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| 天平五年二月三十日 勘え造る 秋鹿郡の人 神宅臣金大理 | ||
| 国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等
出雲臣廣嶋 . |
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いわゆる 参考 意宇郡(1)より 〔出典〕 以下の書籍を参照しました。 1) 竹内理三編「寧楽遺文」昭和37年訂正初版 出雲國風土記 2) 田中卓著「神道大系古典編七・風土記」 出雲國風土記 〔作業経過〕 東西・南北の算定プロセスに入力された数値は、これであって、もしこれに1歩でも違えば、(計算の結果)出力される数値は、俄然異なってくるので。ほかのものではありえない。 以上の作業は、本来なら、 〔書写の意図〕 〔HTML文書という制約の中で〕
麻布に、・神名樋野と○周を描く
数量的国土の推測サイクル(国引き説話を含む) 1体の想像の投影として国土が存在している事実 国引き↓推す(拡大)*注 ↑測る(縮小)
〔神が作り縫った〕図形 ⇒ 大地〔人が暮らす〕 *注 国郡図に小さく引き描かれた地形を見たあとに、推量(拡大)して実在の大きさをイメージしたければ、八束水臣津野命が大きな国引きをなされたありさまを昨日のことのように想い起せばよい。 以レ此 而、堅立 加志 者、石見國 與 出雲國 之堺、有名「佐比賣山」是也。亦、接引綱者、「薗之長濱」是也。 接引 綱、「夜見嶋」。固 堅立 加志 者、有 伯耆國 「火神岳」是也。 (ただし、1対の大綱が繋ぎ止めているのは、推し広げられてバカでかくなった4枚の麻布です。) 〔もし読まれるなら〕 半年過ぎて〔縦書き〕を追加しました。2004年1月 この際は、私が注目している問題箇所は別にして、だいたい田中卓「神道大系
出雲国風土記」の本文に追従しました。
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.やくもたついずものくには「さふのおすくに」にあるかな
「狭苦しい麻布きれを見つけて来て(何千倍何万倍に)押し広げたら1つの国になった。」 八雲立つ出雲の国々は、どの「国」も、 と言っているのですが、ご利益に乏しいこの神語りをすなおに信じられる人は幸いです。なぜかというと、ほかの出雲国の場合はともかく、出雲国風土記の出雲国の場合は、どうしても「麻布きれをおっぴろげた国々の集まり」でないと間尺が合わないからですが、そこのところを縷々(るる)説明して、全体の解説に代えたいと思います。 出雲国風土記の身上 出雲の國の風土を記す。國之大體、首震尾坤。東南西山。北臨海。 『出雲国風土記』というのはこの書物の題名ですが、わざと本文の書出しだと思って、「出雲の国の風土を記(しる)す)」と読むのが私の流儀です。この読み方には「これだけのことで、この書が正真正銘の『風土記』だということがわかる」という利点があります。 和銅六年(713)五月甲子(続日本紀) 老 細思2枝葉1、裁2定 詞源1。亦山野濱浦之処、鳥獣之棲、魚貝海菜之類、良繁多、悉不レ陳。然不レ獲レ止、粗挙2梗概1、以成2記趣1。(0) おくれて天平五年(733)に完成した『出雲国風土記』の場合、和銅六年(713)に出された宿題の諸項目に準拠して、雑多な事柄を追って、個々の現象を記述している内に、思考がだんだん深まって、「これらの種々多様な現象を全て包摂してしまうような1個にして完全無欠なものが存在している」ことがなんとなくわかってきたところで、「出雲の国の風土を記す」という、1個にして全体を網羅する課題が見つけられたのだと思います。 「老 細思2枝葉1、裁2定 詞源1。」 ここにその秘策の一端が明かされているので、おおいに意訳すると、 最後に生け花のお師匠さんみたいなことを言うのはどうかと思いますが、この風土記の本文を無心に読んでゆけば、ものごとの 1/2 が 科学技術的な思考に委ねられ、1/2 が 神話的な思考に委ねられて、1つのことがらに表裏がつけられ、1つの仕事の往き還りになるようなところは確かに感じられると思います。また、なにげなく著作者の顔ぶれを見ると、1人は民間の学識経験者、もう1人は国造(出雲国の最高神官)という、異色の人材が2人だけ起用されています。これも「まさにそういうことだった」のかもしれません。 天平五年二月三十日勘造、秋鹿郡人神宅臣金太理 〔数量〕と「言葉」 『出雲国風土記』の記述内容には、出雲国の風土を構成する様々な事柄が含まれているので、それぞれの事柄ごとにものごとが纏められて1つになると、出雲という国とその風土の1つの全体像が描き出されるはずです。しかし、事柄を、数量で表す事柄と、言葉で表す事柄に分けてみたときには、事柄ごとにものごとが1つに纏められる纏められ方は同じではないということがあります。その違いの激しさは、実際にやってみないことには実感できませんが、『出雲国風土記』の著作者たちは、2つの事柄を実際に纏めてみたので、「数量と言葉では出来がこうも違うものか」と驚いたことと思います。 「山代郷」 郡家〔西北3里120歩〕。所造天下大神"大穴持命"
この記事の内、@数量で表す事柄に当たる〔ものごと〕は、〔西北3里120歩〕です。 出雲の國の風土を記す。國之大體、首震尾坤。東南西山。北臨海。 @数量で表された〔ものごと〕が事柄に纏められて1つの〔ものごと〕になるとこうなる。 9郡 「郷61」 里179 餘戸4 驛家6 神戸7 里12 (0) A言葉で表された「ものごと」が事柄に纏められて1つの「ものごと」になるとこうなる。 ただ、こういう結果に驚きはしても、こうなることは予想されていたと思われるので、 方向の流れ(↑、→、↓、←) 「山代郷」 「郡家」〔西北3里120歩〕。 「山代郷」と「郡家」が言葉としてあるときに、〔西北3里120歩〕と(数量を)数える声が聞こえてきました。どういうふうに数えているかというと、ちょっと意外かもしれませんが、 〔西(←)に真直ぐに、北(↑)に真直ぐに、合せて3里120歩〕を真直ぐに 数えています。いわゆる「マンハッタン距離」の数え方です。一般には、 通2 嶋根郡堺「朝酌渡」1 〔4里260歩〕。 (1) 枉北道 去〔北4里266歩〕、至2 郡北堺「朝酌渡」1。渡80歩、渡船1。 (10) この〔4里260歩〕にしても、道なりに曲折した道程(みちのり)には看做さない。
