食べる貨幣  2005.4.28.記  2010. 7. 7.更新    弘仁元年十月廿日収納稲事を読む  目次    home

藤原京の遺跡から出土した木簡出納簿を見て、
奈良・平安の時代に"おかね"といえる物は唯一 稲(イネ)のみであったという印象を受けました。

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 しかし、千円札や五百円硬貨の類のみを"おかね"という現代の人には、昔は金銭にまさる安定した貨幣がもちいられていたといっても、それが食べ物だとは想像しにくいので、わかりやすくいうと、物々交換経済から貨幣経済に移行する時期に出現した実物貨幣ということになりそうです。

>穎稲の持つ交易品としての性格
>奈良時代以後のイネは、自給食料としてよりも、集落においては交易
>品としての性格を重視して、生産が行われていたのではないかと思い
>ます。貨幣経済以前の実物経済段階において、イネを実物貨幣と捉
>えることで、海・野・山の間の生産物の交易が、市場を通して円滑に行
>われていたことが理解できます。

簡出納簿を見ていると、庄倉に出入りする品は穎稲に限られ、これひとつであらゆる買い物が済まされ、あらゆる労働の対価が支払われるので、穎稲はたしかに交易にともなう実物貨幣であることが理解できます。

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こんなに強い頴稲でもって、たまには銭(ゼニ;銅貨)を買うこともありました。


○弘仁二年正月廿六日下百五十七束之中

  □□人々冬衣買直銭代沽百五十三(153)束 直銭廿三貫七百十五(23715)文 
                  (23715文÷153=155文)


 頴稲を売って銭を買った、つまり両替商?を介して、最終的には衣料品を購入しています。おそらく市で大量の布を買うときには必ず銅銭で決済していたのでしょう。それで、このとき頴稲1束の値段は(銅銭)155文であった。
 米、銅銭、絹・布。 古代日本の三大通貨が揃い踏みする中で、とくに銅銭貨幣の台頭ぶりを思わせる話です。しかし、「このとき銅銭155文の値段は(頴稲)1束であった」と言い張るならば(注)、頴稲は、布には、値を打つことが出来なかったけれども、銅銭には、しっかり値を打つことが出来ていた。言い換えれば、グー(石)は、パー(布)に不覚をとって負けたとはいえ、パーを負かしたチョキ(鋏)には圧勝していた。一勝一敗だから、なにも落胆することはない。

(注) ○和銅四年(711)五月。以2穀六升1 当2銭一文1、令3百姓交関 各得2其利1。(続日本紀)
    それから百年後(811)に、稲2把(→穀2升→米1升)の値段をいえば31文。稲6把(→穀6升)の値段をいえば93文。
    およそ穀0.65合を以て銭1文に当てているのが実情であった。

やたらに値打ちがあるものが貨幣になるわけではない。数多の商品に値を打てるものこそが真に貨幣なのだ。
しかし、穎稲がこうして特異な交易品になると、それをよいことにして、別の性格が現われます。


              凡海加都岐万呂十束    □□□廿日下二百卅三束八把之中
 人々出擧給十七束 .民浄万呂三束           .小主給出擧廿五束
              建万呂妻浄継女三束       凡海国人出擧廿
              大友三月万呂二束                  同福万呂出擧給廿


こうした出擧(すいこ)の記録を見るにつけて、頴稲が高利貸に適することを指摘せねばならない。(注1)

  <雑令>
   凡以稲粟出擧者、任依私契、官不為理。仍以一年為断、不得過一倍。 其官半倍。並不得廻旧本更令生利、及廻利為本。
   若家資盡亦准上条、役身折庸。

 古米を新米にしてもらった上に、一倍(100%)、半倍(50%)という利子まで要求する根拠はどこにあるのでしょうか? 種籾にすれば数十倍の収穫になるかもしれませんが、多くの場合は、食べて飢えをしのいだという債務者のひけめがあるのだと思います。

食べる貨幣はこれを貯蓄して富家の資本とするには耐久性が無くて頼りない感じがしますが、このようにして貸借というかたちでも新札になって年を越すのです。

(注1) 実際のところ、「人々出擧給十七束」では、彼らの細々として日銭にならない労役に対する俸給が、まとめて支払われたのではないか。また後日「小主給出擧廿五束」などでは、庄代官の職分の如き報酬が支払われたのではないか。だとすると、これらは一方的な給与支出の例に入ります。この疑いがぬぐえないので、別の史料によって、返済するところまで記録されているまともな出挙の例を掲げておきます。 

