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. 田は、穀を樹ゆるところなり。 中国最古の字書「説文解字」は田圃の分別を左様に説いています。 「町」は、〔田〕〔丁〕〔畸〕という3つの要素から成る。 |
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この際には、「町」に総合的な意味を持たせたいので、〔田〕+〔丁+畸〕=〔町〕。というふうに理解します。
集合論のように表現すれば〔町(⊃田)〕ですか?
つまり町に包まれた田が〔町〕ということになります。右上の絵は、1枚の〔田〕が〔丁〕に包まれ、さらに〔畸〕に包まれている様子を鳥の卵の断面に見立てたものです。ただし、これは「水田の卵」なので、鶏の卵よりも、アヒルの卵だと思ってほしいのですが、いずれにせよ、〔田〕は〔丁〕に包まれ、〔丁〕は〔畸〕に包まれているという順序はおのずと明らかです。
「野」について
なお、遅ればせの説明ですが、田、町、畸のほかに、野というものの存在が無視できないことに注意する必要があります。
これは、〔畸〕の縄張りの内に、田圃でない土地も余儀なく含まれていることによるので、私が説明に困る状況ですが、昔の人は慣れたもので、ひろい「田」の内に、「田(開田)」と「野(未開)」が同居しているというふうに見ていたようです。(越中国東大寺荘惣券;天平宝字3年)
俣田村地130町8段192歩 東西北伯姓口分/南砺波射水二郡堺 / 開田34町192歩 / 未開96町8段 /
七條俣田上里3町6段280歩 田2町9段280歩
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野7段 /
一行五葦原田7段 六葦原田1町 / 二行五葦原田7段200歩 六葦原田4段 / 三行五葦原田1段80歩
また、景観を地図に描くときには、田圃以外のあらゆる土地を青緑の一色に見染めてしまうという。
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庄園図における彩色の意義 以上のように、彩色された部分はいずれも田ではない。少なくとも不輸租であり、現存の三点の古代荘園図の場合には、国家管理から除かれた私有地ないしそれに準じた土地であったことになる。逆に「田」については、すべての古代荘園図において無彩のままである。 (金田章裕著 古地図からみた古代日本 中公新書) |
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| (十三坪) 寺新家田3段200歩 (十四坪)合1町 寺厩田2段288歩 寺林7段072歩 |
(十二坪)合1町 垣内田308歩 寺院9段052歩 (十一坪)合1町 川原田寺田86歩 寺院9段274歩 |
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したがって、
ひろい「町」は、〔田〕〔丁〕〔畸〕と、それに〔野〕という、合せて4つの要素から成る。
ということも考えておきたい。
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町のかたち
〔田〕は、〔丁〕と〔畸〕の2重の膜に包まれている。
「説文解字」を頼りにして、「田」の全体像をアヒルの卵に喩えて描いてみました。つぎに問題になるのは、これら3つの要素は、実際の水田において、どういうものに当たるのかということです。私は以下のように理解します。
「穀を樹ゆるところなり」という〔田〕は、稲を植えつけて育てる栽培池。
「田の践むところなり」という〔丁〕は、畔(あぜ)。
以上の土地はあわせて農民に分配される。
「残れる田なり」という〔畸〕は、公共のために残す保留地で、ここに大きな道路が通されるはずです。
「町」は、現代の語感からすると、細々とした畔だとはとても思えません。しかし、斉民要術に「町皆廣一尺五寸長四丈八尺」と用例があるように、もとは農道の最も末梢のものを指していう言葉だったわけです。(
町
と 町 )
実際の水田景観は数多くの小さな水田が寄り集まって出来ています。
そのようすを見て、あらためて「水田の卵」の絵を描くことにします。私は、アヒルの卵を小さなトレイの上に落として、箸ですこし掻き混ぜたところを描いてみました。