「神名樋野」 「郡家」〔西北3里129歩〕。高80丈。周6里032歩。 これも「山代郷」と同じことで、〔西(←)に真直ぐに、北(↑)に真直ぐに、合せて3里129歩を真直ぐ〕数えています。しかし、2つの方向成分が合算されているために、それぞれの〔数里数歩〕が不明になっています。これは惜しいことをしたものです。それでも、「神名樋野」の頂(高80丈)の位置は、2等辺直角3角形の斜(∠45゚)辺上に限定されているのですが、こういう不完全な表現が罷り通る背景に、「地形の実状を平面的に見知るには、付録の地図を参照されたし」ということは必ずあったと思います。『出雲国風土記』の撰上に際して、最新の『出雲国郡図』が貢進されていたことを期待します。. 「八雲立つ出雲の国」は〔狭布の推国〕。 いずれにせよ、国土の全体像というものは、生身の一眼に見て撮れるほど小さなものではない。それは今でもそうですが、想像が描かれている1枚の地図を開いて、ちっぽけな図形を推(お)し拡げてゆく、想像を見る眼を通してようやく見て撮れるものです。 所3以
号2「意宇」1
者。國引坐 "八束水臣津野命"
詔、 (1) この郡が「意宇」と名付けられた由来をこれからお話します。神代の昔、出雲の国々をお引きになられた「八束水臣津野命」という神様が詔(みことのり)して、 「今者、國者
引訖。」詔而、意宇社爾、御杖衝立而、「意恵」登
詔。 「今、私は出雲の国々を引き終えた。」と詔(みことのり)して、意宇の社の土壇に御杖を衝き立てて、「終え」と詔(みことのり)された。ゆえに、この郡を「意宇」と言う。 以上が国引き説話のあらましですが、要するに、八雲立つ出雲の国々は1つ残らず「狭布の推す国」として在るという話だと思います。 実は、今まで細川本に従って「堆國」としていました。これを「推國」に改めたわけですが、「推す」を借用して「おすくに」と読むことには早くから慣れていたので、これによって、字(推)と読み(おす)と意味(推察する)が初めて一致したことになります。(補説1) 麻布の経緯が数えられるところを模倣したい。 この国引き説話においては「ローカルな地理空間の創出」という課題が追求されているわけですが、そのへんの詳しい説明は
三身の綱と遠呂智の謎々
をご覧ください。 そこで、どんなところを真似るということも具体的に言わないといけないので、「平行に並んでいる糸の間隔が等しい」とか「経(たていと)と緯(よこいと)が直交している」というようなところを真似るのは当然ですが、「経にしても緯にしても、並んでいる順番に明確に数えられる」ところを真似るのが肝心です。これを真似ると真似ないとでは大違いで、真似れば、「任意の1点の位置を数量によって定義する」ところも真似られるようになります。例えばその1点は、麻布きれの右端から経(たていと)の本数を数えてゆくと、540番目の経の上にある。また、麻布きれの下端から緯(よこいと)の本数を数えてゆくと、480番目の緯の上にある。こんなところまで模倣すると、任意の地点の位置を数量によって定義することが可能になります。 私は、「(北・東・南・西)数里数歩」において、こういう数量が把握され、地点が定位されていることを、すこしも疑わない者です。 |
(補説1)「夜の袁須くに」 と 「海の袁須くに」
「〔推す〕を借用して〔おすくに〕と読むことには早くから慣れていた」と言いましたが、これはたぶん後知恵です。私が「堆國」を「おすくに」と読むようになった最初の誘因は、古事記の「夜之食国」です。これが「よるのおすくに」と読まれていたことに影響されています。
於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。次洗右御目時。所成神名。月讀命。次洗御鼻時。所成神名。建速須佐之男命 【須佐二字以音】 (中略) 此時伊邪那伎命大歡喜詔。吾者生生子而。於生終得三貴子。即其御頚珠之玉緒母由良迩 【此四字以音。下效此】 取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者。所知高天原矣。事依而賜也。故其御頚珠名謂御倉板擧之神 【訓板擧云多那】 次詔月讀命。汝命者。所知夜之食國矣。事依也 【訓食云袁須】 次詔建速須佐之男命。汝命者所知海原矣。事依也。
夜において「食」というのは、「光を食べる」ことです。世界に満遍なく満ちていた昼の光を、大きな暗闇が呑み込んでしまったために、星が明るく輝くほどに暗くなった。この時間が「夜」ですが、漆黒の夜の世界をほのかに照らす月明りも、暗闇に呑み込まれまた吐き戻されます。これは「月の満ち欠け」という現象ですが、「こよみ」の月はこの周期をもとに定まるので、夜之食國を知ろしめす神は月讀命(つきよみのみこと)と呼ばれるわけです。
ところで、建速須佐之男命が知ろしめすことになっていた海原には、「潮の満ちひき」という現象があります。蜈蚣嶋 .......。即、自2此嶋1、達2 伯耆國郡内 夜見嶋1、磐石 2里許。廣60歩許。乗レ馬 猶 往来。
盬満時、深2尺5寸許。盬乾時者、已 如2陸地1。(2)「潮の満ちひき」は半日毎に繰り返されますが、干満の差が最も大きいときを「大潮」といい、最も小さいときを「小潮」といいます。「大潮」と「小潮」もだいたい15日毎に繰り返されますが、繰り返される周期は、「月の満ち欠け」の周期とぴったり一致しています。すなわち、新月と満月のときには必ず大潮になり、上弦・下弦の半月のときには必ず小潮を迎えます。だから仮に、海辺で暮らしていた人が、そのときは長いこと山奥に居て、たまたま満月が夜空に懸っているのを見て、「今夜は海辺ではきっと大潮を迎えているに違いない。」と考えたとして、この推察は万が一にも外れることはありません。
