出雲国風土記(目次) あゆみ(歩) home  

東西137019・南北183193へ至る紆余曲折 2003.8.12 (書き換え  2006.7.29.)

はじめに

 出雲國の東西および南北の程は、出雲國風土記の巻頭に記されています。

出雲國風土。國之大體、首 震、尾 坤。東西 山。北 臨海。
東西137里019歩南北18里193歩
 100歩
 73里032歩
  得。而難可誤。

tuudou01.jpg (94531 バイト)

 その成り立ちをいえば、原材料は、各郡ごとに記された9郡の通道、通堺程で、これらが終章(巻末通度)に集められ、2本の糸に繋がれたものですが、一連の計算経過においては、中間集計値として、中央から西と南の国境に至る惣去國程〕。また東と北の国境へ至る数里数歩が計上されています。(1里=300歩)

(東) 通手間関(自国庁意宇郡家) 41里180歩 (北) 隠岐道(自国庁意宇郡家 34里140歩
(西) 惣去國程(自十字街) 106里244歩 (南) 惣去國程(自十字街) 166里257歩

この内、
(東)41里180歩(西)106里244歩。合せて148里124歩1里030歩を加えて、149里154歩(44854歩)

         ↓(10分の1を加える)     ↓(=360
 448544485=49339137×360 +19東西137 019

(北)34里140歩(南)166里257歩。合せて201里097歩1里030歩を引いて、200里067歩(60067歩)

         ↓(10分の1を加える)     ↓(=360
 60067+6006=66073 =(183×360 )+193南北183 193

東西137 019 南北18 193 。」は、こうして算出されたのではないかという。

 「・・ へ至る紆余曲折」という長いタイトルのこのページを、「出雲國風土記(全文)」の付録という感じで、書いたのは3年前のことですが、最近読み返して不十分なところが見られたので大幅に書き直しています。まこういう問題提起は、このHPの主要テーマとして、ずっとやっているのですが、これという反響はまだないというか、識者の関心を惹かないというか。だいたい最近の風土記研究では、1里(150丈=12尺)が(1尺=30cmとして)540mほどになるという「風土記里」がアプリオリに認定され、それは出雲國風土記が自ら明らかにすることとは夢にも想われていないので、私が「1里(163〜165丈)は590mほどになっていた。また1(180丈)は648mほどになっていた」と言い張ったところで誰も聴いてくれない。それだから、私は、水田の面積法や米升法の発達を考える際の重要な証拠として、この結果をべつに役立てようとしていたのですが、最近は、出雲國風土記においても、100丈(183歩ほど、或いは200)を刻みにした方向の流れの復元を試みて、すこし溜飲を下げているところです。

説明

 上の計算の内容をもう一度手順にしたがって説明します。

おこなったこと 結果
(0)通堺程の連結 (東)41里180歩(12480歩)
(西)
106里244歩(32044歩)
(北)34里140歩(10340歩)
(南)
166里257歩(50057歩)
(1)西を合せる。 148里124歩(44524歩) 201里097歩(60397歩)
(2)1里030歩を移籍する。 149里154歩(44854歩) 200里067歩(60067歩)
(3)歩数の10分の1を加える。 (49339 (66073
(4)1里=360歩にまとめる。 東西137019(49339 南北183193(66073

(0、1) A.(原材料になる)各郡ごとに記された通堺程を、東西・南北それぞれに、連結してみました。

EW 各郡記載通堺による

國東西通道程

      経路

   区間程

    (郡域ごとの程)

         累積

國東堺手間関 意宇郡家

41里180歩

(東) 正東道(自 国庁)

 41里180歩 ↑(意宇郡家 0)

意宇郡家 出雲郡堺佐雑埼

42里030歩

(意宇郡域 83里210歩)

 (意宇郡家 0)↓ 42里030歩

意宇郡堺佐雑村 出雲郡家

23里064歩

↓ 65里094歩

出雲郡家神門郡堺出雲大河辺

2里060歩

(出雲郡域 25里124歩)

↓ 67里154歩

    渡斐伊河

50歩

 境界域     50歩)

↓ 67里204歩

出雲郡堺出雲河辺 神門郡家

7里025歩

↓ 74里229歩

    渡神門河

25歩

 

↓ 74里254歩

神門郡家石見國安能郡堺多伎〃山

33里000歩

(神門郡域 40里050歩)

↓107里254歩

    國東西程(EW) 149里134歩  全域 149里134歩) ↑+↓ 149里134歩   

NS 各郡記載通堺による

國南北通道程

      経路

   区間程

    (郡域ごとの程)

         累積

隠岐渡千酌驛 嶋根郡家

17里180歩

 34里140歩 ↑

嶋根郡家 意宇郡堺朝酌渡

11里220歩

(嶋根郡域 29里100歩)

