方向の流れ(III)    あゆみ(歩) home

 日本の常識は出雲の非常識!!!

     総説三行注の謎。

 100歩
 73里032歩
  得。而難可誤。

出雲國風土記の1歩は、やはり、6尺5寸4分5厘から6尺6寸ということで、これを常識としてお勧めします。

はじめに

「出雲國風土記」の各9郡の章を構成する雑記事の距離的要素を、私は、2つに分類しています。
   1、名所記事に伴う方程記事   2、通道記事に伴う通道程記事
しかし、方程通道程は、どちらも同じ情報庫(archive)から取り出(output)したものだから、距離的には同質のものだろうと考え、元の測量記録の性質と風土記への取り入れ(input)について、要点を指摘しました。

 1歩=6尺5寸4分5厘とする。(6尺の12/11

 ○元の距離記録の性質
      (output)
マンハッタン距離(Manhattan distance ;taxicab metric)であり、
いずれもその〔國〕の方向の流れに沿っていた。
 ○風土記への取り入れ
.      (input)
(測量記録)数丈を(風土記)数里数歩に読み換えた。(1里=300歩)
換算率は 6丈(=12尺)→11歩ごとにを加える計算をした。
.
もとより名所通道とは、誰が見ても、意義が異なります。

 〔方程記事の役割は、「地点を定位する」ことにある。
 〔
通道程記事の役割は、「みちのりを定量する」ことにある。

方向の流れを背景に、これくらいは確実にいえると思います。
 さて、「出雲國風土記」全体の構成を見ると、9郡の章を中に挟んで、巻首に第1章(いわゆる「総説」)が置かれ、巻尾に第11章(いわゆる「巻末通度」)が置かれています。
 第11章(いわゆる「巻末通度」)には、通道のすがたが出雲国全域を通して描かれているので、「惣枉北道程99里110歩。之中隠岐道17里180歩」などという(一道を踏破した)大きなみちのりが集計されます。
 第1章(いわゆる「総説」)には、「國の大躰」つまり出雲国全体の規模をあらわすために、(一国を縦貫した)みちのりがつぎのように記されています。

.
方向の流れ
 どの矢印を伝っても、みちのりはかわらない

  出雲国風土記。國之大體、首震尾坤。東南西山。北臨海。東西137里019歩。南北183里193歩。

 これを見て、東西・南北とも、通道の区々のみちのりを継ぎ合せた全てのみちのりだと思うのはさすがです。おそらく「巻末通度」の大きなみちのりを切り貼りしたものでしょう。しかしそれは、つぎの数値に終わります。

    〔通道東西程〕149里154歩。〔通道南北程〕200里067歩。(1里=360歩)

 そこで私は、総説の文をつぎのように写しなおして、転ばぬ先の杖、皆さんの注意を喚起します。

    (國之)東西137019。南北183193。(1=360

 斜体にした、 はどんなものか。これをもし情報庫(archive)から取り出(output)したならどうなのかということで説明します。

 =6尺とする。

 ○元の距離記録の性質
      (output)
マンハッタン距離(Manhattan distance ;taxicab metric)であり、
いずれもその〔國〕の方向の流れに沿っていた。
 ○風土記への取り入れ
.      (input)
(測量記録)数丈を(風土記)に読み換えた。(1=360
換算率は 1丈(=12尺)→2歩ごとにを加える計算をした。

 大宝令(雑令)は「凡度地、(大)5尺為歩。300歩為里。」と定めていたが、和銅6年格は「其度地者以6尺為歩。」と命じた。いずれにせよ 1丈(=12尺)→2 ということなので、1ごとに1を加える計算をする。
 そうなんですよ、川崎さん。直前に、6ごとに5を加える計算をしていた。そもそもこれが誤りで、ようやくここに至って、その誤った結果に修正が加えられるわけです。もっとも、出雲一国をあげて誤ったことをするはずもないので、換算率 6丈(=12尺)→11歩。これさえも律令格式に則った正しい作法のひとつであり、そこからまた別の正しい作法に移っただけのことですが。