さて、この人は、海辺で大潮を迎えていることを、山奥に居ながら、どうして知ることが出来たかというと、「類を推して知る」ことが出来た。つまり、満月と大潮が(同時に起きるという意味で)同類であることから、満月の夜を「推して」、大潮を「知る」ところに到りました。
こういうのは、客観的な事実関係に基づくシンプルな類推思考ですから、結論の正確さは、客観的な事実の正確さに依存しています。だからといって、この人に事実関係の説明を求めるのは酷です。「どこをどう伝わって来たのかわからないが「夜之食國」から伝わって来た不思議な力に海水が推されて、海面面が上下している。」という答えが不意に返ってくれば儲けものですが、この人は、2つの事柄が同時に起きることを、ひとつ覚えに覚えているだけでしょう。(熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまは漕ぎ出でな)
とにかく人においては、一方の「食」の様子を見ることによって、他方の「食」の様子が「推して知られる」ことが有益です。
私は思うのですが、2つの事柄が同時に起きるのは、月明りと同じ様に、海の水も夜之食國の暗闇に呑み込まれまた吐き戻されているからではないか。これはひょっとすると海原の領海侵犯行為になりますが、月讀命も、海水の干満を支配する権限ぐらいは与えられていないと、影が薄くなる一方だし、海水の飲み食いも俺らに任せてくれないと、食べることに命を懸けた夜之食國の名がすたります。次詔月讀命。汝命者。所知夜之食國矣。事依也 【訓食云袁須】 厳密にいうと、これは、〔を(遠)ス(須)〕でしたね。
ですが、ここでは「食」という字を記しながら、「袁須」という読み方が指定されています。私は、これによって、「袁須くに」という先入観念の存在が明らかにされていると思うのですが、「食國」の母胎になったその言葉は、「あまりにも遠いところにある陸地とそこにある国」をいうに止まっていたのではないかと思います。したがって、「夜のをスくに」とは、〔夜空の果てにある月とその円満なる国〕のことです。
しかし、「夜のをスくに」があるくらいなら、「海のをスくに」も当然あるものとしなければならない。すなわち「海のをスくに」とは、「大海原の果てにある陸地とそこにある国」のことです。参考までに、「推国」の用例を検索したら、1つありました。「日本根子天推國(おしくに)高彦尊」。これは平城天皇の諡(おくりな)です。
この意味は「日本の国は天皇が食す(めす;知ろし召す;領知する)国である」という文脈において理解されるので、そういう意味の「食国(をスくに)」と「推国(おすくに)」が混同されている例ではないかと思います。(補説2) 國之大體に関する「数量の源=御量(みはかり)」を追求しました。
算術における加算 (+)・減算 (−)・乗算 (×)・除算 (÷) の 4 つの二項演算のことをあわせて、算術の四則(しそく)あるいは四則演算と称する。.....。四則演算を特徴付ける性質には、交換法則・結合法則・分配法則などがあり、抽象代数学では四則演算が自由にできる集合のことを体という。有理数の全体、実数の全体、複素数の全体などは全て体である。 (算術〔Wikipedia〕)
(出雲の國の風土を記す。)
國之大體、首震尾坤。東南西山。北臨海。〔東西137里019歩。南北183里193歩。〕 (0)100歩
73里032歩
得。而、難 可レ誤。「国の大体」は、八雲立つ出雲の国々(の体)を縫い合せた領域全体です。ところで、この体は、四則演算が自由にできる集合という意味においても、体であったのかどうか? いま急に思いついたことですが、出雲国風土記と、現代数学とが、お互い見ず知らずの内に、奇しくも同じ漢字で表した概念の意味内容が互いにどこまで接近しているのか、いちど検討してみる価値があると思います。てがかりとしては、〔東西137里019歩。南北183里193歩。〕という距離(長さ)の数量が見えているので、これらの算出経過を再現してみれば、国の大体において、「(北・東・南・西)数里数歩」という数量の四則演算がどこまで自由におこなわれたのか判明すると思います。
算出経過の基本線になるのは、沿線諸郡(意宇、嶋根、出雲、神門、大原、飯石)の通道程〔郡家〜郡堺〕程を継ぎ合わせる。或いは、巻末通度(10)に記されている主要通道程を足し合わせる過程です。ここまでの算出経過の追跡は、東西137里019歩・南北183里193歩へ至る紆余曲折 を参照して頂くことにして、計算結果のみを発表します。
〔東西〕149里154歩(44854歩)。〔南北〕200里067歩(60067歩)。
上は、厳粛な計算結果で、押しも押されもしない数値ですが、格別の事情により、歩数を1割(1/10)増し(+4485歩、+6006歩)したあげくに、「360歩」をもって「1里」にまとめなおしています。
〔東西137里019歩(49339歩)。南北183里193歩(66073歩)。〕
「100歩。73里032歩。得而難可誤。」 これは、最前のお色直しの微調整に関する内輪話です。これまで実施すると、最終的には、
元の歩数を√(1.2)倍に増大する結果になって、
〔東西136里173歩(49133歩)。南北182里277歩(65797歩)。〕
になるはずですが、(元のデータはさほどに純良なものではないのに)そこまでやるのはやりすぎだということで、この微調整は断念された。ただ、こういう一連の換算作業を通して、「1歩は6尺のものである」あるいは「1尋と1/4尋のものである」という境地に達しようとしている意図は認められます。要するに、私達が当初、「国之東西・南北は、通道程を足し(+)引き(−)するだけで、容易に得られるだろう。」というふうに見通していたことは、決して間違いではなかったけれども、屋上屋を重ねて、さらに掛け(×)割り(÷)した結果を見せられたというわけです。しかし、滅多に見られない裏技を見ることが出来たのはもっけの幸いというか、お陰様で、「国の大体」は、距離的数量の四則演算が自由にできる集合という意味において、体であったことが判明したのではないかと思います。