 16里260歩 ↑

     海渡朝酌促戸

80歩

( 境界域     80歩)

  5里040歩 ↑

嶋根郡堺朝酌渡 意宇郡家

4里260歩

  4里260歩 ↑(意宇郡家 0)

意宇郡家 大原郡堺

32里200歩

(意宇郡域 37里160歩)

(意宇郡家 0)↓ 32里200歩

意宇郡堺 大原郡家

23里085歩

↓ 55里285歩

意宇郡家 飯石郡堺斐伊河辺

57歩

(大原郡域 23里142歩)

↓ 56里012歩

     渡斐伊河

25歩

( 境界域     25歩)

↓ 56里067歩

大原郡堺斐伊河辺 飯石郡家

29里180歩

↓ 85里247歩

飯石郡家 三次郡堺三坂

80里000歩

(飯石郡域 109里180歩)

↓165里247歩

    國南北程(NS)

200里087歩

( 全域 200里087歩)

↑+↓ 200里087歩   

     (EW)+(NS)

349里221歩

 この表は、巻末通度において実施されたであろう計算経過を、忠実に再現することになります。

EW 巻末通度道度による 

國東西程

      経路

 区間程

    摘要

       累積

國東堺 野城橋

西 20里180歩

 41里180歩 ↑

野城橋 國庁・意宇郡家

西 21里000歩

 ....、至 國庁・意宇郡家。

 21里000歩 ↑(意宇郡家 0)

國庁・意宇郡家 〜 十字街

北 1里010歩

 北 十字街。即分為2道。

(郡家〜街) 1里010歩

十字街 野代橋

西 12里000歩

 正西道。自 十字街....

(十字街 0)↓ 12里000歩

野代橋 玉作街

西 7里000歩

↓ 19里000歩

玉作街 来待橋

西 9里000歩

 正西道。自 玉作街....

↓ 28里000歩

来待橋 〜 (意宇)郡西堺

西 13里020歩

↓ 41里020歩

(意宇)郡西堺 出雲郡家

西 23里064歩

↓ 64里084歩

出雲郡家 〜(出雲郡西堺出雲河

西 2里060歩

↓ 66里144歩

    渡斐伊河

渡 50歩

↓ 66里194歩

神門郡東堺 神門河東岸

西 7里025歩

↓ 73里219歩

    渡神門河

渡 25歩

↓ 73里244歩

西岸神門郡家 〜 國西堺

西 33里000歩

 惣去國程(自 十字街)

↓106里244歩

    106里244歩(西)

    國東西程(EW)

149里134歩

↑+↓ 149里134歩   

EW 巻末通度道度による

國南北程

☆一部〔〕記事による。

      経路

 区間程

    摘要

       累積

(黒田驛。郡家同所。)

隠岐渡、千酌驛黒田驛

北 34里140歩

(北) 隠岐道(自 国庁)

 33里130歩 ↑(十字街 0)

(内、十字街 〜 黒田驛)

北 1里010歩

 北 十字街。即分為2道。

 (EW に振り替え

十字街野代橋

西 12里000歩

 正西道。自 十字街....

(十字街 0)↓ 12里000歩

野代橋 玉作街

西 7里000歩

↓ 19里000歩

玉作街 〜 (意宇郡南西堺

(南)14里210歩

 正南道。自 玉作街.....

↓ 33里210歩

意宇郡南西堺 大原郡家

南 23里085歩

↓ 56里295歩

大原郡家 斐伊河東岸郡堺

(南西) 57歩

 南西道

↓ 57里052歩

   渡斐伊河

渡 25歩

↓ 57里077歩

西岸(郡堺) 飯石郡家

南西 29里180歩

↓ 86里257歩

飯石郡家 國南西堺

南 80里000歩

 惣去國程(自 十字街)

↓166里257歩

    166里257歩(南)

   國南北程(NS)

200里087歩

↑+↓ 200里087歩   

   ES)+(NS)

349里221歩

(2) 國東西程・國南北程 を、4個の惣去國程に基づいて、算出するので、隠岐道なる 〔郡家〜街〕程 を 國東西程 に加入して、一方、國南北程 には 〔郡家〜街〕程 を減じるということになります。における〔郡家〜街〕程 1里010歩 でしたが、どういうわけか、ここで(郡家〜街)程1里030歩 として計算されています。これが二波乱のうちの一つ。

EW 惣去國程に基づいた

國東西程

NS 惣去國程に基づいた

國南北程

(東) 正東道(自 国庁

41里180歩

(北) 隠岐道自 国庁

34里140歩

 隠岐道

 ↓ 中継(国庁〜十字街) 

1里030歩

 

余り (国庁〜十字街)

1里030歩

(西) 惣去(十字街)國程

106里244歩

(南) 惣去國程(十字街)

166里257歩

EW)+(NS)

149里154歩

200里067歩

349里221歩

 しかし、國東西程 149里154歩 という数は、東西137里019歩より、一回り大きい。
 また、國南北程 200里067歩 という数も、南北18里193歩より、一回り大きい。

(3、4) 里を伸長?歩を縮小?
 
