すべては地図に描かれていた 2006.8.01 記 8.31.更新     あゆみ(歩) home

(以前のページを書き換えたというかリニューアルしたページに、New のしるしを付けていますが、
 この間どういうことがあったのか。振り返ってまとめてみたいと思います。)

米升法とものさしの試練を経て、方向の流れの再検討へ

 「出雲國風土記」に記された数里数歩の不思議はこのHPの原点ですが、
 昨年以降は、本分本領を忘れたかのように斛法は乱れていたのか?という論争に没頭していました。
 米升法とものさし これは天平六年検税使算計法が突き付けた問題です。

  東海道(山陽道)では、2700寸を以て斛法と為せ。
  東山道(北陸道、南海道)では、2800寸を以て斛法と為せ。
  山陰道(西海道)では、3200寸を以て斛法と為せ。

 ここで租穀の升寸法の多様性を認めると、田1段の租穀は一律に「1斗5升」であるがゆえに、
 水田の面積を測る度地尺にも多様性を認めねばならないというジレンマでしたが、
 斛法はやはり乱れていた!
というふうに決着しました。

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 そこで、今年の5月以降は、ふたたび原点に還って、
 方向の流れ 「出雲國風土記」の不思議の解明に専念しています。

 出雲国風土記の詳細な地理記述、とくに丹念に数里数歩という記述がなされた背景には、やはり必ず地図というものがあったはずだということで、出雲国郡図復元への志向をいっそう強くしています。
 ひとつの事実認識は、まず地図に記録され、つぎに風土記に記述されたという考えですが、はっきりいえば、(地図における)数丈(=12尺)というデータが(出雲国風土記における)数里数歩に読み替えられているというのです。
 しかし、検税使斛法は、ここでの数里数歩の数え方と決して無関係ではない。

 山陽道(2700寸3)の備後国では、1丈(=12尺)→2歩に数えるけれども、
 凡度地(大)5尺為歩(雑令)による。其度地以6尺為歩(和銅格)も長さは同じ。

 山陰道(3200寸3)の出雲国では、6丈(=12尺)→11歩に数える。(注1)
 いわば「其度地以6尺5寸4分5厘為歩」という感じです。

それで、この地図では、800丈(=12尺)4里266歩に数えている。

 枉北道。去4里266歩、至2 郡北堺 朝酌渡1渡80歩、渡船1。
 (程) 6丈→11歩 800丈+(133×5)+1=1466歩

また、例えば、1000丈(=12尺)6里033歩に数えている。

 神名樋野 郡家西3里129歩。高80丈。
        6里032歩
 東有松。三方並有 茅。
 (程) 6丈→11歩 560丈+(93×5)+1=1026歩 
 (周) 6丈→11歩 1000丈+(166×5)+3=1833歩

(注1)里法においては、大宝令の「300歩為里」にしたがう。
 ただし、究極の場面では堂々と反則を犯している。
 「国之東西137里019歩。南北193里183歩。(総説)」
 地の文において6丈(=12尺)→11歩に数えていた「数里数歩」の合計をさらに読み替えたものですが、1丈(=12尺)→2歩に数えている。しかも、360歩をもって1里としている

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方向の流れ(

   どの矢印を伝って行っても、みちのりはかわらない。

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 上の、意宇郡家を原点に・朝酌渡神名樋野その周を描いた貧しい地図は、矢印を並べた下地がなんだか変ですが、これは私が 図方向の流れ と呼んでいるものです。

 方向の流れ (左図)
 マンハッタン距離という特殊な方向距離観念を敷設したこの図は、模式図としては既に3年前には考案されていたのですが、矢印()の間隔を100丈(=12尺)と定めたことによって、地図下地としての実用性が飛躍的に高まったと感じています

 〔↑〕を左寄りに傾けて図を描いているのは、真北との偏角を表すためです。
 全体真上に向けなおすと、意宇郡家を中心に、上の地図と重なります。
 山代郷は、地図上に定位されただけで郡家からのみちのりが決まるという目的地の一例に描いたまでです。

 山代郷 郡家西3里120歩
 所造天下大神大穴持命御子山代日子命坐。故、云山代也。
 即、有正倉。
 
(程) 12丈→22歩 560丈+(46×10)=1020歩

 やや簡略な式によって歩数(1020歩)を数えたとします。元の丈数は560丈なので、同じ丈数の〔神名樋野〕を通る傾き45゜の斜線上に置ける。

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地図を織り縫う

 こうして、官庁でも、渡し場でも、山野でも、集落でもどこでも、記されている東・南・西・北、数里数歩は、皆一定の平凡な解釈を受けているとすれば、これらの名所は、一枚の地図の中に、一緒に描き入れられていたことが容易に想像されます。

 出雲国における地図のはじまりを神代に求めるなら、
 島根半島を国引きなさった八束水臣津野命が、「八雲立つ出雲の國は、狭布の堆國なる哉。初國小さく作らせり。故に將た作り縫わな。」といわれたとき、麻布に描かれた出雲初国のすがたを見ていたと思われます。
 この麻布というのは地図を描く土台として好まれたので、奈良時代の荘園図はよく麻布に描かれています。麻布は、経(たていと)緯(よこいと)が織りなす模様が、地図の土台として魅力的な感じです。
 図方向の流れのアイデアにしても、麻布の形状が大きなヒントになっていて、その織目のひとつひとつに矢印()をつけたようなものです。
 (左図) 親密さを確認するために、上図を麻布の上に描き写してみました。

