続・方向の流れ  2006.7.7. 2008.7.23. 加筆訂正  方向の流れ  あゆみ(歩)home

麻布に、神名樋野を描く

矢印(↑)1間隔を100丈(大10尺=12尺)としています。

 麻織物 (画像)japan.alibaba.com/.../ 412c0p0t1h0v.html

 前回のまとめは、「麻の布きれに神名樋野の点をついに押した」と言っても、単に図〔方向の流れの上に描いて終わりましたが、すこし後悔して、やはり麻布の上にも描いてみたというのが、右の絵です。
 仮想の格子状街路(lattice-like street)は、地上の景観が隅々まで均等に縮小された地図においては、麻布の織目に姿をかえている。実際、◎郡家 から 神名樋野 へは、経を伝い緯を伝い、"3里129歩"のみちのりで、いくつもの路を行くことができます。麻布は、こうした地図には格好の下地だということが、よくわかると思います。

 なおまた前回のまとめで、「意宇郡家から朝酌渡まで800丈。神名樋野の周は1000丈。という(尺と歩の関係を告げるとびきり重要な事実について)決定的な確信を得たのですが、そのことは次にお話しする」と言いました。
 それで今回は「100丈」のことから話を始めます。

縮尺できる「丈」。できない「歩」。
 地上で測定された距離は、ぐっと縮小されて、小さな地図面に取り込まれますが、この操作が数値の計算によっておこなわれるとします。すなわち、元の大きな数値に、所定の縮尺率を掛けて、小さな数値にします。そうすると、縮尺前、縮尺後の数値の単位自体はぜんぜん変わらない。たとえば、直長100丈(=12尺)に対して、縮尺率1/12000を掛けると、直長1寸になります。
 そうしたとき、朝酌渡の「4里266歩」など、単位で表された数値は、これが元の大きな数値であるとはとても思えない。おそらくこれは「(朝酌渡)○○○丈」という測量記録が既に存在していて、「4里266歩」の元にもなっているのだろう、と想像されます。
 また、神名樋野の「(周)6里032歩」はあまりにも詳し過ぎます。これは「(周)○百丈」という簡潔な目安があったのに、わざわざ里・歩になおしたので煩雑な数値になったのだろう、と想像されます。
 状況的には朝酌渡のそれにも簡潔な丈数が期待されます。そこで、「4里266歩」を「6里032歩」で割ってみました。1466÷1832=0.800218 は、究極 /5 。簡潔な丈数?これはもう「800丈」と「1000丈」に決まりです。

図〔方向の流れは地図になった。
 図〔方向の流れも、これに応じて、矢印()1間隔を100丈(大10尺=12尺)とすることにしました。これで、図〔方向の流れはついに地図(の下地)になりました。手始めに、朝酌渡なる標点を、意宇郡家から(北に)数えて、8個目の矢印()の先端に押しています。この地図を見る人は、この間を繋いでいる矢印()の数を数えれば、ただちに「800丈」とわかる仕組みです。ただ、この地図は、作成者、閲覧者ともに縮尺率を自覚していないという、やや観念的な地図になっています。

測量記録には丈数が記されていた。
 実をいうと、図〔方向の流れを地図にして見せるというアイデアはずっと以前からありました。というのは、
 マンハッタン距離の一例として「山代郷、郡家西北3里120歩」を挙げましたが、図〔方向の流れを下地にして、この図のどこかに山代郷なる標点を押すことができれば、マンハッタン距離の解説図であると同時に、萌芽的な地図にもなっています。
 そのためには、まず矢印()1間隔が表す距離がどれ程かということを定めておく必要がありました。これがやや難題で、矢印の1間隔を「1里」にしてしまうと、意宇郡家に近づき過ぎる。かといって、「150歩」とか「100歩」に小分けするのも、なんかふがいない感じがして、ひとり悩んでいたところでした。
 矢印の1間隔が「100丈」に落ち着いたのには、元の測量記録にはたいてい丈数が記されていたという歴史的背景があるのではないでしょうか。