 ○数里数歩 → 数
(1里=300歩) (1=360
(巻末通度)数里数歩を(総説) に読み換える。
換算率は 10歩→1110ごとにを加える計算をする。

東西149里154歩。→ 東西137里019歩。   南北200里067歩。→ 南北183里193歩。

 前は、〔6丈(=12尺)→11歩〕。今は、〔1丈(=12尺)→2〕。この間の、○数里数歩 → 数というと、
   換算率は 11歩→12。11ごとに1を加える計算をする。
こうするのが本当ですが、「取り入れ(input)時に、6ごとに5を加える計算をした」という私の根拠も完璧なものではないので、あまり気にしないでください。それに、著者(神宅臣金太理)は、ただ10ごとに1を加える計算をするだけではいけないと考えていたようです。彼の考えは、三行「総説注」を見るとわかります。

出雲国風土記。國之大體、首震尾坤。東南西山。北臨海。東西137里019歩。南北183里193歩。
 100歩
 73 032
  得。而難可誤。
老 細思
2枝葉1、裁2定 詞源1。亦、山野濱浦之処、鳥獣之棲、魚貝海菜之類、良繁多、悉 不陳。
然、不止、粗 挙2梗概1、以、成2記趣1
32出雲」1者、"八束水臣津野命"詔、八雲 立詔之。故、云2八雲立 出雲1

〔意訳〕 まず、80里020歩(24020歩)ごとに100歩を減じて、79里220歩(23920歩)を得る。
     つぎに、10ごとに1を加えて(23920+2392=26312)、73 032
     得る。 これが本来のやりかただが、
     被換算値(東西程・南北程)の数里数歩の不備を考慮すると、厳密な適用はちょっと厳しい。
           仮にそうした結果が誤りになることは眼に見えているから。

 彼が何を考えていたのかというと、田積において 5歩(=43.2尺) → 6(36尺)になるという距離の換算を考えていたのです。つまり、距離において、10000歩 → 10954 になるような率での換算を考えている。ただし計算の範例がやや凝っていて、100歩を除けるといい、1/10 を加えると、73 032 が得られるという。さしづめ被換算値は80里020歩(24020歩)で、
 まず24020から100を除けて23920を得る。つぎに23920に2392を加えて26312を得る。
 すなわち26312 ですが、これは 1=360 に数えるので、73 032 が得られる。

 ちなみに、(26312/24020)2=1.1999です。いずれにせよ の最善値を求めていたのだから、測量記録に回帰して、数丈の1ごとに1を加える計算をやっていれば、ことがら自体は難なく成功したかもしれません。しかし、そうしていれば、田積単位として「歩(=43.2尺)」と「(=36尺)」とが共存していたという重要な事実はここまで明らかにならなかったでしょう。企ては惜しくも挫折しましたが、その志は高く評価されるべきだと思います。
 天平五年(733)の出雲国において、「歩(=43.2尺)」と「(=36尺)」とが田積単位として共存していたという事実がなぜ重要かというと、この構えが一回り縮小されて、「歩(=30尺)」と「歩(=36尺)」とが共存しているという現象は広く日本全国の水田に見られたいう、日本の歴史を貫く普遍的な事実だからです。(起きて半畳、寝て一畳のモジュロール

 このページ(原題; と歩。或いは  と)は、もともと「風土を測るものさし」の1章を「方向の流れ」に編入したものでした。「東西137里019歩。南北183里193歩。」そして総説三行注の真意を明らかにするには、通道程記事が、「巻末通度」の章、つぎに「総説」の章に浸透し、しだいに統合されて、2つの大きなみちのりになってゆく過程を丹念に捜査する必要がありました。それはよいのですが、全体に古くなって、いまや無用の説明をしているところがあるのではないかと恐れます。たとえば方向の流れという考えは前からありましたが、その内容をいま見てみると、だいぶ的外れのことを述べているように思えます。

こうして方向と里歩数でもって各所の定位置が示されるということには、方向の流れに沿って
のタイルを敷き詰めるような土地区画プランの存在が必要とされる。

そんなこともあったかもしれないけれども、いまの私の考えだと、測量記録に数丈と記されたものが既に方向の流れを帯びているので、これではあべこべの倒錯した説明をしていることになります。
 ページを書き換えるに際して、こうした測量記録との関係を明らかにしたくて、はじめにいうことが長くなりました。

名所記事
 「出雲國風土記」には、意宇郡の「母理郷」を手始めに、幾多の名所が列記されています。

母理郷、郡家東南39里190歩。所造天下大神大穴持命、越八口平賜而還坐時、
来坐長江山而詔、我造坐而命國者、皇御孫命平世所知依奉。但八雲立出雲國者、
我静坐國、青垣山廻賜而、玉珍置賜而守、詔。故云文理。(神亀3年改字母理。)   〔意宇郡〕

 終りはというと、大原郡の 名所記事 の最終になるものはつぎの記事です。

屋代小川、源出郡家正東正除田野、西流入斐伊川。(无魚。)    〔大原郡〕

 こういう 名所記事 が全部で幾つになるか数えて見ました。
.

