1:1-17「救いを得させる神の力」 (1999/6/16)

 多くのキリスト教の偉大な先輩たちが、「ローマの信徒への手紙」によって大きな影響を受けています。マルチン・ルターは、「まさしく新約聖書の主要部、特に鮮やかな福音といえる」と言い、コールリッジは、「かつて書かれた最も深遠な文書である」と、またドットは、「キリスト教神学の最初の大著述である」と言いました。内村鑑三先生もローマ書に捉えられた一人で、最初に書かれた註解書はこのローマ書でした。
 だからといってローマ書は決して神学的な論文ではありません。学術論文やレポートではなく、あくまでも手紙ですから、決して難解なものではないのだということを頭に入れておいていただきたいと思います。そしてそのテーマは、ひとことでいうと、「キリスト教の救いとは何か」ということにしぼられます。
 ローマ書に限らず、聖書中の「手紙」を読む場合、誰が、誰に対して宛てたものであるかということを知るのが理解への第一歩です。そしていつごろ書いたのか、どこで書いたのか、どうして書いたのか、ということも重要になってきます。よくいわれる、5W1H(when / where / who / what / why / how)を捉えておくことで理解が深まるはずです。この手紙の場合、書いた人はパウロ、かつてはキリスト教の迫害者でありましたが、神さまによって劇的に変えられ、宣教師になりました。あて先はローマの教会の人々、ここはローマ帝国による激しい迫害にさらされています。書いたのは57〜58年ごろであろうといわれています。このときパウロは55、56歳くらいではなかったかと想像されます。書かれた場所は第3回伝道旅行で滞在したコリントの町です。
この手紙の内容については、大きく以下の3つに分けられます。
1〜 8章 人はどうすれば義とされるのか(救われるのか)
9〜11章 ユダヤ民族と全人類の救いはどうなるのか(パウロの歴史観)
12〜16章 信仰者はいかに生きるべきか(キリスト者の倫理)
 それでは、今回から少しずつこの手紙を学んでいきましょう。今回は1節から17節までです。

◇1〜7節(あいさつ〜福音について)
 手紙ですからあいさつから始まっています。1節の「キリスト・イエスの僕」、パウロはイエス・キリストではなく、キリスト・イエスと呼びます。復活後のイエスさまによって劇的に導かれたパウロの独特の呼び方です。僕(しもべ)は、奴隷という意味があります。パウロはイエスさまの奴隷であるということです。
 ここはあいさつですが、その間に挿入される形で、2節から6節まで、福音について述べられます。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。」(2-3)ここでいう聖書は、旧約聖書のことです。あの壮大な旧約聖書は、このイエスさまに向って光を放ち続けてきたのです。そして、その御子イエスさまは、人間として預言どおりダビデの家系に生まれて、死者からの復活によって力ある神の子と定められたのだといいます。そして5節、このお方によって、「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」(5)、パウロにとって使徒とされたことが、この上ない恵みであることは、誇りを持って「私はイエスさまの奴隷です」と言いきる姿勢に現されています。
 「恵みと平和が、あなたがたにあるように」(7)は他の手紙にも見られる言葉ですが、恵み(カリス)はギリシアのあいさつで、平和(平安:シャローム)はユダヤ人のあいさつです。そして神さまからの恵みを深く知ることによって、平安が与えられますように、といいます。

◇8〜15節(パウロのローマ訪問の願い)
 パウロの生涯最後の望みはローマで宣教することでした。理由の一つは、すべての道はローマに通じる、といわれるほど、当時のローマは世界の中心でした。ですからパウロも最後はこのローマから世界中にイエスさまのことを語り伝えたいという気持ちがあったのではないでしょうか。もう一つは、ローマの教会の影響力の大きさです。皇帝ネロの迫害が60年代ですので、その影響も出始めているころです。迫害も日常茶飯事であるそのローマの人々の信仰の証しは、周囲の教会が注目してたのです(8)。そして「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」との願いを述べています。
 パウロがローマに行きたいのは、宣教したいという他に、まず「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいから」(11)でした。さらに与えるだけでなく、「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(12)とも言っています。自分の力ではなく、聖霊の賜物によっての交わりは、与える人も祝福され、計り知れない相乗効果を生み出すのです。
 さらにパウロは「果たすべき責任」(14)があるのだと言います。ギリシア人にも未開の人にもすべての人にイエスさまをお伝えしたい、福音を知らせたい、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)といわれたイエスさまのお言葉そのままに、生涯の大部分を伝道旅行に費やしたパウロの情熱が感じられます。

◇16〜17節(福音の力)
 この2節は、この手紙のテーマといっていい箇所です。「わたしは福音を恥としない」は消極的に聞こえますが、むしろ「福音を誇りとする」、という気持ちが込められます。福音は「よい知らせ」です。よい知らせをもたらすためにイエスさまはこられました。由木康先生は、ローマ書の福音をこう説明しています。「人間が神を探している声ではなくて、神が人間を探しておられる言葉を記している。人間から神への問いではなくて、神から人間への答えである。」人間が一生懸命、修養、努力して救っていただくというのではなくて、神さまが人間となって、私たちの重荷を共感して担ってくださる、救いの道を自ら開いてくださる、これが福音なのです。だからこの福音を聞いた以上、私たちは自分のものだけにはしておけない、そしてこの福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(16)である。「福音は神の力」この力とは“ドゥナミス”という言葉が使われています。ここから“ダイナミック”“ダイナモ”“ダイナマイト”といった言葉が派生してきています。この福音は、ダイナミックに、またダイナマイトのように爆発的に人を内側から作り変える力を持っているのです。そしてそれは救いをもたらす力、救いは“ソーテーリア”ですが、罪から解放されて義とされ、永遠の命を受けるというのが救いです。単に生活が改善されるとか、悪い習慣がなくなるとかその程度ではありません。その人がやがて神の前に立ったときに、罪人としてではなく、義とされた者として受け入れていただける。そしてその救いは「すべて信じるものすべてにもたら」されるのです。そしてユダヤ民族だけでなく、すべての人にもたらされるのです。
 ではなぜ福音が救いを得させる神の力なのでしょう。それは「福音には、神の義が啓示されてい」るからです。
「正しい者は信仰によって生きる」はハバクク書2:4からの引用ですが、義は神さまを信じる信仰によって与えられるものであることを旧約聖書からも確認しています。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントT1:18)

