた今では、案内が不行き届きであるとはすこしも思わなくなりました。
 租稲の束・把単位が(その場の空気を読んで)縮んだり膨れたりすることはありもしない。ただ置かれたポジションの相違によって、「令前束」と呼ばれたり、「令内把」と呼ばれたりする。このことの説明が無いのは、そのとおりだということです。

.

 `

具録町段及四至
  ゚

不給
  ゚
其地有寛狭者
 `
従郷土法
  ゚
易田倍給
  ゚
凡給口分田者
 `
男二段
  ゚






  ゚
五年以下

第三条

卅日以前納畢
  ゚

卅日以前納畢
 ゚
其舂米運京者
 `
正月起運
 `
八月
凡田租
 
`
准国土収穫早晩
 
`
九月中旬起輸
 
`
十一月

第二条

段租稲二束二把
 ゚

町租稲廿二束
 ゚

凡田
 `
長卅歩
 `
広十二歩為段
 ゚十段為町
 ゚

田令第一条

 田令3条の「給口分田者、男2段。」は「租稲3束」を言う場合ではありませんが、「女減三分之一。」としたのは、男は3束、女は2束。ということに必ず拠っていると思います。
 こうして田令第3条を先に読み、つぎに第1条に向かえば、田令の印象もだいぶ違っています。

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