それと同時に、文面からは隠されてしまった「東西149里154歩。南北200里067歩。」 これが「国之大体」の本性的な数量表現であったことを知らされました。さて、この数字は「東西150里。南北200里。」に近いので、最初は左の定数が各通道程に分配されていたところに、あとから細かな実測データが新規参入してきたので、若干の狂いが生じていることが考えられます。
(「通 備後國 三次郡堺 三坂81里。徑。常有剗。」 これなどは、200里を分配した余りを全部押し込んだとしか考えられない。)本格的な国土測量が開始されても、「国の大体が、距離的数量の四則演算が自由にできる集合という意味において、体である」ことは変らない。それにしても、出雲国の規模が、先験的に判明しているのは不思議です。しかし、もし全能の神が、この国をまったく無計画に作ったとすれば、これもまた不可解な話です。それで、出雲の国が最初に一定の大きさを与えられたことは信じられます。
この場合に、「A詞源(みことば)」の向うを張って、「@数源(みかず)」という観念を想定してみました。(「老細思枝葉。裁定数源。」と洒落込んだわけです。) そうしたところ、「楯縫郡」の由来を説く記事の中で、「御量(みはかり)」という言葉が目に留まりましたので、そのものずばりに「@御量(みはかり)」ということにします。これは(直角)三角定規ですが、宇宙に浮かぶ3個の恒星間の距離を測り採っているので、「(直径)斜め100,000尋。(⊥)縦80,000尋。(⊥)横60,000尋。」というとんでもない大きさの(直角)三角定規です。
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所3以 號2「楯縫」1者。 "神魂命"
詔、「五十足 天日栖宮 之 縦横御量、千尋栲紲
持而、 (百結 結、八十結
結下、六十結 結下而)、 此 天御量 持而、所造天下大神之宮 造奉。」詔而、御子"天之御鳥命"、楯部 為而、天降給之。爾時、退下来坐而、大神宮御装楯 造始給所、是也。仍、至レ今、楯・桙 造而、奉2 於 皇神等1。 故、云2「楯縫」1。 |
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天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻】 〔楯縫郡の楯縫郷〕 |
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この壮大な「大神の宮」は、既にお気づきのように、「出雲国の大体」に当ります。「楯縫い」というのは、すなわち同形同大の2つの直角三角形の斜辺を縫い合わせて、1つの長方形を作ることです。それで、そのようにして「御装楯を造り始め給いし所」が「縦縫郡」だというわけです。
ところで、長方形は4角4辺の形だから対角線が襷がけに2本引けます。したがって、「御装楯を造り始め給いし所」がもう1箇所あってもおかしくないわけですが、そういう要望に応じて、「楯縫」の郷が、中海(入海)の南にあって意宇郡の東部を占める「野城の国」にあります。〔意宇郡の楯縫郷〕
楯縫郷 郡家東北32里180歩。"布都怒志命"之 天石楯 縫直給之。
故、云2「楯縫」1。東北−の対角線上にある楯縫郷は、「フツヌシの命が天の石楯(あまのいわたて)を縫って直にした」ところとなっていて、要するに「国を縫う」という行為が、天壁(天蓋)の修復作業として、婉曲に(曲がりなりにも)おこなわれています。
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これに対して、西の対角線上にある(縦縫郡の)楯縫郷においては、天壁(天蓋)に飽き足らず、「国を縫う」という行為が、地上において、露骨におこなわれたことが仄めかされています。 ちなみに「国引き説話」においても、「国を縫う」ということがありました。 「八雲立出雲國
者、狭布之推國在哉。初國小所レ作。故將2作縫1。」詔 |
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コガネグモの楯縫?儀式 \/\/\ |
宍道湖(入海)の西北にあって日本海に臨み、楯縫郡と秋鹿郡と嶋根郡の北部にわたる細長い地域が「狭田の国」ですが、いつも問題になる「折絶(おりたち)」というのは、「断崖絶壁をなす」というような自然地形的な概念では全然なくて 「麻布(狭布)の長い反物に鋏を入れてはぎれを切り取る」という地理技術的な概念です。それで、ここ(多久)を境にして、「支豆支乃御埼」と「狭田の国」は、2枚の麻布きれによって方向秩序を別にしているのですが、この折絶の線は、おそらく「夏の大三角」を閉じ合わせる楯縫の線に対応させられていたので、いっそうガチガチに縫い合わされているのではないかと思います。
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以下は現在書き直し中です。(補説3) 里歩は、その丈尺は、結び・尋(ひろ)に根付いていたこと。
「おおよそ地上の距離は、丈尺を用いて測り、『数里数歩』と数えていた。」という歴史的事実があります。これがどれほどのものかというと、大宝令の雑令第3条が「凡度地、(大)五尺為歩。三百歩為里。」と定めていたのは、さしずめ政府がこの事実を裏書保証して太鼓判を押しておいたようなものですから、これほど確かなことはない。ほとんど日本全国の常識だと思ってもよいことです。
しかし、出雲国風土記の出雲の国に足を踏み入れたときには、すこし様子が異なっていることに注意する必要があります。