餘戸

驛家

神戸

寺院

山野

河川

湖・池

浦濱・嶋

合計

意宇郡

11

1

3

3

4

7

8

3

9

49

嶋根郡

8

1

1

7

6

8

87

118

秋鹿郡

4

1

5

7

6

5

28

楯縫郡

4

1

1

1

3

4

5

11

30

出雲郡

8

1

1

2

2

4

27

45

神門郡

8

1

2

1

2

9

2

5

1

31

飯石郡

7

15

5

27

仁多郡

4

11

7

22

大原郡

8

3

6

6

23

62

4

6

7

11

65

47

31

140

373

 このほか巻末通度に、軍団・烽・戍など10ヶ所の記事があります。〔例〕 暑垣烽、意宇郡家正東20里080歩。

 こうして出雲國風土記全体では、383件 の 名所記事 があることになります。ただし、「浦濱・島嶼」の記事は「自西行東」などと順番に列記されて、各々の定位置を示さずにいます。「方位・数里数歩」という定位置をもつ記事だけに限ると、名所記事の総数は およそ200件 を数えることになりそうです。
.

通道記事

 「通道」とは、ひとつの郡からほかの郡に通じている道のことですが、各9郡の章では、「通道」のことは章の末尾に載せられています。したがって、最初に見られる 通道記事 は、

.
   通道。通國東堺手間剗41里180歩。 〔意宇郡〕

最後に見られる 通道記事 は、

  (通道)通出雲郡多義村11里220歩。  〔大原郡〕

ということになります。いずれもその郡の堺までのみちのりです。「通道」は堺を越えてずっと続いていても、その先がどうなっているのかということは、他郡の章を開かないとわからない。
 「巻末通度」の章には、これらの 通道記事 を一緒に貫いて、山陰道など主要道の道中が順序よく述べられています。おまけに主要道の(國中央から終末までの)みちのりが通計されています。  巻末通度(原文)

巻末通度

区間数

意宇郡

4

正西道

9

嶋根郡

3

枉北道

9

秋鹿郡

2

(隠岐道)

(1)

楯縫郡

2

正南道

2

出雲郡

4

南西道

3

神門郡

5

東南道

4

飯石郡

6

驛案内

7

仁多郡

5

大原郡

4

合計

34

合計

35

惣去國程

4

.

 表の最後に「惣去國程 4 」と数えあげた記事はつぎのものです。

(國廰・意宇郡家)去.....至出雲郡家東邊。惣枉北道程、99里110歩之中、隠岐道17里180歩。
自十字街.....至國南西堺。(
通備後国三次郡。) 惣去國程166里257歩。 〔國中央〕→〔國南堺〕
 自十字街.....至國西堺。(通石見國安農郡。)
惣去國程106里244歩。 〔國中央〕→〔國西堺〕
隠岐道、(黒田驛)去北34里140歩、至隠岐渡、千酌驛。         
〔國中央〕→〔國北堺〕

4方(東・西・南・北)に向かうものとして を付けている記事は3個(南・西・北)ですが、欠けているあと1個(西)のみちのりが「41里180歩」であることはわかりきっていますので、「意宇郡」の章にある 通道記事 を身代わりにしておきます。

通道。通國東堺手間剗41里180歩。 〔國中央〕→〔國東堺〕

これで4方(東・西・南・北)の通計程が揃いました。

.
國之東西〕・國之南北

 最後にとりあげましたが、「総説」の章のはじめに、つまり出雲國風土記の冒頭にも 通道記事 があります。

出雲國風土記。國之大體、首震尾坤、東南山、西北属海。東西137里019歩。南北183里193歩。
  100歩
  73里032歩
   得。而難可誤。

 要するに出雲の国土の大きさを縦横の長さで示すという。茫漠としたことがらですから、初めは淡々と通り過ぎたところですが、全巻を繰り返して読む人にはたいへんな難関になります。それはどういうことかというと、2つの数値は「通道のみちのり」を累積した結果になるべきですが、実際に記載されている

