還って来た風土を測るものさし   home

序章; 藤原京跡出土木簡 弘仁元年(810)十月廿日収納稲事 を読む。
     〜或る庄園の出納簿に見る 田1町 というかたち〜

  番外 間違っていました 2005.9.9.
      「この庄田の1町は藤原京の地割に立脚している」という私の見通しは間違っていたようです。

  1.(原文)木簡解読文 『古代日本を発掘する-6 古代の村』鬼頭清明;岩波書店、p.5。

  2.(帳尻合せ)会計(不明束把数)復元案

  3.(地図)藤原京と平城京

wpe1.jpg (78842 バイト) 右のサムネイル画像を クリック してください。

 地図に託して 難波宮造営のこと 04. 8. 7.  藤原京のこと 8.12.

  4. 藤原京の町並み 8.20.      5. 籾米から玄米に 〜体積と重量の変化〜 8.25.

  6. 木簡を読む(表面)  9.13  参考資料 太政官符「応令依法処分損田事」 10.17

  7. 木簡を読む(裏面) 10.15 8. 米1俵の重さ 05.4.22. New

  9. 食べる貨幣 05.4.28. New


 番外 間違っていました 2005.9.9.

「この庄田の1町は藤原京の地割に立脚している」という私の見通しは間違っていたようです。

 律令時代の主要な税は、調の3つですが、そのうちは毎年水田で穫れる稲にかかる税です。
年毎に租を納める人は田の所有者ですが、
 田1租稲1束5把。1租稲15束
これを穀(籾米)にして、
 田1租穀1斗5升。1租穀1斛5斗
これを各地の正倉に納入するきまりでした。しかし、藤原宮庄園の木簡出納簿に記された租納の実情を見ると、

 田1租稲に当る穎稲18束7把半を用意して、
これを穀(籾米)にして、
 田1租穀として、稲穀1斛5斗を納めています。

 これを見てどう思いますか? (現在)私の見通しを率直にいうと、租穀の斛数が規定どおりなので、庄田の「町」も当然規定の広さであり、ただ穎稲束の実量が規定の束の /しかないというだけのことでしょう。

。. 地割のせいにするのはやめて
  `
この考えに戻りました
  ゚
この穎稲束で納める場合
  `四分の五倍の束数を要する
  ゚
租法の
 ¬
町租稲十五束L.
成斤の十五束を納めるので
  `
その実量は
  `成斤の束
  `五分の四になっていたのです
  ゚
結論からいうと
  `この穎稲束は
  `いわゆる不成斤の束
  `
どうも様子がおかしいですね
 ゚

 `
町租稲十八束七把半を納めた格好になっています
 ゚
租法の
 ¬
町租稲十五束L.
を穀にして納めているはずなの
可上租穀四石五斗四升料頴五十六束八把 別束籾得八升


二不得八定田三町百廿歩

約束していた問題をすこし考えてみます
  ゚
後に
  `表面の七段目のところであとで考えてみますと

 右側の縦書き文は、7 木簡を読む(裏面) の結びですが、上記の見通しに沿って書き改めた最新版のものです。 一年前に書いた文は跡形もありませんが、キャッシュ(google)が残っていたので、参考のために要所(↓)を写してきました。
 ちなみに、一年前に、このシリーズを勢いよく開始したときに、私が立てていた見通しはというと、

 租稲(料稲)18束7把半は、「常免二分、令輸八分」の法によって、/ が減じられた結果なので、
 この田1町は、規定(町租稲15束)の 25/16 倍にもなる 租稲 23.4375束 を納める田ということになる。
 そうなると、この町の地面のひろさも相応のものが必要ですが、
 藤原京の町並みは、長廣各75歩の坪を基本にして、造成されているので、その跡地にある田1町は、藤原京の残存地割をそのまま用いていたとすると、ていよく噺の辻褄が合う。

 今では、奇妙な構想に執着していた自分を反省していますが、こういうトリックに惑わされたことは決して無駄ではなかったと思います。欺し欺されている内に、「二不得八定田3町120歩」が算定される道筋が見えてきたからです。

 出納簿を見ると、「元年佃3町6段120歩」の中から、何かわからない6段が除けられて、「二不得八定田3町120歩」が認定されているのですが、それがまたよくできた噺になっていて、その6段に迎合する「地子(田)六段」があります。
 これに目をつけて、「
地子田六段の田租はすべて福万呂が負担したのだろう」と思い込んでしまえば、欺されたも同然です。
 この場合、「常免二分、令輸八分」の仕分けはまだ済んでいないわけです。これから仕分けをすると、輸租田は2町4段96歩という(誤った)結果になります。