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数多ある〔田〕は、一体の〔丁〕に包まれている。 また、道路が(110mほどの間隔で)縦横に通されているので、 数多ある〔町(⊃田)〕は、一帯の〔畸〕に包まれている。 というようなことになっています。その様子を描いたとしたら、右のような絵になるでしょう。 |
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〔畸〕に包まれた1つの部屋の中に、〔丁〕に囲繞された〔田〕が数多く存在する。しかし、〔町〕は常に一体をなしているので、1個にも数えられるわけです。
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町形の馬
「田」の一要素として、践むところという〔丁〕があり、これが「田」を形あるものにしている。
それにしても、倦むことなく〔田〕を囲い続ける〔丁〕の生きかたには独特のものがあります。これを象徴するような図像として「町形」というものに注目してみました。
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ぬかたべ
額田部之河田連。同神(天津彦根命)三世孫、意富伊我都命之後也。 ひたい つむじ |
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星 額にある白斑をいい、こぶし大以上のものを大星、母指頭大以下のものを小星という。 曲星
曲がった星、 http://www.equinst.go.jp/JP/arakaruto/mame/mame-shikibetsu.html 額田馬の環星は、円環ではなく圍環ですが、それも旋毛(つむじ)を巻いて、みごとな真四角を一筆に描いていたという。 |
続いての注目は7Rの3歳500万下。 ここには道営のハート王子と呼ばれたマサノウイズキッドが登場。
本当に額の星がキレイなハートマークなんだな(笑) |
ためになる話としては、額田部氏の始祖が『田町形』を天皇に献上して、それが田地面積のカテゴリー(範疇;盆茣蓙)として採用されたということでしょう。ただこれがひとたび天皇制国家の財産になると、「天の神が、一匹の馬に託して、町の図を啓き示した」という伝説が語られるようになったのではないか。さて、その馬はどこから来たのか?というと、その馬もやはり天から降りて来たのだというのが話が早い。
幸いなことに作り話の材料は漏れなく揃っていたのだということにして、町形の馬説話が形成されるに至る文化的自然的背景を調べてみました。
@
額田部氏の祖紳とされている『明立天御影命』は、「天目一箇命」という鍛冶の神様と同一視されることがあります。
A
眼が一つしかないおばけで、『目一箇鬼』という妖怪がいます。(今では「ゲゲゲの鬼太郎」というほうが通りやすい。)
B
『目一箇鬼』といえば、すがたかたちもそのままの「鬼(き)」という星宿があります。(かに座の内)
C
鬼宿に隣り合って、「井(せい)」という星宿があります。(ふたご座の内)
D ふたご座流星群の出現。(後述)
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四神の最後に位置する南方七宿の先頭に位置する2つの星宿です。
井宿(せいしゅく) 井宿は,ふたご座の足もとの部分の星が井の字型にならぶことからできた星宿です。 鬼宿(きしゅく) かに座の中央部の小さな四角形が鬼宿です。プレセペ星団のぼうっとした光芒を鬼火と見たことによります。 ひろさは違いますが、井宿・鬼宿ともに、星を頂点にした四角形によって厳重に垣囲いした形です。 |
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流れる星は生きている。
馬の飼育を生業とする人々も、鬼宿に懇親の思い入れがあるのは事実ですが、その内容が金物屋とはいささか異なっています。
これは、厩舎の内に一匹の馬が飼われている如くに見ているのです。つまり、プレセペ星団のぼうっとした火の気は丙午(ひのえうま)だというわけです。
それで、彼らにしても、鬼宿の星をして、我らが職業の"しるし"にしたいのですが、それがなかなか難しいという事情があります。
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彼らは、隣の井宿にも懇親の思い入れがありまして、これはこれで、柵で囲った飼育場の内に多数の馬が屯(たむろ)している如くに見えてしまうのです。 10月のオリオン座流星群、11月のしし座流星群と、今年の秋から冬にかけては毎月のように流星群が話題になりました。12月にも「ふたご座流星群」「こぐま座流星群」という2つの流星群が活動しますが、とくに「ふたご座流星群」は年による当たり外れが少なく、毎年まとまった数の流れ星が見られます。 冬至前の寒空に、天の馬牧場では、柵の出入り口を開いて、馬たちを放牧に出します。 |