「おおよそ地上の距離は、結び・尋を用いて測り、『数里数歩』と数えていた。」という歴史的事実が出雲の国にはあります。これがどれほど由緒正しいことかというと、"神魂命"が詔して、「五十足らす天の日栖の宮の縦横御量は、千尋の栲紲を持ちて、百八十結び結び下して、此の天の御量を持ちて、所造天下大神之宮を造り奉れ。」と詔して、御子"天之御鳥命"をして、楯部と為して、天降りさせ給うという事跡に始まることだといわれています。これは雲を掴むような荒唐無稽な話ですが、それだけに、人々が10尋なり100尋なりの栲縄を持って、結び・尋を用いて距離を測ってきた体験を基盤にして成立した神語りのように思われます。また、この神語りが人々の共感を得て再生され語り継がれてきたのは、そういう体験に訴えかけられることがあってのことです。
そういう意味からすると、出雲の国においては、「距離の測りは丈尺を用いていた」という常識に凝り固まるのも半熟状態に抑制して、「人々が、いまもなお、結び・尋を用いて距離を測っている」という事実を掘り起こす必要があります。
それにしても、この問題点には気が付くのがおおいに遅れて今になりましたが、ささやかな実例を挙げて考えることにします。例えば、〔枉北道〕 去レ北.4里266歩、至2 郡北堺 朝酌渡1。渡80歩、渡船1。(10)
この記事において「4里266歩(1466歩)」と数えられている〔◎意宇郡家−−・朝酌渡〕の測定距離は〔800丈〕ですが、
元来の測定距離は「千尋栲縄2結び(2000尋)」であって、旧式に数えるなら「5里(1500歩)」と数えるべきものであった。
なお、新式の測定距離〔800丈〕は、将来的には、「4里160歩(1600歩)」と数えられるべきであり、いま「4里266歩(1466歩)」と数えられているのは、芋虫が蝶々に羽化する途中の蛹(さなぎ)の様相に喩えられます。
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丈尺による"方向の流れ(←、↑、→、↓)" 矢印(←、↑)ひとつが100丈(=12尺)。183歩33になる。
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結び・尋による"方向の流れ(←、↑、→、↓)" 矢印(←、↑)ひとつが200尋(=4尺8寸)。150歩になる。
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朝酌渡 郡家正北4里266歩(1466歩)........800丈=2000尋 神名樋野 郡家西北3里129歩(1026歩)...560丈=1400尋 周6里032歩(1833歩)........1000丈=2500尋 山代郷 郡家西北3里097歩(997歩)........544丈=1360尋 |
←芋 ←虫 |
朝酌渡 郡家正北5里(1500歩)........2000尋 神名樋野 郡家西北3里150歩(1050歩)......1400尋 周6里075歩(1875歩)........2500尋 山代郷 郡家西北3里120歩(1020歩)........1360尋 |
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さなぎ ↓↓ 蝶々 |
1歩= (6尺4寸) 1歩= 1歩= |
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朝酌渡 郡家正北4里160歩(1600歩)........800丈 神名樋野 郡家西北3里040歩(1120歩)......560丈 周5里333歩(2000歩)........1000丈 山代郷 郡家西北3里008歩(1088歩)........544丈 |
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矢印(←、↑)ひとつが100丈(=12尺)。200歩になる。 |
. 丈尺による"方向の流れ"と「条里地割」 「出雲国分寺跡附古道」が示す"方向"の流れと、残存条里地割の方向が異なっているところは、この条里地割の導入時期の遅れを思わせますが、さなぎが蝶々に羽化したときに、条里地割は(このように回転移動して)羽根を拡げたのであれば、旧来の地割との共存も考えられるので、条里地割の導入が遅れたという証拠にはならない。 条里地割の導入と出雲国風土記 田図 でんず日本古代の班田収授による班田の結果を図示した |
天平十四年の田図が四証図の最初とされているところから推測すると、出雲国風土記が造られた天平五年(733)頃は、全国的に(一定の仕様による)田籍・田図の整備が急がれ、(一定の規格による)条里地割が導入されていた時期に当ります。
すなわち条里地割の導入がこの時代の趨勢(トレンド)でしたが、出雲の国においてもこの作業が着々と進行している様子が、風土記における距離の数え方の混乱ぶりからも覗えるのではないかと思います。それで、私が混乱と言っているのは、同じく「里」と記され、同じく「歩」と記されていても、規定された長さが明らかに異なるものが混在していることです。例えば、「神名樋野(郡家西北)3里129歩(1029歩)」は、〔1結び400尋〕を〔1尋と11分の4尋〕ずつ数えたものです(ただし、この数えは「3里127歩」というのが最も正確ですが)。一方、「山代郷(郡家西北)3里120歩(1020歩)」は、〔1結び360尋〕を〔1尋と3分の1尋〕ずつ数えたものです。これを見ていると、2種類の歩が不用意に足し合わされはしないかと心配になりますが、実際上は不用意に足し合わせてもOK!です。(西北)3里127歩〔1結び400尋〕+(西北)3里120歩〔1結び360尋〕=(西北)6里247歩〔2結び760尋〕
したがって、
(西北)3里127歩+(西北)3里120歩=(西北)6里247歩距離の測りに千尋栲縄が通っていること。これが、いちばん大切な、本体的な資格の兼ね備えとして尊重されている。
つぎにこの測定距離がどう数えられるかということは、それこそ二の次の、枝葉末節の課題としてやや軽視されてもいる。
なんとなくそんな印象を受けたところで、,多様化した測定距離の数え方を並べて整理してみました。.