"6丈=11歩"の割合。
 なおまた、これらの丈数は、"6丈=11歩"の割合でもって、歩数に言い換えている、と考えられます。(表1)

(表1)   丈数  原数(:6)  増数(:5)  合計(:11)  里・歩  風土記
 意宇郡家〜朝酌渡   800丈  798+2  665+1  1466  4里266歩  四里二百六十六歩
 神名樋野の周  1000丈  996+4  830+3  1833  6里033歩   六里卅二歩
 意宇郡家〜神名樋野   560丈  558+2  465+1  1026  3里126歩  三里一百廿九歩

.〔丈と尺の関係について〕
 大宝令の雑令は、「1尺2寸為大尺1尺」と定めた上で、度地(地の大きさを測ること)における「1丈」の長さを「大10尺」とした。つまり、度地1丈=大10尺=12尺。

日本の常識は出雲の非常識。
 およそ尺と歩の関係について、大宝令の雑令は「凡度地、5尺為歩。300歩為里。」と規定しています。すなわち、"1丈=2歩"の割合で歩に換えることになっていた。したがって、「出雲国風土記」の読者のほとんどは、"1丈=2歩"を凡例として、この書を読みこなしていたのですが、ここ出雲国の意宇郡において"6丈=11歩"の割合で歩に換えていたというのは、寝耳に水、想定外の出来事に、驚くべきです。
 これは出雲国でも珍しいことで、全般的には"1丈=2歩"でよいのか?
 いずれにせよ例外は最小限に止めたいものですが、朝酌渡を挟んで北隣の島根郡においても、やはり"6丈=11歩"の割合でであることを、嶋根郡の「通道」の様子を調べて、お見せします。(表2)

   通意宇郡堺朝酌渡11里220歩。之中、海80歩。
   通秋鹿郡堺佐太橋15里080歩。 
   通隠岐渡千酌驛家湊17里180歩。

嶋根郡家
(表2)   丈数  原数(:6)  増数(:5) 合計(:11)  里・歩  風土記   100(百)丈の長さ?
 嶋根郡家〜朝酌渡  1920丈  1920  1600  3520  11里220歩  十一里二百廿歩  6790m/19.2=353m
 嶋根郡家〜佐太橋  2500丈  2496+4  2080+3  2583  15里083歩  十五里八十歩  9000m/25=360m
 嶋根郡家〜千酌湊  2880丈  2880  2400  5280  17里180歩  十七里一百八十歩

(参考)100(百)丈の長さは?

 意宇郡家〜朝酌渡  800丈  798+2  665+1  1466  4里266歩  四里二百六十六歩  2815m/8百=352m

 嶋根郡の「通道」も、やはり"6丈=11歩"の割合で換えているようです。"1丈=2歩"という常識は通用しないことがわかりました。
(朝酌渡〜嶋根郡家〜千酌湊)は、1920丈+2880丈=4800丈。ここにも100丈への執着が見られます。

〔追記 2008.7.21.〕
 
丈と歩の関係もさるものですが、最近おおいに感じることがあって、( 出雲国風土記(原文) 解説 )
 尋と歩の関係がほんとうではなかったかと思うようになりました。これは、一昔前というよりつい最近まで、
 
尋と歩の関係がほんとうであったという考えです。

一昔前というよりつい最近まで 天平五年現在、
郡家から朝酌渡まで2000尋。神名樋野の周は2500尋。 郡家から朝酌渡まで800丈。神名樋野の周は1000丈。
       (千尋栲縄2結び)    (千尋栲縄2結び半
歩(6尺)   4里160歩(1600歩) 5里160歩(2000歩)
歩(1尋と/尋) 5里(1500歩) 6里075歩(1875歩) 歩(6.545..尺)4里266歩(1466歩) 6里033歩(1833歩)