異なる 里歩単位() によって、東西・南北 を表し直すために、換算がおこなわれている。
     12里=11。10歩=111里=300歩。1=360

EW 
149里154歩 = 44854歩 1里=300歩
44854歩 = 44850歩 + 4歩 = (44850 + 4485)+ 4 = 49339
49339 ÷ 360 = 137 余り 19

   ∴ 東西137019 (1=360

NS 
200里067歩 = 60067歩 1里=300歩。
60067歩 = 60060歩 + 7歩 = (60060 + 6006) + 7 = 66073
66073 ÷ 360 = 183里 余り 193歩。

    ∴ 南北183193 (1=360

.
國程計算の背景

 巻末通度の中で、たとえば「去西」といっても、名所記事で「正西」というほど厳密ではないが、「数里数歩」という程(みちのり)は、名所記事の距離と同様に、方向の流れ(↓)の筋に沿って測定されているというように考えたい。

  出雲国風土記における〔通程(通度)〕の実態をいえば、通道 といわれる道路の道筋が曲がりくねって、遠回りになっていても、斜交いの近道になっていても、それらの程(みちのり)は一途に方向の流れの筋に沿って測定されたものである。

 國引の神なる "八束水臣津野命" は、原初の大地をいくつかの小さな國に区分けし、それぞれの地形の特徴を反映した「方向の流れ」によって、大地を節理なされた。今、人がおこなう大地の測量とは、自然に刻み込まれている節理を観察して、誤りなく復原する行為に等しい。
 
大きな出雲の國の規模を、端から端まで「東(→)西(←)南(↓)北」の距離によって表そうというときには、、どこでも等しく「東(→)西(←)南(↓)北」といいながら、そういわれるものの向きは、ここかしこの「方向の流れ」に随って変転するので、一定不変ではないという事実が露呈されるが、これを苦にしている様子は見られない。

方向の流れ




○丈
ii
一二


 それでも、出雲国土の全体像を一図に描くためには、絶対基準になる方位秩序がやはり必要になると思われる。「國之大體。首 震、尾 坤。」という冒頭の一句は、ためしに天空の方位秩序の中に(「首」と「尾」を)置いてみたというところだろうか。
 しかし、地上における方位基準の乱雑さは、太古の國引に根ざすものであって、これが国土の本性と信じられているので、互いに異なる方向性を帯びている各郡域内の通堺程を単純に合計したものであっても、「國之大體」の規模を偽りなくいい表すものと理解されているのであろう。それはつぎの数値である。

〔各郡記載通堺程による〕
 
國東西程(EW)149里134歩。 國南北程(NS)200里087歩。

 巻末通度に移って、通道が体系づけられたところで、

〔巻末通度道度程による〕
 國東西程(EW)149里134歩。 國南北程(NS)200里087歩。

 巻末通度の文中には、東・西・南・北 4個の惣去國程が算出されている。
 ただ4個の惣去國程の起点は2箇所に分かれているので、すこし注意する必要があります。

 すなわち、右のイメージ図のようになっています。

〔西〕と〔南〕の惣去國程の起点は、
                   十字街。
〔東〕と〔北〕の惣去國程の起点は、
                   国庁(意宇郡家・黒田驛)。

. .。又西21里.、至國廰・意宇郡家。北、十字街。即分為2道。
 1、正西道。1、枉北道。
 枉北道。去北4里266歩。至郡北堺朝酌渡。渡80歩。渡船1。

 国庁を北に(去り)十字街に至る区間の程は〔北〕の惣去國程の内にある。これを東西の程に付け替える。
 国庁より十字街に至る程がいくらかということは、記されていないが、虫食い算によって解明される。
 振り返って、〔各郡記載通堺程〕と照合したところの計算上は、1里010歩 であるといえる。
 先に進んで、東西137019(EW)。南北18193(NS)と照合したところでは、1里030歩 であるといえる。つまり、
  國東西程(EW)149里154歩。  國南北程(NS)200里067歩。
 
これが のように換算されて、総説の「東西137里019歩。 南北18里193歩。」という記事になっている。
.

おわりに(なぜこんな歩があるのか?)

