あゆみ    

Pick up 
才という単位 
四角錐の体積 
 
四角錐を切り分けてわかる3で割る3つの理由
 円錐の体積 円錐の体積計算
 球の体積
 似-牟合方蓋 と 陽馬3兄弟 New 
 直径1尺の円。面積は何寸?  
 米1俵の重さ 食べる貨幣 (Edible money)
最新 綿を積む船 と 棋験法の旅立ち

隼人が生まれてくる物語 目次
入来院の租稲
  
2011. 2.10.
建久図田帳に見る薩摩6驛7宮の配置

藤原京跡出土木簡
弘仁元年(A.C.810)十月廿日収納稲事 を読む
 もくじ
 (およそ13ページ)

米升法とものさし もくじ

つもり重ねた不幸の数を なんと侘びよかおふくろに
還って来た 取りつくし法の未来
 2008.1.9.〜2010.3. 2.
(1)何等分でも出来る線分と分数の概念
(2)グレゴリーπ公式と、分数の〔かたち〕 
(3)グレゴリーπ公式と、ワイリス望遠鏡
(4)九章算術方田章に同居する分数の概念
(5)九章算術方田(原文と勝手な解釈)
(6)円のふるえを〔分数のかたち〕で測ってみよう
(7)
天才ライプニッツと一反木綿()と分数の概念
(8)球葱と帆立貝とライプニッツの円積率公式 
(9)
曲りなりにもパラボラの面積は見ればわかる
(10)方、以類聚物、以群分数。
  目方(めかた) 九章算術に始まる分数の概念

還って来た 風土を測るものさし
方向の流れ
(麻布に描かれた地図)
東西137里 019歩,南北183里 193歩,に至る紆余曲折
方向の流れ.   意宇の國と野城の國
続,方向の流れ
  エラトステネスの井戸
総説三行注の謎 
すべては地図に描かれていた
綱を引きコンパスを回して國は作られた
三身之綱と遠呂智のなぞなぞ(改)
出雲國風土記
(全文)   〔解説〕

身体ものさし(目盛のないものさし)
食べる貨幣
7. 7.更新 目盛りのないものさし
米1俵の重さ  山の高さを人の背丈で数える
起きて半畳
寝て一畳のモジュロール

才という単位 千石船の才数をめぐる机上の空論
てのひら一杯の
龠を合わして3合為1升説に向うわけ  
 曲尺画像

内得米1升(町のかたち)

  町 と    『周禮』が描く水田のしくみ
 
町のかたち   回る租のしくみ
(目次)
 延久の宣旨斗と「歩の内得米一升」
 『歩日50里』の波紋  New 


取りつくし法の未来
 
2005.1.18〜
とりつくし法の未来(1)    
円とパラボラが接するとき  円錐とパラボラ
  計算とものさし. その  その
分数と水汲み(水はこび) 
 四角錐の体積
四角錐を切り分けてわかる3で割る3つの理由
〔マイナス×マイナス⇒プラス〕を見てみよう。
 面積の(不自然な)掛け算
 
四面どこでも九九表
  2007.12.06.


距離と面積の歴史
(2002)3. 25.〜(2003)

円田を測る    方円を測る.
ほんのすこし
   帯直弧積術を学ぶ
ほんのすこしを求めて
 . 速さを積む.
天元の一を立てて   弧背術の解を読む
(続)弧背術の解を読む
  は円周率の始まり
数の居どころ (I)(II)(III)
嘉量斛の底面  

鋸円材之術(円材を鋸引く術) 2004.10.08〜05.2.4.
 丸木板引法の現在 
 丸木板引間数知事 
 とりあえずパラボラ    桜島の面積
 
直径1尺の円。面積は何寸?
 木っ端積みによる円積近似式
 正多角形をとりまく円弧片の面積

月と季節とこよみ 2004. 2. 7〜.
目次 月と季節とこよみ 
季節にうるう月
  斉民要術耕田第一
こよみの中の二十四節気
(前編)、 (後編)
二十四節気の日付と時刻   薩摩暦の昼と夜
干支と曜日
  慶応二年の薩摩暦  
楝(あふち)の花、いとをかし2006.5.08.
隼人が生まれてくる物語 目次
New  2010.10.23.
隼人神話と俘囚神話 熊襲(肥人⇒隼人)激動の世紀
謹製〔造籍⇒班田〕関連年表

今月今夜のこよみ説明
今月今夜のこよみ(庚寅一月〜六月

説明にかえて (1)旧暦と日食 (2)月と季節
今月今夜のこよみ(七月〜十二月
 付表
  年に三回、七夕の意義

冬・秋 夏・春 卯辛 みよこの夜今月今

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大学章句ノート もくじ

BBS(伝言板) 過去ログのみ閲覧できます。

Depend on you 文化朋党事件のページ

私のウェブログ 休眠中のWeblog


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作成者
 あおやぎ しゅんじ /~)/  おたよりは こちら から

         access count   2002. 7.27

.いったいどこまでゆけばいいのか わからない

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(多賀城碑)

 多賀城 去京一千五百(1500)里
       去蝦夷國界一百廿(120)里
       去常陸國界四百十二(412)里
西      去下野國界二百七十四(274)里
       去靺鞨國界三千(3000)里
 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将(724)
 軍従四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字6年歳次壬寅参議東海東山 (762)
 節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
 将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也
   天平寶字6年12月1日

 

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    J100216918 

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 はこぶ米 .......... 1升 = 1斤  160匁(600g) 現在の4合
 (俵米).......米2俵の〔重さ〕を 1斛(石) としていた。

 食べる米 ........ 1升 = 0.8斤 128匁(480g) 現在の3合2勺
 (枡米).......米2俵の〔かさ〕を 1斛2斗5升 としていた。
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    ↓ 水田の模様を描き写す(Mapping) ↓

  