(國之)東西137里019歩。南北183里193歩。

という数値は2つとも「通道のみちのり」とはまるでかけ離れている。個々に見ると、
 「東西137里019歩」はまったく「正西道」のみちのりに相当するべきものですから、

〔國東堺〕→〔國中央〕→〔國西堺〕
 〔東至手間剗41里180歩〔西惣去國程106里244歩〔東西148里124歩

この計算結果(148里124歩)がひとつの目安になるはずですが、「東西137里019歩」はこれに11里ほど不足しています。
 
南北183里193歩は、やや複雑ですが、「南西道」に始まり「正南道」「正西道」を経て「隠岐道」に終わる一筋のみちのりに相当するべきものですから、

〔國南堺〕→〔國中央〕→〔國北堺〕
 〔南
惣去國程166里257歩〔北34里140歩〔南北201里097歩

この計算結果(201里097歩)がひとつの目安になるはずですが、「南北183里193歩」はこれに18里ほど不足しています。
 従来この顛末を理解しかねて、「東西」の算定に関しては、「惣去國程106里244歩」は誤った数字で参考にならないと解説されています。また、「南北」の算定に関しては、このみちのりは「東南道」に始まるもので、「惣去國程166里257歩」は正しくても、この計算には関与していないというようにも解説されてきました。

 いずれにしても、前後の数値に相関性が見出せないとした上で、この「混乱」は出雲國風土記の記述の手違いに因るというふうに解説しているわけですが、私にいわせれば、このような解説が今なお命脈を保っていることこそ「混乱の極み」です。
 「惣去國程」を表に出した一番の意義は、これをもとに「國之東西137里019歩。南北183里193歩。」を算出したという手の内を明らかにすることにあると思われます。出雲國風土記が不朽の名著として現在に伝わっているのは、数的な根拠がきちんと積み重ねられていて全体の見通しがつくからだと思いますが、ここはそういう仕事の総仕上げになる大事なところですから、万一にも抜かりはないはずです。なおかつ、「惣去國程106里244歩」は原形を保った数字であることがほぼ確実ですから、そこに「混乱がある」と解説すれば、この書の原著者に対して実に失礼なことになるので、私は良しとしない。要するに、2つともには生かせないと早合点して、それなら「惣去國程」を犠牲にして「東西・南北」を救おうと、なんのかんのと言って「惣去國程」を亡きものにしてしまったのですが、これは一昔前の悪習であって、いつまでも続けてよいものではありません。今は「惣去國程」も「東西・南北」も伝えられた数里数歩がありのままに活かされる解説が求められています。しかもそれはすぐに出来ることです。
.

相関性がある。

 前後の数値に相関性があるということは、東西・南北を一緒にして見比べるとわかります。

 〔東西148里124歩〔南北201里097歩349里221歩=(349×300)+221=104921歩
   104921歩+10492歩=115413歩
  東西137里019歩 + 南北183里193歩 = 320里212歩 =(320×360)+212=115412歩

.
 前者の歩数(104921歩)を1.1倍した数(
115413歩)と、後者の歩数(115412歩)は、殆ど等しくなっています。
 これによって、前後の数は異なっていても同じ距離実体を表していることがわかります。
 すなわち、総説にある「里」「歩」は、巻末通度にあったときとは、単位の大きさが違うのです。
(同じ字で表されていても、前後の単位は大きさが異なるので、総説所在のものを「」「」と表します。)

 さてそこで、 東西137 019 〕・〔南北183 193という数はつぎのような経過を経て算出されたと理解されます。

1)まず、「東西」「南北」のもとになるみちのりが求められます。
 なお、1里030歩は、枉北道「意宇郡家〜十字街」間のみちのりが切り取られ、〔東西〕に配属されるものです。(右図参照)