 「東西..、南北.. へ至る紆余曲折」という長いタイトルのこのページを、「出雲國風土記(全文)」の付録という感じで、書いたのは3年前のことです。「各郡」の通道程が、「巻末通度」の章に浸透し、しだいに統合されて、「総説」の章を飾る大きな2つのみちのりになってゆく。その過程を4つの段階にわけ、段階ごとの算数を明らかにして、2つのを恙無く存命させることができたと思います。

 とりわけ最後の段階については、の数が、の数からすると、1.1倍に増えていることを指摘しました。ただ指摘しただけでしたが、これは大きな発見であり、1.1倍に増えてそれで数がぴったり合っているのだから余計な説明は要らないと、今でもそう思っています。なぜの数を1.1倍に増やしたのか?なぜ360を1にまとめるのか? 私がそんな疑問にしっかり答えられなくても、の数が1.1倍に増やされたのは事実であり、360が1にまとめてあることも事実に変りはないのですから。
 そういう私も、最近へんに自信がついて、この事実に有益な説明を与えるほどの知識は既に得ているのではないかと思ったりもするので、うまくゆくかどうかわかりませんが、立て板に水を流すような説明をすこし試みてみたいと思います。

日本の常識は出雲の非常識
 奈良時代の1歩の長さは6尺(180cmほど)というのは常識です。これは特に、60歩で1町、360歩で1里をなすような歩においては、否応なくはっきりしています。
 さて出雲国風土記の場合、の内、どちらが6尺の歩に該当するでしょうか?
 この問題はとりあえず常識的に考えてください。300歩で1里をなしているでは断じてない。360歩で1里をなしているが6尺であることが否応なくはっきりします。しかし、は裏に隠れていて、表立っている1の長さは1.1倍だから、6尺6寸(198cmほど)です。歩は6尺という「日本の常識は出雲の非常識」という心得がまず必要です。

100歩 / 73里032歩 / 得。而難可誤。
 こうして(日本の常識に合せて)2つのを算定した人は、この仕事によほど熱心だったのか、ひとつの覚書を残しています。この覚書は、計算者本人でなければ知りえない事実を告知しており、その真実性は極めて高いといえます。

`
故云
 '
八雲立出雲
 ゚

所以号出雲者
 '
八束水臣津野命詔八雲立詔之
 ゚

良繁多
 '
悉不陳
 ゚
然不獲止粗挙梗概以成記趣
 ゚

老細思枝葉裁定詞源
 ゚
亦山野濱浦之

 '
鳥獣之棲
 '
魚貝海菜之類
.

. 


 '
而難可誤
 ゚

.
七十三里卅ニ歩

.
一百歩

東西一百卅七里一十九歩
 ゚
南北一百八十三里一百九十三歩
 ゚


出雲國風土記
 ゚
國之大體
 '
首震尾坤
 ゚
東南西山
 ゚
北臨海
 ゚
 いいかえれば、この短い3行文には、地の文に等しい真実性が認められる。すなわちこの3行は原著者の手になる原文であることは間違いないので、私は、「後世の写筆者が挿入した注記が原文に誤って混入されたもの」という従来の説明にまったく耳を貸さない。平凡な読者のたわごとが誤って本文にまで昇華したというのが本当なら、なんともあさましいことです。
 では「計算者本人でなければ知りえない事実」とは何か。右の答案のように、
 この数列を、ためしに 4000 で割り、また4000倍してみると、この事実がわかります。
.
 100歩
 73032(26312

1)ためしに 4000 で割ってみる。

 5.980尺        ┓
 0.025尺(差)
 6.005尺 ┓
 6.578尺 ┛√(1.2)倍  ┛1.1倍

2)これをまた 4000倍してみる。

 23920歩(79里220歩)    ┓
 100歩
 24020歩(80里020歩) ┓
 26312(73032) ┛  ┛1.1倍
           √(1.2)倍
.

 ためしに 4000 で割ってみると、0.025尺を挟んで2つのがあらわれます。
 これをまた 4000倍してみると、。100歩を挟んで2つの〔歩〕があらわれます。
.

 既に知られていた倍率(1.1)のほかに、√(1.2)倍という倍率をもつ複合的な換算のしくみが見られましたが、これを見て、計算者の意向を推測すると、最終的に√(1.2)倍率の結果を約束するつぎのような換算をしたかったようです。

数から数への換算は、たとえば、
24020歩(80里020歩)だと、まず100歩を差引いて23920歩を見ることに始まる。
  
つぎにこの23920歩に10分の1の2392を加えて、26312歩(73 032に終る。

 ところで、=6尺5寸7分8厘、=6尺0寸0分5厘 と見られて、前者が後者の√(1.2)倍とされています。これからして、面積単位として、歩(43.2尺2)があり、また(36尺2)があり、前者が後者の1.2倍のひろさになっていると考えられます。
 しかし、みちのりを測る単位が、=6尺0寸0分5厘 と、切りが悪いのは見るからに変で、単純に=6尺(この場合は=6尺5寸7分2厘)が便利ですが、水田の面積測定の作法ではやや長めにするようです。(総説三行注の謎 お縄は緩めのほうがいい。)
 それでもまあ、國の東西・南北だけは、常識的な?=6尺 によって、表そうとした、という認識で差し支えないと思います。