(右より続く)
花托の一枚岩盤の上にぽつぽつと開いている穴凹が〔田池〕であり、平板なところが〔畔地〕です。よく見ると、〔町〕は1枚であって、孤立した〔田池〕たちを包摂しています。
(例)........ 頃者、百姓漸多、〔田池〕窄狭。(三世一身法)
それで、〔田池〕のひろさに、〔町〕のひろさが加わって、耕地全体のひろさを成しているわけです。この意味で、水田の面積を測定するときには、〔占地〕のひろさを知るとともに、〔田池〕のひろさを知る必要があったと思います。
額田寺伽藍并条里図 (天平宝字年間〔757 - 765〕に成立)
を見ると、水田の占域が白地で表され、田積が記されている中に、不定形の〔田池〕が朱線で描かれています。粗略な風景描写のようですが、この朱線は、に囲まれた田域の境界線と同等のものであるので、奈良時代の町段歩は1人で2つの境界に接していたという事実を、裏書といわず表書きしたものといえます。
 〔坪十一〕 寺田 86歩    ( 60歩 ) ( 26歩 )
 〔坪十四〕 寺田2段288歩  (700歩)  (308歩)
こんなふうに分けらるるやもしれず。
(右に続く)

令内租法令前租法  (慶雲3年9月10日格)


........................................................................... 租稲2束2把(減)
 〔田池〕(75代) 360歩(25)
.................................................................................................... 熟田百代
 〔田池〕(100代) 480歩(25)        租稲3束(減)
同じひろさで租収を比較した (令内)2.933束<(令前)3束
同じひろさで租収を比較した (令内)22束<(令前)22束5把
 右件二種租法、束数雖多少、輸実猶不異。...(A)


賎田1段 租稲1束5把(減) 


...........................................................................  段租稲2束2把(減)
 〔占地〕(75代) 360歩(25)
....................................................  段租稲1束5把(減)
 〔田池〕(52代余) 250歩(25) (熟田50代より寛い!)
同じひろさで租収を比較した (令内)2.2束>(令前)2.16束
 取令前束、擬令内把、令条段租其実猶益。...(O)


折衷=良田1段 租稲1束5把(不減)


今斗升既平。望請、輸租之式折衷聴勅者。...(AB)

........................................................................... 段租稲2束2把(減)
 〔占地〕(75代) 360歩(25)
...............................................................  段租稲1束5把(不減)
 〔田池〕(62.5代) 250歩(30)       = 1.875束(減)
同じひろさで租収を比較した (令内)2.2束<(令前)2.25束


こういう田んぼを「良田」という。 →良田百万町開墾政策 養老六年(722)

この良田町形を踏まえて、みちのくの道程はどのように表されていたか?
 
 歩日50里』の波紋 〜 しあわせは 歩いてこない 多賀城碑 〜

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 2400歩     2500歩    3000歩

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 500代      520代余    625代
 
 代(しろ)は不器用で潔よい単位です。

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  (A)/ + (B)/ ⇒ (AB) 平均(折衷)

米ます............今 斗升 既 平(均)。

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  10合の升 15合の升    12合半の升

田んぼ...........輸租之式 折衷 聴勅者。

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 熟田町形 汎田町形   良田町形

 租 稲 ..........
宜 町租稲 15束 主者施行。

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(不成斤)減     増      不減不増(成斤)

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再び


運ぶ 米 ・・・・・ 1升(不減)=1斤 160匁(600g) 現在の4合
 (俵米).......米2俵の〔重さ〕を 1斛(石) としていた。
 頴稲10束(不減)→籾1斛(不減)→米5斗(不減)=1俵(50斤)

食べる米 ・・・・ 1升(減) = 0.8斤 128匁(480g) 3合2勺
 (枡米).......米2俵の〔かさ〕を 1斛2斗5升 としていた。
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 頴稲10束(減) → 籾1斛(減) → 米5斗(減)


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続日本紀 元正天皇 養老六年 閏四月乙丑 太政官奏曰

食之為本、是民所天。随時設、治国要
望請、勧農積穀、以備水旱。

仍委所司、差発人夫、開墾膏腴之地良田一百万町。其限役十日、便給粮食。所須調度官物借之。秋収而後、即令造備。若有国郡司、詐作逗留、不肯開墾、並即解却。雖経恩赦、不在免限。

如部内百姓、荒野・閑地、能加功力、収穫雑穀三千石以上、賜勲六等。一千石以上、終身勿事。見帯八位已上、加勲一転。即酬賞之後、稽遅不営、追奪位記、各還本色。 

 開墾膏腴之地 (見積り)

 賎田一百万町〕  ⇒  ⇒ 開墾  ⇒  ⇒   〔良田一百万町
    (A)       A(AB)      (AB) 
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 開墾完了の暁には、既存の賎田一百万町に上乗せして、
 差し引き賎田二十万町の新開田を見ることになる。
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続日本紀 元正天皇 養老七年(723) 四月辛亥 太政官奏曰、

頃者、百姓漸多、田池窄狭。
望請、勧課天下、開闢田疇。
其有新造溝池、営開墾者、不限多少、給、伝三世。
若逐旧溝池、給其一身。
奏可之。

続日本紀 聖武天皇 天平十五年(743) 五月乙丑 詔曰、

如聞。墾田拠養老七年格。限満之後、依例収授。
由是農夫怠倦、開地復荒。
自今以後、任為私財無論三世一身。悉咸永年莫取。
(略)
但、人為開田占地者。先就国有司申請。然後開之。不得回並申請百姓有妨之地。若受地之後至于三年。本主不開者、聴他人開墾。

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「エジプトひも」による正方区画の設営手順

〔注記〕 「エジプトひも」は、
 岐阜東高校教諭 亀井喜久男さんの研究成果です。
 エジプトひもクラブ
  http://www.ctk.ne.jp/~kamei-ki/

〔09.04.27〕校庭で中学3年生対象に数学の授業
 http://www.gito.ed.jp/junior/contents/090427.htm

 大6尺歩による再測定

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. 平行線の間に存在する距離のことを、「さ」というとき、
 面積とは、一定のさに、さを乗せたものになる。

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出雲國風土記。
 國之大體、首震、尾坤。東南西山、北属海。
 東西137里 19歩。南北183里193歩。

ローカルな地理空間の創出(国引き説話)
海辺の国々においては海水平面の招致が大切だというわけ

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(黒)ボタンを押さないと難度は反映されません 

 

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馬20匹、直金12斤。今売馬20匹、35人分之。
人得幾何

 12×÷  35   12
 ―― ÷ ―― = ――
 20×÷  20   35

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意図的な乗分術(比例計算)

  3 ×  12
  ― × ― = ――
  × 7  35
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かねに目がくらんだ人々は、生き馬の目を抜いた。

                ということかもしれない。

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実直な乗分術(面積計算)