越前国正税帳 (継目裏書)越前国大税帳天平三年(731)二月廿六日史生大初位下阿刀造佐美麻呂

丹生郡
天平元年定大税穀伍萬伍仟壹伯陸斛肆斗伍升壹合玖勺
 頴稲漆萬壹仟貳伯陸拾捌束陸把
  雑用肆仟陸伯貳拾伍束
   舂米料稲参仟伍伯捌拾束
   匠手粮料壹仟肆拾伍束
  残陸萬陸仟陸伯肆拾参束陸把
   出挙貳萬漆仟陸伯陸拾貳束  
    身死人負稲参仟捌伯肆拾束 
    残貳萬参仟捌伯貳拾貳束  
     利壹萬壹仟玖伯壹拾壹束 

   并参萬伍仟漆伯参拾参束      
   古稲参萬捌仟玖伯捌拾壹束陸把

穎稲とは、実がまだ穂に付着している状態の稲のことです。
 摘み取った稲穂は一定の品質に揃えてたばねますが、その1たばが、穎稲の最小単位1把になります。10把を1束と数えます。
 稲は、穂を扱いて籾にし臼で搗いて脱穀精米しないと、枡でもって真実を量ることが出来ないので、「稲たば」の1個1個の中身は随分いい加減というか不確実なものに思えます。それがなぜ貨幣として信用されるのか?
 この疑問を解決するために、穎稲1把のかたちをこしらえてみました。
(あとがき)
ということで、更新前のページにはその写真がありましたが、量目を間違えていたことに気づいたので、削除しました。この頴稲1把には、当時の食べる米5合、その重は  64匁(240g)になるだけの稲実が含まれていたというのが、現在の私の考えです。
 汚名挽回ということで、"天秤棒"and"稲" をキーワードにしてネット検索したところ、差し替えるに格好の画像が見つかりました。
 早速、お詫びのしるしにコピペして口を拭いましたが、絵柄が違ってくると、見て考えることも違ってきます。
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 私は右の写真を見て、弘仁元年十月廿日収納稲事がおこなわれたその日の夕暮れのシーンを思い出しました。

  弘仁元年十月廿日収納稲事

  合1509束
    山田女佃2町6段1243束 又有収納帳
    凡海福万呂佃4段地子6段252束
    ■■■■■■■■■■■■■■■■収納帳

  同日下20束   使 石川魚主              
  葛木寺進者   上 三月丸・第□建丸・浄丸・福丸等 

  定残1489束

<稲束を天秤棒の両端に下げた女性が到着する>

 肇興/貴州/中国/Apr 2006 民族風情に溢れるトン族最大の村

 葛木寺に進上する頴稲20束は、4人で分担して運搬したようですが、やはり天秤棒に括りつけて運んだのではないか。

 稲穂が生まれたままのすがたで集められているが、まだ何も加工の手が加えられていない。この状態が「頴稲」ですが、一定量ごとに常々たばねられてあるというのは、考えてみれば変なはなしです。稲穂を集めてたばねるのは人がおこなうことですが、稲穂を結び束ねる藁縄さえもその稲の茎であるところを見るとなんとも不思議です。ここに結集した稲穂の一本一本が持っている強い集合力が融合して、自然にそうなったのだ、ということも考えられなくもない。とにかく驚くべき光景です。

はなしがまとまらない内に、頴稲貨幣はなぜ信用されたのか?というテーマに戻ります。

 最初に予定していた答えは、つぎのようなものでした。
  ・頴稲貨幣は、いつでも思う存分に数え分けることができるから、信用される。
  ・頴稲貨幣は、いつでも手にとって見て品質を確かめることができるから、信用される。
 いまは、頴稲が米実を隠さないところに注目して、つぎのように言いたい。
  ・頴稲貨幣は、米実が持っている利益を、いつでも見せびらかしているので、信用される。

 しかし、驚くべき光景を目撃して、もうすこしましなことが言えないものか。ただ稲米の食べられるという使用価値を見せびらかしただけでは、値打ちをするという貨幣の要件は満たしていないような気がします。かくなる上は、神仏の御利益のあるところを、見せてたもれ。
 これには、わらしべ長者のはなしが参考になりそうです。 参長谷男、依観音助得富語(今昔物語巻十六第二十八話)