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地上の星 つばめよ地上の星は今 どこにあるのだろう
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〔額田寺伽藍並条里図〕 街道を挟んで、南院(井宿)と馬屋(鬼宿)が描かれています (東南里卅五坪)
〔畔〕という契約
先日(2012年11月11日)放送された NHKスペシャル 中国文明の謎 第2集 漢字誕生 王朝交代の秘密 御覧になられましたか。
「殷」との戦いに勝利した新しい王朝「周」は、漢字を多部族との「契約」に使用するという発想の転換をした。言葉の違う部族でも見れば意味が分かる「表意文字」である漢字は瞬く間に広がって行った。やがて、大陸の広範囲に、言葉や文化の違う人々であっても同じ漢字を共有する文化圏が形成されていった。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1111/index.html
私が思うのは、読むよりも早く、辞典をひくよりも早く、直感的に理解される漢字の意味をとりわけて大事にしなければいけない、ということです。例えば、
畔という字は分解してわかる。田の半分だから〔あぜ〕という。
辞典をひくと「あぜ、くろ。田と田を二つにわける境界」と説明されています。たしかに「半は、二つにわかれる」ことですが、私が求めているのは、もっと荒々しい原初的な意味です。
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町という字は分解してわかる。田の横丁だから〔まち〕という。 このとき、町は〔あぜ〕でもあるので、田の半分のスペースが与えられます。 ところで、町という字は、田と丁を合せたものとしても、ひとつの意味をなします。 町という字を合成して、田の1つ半というひろさがわかる。 やはり、半の原初的な意味は、半分(1/2)でなければいけません。 「連帯を求めて孤立する半分( )」といえます。 |
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その昔、言葉の異なる多部族の間で、「畔」と記された書簡を通して、〔畔〕という契約がおこなわれた。
〔田半〕。みんなで「〔あぜ〕のひろさを田んぼの半分にすること」を約束したので、これによって、田町形のプロポーションが定まった。
漢和辞典には載っていない話ですが、私としては、「明り立つ天の御影」を拝見できるという話を信じないわけにはゆきません。
〔備考〕 丁半賭博に見る丁の変らぬ意味
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先日、カルバン・クラインの新フレグランス 「SECRET OBSESSION」のお披露目パーティにて、 博打打ちの姐さんから教えていただいたトリビアです。 問題:丁半博打の「丁」「半」とは、どういう意味でしょう? 答えは…… 「丁」は「丁度(偶数)」 なんだそうです。 「丁度」と「半端」だと、ものすごく覚えやすいですねー。 |
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博打打ちの姐さん。 |
ただ、鉄火場の場合〔|半|丁|〕は、そのまま1つになる。
一方、町場の場合〔|半|半|丁|〕は、1つ半にして1つになる。断然たる違いがそこにあるわけです。
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町と呼ばれるわけ
たんぼの面積は 町・段・歩 という単位で表されます。大宝令の内、田令の最初の条文に、その数え方の基準が示されています。
凡田、長30歩、廣12歩
為段。10段為町。段租稲2束2把。町租稲22束。
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| ここに朝廷から典型的な水田求積モデルが提示されているわけですが、この「段」は、うっかりすると、当然の如く1枚の田圃をなしているものと受け止められます。従来おこなわれている解説は、この受け止め方を推奨しているのですが、私はいけないことだと思います。