条里図の彼方へ

 この程度のことで、「国郡図の画法を復元した」というのは言い過ぎですが、
 図方向の流れの空虚な矢印()のひとつひとつに100丈(=12尺)という魂が入ったことは、出雲国郡図の復元に向かって、大きな前進だと思います。

 麻布に、朝酌渡神名樋野、そのを描き、
    ついでに、
山代郷を描いてみた。
 ところで、さきほど述べた「奈良時代の荘園図」は、一般に条里地割を基準にして景観を描写した地図であり、1町(60歩)30丈(=12尺)間隔の坪界線が際立って目立つことになります。

(右)「額田寺伽藍並条里図(復原複製)」歴史民族博物館所蔵
  http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/nukata/pict1.html
Webサイト上に著作権の範囲を超えて複写しないようお願いいます。

原図「額田寺伽藍並条里図(国宝)」の説明
麻布に彩色。縦113.7センチ、横72.5センチ。 成立は8世紀後半。本図は奈良時代の荘園図で、大和国平群額田郷を本拠とした古代の豪族、 額田部氏の氏寺である額田寺の伽藍および寺領を麻布(調布)に彩色で描いたものである。 官営の東大寺とは異なる畿内の中級貴族の氏寺とその寺領の様子が描かれていることが大きな特色。 絵図には奈良盆地の北西部に位置する額田寺の伽藍を中心に佐保川と初瀬川の合流点およびその北方の額田部丘陵が描かれている。 その記載範囲は南北は約1100メートル、東西は約700メートルほどである。

 説明にしたがい、この地図の縮尺は /1000 であると理解されます。
 つまり、現地の1丈(=12尺)は、地図上では 1分2厘 の長さになる。
 1町の間隔にしても、現地の30丈(=12尺)を取って、3寸6分に描く。
 この1里は6町(360歩)ですから、(注2)
 1里の間隔は、現地の180丈(=12尺)を取って、2尺1寸6分に描く。

 国郡図というのは、そうした荘園図とは、規模や用途をおおいに異にした広域地図ですが、両者が、地図の作成から閲覧に及ぶ地図利用技術の基盤を、共有しているのはもちろんのことです。
 そういえば、地理学者の金田章裕氏は、『古地図から見た古代日本』の中で、「出雲国風土記」と「国郡図」の参照関係について肯定的な意見を述べておられます。
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(注2)6丈(=12尺)→11歩に数え、里法においては大宝令の「300歩為里」にしたがっていた出雲国風土記の「数里数歩」ですが、究極の場面では、堂々と反則を犯して、1丈(=12尺)→2歩に数え、360歩をもって1里としている。(注1)参照
 後者は条里地割固有の里歩法と軌を一にしていますが、出雲国風土記と条里図とのひとつの接点を標榜しているようで、興味深い。.
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 天平十年(738)には、中央政府が諸国に「国郡図」の造進を命じた。国郡図というからには、少なくとも国単位でかつ郡が明示されていたものと思われるが、実物は現存していないので内容は不明である。
 延暦十五年(796)新しく作製が指示された「諸国地図」には、「郡国郷邑、駅道遠近、名山大川、形体広狭」を録せとしたことを『日本後記』は伝えている。国・郡・郷は行政単位、駅道は国家管理の下に七道諸国を貫いた官道であり、まずは行政単位と官道の距離に加えて、邑つまり主要集落を記入し、かつ著名な山と大河、ならびに土地の形状と広狭を表現することを命じていることになろう。

 とすれば、現存史料類の中でまず想起されるのは『出雲国風土記』の記述である。和銅六年(713)選上を命じられたものであり、例えば次のように記載されている。(『日本古典文学大系』岩波書店)
  意宇の郡
  合わせて郷は十一、餘戸は一、駅家は三、神戸は三里は六なり。(中略)
  母理の郷 郡家の東南のかた三十九里百九十歩なり。
  (中略)
  伯太川 源は仁多と意宇と二つの郡の堺なる葛野山より出て母理・楯縫・安来の三つの郷を経て、入海に入る。
 このような内容が地図に表現されていると考えるのが最も推定しやすい状況である。天平十年のものがこれより疎略とすれば、さらに簡便なものとなるが、あるいは改訂のための単なる文飾に過ぎないかも知れない。

 金田氏が例にあげた「母理郷」「伯太川」などは意宇郡の東半部にありますが、同じ郡の西半を占める意宇の國とは方向の流れを異にする地域だというので、私は野城の國と呼んでいます。
 お呼びではないのですが、野城の國の中心部については、既に 図方向の流れに描いてあるので、おみせします。

 

矢印()の長さは100丈。およそ183歩進む。

 又(自野城橋)西21里至国庁意宇郡家。

  安来郷 郡家東北27里180歩。

 2点間の隔たりは 6里180歩(=1980歩) だから、
 矢印10.8個ほどを踏破していることにして、〔点安来郷〕を置いた。

  舎人郷 郡家正東26里。

  教昊寺 有2山國郷中1。郡家正東25里120歩。

  暑垣山 郡家正東20里080歩。有 烽。

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おわりに

 出雲国風土記に記述されたことの「すべては地図に描かれていた」というとおおげさですが、すくなくとも、地図に描くことが出来る情報は、可能な限り、国郡図に描かれてしかるべきでしょう。とりわけ、「数里数歩」について、もとは「数丈」という情報であったと考えたとき、地域を同じくするすべての「数丈」を(均等に縮尺して)一図の内に描き表した地図が求められます。
 出雲国郡図は、そういう条件を満たした地図として、あるべきだと考えます。

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