  〔東手間剗41里180歩1里030歩〔西惣去國程106里244歩〔東西149里154歩

  〔南惣去國程166里257歩〕-1里030歩〔北隠岐道34里140歩〕 〔南北200里067歩

2) つぎに、総歩数(1里=300歩)を1.1倍して、総 数を算出します。これを、 ( =360 )に纏めます。

  〔東西149里154歩=44854歩=(44854+4485) =49339 =東西137 019

  〔南北200里067歩=60067歩=(60067+6006) =66073 =南北183 193

 10歩 が 11 に、12里(300歩) 11 (360 に換算されています。
 (すべての計算がぴったり合っていることを再検していただければ嬉しい。)

 以上のように、
(前の)「通道」においては、一般に「300歩を以って1里と為す」という法が用いられている。
(後の)「国之大體」においては、「360を以って1 と為す」という法が用いられている。
という内部事情がわかってきました。

 これはたいへんなことですが、「惣去國程」を復権する新たな境地。これを選ぶのにすこしも迷いはありません。

与えられた自分だけの 正気と狂気があって / そのどちらも否定せずに 存在するなら / 
ムダなもの溢れてしまったもの役立たないものも / 迷わずに選ぶよ そう私が私であるためにね / 
幸せの基準はいつも自分のものさしで決めてきたから / (浜崎あゆみ:TRAUMA

 マジで、そんなわけです。それにしても、「里・歩」に2つの流派があるということになると、早速その背景を追求しないといけませんが、その前に、「100歩 73 032  得。而難可誤。」という原注の意味を解明しておく必要があります。
.

100歩 73 032  得。

 この換算を正式におこなうなら、「100歩 73 032  得。」という微調整を加えないといけませんが、かえって面倒なことになりそう(而難可誤)なので、あえて省略しました。というようなことがコメントされていますが、これは

 80里020歩(24020歩)
   −100歩 (−100歩)
=79里220歩(23920歩) 〔11/10〕 (23920+2392)=73 032 (26312

まだ原数(里・歩)のときに、240歩 ごとに 1歩 を減じて 239歩 にする処置をおこなう。というようなことだと思います。仮にこの計算をしてみます。、

〔東西149里154歩 44854−186=44668歩 (44668+4466)=東西136 174 (49134
〔南北200里067歩 60067−250=59817歩 (59817+5981)=南北182 278 (65798

また、これとは逆方向( →里・歩)に換算する際の計算式は、

 80 024 (28824
   
−120 (−120
=79 264 (28704→〔11/12〕 (28704−2392)=
87里212歩(26312歩)

240 ごとに 1 を減じる微調整をしておいて、12 ごとに 1 を減じる。このようなかたちが想像されます。
ですが、要するにこの計算の始まりと終りを示すことによって、もっと重要なことがわかります。
.

「80里020歩(24020歩)」に始まり、「73 032 (26312 )」に終る。
 ()26312÷(歩)24020=1.09542。 同一面積における、歩数に対する 数の割合 (1.09542)2=1.19994。
.
「80 024 (28824 )」に始まり、「87里212歩(26312歩)」に終る。
 (歩)26312÷()28824=0.91285。 同一面積における、数に対する 歩数の割合 (0.91285)2=0.83329。

要約すると、同一面積における、
 歩数に対する 数の割合は、1.2=/
 
数に対する 歩数の割合は、0.833..=/

したがって、面積において、
 1 に対する、1歩の
大きさの比率は5:6である。
 
1歩に対する、1大きさの比率は6:5である。
 尺度をいうならば、
  1=36尺2。1歩=43.2尺2 である。

 こういう歩法の展開は、水田面積法の領域において、見られること(私は「田積の二意的な運用」と言っています)ですが、いちはやく、みちのりの領域にも浸透しているようです。
 
みちのり(距離)においては、
                 
2 : (歩)2 = 5 : 6。 

 1里=360歩、1里=300歩ということから、
                 
2 : (里)2 = 6 : 5。

総説三行注の謎 お縄は緩めのほうがいい。

 ちなみに、面積36尺2という1は、6尺。面積43.2尺2という1歩は、6尺5寸7分3厘(6.57267)ですが、 
 「80里020歩(24020歩)」の24020を、4000で割ると、6.005。
 
