2012年2月26日(日)
「心の清い人の幸い」
(マタイ5:3-8)
  「心の清い人々は 幸いである、その人たちは神を見る」(8)
 「清さ」は神さまのご性質です。よって神さまは私たち人間にも「清さ」を期待されておられます。ですからキリスト者から「清さ」が失われるなら、聖書のたとえを用いるならば、それは塩気を失った塩のようなものと言えるでしょう。
 では聖書の示す「清い」とは、どのようなものでしょうか。それは、@儀式的な清さ(旧約レビ記に代表される)、A戒律的な清さ(律法)、そしてB心の内側の清さ、といえます。
 新約の時代になって、イエスさまが示された「清さ」とはどのようなものでしょう。それは@罪のない心、A自己中心ではないこと、B二心のない、ひたむきな心、です。そして、そのような「清さ」を持った人は「神を見る」というのです。サタンの誘惑を退け、幼子のごとく、ひたむきに神さまに向かおうとする心に、神さまは自ら近づいて下さるのです。
 「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42:5)