私のように町の構造を考えてゆく場合には、だだっぴろい「段」を最小の〔町〕にするのは無理です。形からいえば、"正方形"の大きな「町」は、同じく"正方形"の小さな〔町〕100個を寄せ集めた集積体としてあるべきものです。これについては、10畝を1段とする後代の慣行が参考になりますが、まだ表向きには行われていないわけです。しかし"善は急げ"とも言います。私は、この小さな〔町〕を「畝」と呼んで、「長6歩、廣6歩 為畝。100畝為町。」と言うことにします。そうすると、「畝」を10個まとめた1区切りが「段」ということになります。 |
小さな〔町〕の周囲は24歩。 |
周囲が24歩で、36歩の面積を含む「畝」は、これ以下には分割不可能な最小の〔町〕である。
周囲が240歩で、3600歩の面積を含む「坪」は、これ以上併合不可能な最大の〔町〕である。
| 大八木遺跡(群馬県)の水田遺構平面図 ここでは条里制の一坪の坪境の畔がみつかっている。他の畔よりやや大きく太めにつくられている。 |
10畝為段→「10段為町」のイメージ |
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「古代日本を発掘する6古代の村」鬼頭清明 岩波書店 |
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〔畸〕に包まれた1つの部屋の中に〔丁〕によって囲繞された100枚の〔田〕がある。しかし、〔町〕そのものは一体をなしているので、1「町」と見ることができます。
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畸がつくるかたち(阡陌)
「額田寺伽藍並条里図」を見ると、〔里〕と〔里〕の境目が二本の線で幅広く描かれています。これは、単に表現上のことではなくて、実地も絵のように区画されていたというように、私は、考えたい。これは条坊の大路が通されるという阡陌ですが、農民に分配されないはずの土地なので、「残れる田」すなわち〔畸〕にあたるものと考えられます。
これに対して、〔坪〕と〔坪〕の境目は単線で描かれていますが、これがほんの畦道であっても、「他の畔よりやや大きく太めにつくられている」ところを見て、〔畸〕の領分が僅かでも残されているとしなければならない。
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額田寺伽藍並条里図(復原複製) |
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上の画像は、国立歴史民俗博物館の許可を得て掲載しています。(著作権の範囲を越えて再複写などしないようにお願いします。)
元の画像は、歴博ギャラリーNo.3 http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/nukata/index.html 解説とともに大きな画像で見られます。
「額田寺」は「町形」にちなむ額田部一族の氏寺ですから、「町形」と「条里図」の成立に関係が何もないわけはないので、額田部は「田」の設計測量の技術に秀でていた氏族であった、と思われます。
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田1反のひろさ
(税を賦課するために)水田の面積を測るとき、畔地まで課税面積に算入されるかどうか。これは、当事者にとって切実な問題ですが、太閤秀吉が南九州を検地したときの斗代定書に「五間六拾間壱反事。但、あせ・井ミそ除之。」という一項があるので、畔や溝のひろさは課税面積から除外されたことがわかります。
もっとも、1枚1枚の田圃をつぶさに測量すれば、畔地の面積が混入する心配はないので、検地帳(水帳)は、田圃1枚の面積を一筆として、縦横の間数を示し、面積を算出したふうに整えられていますが、実状は不明です。
いずれにせよ、太閤検地における「町、段、歩」は、純粋に〔田〕のひろさをいうものであったといえます。
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250歩の段租稲1束5把の意味
同様に、大宝令(AC.701)の田令第1条が「長30歩、廣12歩為段。10段為町。」という形と面積は、「2束2把」或いは「22束」という租稲の束数から見ると、ひたすら〔田〕のひろさをいうものであったといえます。(令内租法)
凡〔田〕、長30歩、廣12歩 為段。10段為町。段租稲2束2把。町租稲22束。