一昔前は、尋と歩の関係において換算されていた。 ただし今は、丈と歩の関係において換算されている。
(参考までに、「1360尋」が「3里120歩(1020歩)」に換算されているという実例を挙げておきます。)
山代郷 郡家西北3里120歩。所造天下大神"大穴持命" 御子 "山代日子命"坐。故云2山代也。即有2正倉1

100丈という長さを「およそ363m」と推定する理由。

 この時代の度地尺は大きく分けて長短2種類あります。ひとつは、(よく「天平尺」といわれる)30cm弱のものさしです。もうひとつ、(「曲尺」というか無名の)30cm強のものさしがあります。度地100丈(大1000尺=1200尺)の長さは、前者(29.7cmほど)に準拠すると、356mほど。後者(30.3cmほど)に準拠すると、363mほどです。
 出雲国風土記の100丈においてはどうか? 表2の右端に示した安易な測定結果(353m,360m,352m)は、せいぜい、度地尺が30cmほどの長さであることは間違いないというものだと思います。
 しかし、私には、〔追記〕のように考えを改めたところで、長い度地尺を選ぶ理由があるので、
 度地100丈は「363mほど」とします。

 私が、長い度地尺を薦めるのは、"60尋=45歩"から"24丈(=60尋)=44歩"に変ることに、成る程と思うことがあるからです。
(天平6年七道検税使算計法によれば)、山陰道の出雲国風土記が編纂された天平5年頃には、
多くの国々において、条里地割が開始されていたのだが、
はやくから、この手の里歩法(1尋と/を以て1歩とする。60歩を1町、6町を1里とする)が施行されていた地域。
 (東山道・北陸道・南海道は、2800寸を以て斛法と為す。........乙)
令制的にはオーソドックスな里歩法(度地尺は30cm弱で、6尺を1歩、60歩を1町、5町を1里とする)が施行されていた地域。
 (東海道・山陽道は、2700寸を以て斛法と為す。........甲)
また異規格の里歩法(〔1尋と/尋〕を以て1歩とする。60歩を1町、5町を1里とする)が実施されていた。
 (山陰道・西海道は、3200寸を以て斛法と為す。........丙)

 そうしたとき、(乙)の田と(丙)の田は、いずれも〔尋〕を基にして〔歩〕の長さを定めながら、
 1尋と/を以て1歩とする。1.5625尋2......(乙) 1尋と/を以て1歩とする。1.7777..尋2....(.丙)
 この相違(1:1.1377)が、「町租穀1斛5斗」という稲穀斛法において、2800寸 と 3200寸との相違(1:1.1428)になって現れている。
 (もともと"米升法とものさし"というテーマにおいて追求している事柄ですが、その地下水がこんなところから噴出してくる。)
 ところで、(乙)2800寸は、(甲)2700寸よりも大きい。ということは、(乙)1歩2は、(甲)1歩2よりも広い。このとき、1歩はどちらも「以6尺為歩」と規定されているので、(乙)固有の度地尺は、(甲)固有の度地尺よりも長い。

「闇見国」の方向の流れ

 亦、「北門良波乃國矣、『國之餘有耶』見者、國之餘有。」詔而、
 童女胸鉏所取而、大魚之支太衝別而、波多須〃支穂振別而、三身之綱打挂而、
 霜黒葛「閨V耶〃」爾、河船之「毛〃曽〃呂〃」爾、「國〃来〃」引持、引縫國者、

 2宇波縫1 折絶而、「闇見國」是也。
 ちはやぶる神代の昔、まだ国が無かった嶋根半島に、
「國引坐八束水臣津野命 という神様が、
 「支豆支乃御埼」「狭田之國」「闇見國」「三穂乃埼
などの国々を、海の彼方から引いて来られたという。
 意宇郡の章で「意宇」という郡名の由来を語るはなしですが、「国引き説話」として、出雲国風土記の中でも、とびきり有名なはなしになっています。
 そもそも「国引き」とは何か? 私の考えは独特です。