出雲の状況は日本の状況を明らかにする。
 國の東西・南北だけは、常識的な?=6尺 によって、表そうとした。そのことはわかりましたが、わかったところで、ひとつ疑問が生じます。そんなことなら、個々のみちのりも 最初から =6尺 で表しておけばよいのに、何故そうしなかったのか?
 この疑問にまともに答えるのはたいへんですから、面積単位との関係から明らかになることを述べて、お茶を濁したいと思います。

 仮に、面積単位として、(36尺2)があり、また(30尺2)があったとしたら、最初から =6尺 で表すことができたでしょう。
 また、この場合、最後に =5尺4寸7分7厘 というようなもので表すということには、恐らくならないと思います。
 出雲国の場合は、前者(歩)が後者()の1.2倍のひろさであることは変わらないのですが、
 面積単位として、歩(43.2尺2があり、また(36尺2がある状況なので、最初は =6尺5寸7分8厘 で表すことになった。 

 しかし、正直に言うと、このように面積単位に基づいて解説したところで、ぶっちゃけた歴史事実には即応していそうもないので、もしすべての事実関係が明らかになった日には、この解説もほとんど嘘になってしまいそうですが、これをしないことには先に進めないので、わかっていることを丁寧にしてゆきたい。
 まず、歩(43.2尺2(36尺2の1.2倍のひろさになるということがありますが、私は、2つの歩をひとつに見て、1つの歩が2つの様相を呈しているというふうに捕らえたい。このように面積歩を二意的に理解することには、大きなメリットがあります。
 土地の面積といっても、古代文明においては耕地の面積が重要であることはいうまでもないことですが、日本の水田農業を財政基盤とする律令制国家においては、水田の面積がとりわけ重要です。
 一般に、耕地(Cultivated land)は、本地(Field)と畦畔(dyke)に分けられます。すなわち、耕地=本地+畦畔 ですが、水田においては、畦畔(あぜ)はほぼ恒久的な施設になっていて、耕地全体の中から本地を見分けることが容易にできるので、前者(歩)を、とくに耕地の面積を定量する単位として用い、後者()は、とくに本地の面積を定量する単位として用いることも可能です。可能のみならず、そういうことが実際におこなわれていたようです。
 明法博士額田国造今足勘文 弘仁12年(821)11月5日は、大宝田令の下におこなわれていた令前租法(段租穀1斗5升)の実情を、百余年越しに8世紀初頭に遡って顧みたものですが、そのしくみは、およそつぎのようなものであったという。

 田令によると、田1段;360歩(=36尺2)において、ちょうど十合の1升でもって租穀2斗2升を収めることになっていたが、令前租法では、その1.44倍の歩(=51.84尺2)によって1段は250歩と数えられ、十四合四勺ぶんの1升でもって租穀1斗5升を収めていた。
 したがって「輸せる実は相い同じ」だという説明です。しかし、後者には、秘密裏に特約した条項が加わったことを、私は指摘したい。
   而尺作長大。以二百五十歩為段者。亦是高麗術云之。 (『令集解』田令第1条解説。古記云「 」。)
 「高麗術」は何をしていたかということは、下の図によって理解していただきたいのですが、とにかく、田1段;360歩(=36尺2という耕地の中に、あらためて田1段;250歩(=36尺2という本地が見出される。この面積の見直しに比例して、「十四合四勺ぶんの1升で」という租穀升の見直しがおこなわれて、令前租法の実際のところは、ちょうど十合の1升でもって租穀1斗5升を収めればよかった。

私は、10畝で1段になる1畝が水田区画の最小単位だったと考えていますが、
〔令内租法〕のたてまえでは、
熟田1畝〔耕地36歩〕から租稲2把2分を収める。(左)
しかし、この田は、
〔高麗術〕特製の大6尺歩による再測定を受けて、
熟田1畝〔耕地25歩〕と看做されるとともに、
熟田1畝〔本地25歩〕ということが推定される。(中)
したがって、この田からは、租稲1把半を収める。(下)

答。幡云。『令以5尺為歩者、是高麗法。用為度地令便。而尺作長大、以250歩為段者、亦是高麗術。』云之。即以高麗5尺、准令尺、大6尺相当。故、格云以6尺為歩者。則之、令5尺内積歩改名6尺積歩耳。其於地、無所損益也。(令集解)

 耕地に占める本地の割合、つまり本地率(Area rate of field excluding dyke to cultivated land) は 25/36 =69.4% になります。