(凡例)
千尋栲縄2結びを以て5里とし、4尋を以て3歩としている。(旧式).........(対応)以3200寸為斛法
千尋栲縄9結びを以て22里とし、15尋を以て11歩としている。(お色直し)
(参考) ただし、「(国之大体)東西137里019歩。南北183里193歩。」においては、「360歩」を「1里」としているので、
千尋栲縄9結びを以て20里とし、15尋を以て12歩としている。(新式)...(対応)以2800寸為斛法
ここでは、「2160尺を以て1里とし、6尺を以て1歩としている」ということも出来る。......................(対応) 条里地割条里地割を測り数える新式の測りが、(尋ではなくて)丈尺であったというのは、常識です。
条里地割は、6尺を以って1歩となし、30丈(360尺)を以って1町とする。180丈(2160尺)を以って1里とする。
その1町の長さは通常109mくらいになっているようなので、その1尺の長さは303mmくらいであったわけです。しかし、そういう条里地割が出雲国に導入され、丈尺による測量が開始されるに際して、これまで千尋栲縄を持って距離を測ってきた測量者たちは、すこしも慌てた様子を見せずに、悠然と構えている感じがありますが、これはどうしてでしょうか? おそらく、条里地割の「6尺を以って1歩とする」その丈尺でさえもやはり結び・尋(ひろ)を基本にしていたので、新旧の作法に互換性があったからではないかと思います。
言い換えれば、その1歩の長さは〔1尋と4分の1尋〕と決められたことが先にあって、あとからその1尺は〔1尋と4分の1尋〕の6分の1と規定されたのではないか。(〔2尋半〕を以って1丈(=12尺)となす。従って〔24分の5尋〕を以って1尺となす。) したがって、6尺を1歩となすときには、その1歩はぴったり〔1尋と4分の1尋〕になります。これは投げたブーメランが手許に還って来たようなものですから、新式になったときにも、馴染みの千尋栲縄を持ってこれを測れることが知れます。
新たに導入される条里地割の計測法は丈尺によって規定されるものかもしれないけれども、でもそんなの関係ない。とりあえず実際の測量は、相も変わらず、千尋栲縄を持っておこなえばよいので、すこしも慌てることはなかったわけです。
旧式の里歩の図体は、「千尋栲縄」の〔尋〕を以って表すより仕方のないものでしたが、
その1町(60歩)は〔80尋〕。1里(300歩)は〔400尋〕。5里を連ねると〔千尋栲縄2結び〕になる。
条里地割の里歩の図体も、そうしたければ、ひたすらに〔尋〕を以って表すことができます。
条里地割の1町(60歩)は〔75尋〕。1里(360歩)は〔450尋〕。20里を連ねると〔千尋栲縄9結び〕になる。
ですが、実際の条里地割の規格は、(私が新式という)そのとおりのものであったのか? そのことをつぎに検討してみます。
「天平六年七道検税使算計法」を見て、田1町の多様性を知る。
| 「地方によって度地尺度が若干異なり、田積様式が異なる場合に、地と収実の割合を均衡させることによって、負担の公平を保つ必要がありました。そこへゆくと、歩の内得米1升という天地人を一気通貫する統一原理の存在は信じられます。」 これは、私が(巻頭言)はじめに歩の概要において述べていたことですが、ここに来て、「〔尋〕という天地人を一気通貫する統一単位の存在は信じられます。」ということも述べなければならなくなりました。そうしたところで、「天平六年七道検税使算計法」を見ることにします。まずこの法案の趣旨の一寸(ちょっと)ややこしいところを理解してといけませんが、 検税の対象物は、毎年の田租が徴収されて正倉に蓄えられている稲穀(籾米)です。その穀1斛(石)の容積の基準値が、ご覧のとおり「2700寸」「2800寸」「3200寸」として3様に定められています。 租穀は、律令格式に誓って「田1町(3600歩)租穀1斛5斗」を平等に収めることになっていたので、「田1町」の租穀をまるごと計量したとき、東海道・山陽道では「4050寸」、東山道・北陸道・南海道では「4200寸」、そして山陰道・西海道の基準では「4800寸」の容積を満たす必要があったわけです。 |
西海道 ` 以三千二百寸為斛法 ゚ |
南海道 ` 以二千八百寸為斛法 ゚ |
山陽道 ` 以二千七百寸為斛法 ゚ |
山陰道 ` 以三千二百寸為斛法 ゚ |
北陸道 ` 以二千八百寸為斛法 ゚ |
東山道 ` 以二千八百寸為斛法 ゚ |
東海道 ` 以二千七百寸為斛法 ゚ |
天平六年七道検税使算計法 |
このように、「田1町(3600歩)」における「租穀1斛5斗」は、3様の米升規格が同時におこなわれていたために、地域によって数量に差が見られ、全国一律ではなかったことが判明しました。
律令国家は租税労役を(人民に対して)均一に賦課するというイメージに背反する現実を不意に告げられたようなものですが、慌てることはありません。これはひとつの事実として冷静に受け止めておいて、では「租穀1斛5斗」における「田1町(3600歩)」はどうだったのか?ということをあらためて問い返す余裕が必要です。つまり、片方の「田1町」においても、3様の歩規格が同時におこなわれていたために、地域によって差が見られ、全国一律ではなかったということがあるのではないか。もしそうであれば、米升の容積と歩のひろさが均衡して、(人民に対する)賦課の均一性が回復されます。ちなみに、歩のひろさが相違するときに米升の容積も相違して均衡する理屈を言うのが「歩の内得米1升」です。この「米」は脱穀された玄米ですが 「得米1升」は、「27寸」「28寸」また「32寸」ということになります。