 を引いて来たというが、
 いったい何を引いて来たのか? 引いて来たものは
 〔
方向の流れだと私はいうのです。
  綱を引きコンパスを回して國は作られた(前編)

 人の世になって、この國の地図を麻布の上に描くこと
 は、神が引き来た図がふたたび新羅や北門の国のあ
 たりまで戻されることにほかならならない。また、
 神がこのように陸地を節理された跡があるからこそ、
 人はその跡を数里数歩と測り取ることが出来る。
  綱を引きコンパスを回して國は作られた(後編)

 最後のところは、いま改めて、つぎのように言う。
「人はその跡を数千数百丈と測り取ることが出来る。」

 図〔方向の流れに表している嶋根郡の西南部が「闇見国」の主要部ですが、方向の流れは真北(真南)を指しているものと予定しました。郡家と・佐太橋を矢印(↓)2つ隔てたのは、巻末通度と通道との差1里080歩(=207丈)がそんなことによるのではないかと想像してのことです。

(巻末通度)
枉北道去北4里266歩、至郡北堺朝酌渡。
渡80歩、渡船1。 又北10里140歩、至嶋根郡家。   (1里080歩)<
 自
郡家去北17里180歩、至隠岐渡千酌駅家濱渡船。
 又 自
郡家西15里080歩、至郡西堺佐太橋
 長3丈。廣1丈。
佐太川。
.(嶋根郡「通道」)

通意宇郡堺朝酌渡11里220歩。之中、海80歩。
通隠岐渡千酌驛家湊17里180歩。
通秋鹿郡堺佐太橋15里080歩。 

 なお、出雲大河東辺に至る惣枉北道程は、99里110歩とされています(之中、隠岐道17里180歩)。
 元は「16260丈(271×60丈)」で、"6丈=11歩"の割合で「歩」に換えることへの配慮が見られます。

800丈意宇郡家〜朝酌渡は「わるくない」。

 以上を要するに、「4里266歩」という点〔朝酌渡点〔意宇郡家の距離(2815m)は、常識的な"1丈=2歩"では(=633丈)届かないけれども、"6丈=11歩"であれば(=800丈)じゅうぶん届くことがわかりました。
 ところが、これがまた常識的には、枉北道去北4里266歩(=633丈)の起点は、南の〔国庁・意宇郡家〕にはなくて、北の〔十字街〕にあるらしい。

「十字街」は、国庁跡の北側で農道が交差する場所が想定されている。
「十字街から北に4里260歩(2.612キロメートル)進むと、郡の北境である朝酌渡に至る」とされている。

(広江耕史 出雲国府と周辺の遺跡)

 発掘された出雲国庁を基準にして、十字街の位置は国府政庁の北方約300メートルの、松江市大草・山代・竹矢の各町界線がつくる逆T字形の交点に比定された。上記の三町はそれぞれ古代の大草・山代・筑陽の郷名を継承するもので、郷の境界が駅路を基準にしていたことがわかる。(木下良『国府』)

 すなわち、意宇郡家の(交通上の)位置は十字街にあるというのが学界の常識になっていますここにあるから、常識的な"1丈=2歩"にしても、朝酌渡までゆうゆう届いているではないかというわけですが、これに先立って、『出雲国風土記』の読み方の指導者からして、このような見識をもつように勧めているところがあります。

又 西廿一里 至2國廰意宇郡家北十字街1 即分爲2二道1 一正西道/一枉北道
又、西のかた廿一里にして國の廰、意宇の郡家の北の十字の街に至り、即ち、分かれて二つの道と爲る。 一つは正西の道、一つは北に枉れる道なり。
(日本古典文学大系『風土記』秋本吉良校注;岩波書店 昭和33年)