 1:17−2:29 「畏れの心」  (1999/6/23)

 この1章18節からがいよいよ本論ということになります。キリストの救いとは何かというと、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であると1:16で学びました。それでは一体その救いとは、何からの救いなのか、何から救われるのか、それはずばり罪からの救いです。ただ罪からの救いというのが日本人にとっては非常に難しい問題で、というのは、私たち日本人にとっての生活規範は、「恥」という概念からきています。「恥」というのは人と人とを比べるヨコの関係、あの人に比べたらまだましだろう、というのは恥のレベルの考え方です。ところが罪というのはタテの関係の基準になります。神さまの前で人間はどうなのかということです。ですから私たちはつまずきやすい問題に最初にぶつかります。

◇18-20 被造物に現れる神性
 前節(17)の「神の義の啓示」と対比させて、「神の怒りの啓示」が記されています。神さまは義なるお方です。その故に罪を持ったままの人間を御国に受け入れることはできません。しかし同時に、神さまは愛でもあります。神さまと人間との間が断絶状態にあっても(そしてその断絶状態は、「不義によって真理の働きを妨げる」(18)人間の罪によるものですが)、何とか突破口を見つけて交わりを作り出したいという願いをもっておられます。天地創造の時から、「神の永遠の力と神性」「目に見えない神の性質」は「被造物に現れており」、私たちは神さまを知らないとは言えないのです。

◇21-23 むなしい思い
 「神を知りながら、神としてあがめることも、感謝することもせず」(21)
 罪は、単に規則を守らなかった、などということではなく、神さまをあがめ、感謝するという人間本来のあり方を逸脱することであり、ここに人間諸悪の根源があります。神さまの方へ心を向けない人間は、自分が偉いんだという思い上がり、神の栄光を偶像礼拝に取り替えてしまったと指摘します。

◇24-32 不浄への引渡し
 「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」(24)
 「まかせられ」は、「情欲にまかせられ」(26)、「無価値な思いに渡され」(28)と繰り返されます。人間をその欲望のままにさせておくことも、神の怒りです。放っておかれること、これほど悲しい、恐ろしいことはないのではないでしょうか。人間はやがて「神の真理を偽りに替え」「造り主の代わりに造られた物を拝」み(25)、「自然の関係を自然にもとるものに変え」(26)と、すり替え行為がエスカレートしていきます。そしてそこから派生する罪の数々が、29-31節に列挙されます。私たちはこの中のどれにもあてはまらない生活ができているでしょうか。いや、どれかの罪を必ず犯しているはずです。そしてその罪は「死に値するという神の定め」であると、パウロははっきりと宣言しています。罪のあるところには罰が伴います。しかもこの罰は、人間自らが選び取ってしまったものなのです。私たちにとっては、耳を覆いたくなるような話題ですが、神の福音にあずかるためには避けて通れない大切なことなのです。

◇2:1-11 神の公平
 1章後半にみてきた罪を、「私のことだ」と受け止めることができるでしょうか。他人事のように思うならば、「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」(1)のです。私たちは神さまの裁きから逃れることはできません。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」(6)「おのおのの行いに従って」なのです。信仰は神さまと私の関係です。神さまは常に個人と一対一で語りかけていらっしゃいます。そこには職業、家柄、人種、環境といったものは一切関係ないのです。「神は人を分け隔てなさいません」(11)

◇12-16 神さまの正しい裁き
 イエスさまを信じる者は天国に行き、信じない者は地獄に行く。神さまの裁きはこのように単純に割り切ることのできるものでしょうか。世界中には聖書を知らない、イエスさまのことを聞いたことのない人々も大勢います。その人々はどうなるのでしょう。そのことをパウロはユダヤ人と異邦人について、律法を持つもの、持たないものとの対比で述べています。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は、皆、律法によって裁かれます」(12) これは、たとえ律法が知らされていない異邦人にも、「律法の要求する事柄がその心に記されている」(15)からだというのです。人間の良心は、神さまにとって、人の心の中に入る大切な手がかりです。異邦人であっても、神さまとの接触点となる良心を、神さまの方へ向けて、心を開くなら、「律法の要求する事柄はその心に記され」るのです。従って神さまの裁きは公平なのだとパウロは主張するのです。そしてそのことは「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(16)神さまの絶対で、公平な裁きは、「わたしの福音が告げるとおり」(16)とあるように、福音の中心となるメッセージの一つなのです。

◇17-29 心の割礼
 16節までは、主に異邦人に対して語られました。17節からパウロは、ユダヤ人に対して語ります。「ユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて、何をなすべきかをわきまえています」(17-18) 神さまから選ばれた民であり、律法を与えられた民。そのことは誇ってよいことでしょう。しかしその誇りの故に高慢になり、異邦人を見下すような人々も中にはいたのです。そんなユダヤ人の罪を一つ一つ指摘しています。そして「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる」(13)ということを確認させてくれるのです。25節以下では、割礼にも話題が及びます。「律法を破れば、割礼を受けていないのと同じだ」「割礼を受けていなくとも、律法を守る者があなたを裁く」と厳しい口調が続きます。割礼は、アブラハムと契約を結んだ時のしるしとして定められたものであり、ユダヤ人は割礼を重要視していました。ですからパウロの言葉は、彼らの誇りを打ち砕き、激怒させるほどのものだったでしょう。しかしパウロの真意は、外見ではなく中身を見なさい、というところにあります。すなわち「神は人を分け隔てなさ」(11)らない方であり、「おのおのの行いに従ってお報いになり」(6)、「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる」(16)からです。「“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(29) 聖霊に働いていただかないことには心に割礼を施していただくことはできません。そしてそれは「人からではなく、神から来るのです」(29)ということを覚えたいものです。私たちはこの箇所で、旧約の礼典、割礼を、今の私たちの礼典、バプテスマに置き換えて読んで理解しなければなりません。