 長谷寺の門前に落ちていた1本のわらしべが、物々交換の果てに、貧しい青年に、思わぬ富をもたらしたという話ですが、
 やや長い物々交換連鎖の始まりはこうです。
 貧しい青年はわらしべを大切に持って歩いていたら、1匹のアブがうるさく寄りついてきたので、アブを捕まえてわらしべに括り付けて歩いていたところ、向うから貴人の奥方様を乗せたりっぱな牛車がやって来た。アブがなおもブンブン飛び回っている様子を幼子が眼にしてわらしべを欲しがったので、青年がこころよく差上げたところ、代りの品として3個の蜜柑が下された。
 この出来事は後になって「我レ観音ノ示現ニ依テ、藁筋一ツヲ取テ柑子三に成ヌ。」と回想されますが、「柑子亦布三段ニ成ヌ。」 貧しい青年は、次にこの布で「吉キ馬」を買う幸運に恵まれ、この「吉キ馬」を「九条田居ノ田一町・米少ニ替エツ。」

男、券ナド枯メ取テ、京ニ髴知タリケル人ノ家ニ行キ宿リテ、其ノ米ヲ糧トシテ、二月許ノ事ナレバ、其ノ田ヲ其ノ渡ノ人ニ預テ令作テ、半ヲバ取テ、其レヲ便トシテ世ヲ過スニ、便リ只付キニ付テ、家ナド儲テ楽シクゾ有ケル。其ノ後ハ、「長谷ノ観音ノ御助ケ也」ト知テ、常ニ参ケリ。

 これには神仏の加護があったのだけれども、(それ自体は稲実を空無にして)何の値打ちも無いわらしべであっても、物に値打ちするという貨幣の要件を立派に備えていた。ひとつの社会実験の結果として参考にしたい。

食べる貨幣。 奈良・平安の時代には、稲(イネ)という"おかね"があった、ということを考えてみました。

追伸
 頴稲はなぜ、貨幣として信用され、利子を生む資本でありえたのか? 原因の追求が不十分に終ったので、 民族風情に溢れるトン族最大の村 から貴重な写真をもう一枚お借りしました。
 無造作に積み重ねられた稲束が奥に見えますが、前面にはモミ米を満たした竹籠がいくつも置かれています。
 モミ米(モミ、籾、籾米、穀)とは何かと言うと、稲穂を扱いて、わらしべから稲実を解き離したものです。
 頴稲も、籾米も、稲実の集合ですが、集合の構造に明らかな違いがあります。

 頴稲集合の成り立ち; あつまる〕  ⇒ 〔あつめる〕=たばねて藁縄で縛る
  (親族の類集)
 籾米集合の成り立ち; あつまる〕⇒〔散らす〕⇒〔あつめる〕=容器に収める
  (孤独な群集)

 稲実たちがその母親であるわらしべに着床するという、自然なるあつまり
これは空と大地が人々に贈る宝(たからもの)だから、自ずから価値のある品物ですが、この贈り物をそのままのすがたであつめたのが、頴稲だといえます。

 贈り物というお言葉に甘えて?写真をあと一枚拝借しました。
 谷あいの棚田が稲束のふるさとであった。
 ここで刈り集められて皆一様に束ねられた頴稲はやがて食べる貨幣となるのですが、「栴檀は双葉より芳し」というので、皆一様に束ねられることが、すぐにでも、何かに値打ちをいなかったのか? そのときのことを考えてみます。

<大量の稲束とモミが家の前に置かれる>

 左図は、田んぼから実ったしているところです。
単子葉植物を表すのぎ偏に多。文字どおり「している」ところです。
 移稲(mapping) 
これは、わかる人にはわかると思いますが、
 
写像(mapping)もじったものです。

ことによりけりですが、
稲の収穫作業には「自ずから地図(マップ)を作る」意味合いがある。

 ただそれだけのことを指摘するのが主眼になってしまいましたが、私的には近来希に見る絵柄で、これを今後どうしたらよいかと思う。

 まあ、「稲が移動する」という現象を包括せる文化概念として、「正一位稲荷大明神」があります。これは確実。文字どおり「稲荷」です。

 和銅開宝にはじまる歴代の金属貨幣、いわゆる『皇朝十二銭』を鋳造した、『鋳銭司』というお役所もありました。
 しかし、なんと言っても本命は、『稲荷寿司』です。
 狭苦しい田んぼ(田池)の一枚〃〃が『造幣局』になっていて、『食べる貨幣』は、ここで作られていたわけです。