 3 × 4  12
 ― × ― = ――
 5 × 7  35

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 田 1町(耕地3600歩すなわち熟田500代
           =(畦畔1100歩)+  (本地2500歩)
田1町すなわち熟田500代」はおよそ500枚の田圃に細分されていたので、畔(あぜ)堤が相当の幅を取って、耕地の3分の1ほどを占めていた。養老七年(AC.723)四月に『三世一身の法』が布告されたときに、「頃者、百姓漸多、田池窄狭。」といわれたのはこのことで、「勧課天下、開闢田疇。」という課題は、前年に布告されたものの有耶無耶になった『良田百万町開墾政策』の焼き直しかと思われます。

   

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 最新 綿を積む船 と 棋験法の旅立ち  April 7.2012〜

今年初めての更新です。
タイトルにある〔棋験法〕というのは、実際に棋子(木型)を用いて(合わせたり分解して)多面体の体積問題を解決する方法です。例えば、

 Q.角錐(すい)の体積を求めるとき、なぜ÷3するんですか?
 A.錐の体積は、柱の体積の1/3だからですよ。   (ヤフー知恵袋

ですが、それは、「Q.なぜ×(1/3)するんですか?」という質問が出たときの答えではないのと(クレームをつけて)、棋験法は、つぎのように答えます。
 A.柱の内に、同形同大の錐(陽馬)が3つあるからですよ。

このページでは、合蓋球(図1)について同様のことを考えています。
合蓋球とは、魏の劉徽が、球の体積を求めるために考えた四面体です。
合蓋球と立方体の体積の比は、円球と円柱(図2)の体積の比に同等です。

(図1)    (図2) 

立方体の内で合蓋球の外の部分を、仮に四角臼と呼んでおきますが、

 Q.四角臼(うす)の体積を求めるとき、なぜ÷3するんですか?
棋験法は、つぎのように答えます。
 A.柱の内に、同形同大の錐(陽馬)が3つあるからですよ。

なぜ÷3するんですか?尋ねられたら、3つあるからですよと答えるのが筋です。
(もし「1/3だからですよ」と答えると、分数がわからなくなりそうです。)
ですが、合蓋球の外にある形は、合蓋の内の2つとは、明らかに異なっていて、気軽に同形とは言えません。同大を言うだけでは棋験法の信条に背くので、困った劉徽は、(同形と見做すための)よい知恵を将来に向けて募りました。
待つこと二百年にして、南宋の祖晅之がよい知恵を示しました。ところが、彼は、
  劉徽・張衡二人皆、以圓困、十六為方率、九為圓率、乃設新法。....
劉徽の棋験法を超越して、まったく新しい方法(開立圓術)を編み出したという。
彼の新法の目玉は、断面積の推移を調べて錐(陽馬)の面影を見破ったことですが、現代の(「1/3だからですよ」という答えを支持するような)数学教育界からは、カヴァリエリの原理をいち早く適用したことが高く評価されているようです。

しかし、私は、これは全く立方体(合蓋球・臼)を研究して得た成果なのだから、3体を同形とする知恵を授かったことを喜んで、まずは棋験法に帰納するのが「筋」だと思います。もちろん祖晅之も喜んで貢献したと信じます。
彼の方法には、棋験法に過分の年貢を納めても、まだ余りある新しさがあったので、出し惜しみはしなかったでしょう。今、「3つあるからですよ」と安心して答えられるのは彼のおかげだといえます。

 則其形有似牟合方蓋矣。八棋皆然似陽馬。圓然也。
劉徽は、合蓋球の形が牟合方蓋に似ている似-牟合方蓋と言い、球臼合せて24個の部体が皆しっかりと陽馬に似ている〔似-陽馬〕と言っていました。これがすなわち、祖晅之の成果が棋験法に帰納されて行く道筋になります。

ところで、タイトルにある〔綿を積む船〕のことですが、合蓋球の四面体の形をよく見ると、船の舳(へさき)を8つ集めたようなものに見えるということです。
恐らく合蓋球が円球を包んでいるイメージには、豊葦原瑞穂国のかたちを暗示しているようなところがあるので、律令社会を形成する基本的な空間概念のモデルになっていたと考えられます。......天の羅摩船。時代が下ると、お椀の舟(一寸法師)、桃の実(桃太郎)、柿の実(猿蟹合戦)など。........

猿蟹合戦では、蟹が柿の実に潰されて死に、猿が臼に潰されて死にますが、これは、立方体(合蓋球・臼)⇒円柱(円球・臼)という球積追求の筋書きをなぞっているようです。数かたちの論理の厳しさを、倫理規範の厳しさに置き換えると、どうかして親の仇を討つという筋書きになることもあるかと思います。
祖晅之が棋験法に貢献するのも、生やさしいことではなかったようです。

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 似-牟合方蓋 と 陽馬3兄弟
   October 8.2011 〜

 円錐の体積 (円柱3分身の秘密)  2011. 6.23.


   円錐の体積 = ○~○ ÷ □~□~□~□~□~□ 

 球の体積    July11.2011〜

     棋三品

       

 特別附録 陽馬の曲芸

   

   玉もろともに同体の円筒を潜り抜けてみせます。

   

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お知らせ
 2011.5.21.

 とおせんぼ(△)と影法師.

  『歩日50里』の波紋 〜 しあわせは 歩いてこない 多賀城碑 〜

  

 (たがじょう)  (ひたちのくに)                            
 多賀城 去 常陸國 界 四 百 十 二里 |(137.5)|(137.5)|(137.5)|
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E・・・・・・・D・・・・・・・C・・・・・・・B・・・・・・・A・・・・・・・@・・・・・・・0

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H・・・・・・・G・・・・・・・F・・・・・・・
 歩8日の行程(400里)だが、9郡家(9泊)により、歩9日(412里半)を数えた。

        (しもつけのくに)                      
 多賀城 去 下野國 界 二百七十四里 |(137.5)|(137.5)|
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E・・・・・・・D・・・・・・・C・・・・・・・B・・・・・・・A・・・・・・・@・・・・・・・0
 歩6日の行程(300里) 6郡家(6泊)により、歩6日(275里)を数えた。

海道 と 山道。今でいえば、浜通り(412里) と 中通(274里)です。偽碑説が尾を引いて、「誤った距離が記されている」といわれていましたが、決してそんなことはないと思う。 まず、2つの距離数に 3:2 という比を見てから、旅行日程が、海道(9日)、山道(6日)であったとします。これは、海道に9つの宿場が、山道に6つの宿場が置かれていた(左上地図)という事情をあてにしています。