 3:1-31 「律法と信仰」 (1999/7/7)
 
 
前章においてパウロはユダヤ人に対して、その誇りを打ち砕かんばかりの大変厳しい指摘を致しました。誇り高いユダヤ人からは当然反論がでるでしょう。ここでパウロはその反論を想定して、それに答えていくのです。同じような形が後の4章、6章、7章にもでてきます。

◇1-8 神の真実
 反論1 「(ユダヤ人が異邦人と同様に罪びとであるというのなら)ユダヤ人の優れたところはいったいなんですか。割礼にはどんな利益があるのですか」(1)
 答え 「あらゆる点からいろいろ指摘できます。まず彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」(2)「神の言葉」とは旧約全体、神さまの救いの約束を指します。いろいろ指摘できるといいながら、ここでは神の言葉をゆだねられたという点だけで終わっています。確かにユダヤ人は神さまに選ばれた民族です。しかしそのことによってユダヤ民族がすぐれているということにはなりません。あくまでも「ゆだねられた」のです。
 反論2 ユダヤ民族が選ばれた民とされたのに、その使命を果たせなかったとすれば、神さまの言葉と約束は無になるのですか。(3)
 答え 「決してそうではない」と強く否定します。人間が罪、不義にかかわらず、神さまの真実、神さまの義が変わることはないのです、といって詩編51:6の言葉を引用します(70人訳)(4)。
 反論3 ユダヤ人の不義のおかげで神さまの義が引き立つのであれば、どうして神さまがその引き立て役をお裁きになることがありましょうか。(6-7)
 答え もし神さまがユダヤ人をそのような理由で裁かないのだとすれば、この世をも裁くことはできないということになる。ばかげている。そんな論法は神さまへの冒とくになる。
 この論理の行き着く先は「善を生じるために悪をしよう」(8)です。実際にパウロがそんなことを主張しているという人々があったのです。しかしそんな人々は罰を受けるのが当然だと一言で退けます。

◇9-18 正しい者は一人もいない
 ここまで反論した上で、改めて「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と問いかけます。それに対する答えは、「全くありません」(9)。既に指摘されているように全人類が罪人であるということです。そのことを裏付ける為に、パウロはまた旧約聖書から引用します。それは、パウロ自身がかつては律法を必死になって守ろうと勉強した人であり、ユダヤ人にとっては絶対的な権威である聖書から訴えることによって、神さまのもとへもう一度立ち返って欲しいという願いからでしょう。以下はその引用箇所です。
 3:10-12⇒詩編14:1-3(=53:2-4)
 3:13前⇒詩編5:10(70人訳)
 3:13後⇒詩編140:4(70人訳)
 3:14⇒詩編10:7(70人訳)
 3:15-17⇒イザヤ59:7-8
 3:18⇒詩編36:2 
 「すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々にむけられています」(19)
 聖書(旧約)は指摘している罪は、異邦人だけにあてはまるのではなく、その言葉を託されたユダヤ人にもあてはまるのです。そして「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです」(19)。
 「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(20)
 神さまはモーセを通じて、人間に律法をお与えになりました。モーセの十戒から派生して600を超える律法が生まれたのです。新約時代、パリサイ人、サドカイ人、律法学者といった人々が活躍する頃になると、さらに細部にわたって律法を作っていきました。しかし神さまの与えた最初の律法は十の戒めです。たった十個だから容易に守ることができるかと思えますがそうはいかないのです。律法は100%遵守しなければ守ったことにはなりません。これが律法の性質です。しかもその一番目の戒めは、神を神としてあがめよ、ということです。これが最初で最大の戒めですが、この戒めでさえ私たちの日常生活の中で遵守できていないのではないでしょうか。日々24時間、神さまを第一としているだろうか、日曜の礼拝だけになっていないか、朝祈るときだけになっていないか、と反省させられます。律法をその最初から守ることのできない私たちが直面するのは、私たちがいかに律法にかなわない罪人であるかという現実です。そしてこの罪の自覚を徹底しなければ、罪からの解放としての救いを真剣に求めることは出来ないのです。1章18節からはじまった、パウロの罪に対する弁論はここに結論を迎えるのです。

◇21-26 信仰による義 
 マルチン・ルターはこの箇所を「本書だけでなく、聖書全体の中心的位置を占める」ものだとしています。ここまで人間の罪について語ってきたパウロが一転、神さまの恩恵について語り始めるのです。「ところが今や」(21)(But now)を内村鑑三先生は、「新世界の暁を告げる鐘の音である」と言っています。今まで律法の束縛の下に暗黒の彷徨いを続けていたものが、ここにきて全く別の世界があることを示されたのです。すなわち「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21)。律法なしに、律法から全く離れて、律法以外で、しかも旧約聖書(律法と預言者)全体が証しして、神さまの義が示されたのです。そしてそれは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22)。律法を守ることのできない私が、あるがままの不完全さ、弱さを持ったままで、ただイエスさまを、神さまが私たちを赦されるために遣わされた救い主だということを信じる。罪のないお方が罪びととなって、私の身代わりとなって罰を受けてくださったということを、感謝して受け入れる、これが信仰です。その信仰によって、私たちを義としてくださる道を開いてくださったのです。ですから私の気持ちがいつも神さまを第一にしていないと救われないというのではないのです。過去を振り返って、また今の自分を見つめて弱さ、ふがいなさ、足りなさを数えて、ああ神さま私は救われません、とは決して言わないで下さい。それは不信仰ということになるのです。これはキリスト教最大の宣言であります。
 しかしこれが多くの人々になかなか受け入れられない、分からないのです。世の人はこれこれの修行をすれば、難儀苦労をすれば、課題をこなせば救われる、というと受け入れやすいものです。ところが無償で、あるがままで、ただイエスさまを信じることだけで救われるというと、あまりに簡単でかえってつまずきになることがあります。そこに大きな落とし穴があります。私は長いこと不思議だなと思ってきましたが、よく考えると分かる気が致します。というのは人間が罪を犯したときの出発点は何か、しなさいといわれたことをせずに、罪を犯したのであれば、そのことを一生懸命やれば回復できるのですが、しかしそうではないのです、つまり人間は、不信から神さまから離れたのです。神さまは創世記で、この楽園の中のものをすべてあなたにあげましょう、ただし一つのものだけは取って食べてはいけない、と言われました。それを本当にそうだろうか、と蛇の誘惑に負けて、エバが、そしてアダムが戒めを破ったのです。これは神さまを信じなかった、不信頼からの罪です。ですから神さまは人間を救うときに何を基準に救おうかとすると、信で救うのです。不信で離れていったから、信でもって回復させてくださる。これが律法ではなくて、信仰によってお救いになるという理由なのです。