「73032(26312)」の26312を、4000で割ると、6.578。
 これを見て、1 =6尺0寸0分5厘。1歩=6尺5寸7分8厘。ということではなかろうかと考えました。
 つまり、
 水田の面積を測るとき、歩はこころもち長めに採りましょうという心得を、わざわざ数字で表しているわけです。
 徳川幕府の検地条目が、検地竿や間縄の1間の長さを、6尺0寸1分と定めているのも、同様のことだと思うのですが、こういう慣行にはなにかしら故事来歴があるのではないか。

 公孫鞅(商鞅)は孝公に仕えて秦を強国にした。彼は、法令の適用に於いて、極めて厳格であった。
 例えば、田地の申告の時,1歩が6尺を少しでも超える者があると、罰した。
 しかし、彼は厳しすぎる法律を定めたり、人を罰しすぎたため、多くの恨みを買っていた。
 
孝公が没して、恵文王の代になると、公孫鞅は、政敵の讒言によって、罪を得た。
 危うく逮捕を逃れる旅の途中、知り合いが経営する宿屋に立ち寄ったところ、宿屋の主人は「あなたは私の大切な友人だけれども、警察に通報しないわけにはゆかない」と言った。
 その言葉を聞いた公孫鞅は、「私が定めた厳しすぎる法律が私を縛るのか」と言って嘆いた。
 公孫鞅は車裂きの刑に処された。(十八史略)

 要するに、田税は余計に取ることがないように厳に気をつけようというはなしだと思います。
 しかし、広めの歩(長めの歩)が納税者の利益になるのは田圃の場合で、旅人には(長めの歩は)かえって不利益になりはしないかと思われます。ただ単に、8里(2400歩)から「10歩 7109(2629) 得。」というマニュアルではいけないのかと、お尋ねしたいところです。

.

通道程の素質

 およそ地上の距離を表すには、雑令(大)5尺為和銅6年格6尺を以て〔と為すのがノーマルな作法なのに、出雲國風土記の通道記事においては、面積において5歩=6になるが通用されている。しかし、国土の大きさはやはり というノーマルな作法によって表したい。ここで一括して換算を施せば、あるべき のすがたにすぐに改められる。これが換算の趣旨になると思われますが、著者は与えられた手本を忠実にはなぞらなかった(略算と微調整のうち略算だけをおこなった)。その一番の理由は、

〔通道東西程〕148里124歩   〔通道南北程〕200里067歩

という元になる数里数歩が、手本のとおりに換算するには、適しないものだったからだと思われます。もっとも2つの数値は、「惣去國程」の4つの数値を引き継いでいるだけなので、それらの適性が問題になり、

〔國中央〕から
 
→〔國東堺〕 通國東堺手間剗41里180歩。  →〔國西堺〕 惣去國程106里244歩。
 →〔國南堺〕 惣去國程166里257歩。 
→〔國北堺〕 隠岐道、去北34里140歩、至隠岐渡、千酌驛。

という4つの惣去國程を構成する個々の数里数歩の素質が問われます。
.

→〔國北堺〕 ◎ 隠岐道、去北34里140歩、至隠岐渡、千酌驛。

 一部の 通道程記事では、つぎのようなことがあったと考えられます。
 
(測量記録)数丈を(風土記)数里数歩に読み換えた。(1里=300歩)
 換算率は 6丈(=12尺)→11歩。6ごとに5を加える計算をした。

(出雲郡)  ◎通神門郡堺出雲大河邊、2里060歩。        360丈  →   360+300=660
(巻末通度) ◎枉北道、去北4里266歩、至郡北堺朝酌渡。    800丈  →   800+666=1466

(嶋根郡)  ◎通意宇郡堺朝酌渡、11里220歩。之中海80歩。  1920丈  →  1920+1600=3520

(巻末通度) ◎ (正南道) 又南23里085歩、至大原郡家。     3810丈  →  3810+3175=6985

(巻末通度) 隠岐道、去北34里140歩、至隠岐渡千酌駅。    5640丈  → 5640+4700=10340

(巻末通度) ◎惣枉北道程99里110歩。之中隠岐道17里180歩。16260丈 → 16260+13550=
29810歩
(大原郡)
  ○屋代郷、郡家正北10里116歩。           1700丈 →  1700+1416=3116

5640丈 → 34里140歩、この間の換算率は11/6です。
5640丈 → 31120、(1丈→2)この間の換算率は2/1〕=〔12/6です。
  11歩12 になる。
これだけの単純な換算に止めればよい。手本のとおりにしたら、誤った結果を招くのはもちろんのことですが、簡略した換算では10歩11 にしたために、誤差がさらに拡がる結果になっています。