重要なお知らせ 2010. 8.18. 〜

左にあるページ集(米升法とものさし)も、そろそろまとめにかかりたい頃、総目次を中断する断腸の思いでこの場を借りて、抱負を述べました(お知らせ7.23.
しかし、これを口にするのは「奈良時代の米升法ものさし統一的理解は可能なり」と宣言するに等しく、出来損ないのページ集が見事にまとめられるとなれば一大事です。実は、最近作(『歩日50里』の波紋 )で、多賀城碑の胸を借りて密かに瀬踏みをしていました。「多賀城 去常陸國界四百十二里。去下野國界二百七十四里。」 これが不審に思われて偽造の疑いを招き、石碑の史跡指定を遅らせたのですが、奈良時代の米升法ものさし統一的理解していれば、なんでもなかった。自信を深めたので、あらためて「まとめ」にかかる要点を伝えたい。

まず、奈良時代の米升法の要目をいえば、運ぶ米食べる米を区別する左の如き説明に私は慣れています。2つの米1升の重量比は5:4であった。
これを裏書する証拠資料として、藤原宮庄園の出納簿木簡で、弘仁元年(810)の租穀を「別束籾得八升」なる頴稲から造った記録を挙げておきます。

 二不得八定田三町百廿歩

 可上租穀四石五斗四升料穎五十六束八把 別束籾得八升

つぎに、奈良時代のものさしの要目をいうときには、その米升法との関係では、水田の広さを総括して表すところの町・段・歩という単位が重要ですが、

 この町・段・歩という単位は、水田において、2つの意味を有していた。
 (1) その田池の広さが1町・段・歩である。
 (2) その占地の広さが1町・段・歩である。

かくして、奈良時代の町段歩は、1人で、2つの境界に接していたわけです。
ですが、いきなりこう言っても何のことかわからないので、
在地の水田は、「町段歩が2つの意味をもつ」という仕組みを必要としていた。
という状況の説明から始めたいと思います。

早速、左上の写真を見てください。棚田の風景です。これを見て考えたいのは、
稲を作る水田において、耕地はどのように利用されているのか?ということです。
それと同じことですが、こういう水田の様子を平面的にスケッチしてみましょう。
あるかもしれない野原や畑地や大道や溜池や大溝を除外します。また畔の急斜面が盛大に幅をとっている場所なども除外した後、セレクトされた水田に関する耕地を凝集して団子にします。そうすると結果はどういうことになるか? しかし、暑い中丹念に絵を描くのも億劫なので、かわりに左下の写真をお見せします。
蓮(はす)の花托が成熟したすがたですが、絵に描いた田圃にさえ(一雨降れば)水が溜まるよ。卓越した表現形式による田図だと自慢する。 (左に続く).

 

(左より続く)
在地の水田は、「町段歩が2つの意味をもつ」という仕組みを必要としていた。
という状況の説明は以上です。ところが、従来の定説は、こうしたことをまったく気にしていない。苦情はお知らせ 7.23.を見て頂きますが、養老七年(723)三世一身法に際して、田池という概念のとらえ方ひとつを見ても明らかです。

頃年、百姓漸く多くして、田池窄く狭し。
(注)一九 近年、人民の人口が次第に増加しているのに、班給すべき田や灌漑用の池や溝は狭隘である(池には池から引いた溝の意もある)。
(新日本古典文学大系 続日本記 p.131)

定説は、「其有新造溝池、営開墾者、伝給三世。若逐旧溝池、給其一身。」とあるのに紛れて、「池」を引き連れて田んぼから逃れようとしますが、「灌漑用の池や溝」を増加する人口に分け与えたという話は聞かない。嘆息の的になっているのは、盛大な畔地に圧迫されて小さくなっている〔田池〕の狭苦しさではないのか。

このように〔占地〕と〔田池〕が区別されている状況において、水田の面積法にはどのようなタイプが存在していたのか?
そういうタイプのことを「田町形」といい、おおよそ4つの田町形が挙げられます。

    (A)       (O)       (AB)      (B)
  
熟田町形    賎田町形    良田町形   汎田町形
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   (24)減     (25)    不減(30)不増   増(36)

以上4つの田町形は、幸いなことに、慶雲三年(706)九月十日格(令集解)の文中に、揃って登場していて、それぞれのプロフィールを見ることが出来ます。
(続日本紀)
慶雲3年9月15日。使を七道に遣して始めて田租の法を定む。町ごとに15束。

 准令田租、1段租稲2束2把。町租稲22束。.....(B)
         
以方5尺為歩。歩之内得米1升。 
 令前租法、熟田
100代(A)租稲3束。 町(O)租稲15束。
         
以方6尺為歩。歩之内得米1升。
(注)
 右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。
.....(A>B)
 而令前方6尺升漸差地実。遂其差升亦差束実。
 是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。
.....(O<B)
 今斗升既平、望請輸租之式折衷聴勅者。
.....(AB)

 勅、朕念。百姓有食萬条即成、民之豊饒猶同充倉、
 宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。
  
(注)但し、方6尺の内に方5尺の歩を為す。(高麗術)

令前租法「熟田100代租稲3束」は、令の基準(町租稲22束)を満たしている。
しかるに、班田の「町租稲15束」は、令の基準(町租稲22束)を満たしていない。
満たしていないのも当然です。のぶんの租稲をくすねているのだから。

「熟田百代」は、男1人に班給される口分田2段に同じで、同じ租稲3束を納めているというのに、判定はどこが違うというのか? ぼんやり眺めていても相違点が浮かばないので、田町形(仮説)に当ててみたところ、熟田500代の本地は実のところ2400歩。班田=賎田1町の本地2500歩よりもやや狭小であるという。
(熟田50代を240歩とみるのは勇気が要りますが、当時、唐の律令制においては、240歩を以って1畝と為していた。九章算術にも算例があります。)
要するに、
班田1町は、本地2400歩にかかる租稲15束を、2500歩から出していたので、100歩ぶんの租稲0.625束を免れていたわけです。そこで、租法をあらためて、班田1町にまっとうな租稲数を示そうというのですが、
 今斗升既、望請輸租之式折衷聴勅者。
「今斗升既平」の平は、平均されているという意味です。また「輸租之式折衷」の折衷は、2者の半分づつを継ぎ合せて1つにするという意味です。言葉は違いますが、意味するところは同じ穴のムジナで、
 (A)の半分 と (B)の半分 が 融合して (AB)になる。
というテーマを共に追求しているようです。
かくして良田町形に居を定めたのは、班田1町(本地2500歩)の租稲を、すこし離れたところ(本地3000歩)からコントロールするねらいです。
 宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。