 ただし、ここに見たのは百有余年前の「熟田」の田積法また租穀升法の実情です。額田勘文が答申された9世紀初頭の水田ではありませんが、昔の田と比べて、今の田の状況はどうなのかと思って、勘文をあらためて見ると、物は嘘つかへん。数は正直ものです。升は嘘をつかないので、今時の(熟田の)田積法また租穀升法の実情が、しかも要点のみ知られます。
 今の「良田」においては、1.2倍のひろさになる歩(=43.2尺2)によって、田1段を250歩と数え、「十二合の升」でもって「租穀1斗5升」を収めている。 本地率 は / =83.3% になっています。
 昔の田に比べて本地率が20%も向上していることがわかりますが、これは、養老六年(AC722)に策定された「良田百万町開墾政策」と、翌年定められた「三世一身法」を、車の両輪にして、官と民が協力しておこなった耕地改良事業の十分な成果であります。
『良田1,000,000町開墾政策』は日本の田圃を変える。)

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 あとで見るように、本地率が向上したというのは、そらぞらしい「建前(たてまえ)」ですから、(新)図をご覧になっている方は、(旧)図の上に(新)図を重ねて、ひとつに見透かしてください。

 しかし、「町租稲十五束」と表現されている史料において、即座にその新旧を見定めるのは困難です。ただ、仮に「成斤之束」というような注記が添えられていれば、それは(新)だということが私にはわかります。

  令文廿二束與今十五束。員殊實同。
  但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。(令集解)

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「良田」誕生!

 要するに、「ついに墾田の私有を容認した際、墾田所有者に利益を供与した代償を得るために、租穀が増加されることになった。」ということだと思います。この場合、墾田に限って新しい税目を設けるのが本当なのに、口分田を含めた租穀の増税でもって対処しようという。どうかすると理不尽すぎる政策運営ですから、朝廷当局は、国司や郡司たちが変に抵抗しないように、釘を刺しておいた。
 口分田はすべて「良田」化して一層の高負担に耐えられるようにするというのは「建前」なので、「良田百万町開墾政策」は空しく掲示しただけですが、「良田の開墾事業はとっくに終了しているのに、さも工事が遅滞しているかのように偽装して、開墾の事実を認めないことがあれば、そういう不届き者は即刻首にする。(若有国郡司、詐作逗留不肯開墾、並即解却。雖経恩赦不在免限。)」
 そこまで強く言う場合、そのこころは租穀増税の前触れに決まっています。国司・郡司達が開墾事業を督励しなくても、(口分田は)一冬の間にきれいに再開発されて、すべて良い田になったことにして、「バンザイ...ナシよ」のうちに事業は完了。あとは「三世一身法」を迎えるだけです。
 怪しげな日本史解説ですが、こうして危ない橋を渡ってしまえば、「いま、租穀1斗5升は『十二合の升』で量っています」と博士が申し上げていることも信用できます。
 「養老七年(AC723)春、 口分田が2階建になった。」ということは、日本史年表には書いてないけれども、間違いない事実とします。

  2階.......今の田(良田)において、「十二合の升」は、歩(43.2尺2に宿って、「歩の内得米1升」をまもっている。
  1階.......昔の田(熟田)において、「十合の升」は、(36尺2に宿って、「歩の内得米1升」をまもっていた。
 
 この「歩の内得米1升」という〔地・升〕相当の原理は、「段租稲1束5把」を施行した『慶雲三年(AC.707)九月十日格』において、一介の法的事実として認められたことがあるので、こんなふうに理論構成してみました。
 ですが、租稲ベースで見て、「段租稲1束5把」が「段租稲1束8把」に増やされた。田令は「段租稲2束2把」なので、まだまだ増税の余地があると考えれる方が気が楽です。

  2階.......今の田(良田)1段は、「420歩」=租稲1束8把→租穀1斗5升(ただし、十二合の升)。
  1階.......昔の田(熟田)1段は、「360歩」=租稲1束5把→租穀1斗5升(ただし、十合の升)。 

 出雲国風土記ができた天平五年(AC733)には、「十二合の升」で租穀を収めていたと思われますが、この2階は架空の建前だから、そんな歩(43.2尺2を長さに戻した「歩(6尺5寸7分8厘)」を、度地の単位として頻繁に用いるようになるとは思えない。
 この解説は(出雲国の「歩」それ自体のためには)無駄になってしまいましたので、先に進みます。

他チャンネルでも、「良田」誕生!