.
→〔國東堺〕
  通國東堺手間剗41里180歩。 

 意宇郡の中に意宇の國野城の國がある
意宇の國と野城の國)というのは方向の流れのことですが、
野城の國では、
野城橋原点的な位置を与えられている
と、私はいいました。

自國東堺、去西20里180歩、至野城橋。
長30丈7尺、廣2丈6尺。飯梨河。
又西21里、至國廰意宇郡家。
北十字街、即分為二道。一正西道、一枉北道。

 とにかく、
 〔
意宇郡家〜野城橋21里。
 野城橋〜手間関20里180歩。
 この2つに分けて考えることにします。

 意宇郡家〜野城橋21里。これについては、2つの〔國〕にまたがるといいながら、意宇の國が何里何歩で、野城の國が何里何歩という内訳がわからないので、簡素な丈数への回帰も怪しくなってきました。逆に、簡素な歩数からもっと単純な里数への傾倒が避けられないということでしょうか。

 野城橋〜手間関20里180歩。これについては、11丈→20歩 3399丈+2781=6180歩。測量記録が3400丈、いや3399丈ということはあるかもしれません。(この場合は、11の倍数が簡素な丈数とされる。)

 1歩=6尺6寸とする。

 ○元の距離記録の性質
      (output)
マンハッタン距離(Manhattan distance ;taxicab metric)であり、
いずれもその方向の流れに沿っていた。
 ○風土記への取り入れ
.      (input)
測量記録数丈を(風土記)数里数歩に読み換えた。(1里=300歩)
換算率は 11丈(=12尺)→20歩。11ごとに9を加える計算をした。

 そんなことをいうと、直前の意宇郡家〜野城橋21里。これについても、11丈→20歩 3465丈+2835=6300歩。測量記録が3465丈ということを考える必要があります。そういえば、総説の國程計算で歩数を1.1倍に増やして数にしたのは、つまり1歩=6尺6寸。1=6尺。ということなので、辻褄が合っています。数字が平凡だから見分けがつきませんが、11丈→20歩という取り入れも案外頻繁におこなわれていたかもしれません。

→〔國西堺〕 惣去國程106里244歩。  →〔國南堺〕 惣去國程166里257歩。

 いずれも多数の通道程を集計したものです。実際の計算経過は、つぎのページでくわしく検討しています。
 東西137019。南北183193
へ至る紆余曲折
 内容を見ると、正確な測量によらない通道程があることが問題になると思われます。これが甚だしいのは
「又 自2郡家1 南80里、至2国南西堺1通 備後国三次郡。」です。ひょっとすると、〔南北程200里067歩も元々は「200里」という観念的な数値があって、これに当てはめた「80里」ではないかと危惧されます。

 以上で、〔通道東西程148里124歩〔南北程200里067歩という元の数里数歩は、手本のとおりに換算するには、適当ではないことを確かめたことにします。
.

終りに

 はなしは 方向の流れ続・方向の流れ に戻りますが、

意宇郡家〜朝酌渡
4里266歩1466歩  800丈 41601600

神名樋野・周
6里032歩1832歩 1000丈 5200(2000

意宇郡家〜朝酌渡この長さが800丈であること。また、
神名樋野・周この長さが1000丈であることは、歩数の簡素な比例を見て、簡素な丈数を求める。このとき、(1丈は3.6mくらいというのは常識としてわきまえて)両遺跡間の距離を考慮するだけで、そのことを確信することが出来ました。
 これで
、1丈は3.6mくらいという常識のものさしが出雲の国にも通用することがわかって安心しましたが、その代償に、1歩が6尺5寸4分5厘にみられるというのは、1歩は6尺という常識に反していて、もうひとつ納得がゆかないところでした。

 いま、1 が6尺にみられる場面が一度限りにあったことが、東西・南北國程計算を分析してわかり、また、
 面積において5歩(43.2尺2)=6(36尺2という比率が根底にあることが、三行注を解釈してわかりました。
 そうすると、
 出雲國風土記の1歩は、やはり、6尺5寸4分5厘から6尺6寸ということで、これを常識としてお勧めします。

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