 ■■■■■   租稲15束(不減) 班田1町です。どうすればいいの?
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.輸租田8段120歩
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      租稲12束5把(不減)
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さように修正申告してから
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15束6把四半(減) を上納しなさい。
  班田1町     輸租田1町

これぞ"違いがわかる男のゴールドブレンド"です。

 以方6尺6寸為 の内得米 1升
 3001里 、多賀城碑(つぼのいしぶみ)が忍び伝えるみちのりは、
 これにともなって成立した。

しかしながら、定説は「折衷租法」のことをつぎのように言う。
>度地法に「令」のそれを、田租法に「令前」のそれを用いたので、
モカ と キリマンジャロの、熟田町形 と 班田町形の、僅かな違いがわからない人には、汎田班田の、租稲22束の町 と 租稲15束の町の、大きな違いがわからないのだろうか?
 令文廿二束與今十五束、員殊實同。
 但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。(令集解)
租稲22束 と 租稲15束の間には、まだ無かった1束量の違いを言い立てて、
>これを一般に折衷租法ともいう。
折衷」という言葉の意味も変われば変わるものです。

慶雲三年(706)に起きた輸租式折衷事件の真相は以上ですが、その際には、運ぶ米(俵米)と食べる米(枡米)に度量の別があり、田んぼの(6:5)とは異なる比例(5:4)をなしていた。このことが課題の解決に結びついたことは確かです。
ところで8世紀も中期に入ると、租稲に代えて同量の籾米(穀)を(正倉に)運上するようになっており、実際のところ輸租式の内容にも大きな変化が見られます。
 宜段租穀 1斗5升、町租稲 1斛5斗、主者施行。こんな感じか?

   A(AB)
 
良田百萬町形  租稲15束(不減) 班田1町です。どうすればいいの?
 ■■■■■ ■■■■■
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輸租田1町 租穀1斛5斗(不減)
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 ■■■■■ ■■■■■■  
頴稲18束7把半(減) を扱いて
 
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籾1斛5斗(不減)をつくり
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俵に詰めて上納しなさい。
  班田1町     輸租田1町

(A)賎田1町の身にして、(AB)良田1町の租稲15束(不減)を負うていた。

〔実例1〕 弘福寺領讃岐国山田郡田図 天平七年(735)十二月十五日

  右田数 8町 98束代 直米 41石6斗
    田租稲 122束9把4分 
不咸     (咸は減の略字か)

〔実例2〕万葉集巻8 大伴坂上郎女竹田庄作歌 (天平十一年己卯秋九月作)

 然不有 五百代小田乎 苅乱 田蘆尓居者 京師所念
 しかとあらぬ,いほしろをだを,かりみだり,たぶせにをれば,みやこしおもほゆ

去る慶雲三年の秋には五百代小田を僅かな脱税がばれて修正申告させられた賎田町形でしたが、一転してこの頃は、身に過ぎた不減の田租まで抱えこんで悩んでいる様子です。ただ、「男1人に租稲3束を課す」という大原則があるので、6年1休にしてもらわないと困りますが、こうなるについて何か思い当たることはないか?

養老六年(722)の夏に可決された良田百万町〕開墾政策。彼がいう膏腴之地、開墾に適した豊穣の大地はどこにというと、既存の賎田百万町を圧搾していた盛大な畔地が眼に浮かびます。それで実際のところ、狭苦しい田池を押し拡げるように賎田二十万町の新開田が見積もられたとしますが、秋収の後10日の開墾期間の内に目ぼしい成果が得られたとは思えない。しかし何をするにしても最初からうまくゆくことは無いので、日本の田んぼを良田に変えるという政策は立派に受け継がれて、翌七年の三世一身法の中に生きていたのではないか。
ただしかし、三世一身法は、零細な班田農民に直接呼びかけて、口分田の周りにある盛大な畔地を(自力で開墾して)自作の田んぼにするように勧めている。そこのところが前法にあった官主導の建前とは異なります。
(三世一身法には、口分田の性格をも変えたところがあるのではないか?)
ただ一途に口分田を保護し涵養していた無用の畔地が、絶好の膏腴之地として注目を浴びたのち、私に開田占地することが認められたので、無一文の畔地に経済的な価値が生じています。その畔地の平穏な利用権は口分田の受田戸に与えていたとしても、更に加えて開田占地権を与えたときには、班田収授の法制を立て直す意味でも、なんらかのケジメが必要とされたと思います。
(A)
賎田1町の身にして、(AB)良田1町の租稲15束(不減)を負うようになったのは、このときではないか。

おわりに
代(しろ)という単位の独自性をはじめて認めることになりました。
は、いわゆる束代(つかしろ)とは、趣きを異にするものです。
束代はどんなに違うかというと、はやいはなしが、
 田1町(本地2500歩)は 500束代。 熟田500代(2400歩)は 480束代。
これ自体はまだ僅かな違いでしたが、窮鼠猫を噛むというか、切羽詰まって、一段と大きな違いを誘発することになったのは皆さんご承知のとおりです。
を純粋の土地面積単位と認めて、生産性の軛(くびき)から解き放て。
.

おしらせ.  2007.7. 26.