◇27-31 律法の確立
 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(31)
 信仰に生きるということは、律法を全く廃棄するということになるのか、という反論も当然でてくるでしょう。それに対してパウロは、絶対にそんなことはない、と言います。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)とイエスさまは言われました。そのイエスさまを心にお迎えすることによって、律法を確立することになるのだというのです。
 「人は善行なくして義とされる。しかし義とされた時には、自ずから善行をなすにいたるものである」(ルター)
 私たちはいいことをするから救われるのではないのです。それができないからイエスさまを信じるのです。そのイエスさまを信じる信仰によって義とされ、私たちの内に聖霊が宿って下さり、私たちを少しずつ変えて下さるのです。パウロのように劇的に180度変えられる人もあれば、徐々に変えられるという人もあるでしょう。いずれにしても信じることによって義とされてから、聖霊のお働きによって、生まれながらの自己中心の心が変えられ、善行をなすものとさせて下さるのです。この順序が大切です。ここにキリストの救いの素晴らしさ、恵みがあります。信仰による救いとは、全く一方的な恵みの救いなのです。

 4:1-25 「アブラハムの信仰」 (1999/7/14)

◇1-8 アブラハムの義
 ユダヤ人にとっては、アブラハム、モーセ、そしてダビデは、神さまの次に特別な存在でした。特にアブラハムの子孫であることを誇りにして、神さまと同列に扱うほどだったのです。しかしパウロは3章で述べているように、このアブラハムも信仰によって、神さまから義とされた人物なのだと論じます。その証しとして創世記15:6の「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(3)を挙げるのです。
 4,5節では、働くことによって得られる報酬は、当然支払われるべきものであって、恵みではない。つまり行いによっては義とされない、不信仰で弱い私たちをも義としてくださる方がおられることを信じ、一切を委ねることのできる人は、その信仰によって義とされるのだというのです。ただ信じることによる義、これこそ神さまからの恩恵以外の何ものでもありません。
 6-8節では、詩編32:1-2が引用されます。ユダヤ人の敬愛するダビデも、ウリヤの妻バト・シェバを自分の妻にしたいがために、ウリヤを殺害するという大きな罪を犯します(サムエル下11章)。そのことを預言者ナタンに叱責され、心から悔改めたときの心境を歌ったのがこの箇所です。

◇9-12 信仰の父
 再び話題はアブラハムに戻り、割礼の話になります。3節のアブラハムが神さまに義と認められたのは、割礼を受ける以前のことであったのです。それは旧約聖書を読めば明らかです。
 11節で述べられているとおり、割礼はアブラハムが信仰によって義とされたことの印であり、割礼そのものが義とされることの根拠にはならないのです。ですから「アブラハムが信じた」その信仰を同じくすることで、私たちにもその祝福が与えられるのです。その意味でアブラハムは異邦人にも、ユダヤ人にとっても偉大な「信仰の父」であるといえるのです。

◇13-16 世界を受け継ぐもの
 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」(13) この約束は、律法がシナイ山で公布されるはるか前のことでした。したがって「その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(13)といっています。そしてこのアブラハムの信仰にならう者は、「世界を受け継ぐ者」とさせていただけるのだというのです。

◇17-25 キリストの復活への信仰
 「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(17) この神さまの偉大な力をアブラハムは確信していました。それは彼の長い信仰生活の中で、神さまの言葉を聴き、それに従順に従う生活を続ける中で学び取ったものなのでしょう。その一つは、19節にあるように、老夫婦から約束どおりイサクが誕生したこと、すなわち「存在していないものを呼び出して存在させる」神さまの力。もう一つは、復活を信じ、イサクを神さまの言われるままに祭壇に捧げようとしたこと、すなわち「死者に命を与える」神さまの力です。「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと、確信していたのです」(21)
 さて、この真実の信仰者の父アブラハムが、こうして神さまに認められたという聖書の記録は、「私たちのためにも記されている」(24)とパウロは言います。私たちはイエスさまを死者の中から復活させた神さまの力を信じる信仰により、義とされます。まさにそれは、私たち一人ひとりの罪の赦しのためであり、全く持って一方的な神さまからの大いなる恵みであることを改めて知らされるのです。

 5:1-21 「神との平和をもたらす祝福」 (1999/8/4)

 前回4章では、信仰とは何かということを、アブラハムを例に学びました。5章に入ると、このアブラハムと同様に神さまを信じて生きる者に与えられる祝福とは何か、ということが述べられます。
 パウロはおそらくこの5章あたりのところから話を始めたかったのだと思います。しかしここから始めなかったところにこのパウロの素晴らしさがあるのです。というのは誰も触れたくはない罪の問題から、このローマ書を書き始めているからです。しかし私たちはこの罪を認めるところから、はじめて十字架がわかるのです。十字架がわかってはじめて真の信仰が呼び起こされるのです。そのためには、どうしても1章〜4章まで学んできたような段階を踏む必要があったのです。