注意!誤解です。

表面、6段目

. . . 実は
 `つぎの段において
 `明らかになります
 ゚

 `
一段の歩数が四五○歩になっています
 ゚その事
なお
田一段の歩数は一般に三六○歩なのに
 `
ここで
二割が軒並みに免除されていた
ようです ゚
という新制になり
 `
その年の豊凶を問わず
 `
田租の
今須天下田租
 `
戸別立率
 `
常免二分
 `
令輸八分
 ゚
つい四年前
 `延暦二一年七月一五日付の太政官符に
 ¬不二得八L.が転倒された表現と思われる
 ゚

二不得八定田三町百廿歩
稲はひとつも用いなかった
 ゚
この六段を除けて
 `
地子田六段の田租はすべて福万呂が負担し
 `
庄倉の

福万呂作四段又地子六段

同租上


自庄造二町六段百廿歩
されていたことが
 `ここで判明した ゚
行目のところに
 `
一二○歩の佃∧自庄造の田∨が記
六段のぶんしか読みとれない
 ゚欠損して読めない三
ころでも三行にわたって記されているが
 `
合計三町
になる
 ゚
庄園が所有する水田の明細は
 `
収納稲のと
ここでいう
 ¬
佃L.
は `庄が所有する水田という意味

元年佃三町六段百廿歩
更十二月廿五日下

表面、7段目

租穀
4升120歩

 租穀 歩数

 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩 ( 5)
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩 (10)
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩
 1升 30歩 (15)

1段租穀 歩数
1斗5升=450歩

 

 

 

 

 

 




正倉院運併上日正倉出納又□
□又

□又□
□又

裹薦四枚編併縄續人

食一束



女九人

別人
五斗

功食四束五把 別人五把

を収めることになっていたわけです
 ゚
この庄園の田一町租は
 `
穀二石三斗四升三合七夕五撮
常免二分を割戻して十分を復元したところをいえば
 `
二分を除けて
 `令輸八分を掛けた結果なので
 `
一石八斗七升五合になっている
 ゚しかし
 `これは常免
量ると
 ¬五石六斗七升五合L.になる
 ゚一町当りでは
 `
 ¬租穀四石五斗四升L.は
 `別束籾得一斗の普通の升で
 

料頴五十六束八把 別束籾得八升

租穀の一升三十歩に当たる割合になっています
 ゚
 

一二○歩
×
一斗五升/四升

‖四五○歩
 ゚

租穀
 ¬一斗五升
.がかかる田
 ¬一段
.の歩数は
 `
端の
 ¬四升L.
 ¬百廿歩L.にかかった租穀になる
 ゚
ていたので
 `
 ¬四石五斗L.は ¬三町L.の租穀に当る
 ゚
田一町の租は
 `
穀∧籾∨一斛五斗を収めることになっ
可上租穀四石五斗四升

表面終り

 本当は、つぎのように考えるべきです。
 「二不得八定田3町120歩」
は、いずれにせよ最後に選び抜かれた輸租田はこれだけだという。
 また、これの算定においては、6段+(0.8×3町)+120歩=3町120歩、という計算がおこなわれたのでしょう。

 出納簿には、「地子6段」について「同租上」と記してあります。
 これは、「この租穀も庄が上納したが、このぶんは減免にあずからず、
 租穀9斗を全納することになった。」という意味ではないかと思います。
 また、佃3町120歩の内、120歩ぶんの租穀4升は
 (その/が1升に満たないので)減免にあずかれない。
 したがって、6段120歩 は、そのまま輸租田に計上されます。(A)

 そこで、減免計算の母数は3町と推測され、「常免二分」によって、
 6段 が除けられて、残りの2町4段が輸租田に計上されます。(B)

 6段120歩(A)+2町4段(B)=定田3町120歩

簡単なまとめ

 以前、この木簡出納簿を見て、
 大和国内において、「民の小さな升と官の大きな升が並存している」という状況を想像しましたが、
 民の升と官の升(上)  2002.8.20  民の升と官の升(下)  2002.12.18 非常に見苦しいページです。

 「この庄田の1町は藤原京の地割に立脚している」という見通しが本当であれば、その大きな升でさへ、仮にする便宜的な用升法に過ぎないことになります。しかし、この構想は見事に粉砕されました。
 大和国内において、「民の小さな升と官の大きな升が並存している」という状況は依然として変わらない。

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