 高麗術「以250歩為段」の意外な効能 米升法とものさしの内)

(答。幡云。) 
  令以五尺為歩者。是高麗法。用為度地令便。
  而尺作長大。以二百五十歩為段者。亦是高麗術云之。

 『高麗法』と『高麗術』のことは、僅かに『令集解』を通して知るのみですが、
 とくに『高麗術』の場合は、歩を、もと(6尺)の1.2倍の、大6尺に伸ばして、(1段)360歩を(1段)250歩に数え直したというだけではない。
『高麗術』で測る田では、
 段租稲2束2把の内から、稲7把が免除され、稲1束5把を納めればよくなる。
という不思議なことが起きていた。
 そこで、ことをこのように運んだ『高麗術』の測り方はどういうものかというと、

〔左〕 「熟田5代」という耕地の面積は36歩。租稲2把2分がかかるひろさです。
その周囲は25歩。長さ6尺の紐を24本連結した「エジプトひも」で測定済みです。〔←図上〕
〔中〕 そこにまた、長さ大6尺の紐を20本連結した「エジプトひも」を張り巡らす。
 これはなにをしているのかというと、「熟田5代」の(標準的な)本地のひろさを、間接的に測定しているのです。〔←図〕すなわち、本地の周囲は20歩と推測され、面積は25歩になります。
〔右〕 したがって、1畝(熟田5代)には租稲1把半が割り当てられます。
 これの10個ぶん(10畝)により、「250歩を以て段をなす」と租稲1束5把です。

.あとがき 2010.12.13.〕
 1代は4.8歩で、5代は24歩。代(しろ)は不器用で潔よい単位です。
 班田1畝の本地25歩に1歩及ばずとも、ビクともしない真名板の鯉です。

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 かくして、班田1段の本地(250歩)は「熟田50代租稲1束5把」よりも10歩多いのに、「段租稲1束5把」として澄ました顔をしていたのですが、厳格な律令は悪事を見逃してくれなかった。慶雲3年9月15日「使を七道に遣して、始めて田租の法を定む。町ごとに15束。」という事件は、これがきっかけになっている筈です。

お知らせ 2009.11.25.

還って来た 取りつくし法の未来
(8) 球葱と帆立貝とライプニッツの円積率公式 2009.11. 7.
(9) 曲りなりにもパラボラの面積は見ればわかる 

おまけに、 距離   ベクトル単位なり という。

かりに歩がベクトルだとしても、ベクトルの大きさはスカラー値で示されるので、「ベクトル単位」という表現は怪しいと思いつつ、なおもそうしたのは、ベクトル値の大きさをスカラー単位で数えるような感覚もかなり怪しいと思い直したからです。
ベクトル(矢)の移動が、ある距離を喩えることには、4つの意味が考えられます。
1.真直ぐに結ぶ。2.間断無く結ぶ。3.迅速に結ぶ。4.ベクトルと見られる。
一言でいえば"遠距離愛"です。戀の矢が、射た時と同じ速さで、遠くにいる相方の胸にグサッと刺さるようなものです。その衝動の連続を距離というとき、ベクトルと見られるものの数をそのベクトル単位で数えたいという要望は至極ごもっともです。
そんなご要望にお応えして、歩は、ベクトル単位であったというわけです。
キューピッド(cupid)。長さの単位であるキュービット(cubit)との混同に注意。
空を飛ぶ矢は、風と重さの力で、へし折られてしまうけれども、"遠距離愛"の邪魔をする人はべつにいないので、ベクトル単位として歩があったとき、距離の矢たちが地上すれすれのところをビュンビュン飛び交っていた様子が偲ばれますが、そういう抵抗の無い平穏な空間が、国々が、早くから作られていなければならない。

古事記の拾い読みが進んで、大穴牟遅神すなわち大国主神が「始めて国を作る」ところに来ていますが、その様子はどんなかというと、「其の大刀を持ち、其の八十神を追い避し時、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎に追い撥った」とあります。
故持其大刀。追避其八十神之時。毎坂御尾追伏。毎河瀬追撥而。始作國也 
これはしかし、先師、須佐能男大神が命じたとおりに行なったまでのことですが、
其汝所持之生大刀生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而
つまり、"遠距離愛"の邪魔をするやつは山河の境涯に追い払えという。くせの悪い八十神たちを僻地に隔離して、抵抗の無い平穏な空間をひろく確保したわけです。なお、生大刀生弓矢は、須世理毘賣を連れて夜逃げしたときに、天詔琴(あめのみことのりこと)とともに盗んで来たものです。
負其妻須世理毘賣。即取持其大神之生大刀生弓矢。及其天詔琴而。逃出之
で、これらの品々が国作りの何を喩えているのか? 生太刀の直線形。弓と矢の直交。琴における弦の平行。さらに3者の〔かたち〕の響き合いを見て言うとすれば、
(1)ある地点から四方に矢が射られて、(2)垂直(十)に交わる2つの方向軸線が成立する。(3)2つの方向軸に対して、平行線(経・緯)が多く(沢山)描かれる。
八十神さんたちに対して、この構図は、「十は1つで沢山だ。」と言って決別しているようなものだと思いますが、生太刀生弓矢には、もう一働きしてもらいます。
(4)平行線(経・緯)上に長さがある。大刀の長さ(スカラー)を単位にして数える。
(5)平行線(経と経・緯と緯)間に距離がある。の長さ(ベクトル)を単位に数える
(6)平行線(経と緯)に囲まれて面積がある。弓矢の面(ベクトル)を単位に数える

よって、国作りの基本であるこの測地システムのすべてが須佐能男先生の考案になるものです。ただ須佐能男大神が出雲に王居していたときには、地に下ろすことが(なぜか?)出来なかったので、いまだ駆け出しの若造に助けを求めて、実用化プロジェクトの経営権を譲渡する羽目になった。情けないといえば情けない話ですが、裏を返せば、大穴牟遅神こそ、大神のプランを現実化する性能を完備した、偉大なる神様であったということになります。
しかしこのとき、「大国主神の人間性が素晴らしかった」と言えばそれまでです。ここはなんとしても、「大穴牟遅神の物性が素晴らしかった」と言って賞賛すべきところなので、それからして、「オオアナムチ開発の苦労話は『プロジェクトX』で語ればよかろうたい!」というふうに話を進めたいものです。(地上の星;中島みゆき)

 風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処へ行った 見送られることもなく

大穴牟遅神。「大いなる穴ぼこ」という精神。永遠に凹み続ける凹み(へこみ)。
オオアナムチ。これは、移動するベクトル(矢)に無抵抗なところにかけて、今でいえば「常温超伝導をついに実現した」に等しい素晴らしい素材であったといえます。
それからして、古事記といえども、開発者たちの苦労話をしっかり語り伝えています。いずれにせよ、大穴牟遅の神の名にかけて、凹みの研究は重要だということで、あとは本文(9)を見てください。