◇1-2 神との間の平和
 信仰によって義とされたことで、神さまと私たちの間に平和が訪れた。この神との間の平和ということが、神さまを信じて生きる者に与えられる祝福の第一に挙げられています。そしてあらゆる祝福が、この平和から出発するのです。この平和はキリストが来られることによって実現しました。それまでは神さまと私たちの間には、不和、断絶があったのです。
 「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2)
 「神の栄光にあずかる」とは、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21)の言葉のように、私たちの希望はこの世での死で終わってしまうようなものではないのです。天国の希望に生きることのできる幸いを感謝したいものです。

◇3-5 欺くことのない希望
 「苦難をも誇りとします」(3)
 苦難をも誇りにする、喜ぶ、とはこの世の価値基準からすれば考えられないようなことです。この「苦難」に対しては、私たちは3通りの応答の仕方があると思います。一つは、その苦しみ、悩みにそのまま押しつぶされてしまう場合。二番目に、そこから逃避しようとする場合。三番目に、それに打ち勝つ力を頂いて、その力を発揮できる場合。パウロは「苦難」が「忍耐」を生み出すといいます。この場合の「忍耐」(ヒュポモネー)は消極的にこらえている事を意味する語ではなく、積極的に堅く立って、強く進む事を意味する語です。そしてこの「忍耐」は順境ばかりの生活の中では私たちの身にはつかないのです。「忍耐」を身につけるには「苦難」が必要不可欠なのです。
 「忍耐は練達を」(4)
 「練達」(ドキメ)は、実験によって得られる証明を意味する語です。試してみてよしとされた状態、間違いがない、本物だと認められた状態です。苦労して練り鍛えられて、カドが取れて、不純物が除かれてはじめて、神さまのご栄光を受けるにふさわしい品性も身につけることができるのです。
 「練達は希望を生む」(4)
 「練達」により信仰を堅くされた者には希望が生まれます。そしてその希望は私たちを裏切ることはないのだと、パウロは言います。その根拠は「「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」だと言うのです。神さまに対する私たちの愛ではないのです。私たちに対する神さまの一方的な愛なのです。「注がれている」という言葉が、恩恵の豊かさをあらわしています。

◇6-11 キリストの死による和解
 「わたしたちがまだ弱かったころ」(6)は、「わたしたちがまだ罪人であったとき」(8)と同じに考えてよいでしょう。すなわち罪人である私たちが、神さまの前でいかに無力で弱い存在であるかを示します。そしてこの不信心で弱い私たちのためにキリストが身代わりとなって死んで下さった。人間同士の場合は7節のような例もあるかもしれません。しかし神さまの側からすれば、愛する理由や原因さえ見当たらないようなこんな私たちのために死んで下さった。ここに神さまの広い、深い愛を知らされるのです。
 「それで今や」(9)、私たちが罪人であったにもかかわらず、イエスさまの死によって義としてくださった。それによって神さまとの間に平和をいただいた(1)のだから、神さまの怒りから救われるのはなおさらだと言っています。
 10節は、過去において「御子の死」によって、神さまと和解させていただいた私たちが、現在及び将来において「御子の命」によって、復活され、今も生きておられる、そのイエスさまの命にあずからせていただけることを知らせます。計り知れない神さまの愛です。ですから「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。」(11)となるのです。

◇12-21 アダムとキリスト
 ここではアダムとキリストを人類の代表者として比較しています。12節では、@ひとりの人によって罪が世界に入った。A罪によって死が入った。B彼にあって全人類が罪を犯したので,死は全人類に及んだ。といいます。アダム一人の罪により、その後から続くすべての人間に「死すべきもの」としての宿命が負わせられたのです。アダムさえ罪を犯さなければ、と思うかもしれません。しかしこれは逃れることの出来ない真実です。
 13−14節は、律法が与えられる前の期間には、人の犯す罪は罪として認められなかった。しかしそれにもかかわらず人は死から逃れることは出来なかった。彼らが死んだのは、アダムと同様の罪を犯して、その違反の故に死んだのではなく、彼らは人類の代表であるアダムに含まれていたからであると言うのです。その意味で「アダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」と言います。
 15節から、アダムとキリストとの類比がなされます。相違点はどんなところでしょう。第1に、罪は、死をもって尽きてしまうものであるのに対して、賜物は、「多くの人に豊かに注がれる」(15)もので、尽きることのない豊かなものであるということです。第2は、「罪を犯した一人によって」、すべての人が罪に定められてしまったのに対して、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」(16)のだということ。第3の違いは、一人の人の違反によって、「死が支配するようになった」(17)のに対して、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちがもたらされたのだということです。すなわち義とされて、永遠の命を与えられるということなのです。
 18−19節は類似点を挙げています。アダムとキリストが似ているのは、一つの行為がなされたということ、そして多くの人々に影響を与えたという点にあります。しかしアダムは罪、不従順であるのに対してキリストは義、従順です。しかしその差は、比べようがないほど大きいのです。神さまは義なるお方ですから、罪に対しては怒りと罰を与えねばなりません。神さまは妥協することはおできになりません。やむを得ず罰を下すのです。しかし恵みについては、喜んで、熱心に、あふれんばかりに人類を祝福してくださいます。そのことを記した箇所を引用してこの章を閉じたいと思います。

 「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト20:5-6)

 「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」(詩編103:11-12)

 「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」(イザヤ24:7-8)

 6:1-23 「キリストに生きる」 (1999/8/25)

◇1-14 罪に死に、キリストに生きる
 前章までで、パウロは、人が義とされることについて、旧約時代からの神さまの救済の歴史をひもときながら、丁寧に説明してきました。そして人が義とされるのは決して行ないによるのではなく、信仰によるのだと3章で言いました。ここでまた反論が出てきます。「行ないによらないのであれば、何もしなくても良い、また逆に何をしても良いということになるではないか。」と。1節はそういう反論を仮想しているのです。この「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」(1)との疑問に対し、「決してそうではない」(2)とパウロは強い言葉で一蹴しています。すでに悔い改めて、罪において死んだ私たちは、今や神さまの恩恵の下に入れて頂いているのに、どうして罪の中で死んだような生活を続けることができるでしょうか、と言います。
 