又、西廿一里、至2国庁意宇郡家北十字街1、即分為2二道1。 一正西道、/一枉北道。
又、西へ廿一里にして、国の庁意宇の郡家の北の十字の街に至り、すなはち分れて二つの道と為る。
 一つは正西の道、一つは北に枉れる道なり。
(新編日本古典文学全集『風土記』校注・訳 植垣節也;小学館 1997年)

  これを読んで、無性に腹立たしくなり、読み方が間違っている。合点がゆかないと思う人もあまりいないので、

 以上によれば、前文(通道)の「国の東の堺」から「十字の街」までの距離は、後文(駅路)の「東の堺」から「黒田の駅」までの路程にまったく合致し、黒田駅が十字街に位置していたことがわかる。
 この場合、前者に「国を去る程」とあるのは国府からの距離を意味するもので、以上のことから「国の庁、意宇の郡家」の北にあった「十字の街」が国府に属して出雲国の道路元標的位置を占めていたことが理解できる。
 また「意宇郡」条に黒田駅は「郡家と同じき処なり」とあり、「巻末記」に「意宇の軍団、即ち郡家に属けり」ともあるので、意宇郡家は黒田駅と意宇軍団とを付属させて十字街にあったことになる
(木下良『国府』)

 読み方を指導する立場ではない私ですが、従来の読み方には、意宇郡家と北十字街の位置関係を倒錯して、西21里を一心不乱に西に向かっていた読者の方向感覚を、おおいに乱して終わるという複雑な味わいがあります。しかし、こういう迷惑な読み方は、ごく実用的な道案内文においては、最も嫌われるものではないでしょうか。
 したがって、私は、
「北十字街」にすぐに至らなくてもかまわない。西21里を一心不乱に西に向かってゆける読み方を歓迎します。

又、西廿一里、至2国庁意宇郡家1。北十字街、即分為2二道1。 一正西道、/一枉北道。
又、西へ廿一里にして、国の庁、意宇の郡家に至る。
北は十字の街に、すなはち分れて二つの道と為る。 一つは正西の道、一つは北に枉れる道なり。

〔解説〕
左(巻末通度)の話をよく聞いてから、右の路線図を読んで下さい。

   国東堺去西.20里180歩、至野城橋。長30丈7尺、廣2丈6尺。飯梨河。

 又西21里、至国庁・意宇郡家。 
 
北十字街。即分為2道。1正西道、1枉北道。
 枉北道去北.4里266歩、至郡北堺朝酌渡。渡80歩、渡船1。
 正西道自十字街西12里、至野代橋。
 
又西7里、至玉作街。即分為2道。1正西道、1正南道。

 野城の橋から西へ21里行くと、国庁・意宇郡家に至ります。
 郡家の北にある十字街のところで、道が2つに分かれます。
 
一つは正西道。一つは枉北道(まがる北の道)です。

 枉北道は、北に去ること4里266歩にして、
 郡の北境をなす朝酌の渡に至ります。海80歩を渡す。渡船1。

 正西道は、十字街より西へ12里で、野代の橋に到ります。
 また西へ7里行くと、玉作の街に至ります。
 ここで道が2つに分かれます。
一つは正西道。一つは正南道です。.

この話を聞き、この地図を読まれて、
 「枉北道を北に去る4里266歩」のみちのりは、
 ・
意宇郡家 に始まり朝酌渡 に至るみちのりである。
 この内の 十字街 へのみちのりは明らかにされていない。
以上のことが、おわかりいただけたでしょうか?

 なおかつ、私は"6丈=11歩"の割合で丈に換えているので、「4里266歩」は「800丈(2900mほど)」の直線距離になるという。朝酌渡(矢田渡船場)に対して、これだけの距離が隔てられれば、意宇郡家 の位置はたしかに出雲国府遺跡付近にあったことが推定できます。

 左の話のポイントは、
 正東道?を野城橋 を経て)西にたどりゆくとき、その終点は意宇郡家 であるということです。正西道枉北道の始点もここにある。
 連れ立って出発した2つの道はようやく十字街で分かれる。
 しかし、正西道のみちのりは十字街を0点にして数えてゆきます。 それはなぜかというと、"みちのり"というものは、すなわち
 方向の流れ(→,↓,←,↑)であり、東・南・西・北の道にそれぞれ配当する約束になっているからです。