 出雲国風土記の中に、 (=6尺5寸7分8厘)と (=6尺0寸0分5厘)が、棲み分けている場合に、前者は歩(43.2尺2の正方形1辺の長さになり、後者は(36尺2の正方形1辺の長さになるという関係は、どちらも持続的なものであることは確実です。ただ、通用のみちのりの単位として使われているのは前者であることから、これは地域に内在的なものであり、外在的なものと見ることができます。
 出雲の歩(43.2尺2は、口分田(輸租田)が1階建のときから、存在していた。ただし、その歩は、在地の度地尺に委ねられていて、その「6尺」になるものとして、存在していたかもしれない。

  つぎの絵は、上の絵のコピーですが、ひろさを1.2倍に拡大しています。

私は、10畝で1段になる1畝が水田区画の最小単位だったと考えていますが、
〔令内租法〕のたてまえでは、
熟田1畝〔耕地36歩〕から租稲2把2分を収める。(左)
しかし、この田は、
〔高麗術〕特製の大6尺歩による再測定を受けて、
熟田1畝〔耕地25歩〕と看做されるとともに、
熟田1畝〔本地25歩〕ということが推定される。(中)
したがって、この田からは、租稲1把半を収める。(下)

 その代表的なものと、しくみはまったく変わらない。ただ図体がひろさにして1.2倍ほどでかい。.......田1段の耕地を 250歩(=43.2尺2)となし、田1段の本地を 360歩(=43.2尺2)とする.......租法のしくみがあったと考えられます。とにかく、耕地のひろさを本地の1.44倍にするしくみは同じで、そのサイズが一回り大きいというものです。したがって、昔の田(熟田)1段では「十二合の升」で租穀1斗5升が収されていた。租稲の大きさも違うので、租稲の負担がどこでも均しくあるために、男は、口分田「1段240歩」を授けられて、「租稲2把半」を負い、女は、「1段60歩」を授けられて「租稲1把3分把の2」を負っていた。
 「養老七年(AC723)春、 口分田が2階建になった。」ということは、日本史年表には書いてないけれども、間違いない事実とします。 

  2階.......今の田(良田)において、「十四合四勺の升」は、歩(51.84尺2に宿って、「歩の内得米1升」をまもっている。
  1階.......昔の田(熟田)において、「十二合の升」は、歩(43.2尺2に宿って、「歩の内得米1升」をまもっていた。

 ですが、租稲ベースで見て、「段租稲1束5把」が「段租稲1束8把」に増やされた。田令は「段租稲2束2把」なので、まだまだ増税の余地があると考えれる方が気が楽です。

  2階.......今の田(良田)1段は、「420歩」=租稲1束8把→租穀1斗5升(ただし、十四合四勺の升)。
  1階.......昔の田(熟田)1段は、「360歩」=租稲1束5把→租穀1斗5升(ただし、十二合の升)。 

目盛りの無いものさし

 このように、2通りというか2サイズのしくみが地域を異にして独自におこなわれているとすると、数丈数尺の長さを決める"ものさし"さへも、共通ということはなくて、それぞれ独自の"ものさし"を用いているかもしれない。奈良時代前期の公定度地尺を全て揃えたコレクションは、ひょっとして、東大寺正倉院中倉にある聖武天皇ゆかりの紅牙撥鏤尺がそうではないかと思って見ると、右表のように4枚ある紅牙撥鏤尺の全長はすこしずつ違う。
  30.7cm、30.2cm、29.7cm、29.6cm
 互いに長さを相違した目盛りの無いものさしは、4枚が4枚とも、度地尺のサンプルとして意義があるような気がしてきます。
東大寺正倉院宝物 長さ
  (cm)
中倉51 紅牙撥鏤尺 第1号 30.7
中倉51 紅牙撥鏤尺 第2号 30.2 以二千八百寸為斛法
中倉51 紅牙撥鏤尺 第3号 29.7 以二千七百寸為斛法
中倉51 紅牙撥鏤尺 第4号 29.6 以三千二百寸為斛法
 中倉の紅牙撥鏤尺は4枚とも有意義と認めて、当時の公定度地尺がこのように4本立であったというとき、その現実的な反映は、都鄙を問わず地割の大きさの相違にあらわれてしかるべきですが、以下のように水田の面積になったところを考えることにします。

 紅牙撥鏤尺は度地尺として有意義であると仮定してはなしを進め、ます。
  紅牙撥鏤尺 第3号 29.7cm これを、尺と呼ぶことにします。
  紅牙撥鏤尺 第2号 30.2cm これを、尺と呼ぶことにします。
 これらのものさしが水田の面積にまで展開されていることを検証します。

 の尺長の相違は、水田においては、いずれも「方6尺」というとの広さの相違に連なっているはずですが、文書の上では、も1「歩」と称し、も1「歩」と称して、互いにそしらぬ顔をして澄ましているので、相違の有無さへ確かめることができない。

 