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そして、租徴収の実務は、別途、「熟田百代租稲3束。町租稲15束。」という式に基づいて行っていた(令前租法)。慶雲3年(AC.706)9月10格は、この式を追認して、表向きに「段租稲1束5把。町租稲15束。」を掲げ、田令第1条の内、租稲束数に関する規定を棚上げにした。 凡〔町〕、長30歩、廣12歩 為段。10段為町。段租稲1束5把。町租稲15束。 |
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「熟田百代租稲3束」。したがって、田1町の内には500個あり、1畝の内には5個があるという「代」については、それほど小さな栽培池において稲を育てていた実情が考えられます。しかし、水田求積モデルとしては、熟田5代を含む1畝を、最小の〔町〕として定立するのも止むをえないと思います。 |
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| つぎに、(縄の20個の節目を外側の囲いに投影して、本当は長さ24歩になる周囲に「20歩」の標を印しつけて)本当は36歩ある〔町〕のひろさを「25歩」といいくるめる。この「25歩」の租稲は決められたとおりに1把半である。 | ||
結局、『高麗術』というのは、〔町(⊃田)〕という構造のひろさの比率が 〔田〕:〔町〕=25:36 であるものを一挙に出現させる魔術的な方法であると理解されます。それにしても、『高麗術』の魔術的な面積査定を受ける予定でなければ、田(長30歩、廣12歩為段。10段為町。)の形と面積は、決して〔町〕のようには取扱えないという現実。これは最初とても信じられない事態でした。しかし、田令全体を覆っていた曖昧模糊とした気分はこれで一掃されました。たとえば、田令第3条の「凡給口分田者、男2段。(女減3分之1)」にかかる田は、『高麗術』の面積査定を受ける〔町〕であり、男は2段(720歩)を給わり、女はその3分の1(240歩)を減じられても、怖くはないでしょう。男2段(500歩)には(決められたとおりに)租稲3束が課され、女は1束を減じられることは約束されています。ものごとがこのように運んでいたという証拠に、口分田を給いおわるときには、町段と四至がつぶさに記録されています。
| 田令第3条 | 凡給口分田者、男二段。女減三分之一。五年以下不給。 其地有寛狭者従郷土法。易田倍給。給訖、具録町段及四至。 |
(注) 《令集解》卷12,
又雜令云 度地以五尺爲歩 又和銅七年二月十九日格
其度地以六尺爲歩者未知令格之赴 併段積歩改易之義
請具分釋 无使 疑惑也
答幡云令以五尺爲歩者是高麗法用爲度地令便 而 尺作長大
以二百五十歩爲段者 亦是高麗術云之
即以高麗五尺 准今尺大六尺相當
故格云以六尺爲歩者則是 令五尺内積歩 改名六尺 積歩耳
其於之无所損益也 然則 時人念 令云五尺格云六尺
即依格文可加一尺者 此不然 唯令云五尺者
此今大六尺同覺示耳
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「場合」に強い代(しろ)という単位
かくして、町は
3600歩 にして、〔田〕は
2500歩
ということになっています。ただし、この「歩合」は、比率をいえば、=1.44:
(1.00) ですから、この「町」はとりあえず〔田〕〔丁〕のみを抱えていると考えられます。〔畸〕を含めた町(田半)が
〔|半|半|丁|〕をなしている「場合」というのは、どう説明したらよいでしょうか?
とりあえず「町は 3750歩 にして、〔田〕は
2500歩
になります。」と言えなくもありませんが、いきなり「歩合」にして言うのはおこがましくもあるし、なにか違うような気がします。「この場合もやはりこういう場合です」というようなべたっとした説明がしっくり来るので、やはり次のように表現されてしかるべきではないか。
町(田半)の場合、 |半(250代)|半(250代)|丁(250代)|
つまり、「町は
750代 にして、〔田〕は
500代 になります。」というわけです。
思い込んだら 試練の道を 行くが
男の ド根性
やはり、「場合」を数えるという根気のいる仕事は、よほど根性のある単位にしか任せられません。
なお、「町は
3600歩 にして」という、〔田〕〔丁〕のみを抱えている町のひろさは、720代
になります。
町(〔田〕〔丁〕のみ)の場合、 |〔田〕(500代)|〔丁〕(220代)|〔畸〕(30代)