さらに追伸
 これを今後どうしたらよいかと思う上図ですが、本当にどうしたらよいか。
 ためしに、「把握」とは、(状況を)つかね、たばね、にぎることだとしたら、上図には、「束、把」はあっても、「握り」が足りないようです。
 それなら、この3束(30把)の稲をついて米にして、飯を炊いて、「握り飯」にしてはどうか。しかし、それだけでは状況認識の向上は見られそうにないので、(この状況には必要不可欠と思われる)あと一つの材料を加えて、『稲荷寿司』をつくることにしましょう。

 ■歩之内得米1升
 頴稲2把 r+r ⇒ ■米1升

米1升は128匁、今でいえば3合3勺はまだ玄米だとして、白米3合の飯を一包みにしたジャンボ稲荷寿司になりました。

稲荷寿司(mapping)
ジャンボ稲荷寿司の調理には「自ずから地図(マップ)を作る」意味合いがあるのは勿論ですが、それはより高次の状況認識に導くものといえます。

 努さんが豆腐屋を始めたころ、材料といえばこの地域でとれる「畔(あぜ)豆」だった。昔は、田んぼを仕切る畔に大豆を植えて、畔を補強していた。これが畔豆だ。田んぼより一段高い畔に植えてあるから、日当たりや風通しがよく、とても品質のいい豆がとれた。その豆を使うと、香りが豊かでしっかりとした身の豆腐ができたという。
 今は、米作りのやり方が変わり、畔豆を作る農家はほとんどなくなった。現在、佐藤さんが使う材料豆のほとんどはアメリカ産である。

...... http://www.uonuma.jp/hito/jin/jin26/index.html

油揚げ(あぶらあげ)は、薄切りにした豆腐を油で揚げた食品。生揚げとは違い薄切りをした豆腐を使用するので内部まで揚がっている。慣用的に「あぶらげ」、あるいは「あげ」と略されることもある。「稲荷揚げ」、「寿司あげ」、厚揚げに対して「薄揚げ」と呼ぶ地域もある。...... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E6%8F%9A%E3%81%92

Aufheben(アウフヘーベン)】 ヘーゲル弁証法の基底概念であり、否定と保存の両面をあわせもつ言葉である。ふたつの矛盾・対立する事象、立場を統合統一し、 より高次な段階へと導くことを意味する。
 邦語で「止揚(シヨウ)」「揚棄(ヨウキ)」ともいう。.....
 http://www.aufheben.jp/hegel.htm

畔(あぜ)豆」を植ゆべし
元正天皇 養老二年(718)夏四月 ○乙亥 筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、暁習吏職。和銅末(六年 713 八月)、出為筑後守、兼治肥後国。勧人生業、為制条、教耕営。頃畝樹菓菜、下及鶏豚、皆有章程、曲尽事宜。既而時案行、如有不遵教者、随加勘当。始者老少窃怨罵之。及収其実、莫不悦服。一両年間、国中化之。又興築坡池、以広灌漑。肥後味生池、及筑後往々坡池皆是也。由是、人蒙其利、于今温給、皆首名之力焉。故言吏事者、咸以為称首。及卒百姓祠之。(続日本紀)
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正  田圃(池)    稲 → 米
反   畔(あぜ)  大豆 → 油揚げ
合  田(耕地)     稲荷寿司

結局私は何を言いたいかというと、

 俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー

http://www.tkamiya.net/junk/archives/004306.html

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「俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー」

これは、パー(布)が、グー(石)に勝ち誇って、言う台詞です。
たしかに、「反物」というくらいだから、田んぼの「町・段(反)・歩」に強いのも当たり前。
................ひとつの面積として田んぼの広さを測ります。
しかし、面積として田んぼの広さが測れるのも、グー(米→石)のお膳立てがあって、漸く出来ることではないか。
................ひとつの収量として田んぼの広さを測ります。
 (但し「田品」に応じて測る。例えば、上田1町穫稲五百束。中田1町穫稲四百束。下田1町穫稲三百束。)

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奈良・平安の時代に"おかね"といえる物は唯一 食べる貨幣 稲(イネ)のみであったという印象は変らない。

(猛暑により強制終了。脳ミソがダウン寸前。)

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