申し遅れましたが、本文(8)は、ホタテ貝に見られる"天然座標"のことです。
確かに「ヴィーナスの誕生」を揺籃しただけのことはあります。ホタテ貝の扇状の二枚殻は、座標たるの要件をすべて備えていた。円積率(π/)の追求は、ここにおいて、「美しい公式」を誕生させずにはおかないという。

☆ 古事記(原文 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kojiki1.txt)拾い読み
       ( 文字化けして読めないときには コピペファイル )
折に触れて古事記の心当たるところを拾い読みしているページに☆を付けました。
古事記(BC712)という書物については、太安萬侶(おおのやすまろ)という朝廷の木っ端役人が濫りに空想したところの神代の有様が思いきり描かれている。そんなものだと考えています。とりわけ、易の道、陰陽五行八卦思考の乱用は目に余るものがある。その良い実例が「八俣遠呂智」です。
爾速須佐之男命。拔下其所御佩之十拳劔。切散其蛇者。肥河變血而流。
                       (金)     (生)     (水)
八俣遠呂智(怪しい気体)に剣(金)を当てたら血(水)が(生じ)河になって流れた。
と言うことですが、五行相生サイクル(左図)において〔金生水〕というのは、冷たい金属材料が露を結びやすいことを根拠にした似非科学であまり信用できません。十拳剣(金属材料)よりも、それに切り散らされた八俣遠呂智(怪しい気体)の方が、もともと水気たっぷりの材料であったことを推測させます。

.

お知らせ 2009.9. 20.

ローカルな地理空間の創出と測量の起源。
 三身之綱と遠呂智のなぞなぞ(改) 

 ヤマタオロチは想像上の巨大生物ですが、そういう巨大生物の遺跡が奈良時代にも確認されていた。というのは、出雲国風土記(BC733)に「国之大體、首震、尾坤。」と記されていることです。出雲の国体には首(頭)と尻尾があり、首は震(卯)に向け、尾は坤(未申)に向けているという意味ですが、これを言葉の綾だというのは臆病です。しかし、これほどの巨体になると地上では身動きが出来ないので、龍のように空中を風に乗って移動していた。実際、安萬侶は、ヤマタオロチの本性を、〔水を呑む蛇〕すなわちであると考えていたようです。

虹は川や池、沼などの水から出るという信仰は日本では広い地域に拡がっている。.......。ことに印象深いのは、琉球において虹は雨を呑むものと考えられていることである。...........。たとえば瀬戸内町薩川のユムグトゥ(誦み言)は、虹を擬人化し、その出現の理由を問いかけ、その理由は雨水を飲むためだろうとの憶測から、雨水を飲むのなら、飲んでさっさと唐大和(他界)へ消え失せろと、いかにも虹が水を飲む生命体であるかのようにその竜蛇的怪物の即座の消滅を願望しながら歌いあげている。............
 (大林太良:銀河の道 虹の架け橋)

高天原から追放されて、出雲の国は鳥髮の地に降りて来たスサノヲ命ですが、
 (故所避追而。降出雲國之肥河上在鳥髮地。)
簸伊川の上流から箸が流れて来たのを見て、人家を求めて遡って行くうちに、老夫婦がひとりの童女を中に置いて泣いているところに出くわします。
 (老夫與老女二人在而。童女置中而泣。........。僕名謂足名椎。妻名謂手名椎。
  女名謂櫛名田比賣。)
この情景を濫りに解説すると、奥山に降る冷たい大粒の雨が、森の水になって幽谷の小沼に湧き出し、簸伊川の源流をなしていることの喩えです。二人して泣いているのは、天気図を見ると温帯低気圧が通過中で寒冷前線がかかっているので、乾いた冷たい風が湿った暖かい風を冷却して雨雲をつくり、時雨(シグレ)の雨を降らせます。童女は、清純な水の精、美しい水娘というわけです。実は、老夫婦の間には水娘が8人いるのが本当だというのですが、清らかな水が析出する光の彩を、7色でなく、8色に数えたのは八卦に配当するためと考えられます。
 (我之女者自本在八稚女。)
ところが、高志の国(他界)から八俣遠呂智がやって来る季節になった。毎年のことだが、渇いたやつが沼の水を飲みに来ると、水娘達は蒸発していなくなってしまうので、それが悲しくて最後にもう一雨泣いていたというわけです。
 (是高志之八俣遠呂智毎年來喫。今其可來時故泣。)
しからば問う。その八俣遠呂智の形や如何に。
 (爾問其形如何。)..............とりわけ、その〔かたち〕を尋ねている。
ところが、答えは謎々(なぞなぞ)で返ってきました。
 (答白。
  彼目如。身一有八頭、八尾。亦其
  其長度谿八谷、峽八尾而。
  見其腹者。悉常也。【此謂赤加賀知者今酸醤者也】)
  ..............その〔いろ〕〔かたち〕〔大きさ〕を述べている。

これは、「八俣遠呂智」というよりも、にひっかけた謎々です。ただ「虹は多彩な湖水を飲んで色づく」というのは科学的な説明とは異なりますが、そんな虹蛇には毒酒を飲ませて悪酔いさせるのが楽しみになります。毎年恒例の来客を迎えるにも、今年は趣向を変えて、8色の色とりどりの酒をお供えすることにしました。
 (釀八鹽折之酒。.......。置酒船而。毎船盛其八鹽折酒而待。)

(ここまでの話から、ヤマタオロチは旱魃をもたらす虹蛇だったということが明らかになりました。しかし、お呼びで無い余所者を玄関先で追い返そうとするのでなく、座敷に招き入れてどうこうしようというのは様子が変です。時代は下手な雨乞い芝居も打切りになる大きな転換期を迎えているのですが)、
何も知らない風来坊は、虹色のカクテルをただの水と見誤ったのが命とり。気の毒に急激な脱水症状を起してショック死したので、空中に浮いていた身体はどてっと倒れて、地上に伏し横たわりました。
 (乃毎船垂入己頭。飮其酒。於是飮醉。死由伏寢。)
天空から倒れて来たとき、同心円を重ねた扇形の虹蛇は、8つの首を震に、8つの尾を坤に向けて、1つの身は出雲国の全土を覆ったというと、出雲国風土記に直通しています。

 これで古事記と出雲国風土記の接合面を一つ確保したつもりです。発見に手間取りましたが、キーワードはでした。ですから、安萬侶が「蛇」と書いているところは〔ニジ〕と読んでおけば間違いないと思います。
 (爾速須佐之男命。拔下其所御佩之十拳劔。切散其者。肥河變血而流。)
 〔序〕......(寔知懸鏡吐珠。而百王相續。喫釼切。以萬神蕃息歟。)


 先ほどは、父母が水娘を慈んでそぼそぼと降る涙の雨でしたが、二人共感極まって大雨になったときには「洪水」をひきおこし、河は氾濫します。

 「氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量と幾何学が発達した。」というのはナイル河の話ですが、あとは本文を見てください。
..