 そして3節以下、7章まで、きよめられる事、聖化、聖潔の必要性を説くのです。信仰によって義とさせていただいたというのは、人の罪が赦され、神さまと人間との隔たりが消えうせ、神さまに受け入れていただくことになった、ということです。しかし私たちは、名実共に神さまの子どもとしていただくためには、ここから先に進まねばなりません。それが「きよめられる」ことなのです。このことを説明するために、3−11節まででパウロはバプテスマを取り上げます。バプテスマはイエス・キリストの福音そのものを目に見えるかたちであらわしたものです。それはキリストの死と埋葬、そして復活という福音そのものをあらわしているのです。そしてそのバプテスマにあずかった私たちも「その死にあずか」(3)り、「キリストと共に葬られ」(4)、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」(4)者とされたのです。なんという恩恵でしょうか。「新しい命」をいただいた私たちが、どうして罪の生涯を続けることができるだろうか、パウロは言うのです。「知っています」(6)、「信じます」(8)、「知っています」(9)という言葉が、パウロの信仰に対する確信、絶対的な神さまへの信頼を物語っています。

 私たちは日々罪との戦いを覚えます。ふっと息を抜いたところをサタンは様々な顔をして待ち構えているのです。まともに戦って私たちに勝ち目がないのは明らかです。しかしキリストは2000年前にただ一度十字架に架かられて、この強力な罪に完全な勝利を収められました。(10)私たちが罪の下に生活を続けることがないようにするためには、このキリストにすがる以外に道はありません。「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11)

 12-13節はパウロの強い勧めです。神さまの子どもとして「きよめられる」ためには、自分の体を「不義の道具」とするのではなく、「神の義のための道具」として、神さまに献げなさいと勧めています。なぜならもはや私たちは罪の支配下にはなく、神さまからのあふれんばかりの御恵みの下におかれているからだと14節で結論づけます。このキリストを仰ぎ、信じる生涯は次第にきよめられて、キリストに似た姿へと変えられていきます。そしてそれは自力、努力によるものではなく、100%聖霊によるものだということを覚えます。このことをパウロはコリントU3:18で次のように語っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊による働きによることです。」私たちはこの聖霊により頼んで、キリストに似た者とさせていただけるよう祈りつつ、かつ求めていかなくてはならないのです。 

◇15-23 罪の奴隷、義の奴隷
 「では、どうなるのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。」(15) 1節と同じような疑問が再び出てまいります。しかし「罪の中にとどまるべきだろうか」(1)に対して、「罪を犯してもよいということでしょうか」(15)となっています。前者が、罪の生活を常として続けるべきか、というのに対して、後者は、個々の罪を犯すべきだろうか、という違いがあります。つまり、古い罪の生活はもう捨て去って、義という新しい生活に入ったのではあるが、しかし一つや二つ罪を犯してもよいではないか、恵みの下にいるのだから、それくらいは赦されるであろう、という疑問です。しかしここでも強く否定してしまいます。「決してそうではない」と。そしてその理由が16節以下に述べられるのです。

 16節でパウロははっきりと言っています。私たちに与えられるのは、すべてのものから完全に自由にされることではなく、罪の奴隷として死に至るか、神の奴隷となって生きるかのどちらかであると。二つのうちどちらかの道しかないのです。

 17-18節、私たちは皆、罪の奴隷でありましたが、悔い改めと信仰によって、罪を赦され、神さまの奴隷とさせていただきました。奴隷である点では同じですが、仕える主人を代えたという点においては根本的に変ったのです。

 19節、霊的な真理を知らせるために、「人間的な言い方」、当時の人々にとっては身近であった奴隷制度を例に説明しているのだと言っています。当時のローマの奴隷の多くは、戦争で敗れた国の捕虜たちであって、必ずしも私たちが映画などでイメージするような、未開から連れて来られた人々ばかりではなかったのです。ですからクリスチャンとなった人々の中にも奴隷であった人々も多かったことでしょう。そういった人々に福音の真理を理解してもらうために、これを奴隷制度になぞらえたのです。
 
 20-23節、罪の奴隷と、神さまの奴隷、それぞれの行き着く先(結ぶ実)が対比されています。罪の奴隷の行き先は死であるのに対して、神さまの奴隷は、聖なる実を結んで、永遠の命へと向う。どちらを選ぶべきかは明らかです。イエスさまも「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。神さまの奴隷として仕えることで、自力ではなく、聖霊さまのお力によって支配された生活を送るとき、罪はおのずから厭わしいものとなって、善を喜んで行うことのできる生活へと変えられていくのではないでしょうか。

 7:1-25  「律法と福音〜魂の深い悩み」 (1999/9/15)

 内村鑑三先生は、この7章は「私の(ための)章である」と言われました。それほど身近であり、先生の生涯に影響を与えた箇所であったのです。もちろん私たちにとっても、また聖書全体から見ても、非常に大切な箇所であるといえるでしょう。

◇1-6 律法からの解放
 パウロは6章において、聖潔(きよめ)ということについて、バプテスマおよび奴隷のことを例に挙げて説明しました。これに引き続き、この箇所では婚姻の例から説明を進めます。
 「律法とは人を生きている間だけ支配するものである」と1節で述べます。その例として、2−3節で、結婚している女性は、夫が死んだ場合、婚姻関係の拘束から解放される。だから、夫の生存中に他の男性と婚姻関係を結べば、姦淫の女とされるが、夫が死ねば、彼女は律法から自由になり、他の男性と再婚することができる、というのです。
 そして4節で、キリストの死によって、律法から解放された私たちは、キリストに結ばれて、神のために実を結ぶことを期待されていることを教えてくれます。
 5節は、それ以前の生活を示し、今では律法の生活(「文字に従う古い生き方」)から、福音の生活(「“霊”に従う新しい生き方」)へと劇的に変えていただいたのだと、6節で述べます。
 「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(コリントU3:6)