私は、3様の歩規格がおこなわれていたことを、「歩の内得米1升」に誓って確信している者ですが、天平五年に造られた「出雲国風土記」においては、3つの内2様の歩規格のことが、互に大きさを明らかにしつつ、具体的に語られていると思います。すなわち、1つの歩の長さは〔1尋と3分の1尋〕であり、もう1つの歩の長さは〔1尋と4分の1尋〕です。
〔得米1升〕 32寸 28寸
――――――― ≒ ―――――――
〔歩の内〕 (1尋と1/3尋)2 (1尋と1/4尋)2つまり、 18 寸/尋 ≒ 17.92 寸/尋
ほとんど「歩の内得米1升」を達成しています。再帰して、「田1町租穀1斛5斗」にも、そういう意味が与えられそうです。
〔収租穀1斛5斗〕 4800寸 4200寸
――――――― ≒ ―――――――
〔田1町の内〕 (80尋)2 (75尋)2つまり、 0.75 寸/尋 ≒ 0.7466 寸/尋
これもほとんど達成していることは間違いない。この結果を参照したとき、「天平六年七道検税使算計法」のほんとうの意義が見えてきました。この法案は「田1町」のひろさのことには何も言及していていなかったのですが、「田1町(3600歩)」に3様の規格が存在するときに、なおも「田1町の内、収租穀1斛5斗」の平衡を保とうとする意図があったことは間違いないと思います。さらに、ひいては「歩の内得米1升」の平衡を保つものである。調子に乗って、その「歩の内得米1升」の壮観を一表にして示しておきます。
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天平六年七道検税使算計法 |
得米1升 | 1歩のひろさ | 1歩の長さ(推定cm) | 「6尺為歩」の尺長 | ||
| 東海道・山陽道 | 以2700寸為斛法 | 27寸 | 1.51(尋)2ほど | 1.23尋ほど(178.2cm) | ← | 29.7cm(天平尺) |
| 東山道・北陸道・南海道 | 以2800寸為斛法 | 28寸 | 1.5625(尋)2 | 1尋と4分の1尋(181.2) | → | 30.2cm(曲尺の源) |
| 山陰道(出雲国)・西海道 | 以3200寸為斛法 | 32寸 | 1.7777(尋)2 | 1尋と3分の1尋(193.3) | 1尋=145cmほど | |
なお、条里地割(以2800寸為斛法)の普及が急がれている時期に、他2つの斛法が例示されているのは、時代遅れの感じがしますが、新旧の大きさを互いに比較できるようにして、互換性を高めておく必要があったのではないかと思います。
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(補説4) 〔尋〕の履歴書この〔結び・尋〕と〔里・歩〕との関係は最初に「五十足(いそたらす)天日栖宮」において取り結ばれているので、そこから説明します。
半径「50結び」の円に外接する「天日栖宮」は、すなわち「夏の大三角」を構成する3恒星間の距離が示すように、「斜め100結び。縦80結び(80,000尋)。横60結び(60,000尋)はいわずもがな。」という規模であった。そこで、「造天下大神之宮」すなわち出雲国も、天の御量「180結び」を展開して、それ(天日栖宮)とまったく同じ規模になるように造られた。おそらく、この〔縦80結び〕は〔南北200里〕にまったく等しいものとされ、
また、〔横60結び〕は〔東西150里〕にまったく等しいものとされた。
↓↑
〔2結び〕は〔5里〕に等しいものとされ、〔4尋〕は〔3歩〕に等しいものとされた。お色直しされる以前の「東西149里154歩。南北200里067歩。」が、「東西150里。南北200里。」を意識したものだというのは強引なこじつけですが、「毒を食らわば皿まで」と思って、このように里数との対応をつけました。
縦(南北)横(東西)の数量自体は、おおまかに言うことに意義があるので、出雲国の大地に接したときの正確さ・不正確さの程度はあまり問題にしません。ただ、1つは「結び(1000尋)」といい、もう1つは「里(300歩)」という2つの距離単位が向い合って、互いに比量し合い、規定し合う関係にあることには、普遍的な意義があるように思われるので、これらの数量の大小関係に注目することにします。この際は、「尋」が基礎的な距離単位として今なお健在であれば、それに越したことはないと思っています。実際のところ、「尋」という単位は、いずれ「歩」に打ちのめされて(距離単位の)表舞台から完全に引退することになりますが、それはそれで、変らずに昔のままの長さでいてよいという許しを得たようなものです。
それで、「百八十結び」という御量(みはかり)のことも、「1000尋」は、神代の昔から今の長さに決まっていた「1尋」を手繰りひろげることを1000回繰り返した長さであり、「百八十結び」といえば、その「千尋栲縄」180本を継ぎ継ぎに結び連ねた長さだということで、そこは人間の身体動作に似せて、親近感をもって語られもし、聞かれもしたのではないかと思います。
栲縄をひろげて出雲国の領域を占定したという荒唐無稽の想像的事実が、厳かな神語りとして語られたとき、これが疑いを容れない超歴史的な真実として人々に信じられた。その一番の理由は、要するに、「千尋」という人称単位をもとにして、それらの加算的結合を、すなわち「縄を結ぶ」という身体動作によって、やすやすと表現していることに尽きるのではないでしょうか。
しかし、これはいたずらに遠い遠い昔の物語ではない。出雲国風土記が造られたのは天平五年(733)で、この神語りは、このとき「縦縫」という郡名の「詞源」を「裁定」するために語られて、風土記とともに現代に伝えられたものです。天平五年の当時においても、それはまるで昨夜満天の星空のもとで起きた出来事のように聞きとめられたとすれば、「今なお、〔尋・結び〕をもって、地上の距離を測量している」という状況が必ずあったのではないか。出雲国風土記において、それらは、「里・歩」をもって、表現されている。