  西向き()のみちのりがあれば、正西道が拾う。
  北向き()のみちのりがあれば、枉北道が拾う。


 800丈(2850m) →(訂正)→ 800丈(2900m)

.
 その反面、十字街 については、意宇郡家をすこし北に離れて
枉北道の上にあるということしか述べていないわけです。つまり、2点間において枉北道が拾った北向き()のみちのりは、未知数ですが、いまは未知数でもいつかは明らかになります。

正東道  意宇郡家〜国東堺(手間関)      通手間関 41里180歩
正南道  十字街〜玉作街〜国西南堺(三坂)  惣去国程166里257歩
正西道  十字街〜玉作街〜国西堺(多岐〃山)惣去国程106里244歩
正北道  意宇郡家〜十字街〜千酌駅      隠岐道 34里140歩

 正 西 道程 合せて 349里221歩 

(東〜西) 正東道   正西道41_180α106_244= 148里124歩+α
(南〜北) 正南道 正北道 166_257+(34_140α)= 201里097歩−α

 未知数αは、〔意宇郡家〜十字街〕のみちのり(↑)ですが、正北道のものになっていても、(南〜北)のみちのりにおいては余り、(東〜西)のみちのりにおいては不足しています。
(上の路線図を見て位置関係を確かめてください。)

.
出雲国の〔東西・南北〕と十字街との因縁ばなし
(総説)

 出雲國風土記。國之大體、首震、尾坤。東南西山。北属海。

 出雲の国の風土を記す。国の大体は、首を震に向け尾を坤に向ける。(注1)
 東・南・西辺は山。北辺は海に属す。

 東西一百三十七里一十九歩。南北一百八十三里一百九十三歩。

 東西のみちのりは、13719。 南北のみちのりは、183193
 東西137019。南北183193。へ至る紆余曲折

〔解説〕
 「国の大体」の規模を表す2つの数里数歩には、通道記事中の里程とは異なる意義が認められます。しかしこの膨大な数は独自に集計されたものとは思われない。正 西 道程(合せて349里221歩)の計算成果を利用しているのは間違いないでしょう。

 (東〜西) 148里124歩+α  (南〜北) 201里097歩−α
.

     (注1)天空において、「震」は東、「坤」は南西の方角。

 (Input) 148里124歩+α ⇒ (Output) 137里 19
 (Input) 201里 97歩−α ⇒ (Output) 183193

この"連立方程式"から未知数αを消去して、入力と出力を比べてみると、

 (Input) 349里221歩 ⇒ (Output) 320212

数里数歩の額において、互いに大きく相違しています。しかし、数値が食い違っているような心配には及ばず、ただ単位(歩・ )の大きさ(長さ)が異なり、大きな単位(里・ )への束ねかたが異なる可能性を追求します。
 そうしたところ、右の答案(注2)のように、現実味のある解答が得られました。すなわち、
10歩→11 の割合で換算されているらしい。
(360を束ねて1になるので、12里→11 の割合でも換算できる。)
 そこで、
出ている結果から、入れられた数値を復元します。(注3)

 (東〜西)44854歩(149里154歩)→49339(137 19
 (南〜北)60067歩(200里 67歩)→66073(183193

 したがって、未知数α=44854歩−44524歩=330歩(1里 30歩)
 〔意宇郡家〜十字街〕のみちのりは、1里 30歩 とされている。(注4)