これにより、町(〔田〕〔丁〕のみ、720代)は条里地割において坪をなしているものの、〔畸〕(30代)は大外枠に疎外されていることがわかります。
里(36町)の場合、 |36町(25920代)|〔畸〕(1080代) ⇒ 阡陌
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〔備考〕 「500,000代」という田苑1,000町のひろさは、〔750,000代〕です。
天武天皇十三年(684)冬十月
壬辰 逮于人定 大地震 挙国男女叺唱 不知東西 則山崩河涌 諸国郡官舍及百姓倉屋 寺塔 神社 破壌之類 不可勝数 由是人民及六畜多死傷之 時伊予湯泉没而不出 土左国田苑五十余万頃 没為海 古老曰 若是地動未曾有也 是夕 有鳴声 如鼓聞于東方 有人曰 伊豆嶋西北二面 自然増益三百余丈 更為一嶋 則如鼓音者 神造是嶋響也
天災は忘れた頃にやって来る(寺田寅彦)というわけでもないですが、この「五十余万頃」は"いそよろづしろあまり"と読むので、「五十余万代」と同意に理解されます。したがって、土左国田苑500,000代(しろ)余り没為海。つまり、町(熟田500代)でいえば、〔1,000町〕もの田んぼが海の底に沈んだことになります。
(慶雲三年格文中の「熟田100代租稲3束。町租稲15束。」により、町(熟田500代)ということは明らかです。)
ただし、町の場合は、〔|半(250代)|半(250代)|丁(250代)|〕です。したがって、先の500,000代を追って、丁(250,000代)までも海に沈んだので、合せて
750,000代余りの土地が海没したことになります。
いずれにしても、条里地割における1町は、109m四方で、およそ
12,000m2
になります。したがって、750で割る1代は、およそ
16m2 になります。
ここで、〔500,000代〕という田1,000町のひろさは、〔750,000代〕ですから、海没した面積は、12km2
余り という計算になります。
「田苑五十萬頃」というひろさはたかだか1000町に過ぎない。これは地震学者今村秋恒が初めて明らかしたことです。(鯰のざれごと
1941)
其一は「五十餘萬頃」の「頃」が讀めなかった為、陥没地域の廣袤に關して、途方もない誤解を生じたことである。
前文にある頃という地積の単位は しろ
と訓し、當時の5坪に當り、1坪は高麗尺(現今の1.1736尺)の36平方尺であるから、五十萬頃は當時の二百五十萬坪即ち現今の三百四十四萬坪に當り、五十餘萬頃といふ以上、五十萬頃乃至六十萬頃即ち11.3乃至13.7平方粁たるに相違なく、方1里未満の地積しかないのである。然るに古人は、五十餘萬という數字の膨大さに驚いて、室戸岬から足摺岬に至る廣大な地域が陥没したかのように曲解し、両突端の間の湾曲海岸は其の名残だなどと唱えるものすらあった。
240歩為畝。100畝為頃。 ・・・・ 唐令にしたがえば、五十餘萬頃は途方もなくひろくなります。
令前租法、熟田100代租稲3束。町租稲15束。 ・・・・ あの頃は代のことと看破して、ようやく田苑海没の実情に迫れます。
それはよいのですが、(熟田500代は2500歩にしかならないものの)熟田500代の1町はやはり3600歩のものだということを説明するときに、当時の1歩は高麗尺の36平方尺、という風説に乗ったのはいけなかった。これでは、代という単位の面目は丸潰れです。まことに罪な置き土産を残すことになった、といえます。
当時の1歩と現今の1坪は同じと言えば同じです。ただ、〔畸〕のために僅かに身を削っているところが違うといえば違う。
2500歩には、やはり〔田半〕の旗の下、町の場合
〔|半|半|丁|〕を踏まえて、〔丁〕(220代)相当の1100歩を追加するのが本当です。
それにしても、現今の方1里は1296町を容れるという。額田馬の〔町形おでこ〕もやけにひろくなったものです。
〔実地研修〕 ひろい「町」は、〔田〕〔丁〕〔畸〕と、それに〔野〕という、合せて4つの要素から成る。
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(十二坪) 垣内田308歩 寺院9段052歩 〔町〕61代6(308歩)内、〔田〕177代8(214歩)、〔丁〕18代8(94歩) 〔野〕658代4(3292歩) 〔合720代(3600歩)|〔畸〕30代〕
(十一坪) 川原田寺田86歩 寺院9段274歩 (十三坪) 寺新家田3段200歩 (野6段160歩)
(十四坪) 寺厩田2段288歩 寺林7段072歩 |