矢印(←↑)の間隔を100丈(=12尺)としています。 |
ただ、世の中は変わりつつあり、これからは地上の距離も、〔丈・尺〕をもって、測量しなければならない。そのために、〔結び・尋〕を〔丈・尺〕に読み換えようとする新しい動きが全体的に起きつつあり、その影響を受けて、一部の記事には、まだ〔尋・結び〕で記されたデータに拠りながらも、「里・歩」をもってする表現に変化が見られます。 〔◎意宇郡家−・朝酌渡〕の距離(↑)〔2結び〕は、「正北5里(1500歩)」.....(旧法) 〔◎郡家−・神名樋野〕(↑←)〔1結び400尋〕は、「西北3里150歩(1050歩)」(旧法) 〔○神名樋野〕の周〔2結び500尋〕は、「周6里075歩(1875歩)」.....(旧法) 私としては、〔◎意宇郡家−・朝酌渡〕の距離を「800丈(=9600尺)」とするように、〔丈・尺〕に即して理解しておれば無難だと思っていたのですが、今あらたに、これを「2結び」として、〔結び・尋〕に即して理解し直してみると、こちらの方が態度が自然で、真相に近いような気がしてきました。それで、「1歩はかならず何尺何寸のものである」という私的な常識に疑問を感じて、あらためて出雲国風土記を見回してみたのですが、地上の距離を〔丈・尺〕を用いて測量したという証拠物件はなかなか見つかりません。ただし、山の高さ、水の深さ、物の長さなどは、たしかに「丈・尺」で数えられています。 「砥神嶋 周3里180歩。高60丈。有
椎・松・....等草木 也。」(1) これは山の高さです。 |
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丈・尺 (高さ) 丈・尺 (物の長さ) 結び・尋 (地上の距離) 里・歩. (深さ) 丈・尺 |
しかし、これらは、〔1尋と9分の1尋〕を1丈とする〔丈〕によって、「山の高さ」「水の深さ」「物の長さ」を数えたまでのことだと思います。
ただし、〔尋〕と〔丈〕と〔歩〕の比率を〔9:10:12〕というふうに推定しています。1尋を145cmほどとしているので、1丈は161cmくらい。
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ちなみに、「砥神嶋」は現在の「十神山」で山の海抜高は92mです。「高60丈」は、1丈が161cmとして、96.6m。それで、この「60丈」という高さは、海岸から視覚的に計測した結果で、(山頂の樹木の高さを勘定に入れるなら)相当正確な海抜高を得ているものとみられます。ここで言いたいのは、出雲国風土記の〔丈〕がこの程度の長さ(高さ)だということが実地に確かめられることです。もちろん、〔歩〕がどの程度の長さ(距離)だということも実地に確かめることができたわけです。 ところが、大宝令の雑令第3条に「凡度地、5尺為歩。300歩為里。」と定められていた事実。また、それが和銅六年(713)二月十九日格によって「其度地以6尺為歩」と改められた事実があり、それからすると、「1歩は6尺でおよそ1.8m。1里は300歩でおよそ540m。」です。それで、これをよく『風土記里』と称して、出雲国風土記を読む際の凡例にも流用されています。しかし犯罪捜査において、これらの事実は「殊に出雲国において地上の距離をそのように測っていた」という証拠にはならないし、おおまかな推測材料にもならないのは当然です。そうでないと、真犯人を取り逃がしたり、冤罪を発生させたりする恐れがあります。それでもなお「6尺1歩」を振りかざそうとする人は、(出雲国風土記に内在する)数量の実情に無関心であることを白状したに等しい。 |
出雲国においては〔結び・尋〕で測量していた事実があるというなら、それを証明する「千尋栲縄百八十結び」という立派な証拠物件がありました。これは何にもまさる「論より証拠」です。言っていることはそらぞらしいけれども、全体(大体)を測っている度(単位)と部分を測る度(単位)を同じものに揃えるのは計量の鉄則です。もし「6尺を以って1歩と為す」ような〔丈・尺〕を用いて部分を測っていたのなら、全体もやはり「何万丈」というはずです。この〔丈・尺〕にはひとつも用が無いことがわかりました。「1歩は何尺何寸のものである」という私の詭弁も、「千尋栲縄百八十結び」の前では、暖簾に腕押しです。
ただ、「1尋を以って1丈とした」ような〔丈・尺〕には、山の高さ、水の深さ、物の長さを測り数える用があったので、"八束水臣津野命"の「御杖」によって、権威づけられていた。
「今者、國者 引訖。」詔而、意宇社爾、御杖衝立而、「意恵」登 詔。故、云2「意宇」1。
これは国引き説話ですが、測量ばなしとしては、楯縫い説話の続きになるはなしなので、「この御杖(丈)は千尋栲縄(尋)に呪縛されている」と思うことにします。だいたい〔丈・尺〕が〔結び・尋〕を縛るということはありえない。縛るのはいつでも縄です。
考えてみると、こういうことは「老細思枝葉。裁定詞源。」という信条によく当てはまっています。
ここでは、地上の距離を数えている〔里・歩〕は「枝葉」です。山の高さ、水の深さ、物の長さを測り数えている〔丈・尺〕も似たような「枝葉」でありまして、それらのことがらは、〔結び・尋〕という共同の根源から出てすぐに枝分かれしている。要するに、〔丈・尺〕と〔里・歩〕は「枝葉」で、〔結び・尋〕は「詞源」というわけです。そこで次には〔千尋栲縄百八十結び〕のことですが、これを、「出雲国風土記に内在する全ての数量の源」という意味において、「御量(みはかり)」として敬し奉ることも可能になっているのではないかと思います。あゆみ(歩) home