西海道
 `
以三千二百寸為斛法
 ゚


南海道
 `
以二千八百寸為斛法
 ゚


山陽道
 `
以二千七百寸為斛法
 ゚


山陰道
 `
以三千二百寸為斛法
 ゚


北陸道
 `
以二千八百寸為斛法
 ゚


東山道
 `
以二千八百寸為斛法
 ゚



海道
 `
以二千七百寸為斛法
 ゚

天平六年七道検税使算計法
..
検税使算計法は邪魔者か?救世主か?
 の広さの相違は、いずれも「360歩」という田1段と田1段との広さの相違に連なっているはずですが、(甲)も1「段」と称し、も1「段」と称して、互いにそしらぬ顔をしている。
 そうして澄ましているところにも、毎年租税が賦課されます。1段にも、1段にも、租穀1斗5升が賦課されますが、
 ここですこし考えてください。
 1段より収める租穀と、1段より収める租穀のかさは、まったく同じなのでしょうか? それとも、
 それぞれの田1段の広さに見合ったかさの租穀が収められるので、租穀のかさは)(互いに相違するのでしょうか?

 どちらも「段租穀1斗5升」を収める。考えてといわれても、これでは考えが狭まるいっぽうですから、この際、天平六年七道検税使算計法が述べていることを是非とも参考にして考えてください。

 倉穀1斛のかさは、2700寸となせ(東海道・山陽道)、2800寸となせ(東山道・北陸道・南海道)、
 或いは3200寸となせ(山陰道・西海道)。(1斛=10斗=100升)。

 検税使が持っている(倉の寸法や穀の積高を測る)ものさしは、ひとつ固定的な長さが定められていると考えるのが自然です。度地尺の動向はこれとは別で、度地尺の1尺は、地域を分ければ、ひとつのものさしにこだわらない。
 説明が遅れましたが、正倉に収められた租穀は、ふたたび俵を解いてばら積にして穀倉に保管されます。検税使算計法は、穀倉の寸法と穀の積高から保管穀の斛数を割り出すときに必要な「1斛の寸法はいくつ」という定めなので、とくに租収升との関わりが深いことはいうまでもありません。仮に、それぞれの田1段の広さに見合ったかさの租穀が収められているとすると、
  
紅牙撥鏤尺 第3号 29.7cm による1段より収めた租穀は、おそらく2700寸斛法に任せられている。
  紅牙撥鏤尺 第2号 30.2cm による1段より収めた租穀は、おそらく2800寸斛法に任せられている。
 それぞれ、6尺を以て1 とする。また、田1を、362として、当然です。
  紅牙撥鏤尺 第3号 29.6cm による1段より収めた租穀は、おそらく3200寸斛法に任せられている。
 ただし、これの「6尺5寸7分8厘」を以て1歩とする。また田1歩(43.2尺2とする。必要があれば、これの「方7尺2寸」を以て「十四合四勺の升」のための1歩(51.84尺2を作る。出雲国が「山陰道、以三千二百寸為斛法」に属しているのはもちろんです。

「歩之内得米1升」でオールセーフ!

 

 

撥鏤尺 耕地本地(熟田)  歩内升  本地(良田)  歩内升 検税使斛法
第1号 0.0942m2 (30.7cm)

What is this?

第2号 0.0912m2 (30.2cm) 3.283m2 (362)  23.33寸3  3.940m2 (43.22)  28寸3 2800寸(乙)
第3号 0,0882m2 (29.7cm) 3.175m2 (362)  22.5寸3  3.810m2 (43.22)  27寸3 2700寸(甲)
第4号 0.0876m2 (29.6cm) 3.785m2 (43.22)  26.66寸3 4.452m2 (51.842)  32寸 3200寸(丙)

 「段租穀1斗5升」のもとにそれぞれの田1段の広さに見合ったかさの租穀が収められるのは、広さに見合った升が与えられているからですが、広さに見合った升という理念を端的に表した「歩之内得米1升」という言葉があります。

慶雲3年(AC.706) 9月10日格云、
准令、田租1段、租稲2束2把。
以方5尺為歩。歩之内得米1升1町租22束。
令前租法、熟田100代、租稲3束。
以方6尺為歩。歩之内得米1升。1町租稲15束。
右件2種租法。束数雖多少。輸実猶不異。而令前方6尺升、漸差地実。遂其差升亦差束実。
是以、取令前束、擬令内把。令条段租其実猶益。今斗升既平。望請。輸租之式、折衷聴勅者。
朕念。百姓有食萬条即成。民之豊饒猶同充倉。宜(収)段租1束5把、町租15束。主者施行。
(令集解)

 この言葉の意味を「米1升は、1歩の広さに見合った容を定める」というふうに理解するのは骨が折れますが、ここから穀(米)升の相違が生じていることを私は信じて疑わない。紅牙撥鏤尺 第1号(30.7cm)の用途は不明ですが、30.2cmは条里地割の度地尺として確認されており、29.7cmもいわゆる天平尺として確認されているので、こういう磐石の基盤に立脚してものを考えないほうがかえっておかしい。出雲國風土記において、歩 43.2尺2  362 という説に迷いはありません。

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