お知らせ 2009.7. 3.

 千石船の才数をめぐる机上の空論

  才という単位 (才数)は、個々の貨物の体積を
数える、容積を数えるというよりも、トラックの
貨物室や倉庫などの収容スペースを数える
ためによく使われている単位です。
.

お知らせ 2009.3.18.

還って来た 取りつくし法の未来(7)
               
インテグラル
 
天才ライプニッツと、一反木綿()と、〔分数の概念

  

π.........1...1...1...1...1. 
..1−―+―−―+―−―+−・・・ 
........3...5...7...9..11..  (→ ∞)

足し引きする単位分数たちの正体は正方形の面積です。ライプニッツ(1646_1716)においては、正方形1を関数(0≦≦1) n が切り分けた面積でした。ただ「円周率の公式」に連なると、/+1 を占めるという大きさだけが必要ですが、

(楕円形に従って層を重ねてゆきます。)

不必要なそのかたちまで、ライプニッツが見ていたように、再現してみました。 

 おおよそ分数は〔比を有する数〕ゆえに、上下に2つの整数が並べてありますが、上方の整数がとりわけ1であるのが単位分数です。その1の〔かたち〕は基本的には正方形ですが、その面積の大半を片隅から齧り取られても、正方形の2辺と要点3箇所を固守しているので、2つの整数の大きさを比較するのに困らない。私は、ライプニッツ固有の分数の概念はこれであったのではないかと考えます。だいたいこんなことは、天才ライプニッツ が思わなければ、誰も思いつかないと考えるからですが、もちろん私にしても、以下のPDFファイルを見るまでは、夢にも思わなかったことです。

 青年ライプニッツ会心の円周率発見 中村滋
 
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~851051/maed/009nakamura.pdf

 私のページ(天才ライプニッツと一反木綿( )と〔分数の概念)は、その内〔3 ライプニッツの円周率公式の発見〕のところを書き写して、いくつか説明図を加えたものです。すこし関連して、四角錐を切り分けてわかる3で割る3つの理由 を書き直したので、底面積×高さを3で割る理由が、/ という分数が持っている / という欠陥の自覚を通して解明されることに興味のある方は是非見てください。

 

お知らせ 2009.1.18.  

還って来た 取りつくし法の未来
(4) 九章算術「方田」章に同居する〔分数の概念〕
(5)  劉徽注九章算術方田 (原文と勝手な解釈) 

 「方」という概念が分数にも浸透していることを指摘するために、「乗分術」のところを紐解いて、つぎの問題を堅実に図解したはずでしたが、

 馬5匹直金3斤今売馬4匹7人分之
 
人得幾何

いまどきの分数は何かと小難しくて、理解するのに骨が折れます。この手の課題を分数掛算(乗分術)で解く理由が、半年かけて、ようやくわかりました。理由は、計算式の奥に比例が潜んでいることですが、私の図解ではそれを明らかにしきれていなかったことがわかり、やはり計算の途上において比例の結びつきを見せるのが一番だったということです。

  3 ×  12  ×  20  ×  12
  ― × ― = ―― × ―― = ――
  × 7  20  ×  35  ×  35

 この課題に先立って、
 馬20匹、直金12斤。今売馬20匹、35人分之。問人得幾何
という分数割算(経分術)の問題が出されていたので、なおのことそうすべきでしたが、私が「馬20匹を計算に載せる必要」を思い知らされたのは、自分の図解をうろうろと見ていて、

 馬4匹()には2つの意味が見てとれます。1つの意味は、金3斤()に掛って、その積が金12斤()になる。この関係は計算に載っています(×12)。
あと1つの意味は、馬5匹()に掛って(向きは同じですが)、その積が馬20匹()になる。ところが、この関係は計算に載っていなくて、むなしく図解されているので、いったい私はどういう仕分けをしたのだろうか?と、しまいには図解の意図さえ疑わしくなった頃に、「図解された関係は(送り返して)計算に載せればよい」ということに初めて気付いた次第です。
 ただし、これは(/20)になります。実は、馬4匹()にはもう1つの意味がありました。馬5匹()に掛けられて、その積が馬20匹()になり、(20/)になります。 馬4匹()は、贅沢にも、3つの意味を持っていたわけです。

 馬4匹()を、馬5匹()に置き換えて、馬5匹()においても、その3つの意味を見定めると、双璧が完璧になりますが、すべて後の祭りで、図解したときに必要な分析ができなかったのは恥かしい。  (あとは本文を見てください。)

 

おしらせ.  2008. 4.04.

男は3束。女は2束。租稲は人頭税だということがわかる。
 
『天平十二年(AC740)遠江国浜名郡輸租帳』を読む

今、田1町が有る。租稲15束を収める。男5人(女7人半)の口に分けて授ける。

 男は、口分田2段を貰って、租稲3束を負い、
 女は、口分田1段120歩を貰って、租稲2束を負っている。
 国(郡)は、田1町ごとに租稲15束を収めている。

〔ここで問題です。〕

 この租稲15束は、田1町にかかる地税でしょうか。
 それとも、男5人(女7人半)にかかる人頭税でしょうか。

私が答えるとすれば、
〔答え〕 口分田の租稲は最初から人頭税です。すこしも地税ではなかった。

よく「租稲は地税だ」と言われますが、そう言う人は、大宝令の田令の第1条
「凡田、長30歩、広12歩為段。10段為町。段租稲2束2把。町租稲22束。」
これを見て、そう言っているのです。しかし、
田1段の耕地360歩の内に、本地は250歩あるものとされていた。
それで、輸租式によって「町租稲15束」がおこなわれていたのですが、
『天平十二年遠江国濱名郡輸租帳』を見ても、この部分はブラックボックスになっています。開いて見たいというときには、「輸租帳を読む」というよりも、「輸租帳の角に頭をぶつける」という感じになるのもやむをえません。

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