 したがって、未知数α=60397歩−60067歩=330歩(1里 30歩)
 〔意宇郡家〜十字街〕のみちのりは、1里 30歩 とされている。

∴ (東〜西) 148里124歩+1里 30歩 (南〜北) 201里097歩−1里 30歩

 (注2) 答案

 正 西 道程 合せて 349里221歩 
 これは300歩を以て1里を為している。
 349里221歩 
=349×300+221=104,921歩.....@

"東西137里 19歩" と "南北183里193歩"
             合せて "320里212歩"
 仮に、「360を以て1 を為している」としてみる。
 320 212 =320×360+212=115,412.....A

 ためしに、Aを@で割ってみたところ、
  115,412()÷104,921(歩) = 1.09998...≒ 1.1
 この様子から察するに、
  10歩→11 
  12里→11 この割合で換算しているらしい。

(注3)
 49339()÷1.1=44853.636..
 東西 ← (東〜西)
 
49339 ← 4485×11+4=44854歩

 66073()÷1.1=60066.363..
 南北 ← (南〜北)
 66073 ← 6006×11+7=60067歩

すなわち、意宇郡家〜十字街〕のみちのりは、1里 30歩 とされていた。これは("6丈=11歩"により)180丈である。これをまた"1丈→2 "に変えていえば、 (360である。

   "180丈=1 (360 )" 十字街

 これを挿入してみて、私は「前件一郡、入海之南。即國郭也。」という記事が意宇郡の最終行にあることを思い出しました。現実においても、「国郭」という1 四方の区域が早々と画定されていたのかもしれません。(そうであれば、「自十字街」なる正西・正南の道程が「惣去国程数里数歩」と数えられているわけも説明できます。)
 なお、方向の流れ()は、180丈(1 =360 )=1里 30歩...640mほど になる可能性があります。
 それはともかくとして、〔十字街〕が、〔意宇郡家〕とは別個に、所在していたことは明白になったと思います。
 また、〔意宇郡家〕が、〔十字街〕とは別個に、所在していたことも明白になったと思います。

.
おわりに

 出雲国風土記の、旧式の1里(300歩)は、400尋で585mほどです。1尋 と /を以て1歩とする。)
 新式の1里(300歩)は、163.63丈で598mほどです。(1尋 と /11を以て1歩とする。)
 ただし、「(國之大體。)東西137里019歩。南北183里193歩。」の算定においては、
 (360)を436.36尋としたので633mほどになる。(360)を178.5丈としたので647mほどになる。
      (1尋 と /33を以て1歩とする。)          (1尋 と 29/121を以て1歩とする。)
 ここでは、450尋=180丈(およそ654m)を以て「1里(360歩)」とする条里地割の里歩法が意識されていた。
 (1尋 と /を以て1歩とする。)

 『出雲国〃郡図』再生のささやかな可能性を、意宇郡家の周辺において、おそるおそる追求している内に、通道のみちのりをたどって、出雲国の国境にまで因縁の範囲が拡がりました。この様子からして、
 方向の流れ(→,↓,←,)が行き交う仮想の格子状街路(lattice-like street)は、出雲国全域に、敷設されているという大胆な見通しが得られたと思います。

あとがき.  2007.9.25.

 出雲国風土記にはその地図が添えられる。或いはその地図に添えられることが不可欠であるという主張の繰り返しですが、この点はあらためて強く感じました。
 天平5年(733)に造られた『出雲国風土記』が、和銅六年(713)に与えられた課題に答えたのは当然ですが、

和銅六年(713)五月甲子(続日本紀)
畿内七道諸国。郡郷名著好字。其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目及土地沃脊。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍言上。

加えて、つぎの課題にも、いちはやく答えているのではないか。

天平十年(738)八月辛卯(続日本紀) 令天下諸国造国郡図進。
延暦十五年(796)八月己卯(日本後紀)
是日。勅。諸国地図。事迹疎略。加以年序已久。文字闕逸。宜更令作之。
夫 郡国郷邑駅道遠近。名山大川形体広狭。具録無漏焉。
は早馬のこと)

 いわれている諸国地図の形態ではないけれども、出雲国風土記は、それらの事柄を具(つぶさ)に記録して遺漏なきものではあるようです。


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