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ガラスの靴 と シンデレラ 下の表の説明は、語り継がれる令制1里の嘘
に譲りますが、 (雑令) 凡度地、5尺 為歩 。300歩 為里 。 大宝令がいう「300歩 為里
」の真実は、「5尺
為歩
」が京間なることを知る人ぞ知る。京間の足跡を見失ったお受験日本史にしては、「令大尺(297mm)の1800尺にして、535Mになる」という迷信が撒き散らされているわけです。
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| 町 | 田(半半) | 畔(丁) | (参考)天平六年畿内七道検税使算計法 | ||
| 〔田〕(樹穀処) | 〔丁〕(践処也) | 〔畸〕(残田也) | |||
| 900代町
形 里 (25町 ) |
畸分を含む | 600代 | 300代(36代) | 以3200寸為斛法(山陰道、西海道) | |
| 畸分を除く | 625代 | 275代 | 37代半 |
− |
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| 750代町形 里(36町) |
畸分を含む | 500代 | 250代(30代) | 以2700寸為斛法(山陽道、東海道) | |
| 畸分を除く | 520代 5/6 | 229代 1/6 | 31代 1/6 | 以2800寸為斛法(中山道、北陸道、南海道) | |
(雑令) 凡度地、5尺 為歩 。300歩 為里 。 ( ) 360歩為里。
あとひとつ、これは、我が身世にふる小野小町を、君が袖振る額田女王の時代に、遡らせるようなことですが、
.1里
坪(22500代)において、ひときわコンパクトでキュートな田町形のことを考えておく必要があります。
| 町 | 田(半半) | 畔(丁) | 畸 | (参考) | |
| 里 (36町* ) | 〔田〕(樹穀処) | 〔丁〕(践処也) | 〔畸〕(残田也) | ||
| 625代町*
形 (2500歩 ) |
畸を除けた町の内で半半丁 | 400代 (1600歩 ) |
200代 (800歩 ) |
25代 (100歩 ) |
. (唐令)240歩為畝。100畝為頃。 . |
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. その昔多民族の間で〔畔〕という契約がかわされた際には、その実施要領が当然付随していたと考えられます。 実施というのは、町の場合〔半半丁〕を在地の田んぼやあぜに押し当てるまでのことですが、一見困難とも思われるこの作業も、町形というカテゴリー(範疇)をもってすればなんとかなるだろう。技術的な裏付けが早くに示されていたというのです。 パイオニアの創意にあふれて誕生した町形壱号機が、数とかたちを最もシンプルにしたものであるのは、ほぼ間違いのないところでしょう。 しかし、 〔田〕400代を(1600歩
)というのも淋しいので、「2500歩」と呼んでいたとする。 町 625代を(2500歩
)というのも不便なので、「3600歩」と呼んでいたとする。 |
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〔町〕のモデルチェンジ 「熟田」から「良田」に
「熟田百代租稲3束」。したがって、田1町の内には500個あり、1畝の内には5個があるという「代」については、それほど小さな栽培池において稲を育てていた実情が考えられました。水田求積モデルとして、熟田5代を含む1畝(周囲24歩)を、最小の〔町〕として定立するのも止むをえないことでした。
大宝律令が施行され、藤原京から平城京に都が遷る頃、8世紀初頭の水田の事情をこのように考えたのは然るべきこととして、奈良時代を経て、平安時代に入ると、水田の事情はだいぶ様変わりしています。水田求積モデルが変更されている可能性についても注意が必要です。
それは要するに、水田求積モデルとしてはずっと簡素な、1枚の田をなした1畝を最小の〔町〕とする、新しいモデルが成立しているということですが、その性能については後で述べることにして、まず、1畝(周囲24歩)の内には1枚の田があるという見方を新たに成立させた水田の状況を明らかにしたいと思います。
