2012年2月5日(日)
「義に飢え渇く人の幸い」
(マタイ5:3-6)
  「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(6)
 「飢え渇く」とは、別の見方で言えば、求めるものがあるということです。求める心は生きている証しです。
 「義」とは、二つの関係が正しい状態にあることです。ここでは宗教的面、人間的面の二つに分けて考えたいと思います。
 @宗教的−神さまと人間が正しい関係にあること。旧約時代は、神さまの掟を守ることによって、神さまの前に義とされるとされました(ex.申命記6:25)。しかし、十戒のうちの一つですら、人間は完全に守り通すことはできません。そこで新約時代になると、イエスさまが私たちの罪を清めるために十字架にかかって下さることによって、すなわち、イエスさまを信じる信仰によって、義とされるという新たな道を開いて下さったのです。(ex.ローマ3:21-26)
 A人間的−ヨコの関係でいえば、イエスさまは、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)と言われました。私たちが神さまに愛されているのだから、私たちもお互いに愛を持って接しなさいと教えて下さっています。
 「義」を求めることが、何よりも優先されるならば、そこには真の満足(満たされる)へといたることができるのです。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)