◇7-12 聖なる律法
 7−8節、パウロの論法には、またまた疑問がぶつけられます。「では、律法そのものが罪なのか」と。「決してそうではない」と否定しながら、律法によって、むさぼりの罪に気づかされた、と告白します。ここで十戒の10番目のむさぼりを挙げているところは注目すべき点です。これは人間の心の欲望を戒めるもので、この罪があらゆる悪の源となるのです。特にこの点において、罪を犯したことはないと言える人は誰一人いないのです。パウロはまさに自己を実例として挙げながら、全ての人に巣食う罪、、むさぼりの罪について語るのです。そして律法がなければ、その罪は眠ったままで、死んだような状態だったと言っています。

 9−12節、12節で「律法は聖なるものであり」「正しく、そして善いもの」だと断言しています。6章からこの7章にかけて、律法と福音とが比較されながら記されてきました。ガラテヤ人の手紙でもこれは大きなテーマです。律法と福音、いずれも神さまから出て、人間に与えられたものであり、善いものであるのですが、混同してはいけないのは、律法と福音は、それぞれ違う使命をもっているということです。律法の使命は、7節にあったように、罪を自覚させるということです。そして、この罪の自覚は私たちにとって大きな恵みです。なぜなら、罪の自覚のあるところに、本当の意味でのキリストの十字架のあがないへの感謝があるからです。

◇13-25 信仰者の心の葛藤
 7節以下では、「わたしは」という一人称を用いて、パウロは話しています。しかも語られる内容たるや、パウロの体験に基づく、切実な魂の深い悩みです。
 「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」(13)
 「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(14)
 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15)
 「わたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(18)
 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19)
 「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」(21)

 この深刻なパウロの告白について、この経験は、パウロの入信前のことなのか、入信後のことなのかということで、聖書学者の間でも解釈が分かれていました。しかし、アウグスティヌスから、ルター、カルヴィン、そして現代の学者の大方が、入信後のこととして受け止めています。その理由についてはあまり語られていませんが、私の思うに一つは、パウロのあのダマスコ途上での出来事は、罪の問題で悩みに悩んだ上でのことではなかった。パウロのキリスト教迫害は、律法主義に立って、信念に基づいて行っていたことで、その途中で、全く青天の霹靂というかたちで、イエスさまと出会ったのです。パウロの入信は、こういう悩みを克服して救いの確信に至ったものではないということです。もう一つの理由は、聖書の中にも、いったん信仰の生活へと導かれたら、一切罪の問題に悩む必要はありません、とは決してどこにも書かれていないということです。ですから、カルヴィンの言葉を借りると、「信仰者の持つ弱さが、いかばかり大きいかをパウロはここで体験を通して述べている」のです。まさにパウロを通して、私たち一人ひとりの、信仰者としての悩み、叫び、深い魂の葛藤を代弁しているのです。

 罪という病いは、ともすると自覚症状を覚えることもなく、人間を絶望へと導く、恐ろしい病いです。それに気づかずに一生を送ってしまう人と、あるいは、その罪を知って、その解決の道を見つけて歩む人とは、神さまを信じ、キリストの救いにあずかって生きる人と、そうではない人との大きな違いになります。「なんと惨めな人間でしょう」(24)と叫ばざるを得ないような、弱い私たちをも、救って、強めて、清めて下さる、それはイエス・キリストさま以外にありません。そのことを覚える時、私たちはパウロと共に「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25)と心から叫ぶのです。

 「私たちの主イエス・キリスト、この人こそ我々を悩みから救い、死の身体から解き放つ人である。彼は単なる神でも、単なる人でもない。神が人となってこの世に現れ、人の罪のために苦しむ。その贖いとして十字架に架かり、死んでよみがえった人である。この人を仰ぐとき、人間の罪と絶望とは解決され、悩みは感謝に、不安は平安に変えられる。イエス・キリストにおいてこそ、あらゆる矛盾は一致するのである。」(パスカル)

 8:1-17  「霊に従って歩む幸福」 (1999/10/6)

 いよいよ8章に入りました。全16章から成るこのローマ書においては、ちょうど中間地点となる箇所ですが、単なる折り返し点ではなく、この書簡の中心といっていい所です。
 ドイツ敬虔主義のシュペーナーは、「聖書を指輪に例えるとすれば、ローマ書はその宝石である。そして第8章は宝石の輝点(sparkling point)である。」と言っています。いかにこの8章が素晴らしい書であるかということをあらわしています。それではじっくりと味わいながらその恵みに触れていきたいと思います。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(1)
 罪に定められない、罰せられないとは、実に大きな福音です。人は神さまに受容していただく資格など全くないのにも関わらず、神さまのひとり子イエスさまをこの地上にお与え下さいました。そしてイエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって下さった。そのイエスさまに結ばれている者(ヨハネ15:5)は、もはや罪に定められない、というのです。
 8章を通じて語られる解放のメッセージを通して、神さまは、私たちが努力や鍛錬、あらゆる自己の力でクリスチャン生活を送ろうとするように仕向けてはいらっしゃらないことがわかります。
 そのために神さまは助け手として聖霊を与えて下さいました。その聖霊の働きについては1−27節で述べられています。その働きの内容について、四つに分けて見てみたいと思います。

1−11 命をもたらす霊と自由
 「キリストによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(2)

 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう。」(11)
 