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右の写真は、貞観十六年(AC.874)に起きた開聞岳噴火の降灰に埋もれて当時のすがたを残した水田が掘り出されたところを写したものです。 幅50cmほどの畔に囲われた縦9m横7mくらいの田圃の面積は、ざっと数えて20歩ほどの〔町〕の内、〔田〕は18歩くらいです。また、超音波地下探査によるこの一帯の畔の分布図を見ると、大小さまざまの不定形の田圃に分かれていますが、昔の「代」が〔田〕1枚の標準面積を「5歩」としていたのと比べれば、どの田圃もその数倍のひろさがあることはたしかです。 先に「100畝為町」のイメージとして「大八木遺跡(群馬県)の水田遺構平面図」を参照しましたが、この水田遺構は、天仁元年(AC.1108)に起きた浅間山噴火の降灰に埋もれて当時のすがたを残したものです。まるごと掘り出された条里地割の1坪の内に作られた田圃には定型性が見られます。典型的には10行10列の100枚の田圃があるべきものとして、昔の「熟田1町」では500代の田圃に分れていた田1町に比べて、田圃の数が5分の1に激減しています。 |
敷領遺跡(鹿児島県指宿市)
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私は、このように周囲240歩の坪の内に10行10列の田圃が造られたかたちを、新たな水田求積モデルの基盤として、承認することにします。「熟田1町」を後継する次世代の水田地割タイプを選定するにしては、完全ではない実例を1つ見ただけですが、それが数理的に妥当なものでありさえすれば、たしかに実用に供された証として実例を1つ挙げれば十分だと思います。いずれにしても、このようにやや広い水田が「良田」と名指しされ、その育成が政策的に推進されていたことは「良田百万町開墾政策」の存在によって明らかです。
〔続日本紀〕 元正天皇 養老六年(AC722)閏四月乙丑 |
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一方で、三世一身法のとき「田池窄狭」と酷評されている田圃は「熟田」に間違いないと思います。
〔続日本紀〕 元正天皇 養老七年(AC723)四月辛亥 現今の町と同じ構え |
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これは、1段では、〔田〕300歩、〔丁〕60歩になるので、ひろい1町では、〔田〕3000歩、〔丁〕600歩になります。
1反は300歩(坪)、1町は3000歩(坪)というと、現今の町とまったく同じ構えですが、昔日の町ならば代で数えるに限ります。
博打打ちの姐さんによれば、この町の場合は〔|半|半|半|半|半|丁|〕になります。
| 町 |
田(半半半半半) |
畔(丁) |
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〔田〕(樹穀処) |
〔丁〕(践処也) |
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| 750代町形 里(36町) |
無畸法 |
625代 |
125代 |
しかし、「1町」とこれを呼ぶのは天平の当時にしては尚早で、1町(〔田〕520代833..)2段(〔田〕104代166..)と数えることになります。
天平神護二年 7 十月廿一日 |
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二條二足原田里廿九足原田分西四段中 | 廿足原田分一段中 |
十七褌田分 □ 段中 |
十二野田里九久田刀里 □ □ 四段二百六十四歩 中 |
十立生野里六口利田五段一百廿歩上 |
卅二立生野田三段三百十二歩上 |
卅一足原田一町百廿歩上 |
卅足原田一町 □ |
十八授田分五段七十 □ 歩中 |
九七 □ 十七授田分二段中 |
十三横田四段百六十歩中 |
六石田里十二石田□ □ □十二歩中 |
西北一條二足原田里廿九足原田一町六十歩中 | 一水田三段 中 |
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越前國鯖田國富荘券 |
上の田籍帳に、田積が1町を超えている町坪があります。間違いではないかという前に、良田化のせいにしましょう。
1町(〔田〕520代
5/6 )を60歩(〔田〕8代
49/72
)超える。 ・・・・ 〔丁〕229代
1/6 が 220代 35/72
に搾り狭められている。
あるいは、
1町(〔田〕520代
5/6 )を120歩(〔田〕17代
13/36
)超える。 ・・・・ 〔丁〕229代
1/6 が 211代 29/36
に搾り狭められている。