 バプテスマのことを考えてみましょう。バプテスマはクリスチャン生活の出発点としての単なる通過儀礼ではありません。それは死と新生の象徴です。ある意味では、葬式と誕生が同時におこるのが洗礼式です。古い自分が埋葬され、過去の一切の罪が洗い清められる。しかも過去の罪だけではありません。人間は不完全ですから、クリスチャンになっても罪を犯すはずです。しかしそれも神さまはお見通しで、その将来の罪をも赦して下さる。それが聖餐式です。
 主なるイエスさまが、その死、埋葬、復活で勝ち取ったもの、すなわち聖霊が私たちの内に宿って、働いて下さる。それが「命をもたらす霊の法則」(2)であり、キリスト教の福音の中心です。
 また十字架の受難は、また贖罪のためだけではありません。その死と復活によって、聖霊が私たちに宿るにあたって、私たちは自分自身の力ではなくて、聖霊のによって力をいただいて、律法の義を行うことができるようになるのだ、といっています(4)。肉の力では決して遂行できないもの、つまり律法の正しさの基準との出会いは、霊の力によってのみ達成することができるのです。
 6−8節には、肉が神さまを喜ばすことができない(8)理由を述べています。@肉の生み出すのは死のみである(6)。 そしてA肉は神さまに敵対している(7)。 三番目にB肉は義を生み出す資格がない(7章から引き出すべき結果であります)。

 肉か霊か、選ぶべきは明白です。神さまは全て信じる者に霊を与えられました。そしてその霊は自由と命の源です。
 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者はキリストに属していません」(9)
 聖霊に支配されているのかどうか、私たちはもう一度振り返る必要を感じます。その霊はさらに私たちに力を与える霊です。それは死をも上回る力を持っているというのです(11)。肉に関する限り、義の実を結ぶ可能性においては、死んだ状態なのです。しかし聖霊は死をも超える力を持っています。だから私たちの死すべき体にも命を与えていただけるのです。

12-17 神の子とする霊
 パウロは、私たちが肉によって歩む状態に戻る義務は絶対にないと知らせています(12)。むしろ私たちの義務は、聖霊に従って歩むことです。肉に従って生きるなら死に至ります。しかし霊によって歩むならば生きるのです(13)。このように聖霊は、私たちに内在するだけではなく、私たちの歩みを導いて下さいます。

 それ以上に聖霊は、奴隷ではなく神の子としての性質を与えて下さったのです。
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(15)
 「神の子」という場合に英語では“adoption”という単語が使われています。これは養子縁組の意味です。「養子」と聞いて、今日私たちが一般的にイメージするものと、新約聖書の概念とは違います。AD1世紀には、養子はその養父によって慎重に選ばれ、彼の名前と財産を相続する者でした。またその地位においても、当たり前に生まれた息子と少しも変わりはなかったのです。ですから17節に「相続人」という言葉がでてきます。しかも「キリストと共同の相続人です」とありますから驚きます。聖霊によって私たちは神さまの家族の一員にしていただける。この霊的なルーツを、私たちは絶えず思い起こし、家族の一員として下さった神さまとの交わりを深めていきたいものです。

 8:18-28   「万物の嘆きと期待」 (1999/10/13)

 
今パウロは信仰生活の高みに立って、下を見下ろしています。そうすると二つの事が見えてくるのです。一つは霊の高みから見下ろすときに、その下に見える現実がいかに問題の多い、悩み・悲しみの多いものであるかということです。新聞紙上には、様々なトラブルあるいは犯罪があふれ、そういうものを目にしない日はありません。現実の生活がいかに難しい、困難な戦いが多いものかということを思わされます。もう一つ、神さまの目で現実を見下ろしてみると、今はいかようであったとしても、神さまの栄光に満ちた世界には決して変わりがないのです。やがて世の終わり、終末、キリストの再臨、そして万物が復興する。それまでにも主を信じて召される者は、やがて神さまの前に立って裁きを受ける。そのときに義とされた者は、神の国を継ぐ者として神さまから迎え入れられるのです。

18-25 希望の霊
 ですから、パウロはここで、「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(18)と言っています。今は問題が多いけれども、将来備えて下さっている神さまの栄光に比べれば、今の苦しみは問題にならないというのです。聖霊は、私たちを待っている輝かしい栄光へと導く霊でもあります。

 19節から被造物という言葉がでてまいります。被造物とはいったい何を意味するのでしょうか。創造主に対して造られたものが被造物です。この場合ギリシャ語では「クティシス」が使われていますが、聖書学者によってはいろんな受け止め方があります。例えば、宇宙・人類・造られたもの全てであると考えることもあれば、無生物を指す(ルター)、自然界を指す(カルヴィン)、未信者を指す(アウグスティヌス)という神学的な解釈も成り立ちますし、あるいは異邦人を指す、と解釈する学者もあります。ここでパウロは、キリストの救いにあずかった私たちは別格として扱っています。従って、それ以外の生物、無生物、自然、天体の全てが被造物である、と受け止めていいと思われます。
 この被造物の代表は自然界です。この自然が「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでい」(19)るというのです。これまで宗教、救いという問題は、自然界とは全く関係ない、人間だけの問題であると考えられてきました。しかしパウロは、キリスト教の救いというのは、人間の魂の救いにとどまらない。つまり被造物をその嘆き、苦しみから贖うことにもつながる救いだというのです。
 アダムが罪を犯した時、全ての被造物は罪に目覚め苦しみました。全ての被造物は「虚無に服してい」(20)るのです。空しい状態にさせられているのです。全ての被造物はうめき、切望して、全てが復元されるのを待っています。確かにこれが現在の世界が直面している環境問題の確かな説明になります。私たちは被造物に対して、この地上に共存するものとして責任を持ってこの問題に取り組むべきでありますが、神さまご自身が、人類の罪深さや利己主義のゴミからこの世界を再生させるときまでは、完全な新生は起こりません。その日は神さまが、世界を元の天国のような世界へと戻す時であり、“神の子”が元々、神さまが創造された世界で、その主権を遂行される時であるのです(創世記1:26-28)。

 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(23)
 被造物のうめきは、クリスチャンのもがきの反映です。私たちも7章のもがきのごとく、天上の完全な体へと造りかえられるまで(Tコリント15:40)肉に悩ませられ、罪に苦しめられ続けることでしょう。しかし聖霊の内在は、私たちの未来と完全な回復への真摯な契約であり、罪の力の解放、罪そのものからの解放であります。この世の生活のもがき、苦しみの只中にあっても、この希望の聖霊は、すでに神の子とされているという祝福を断言して下さっているのです。「わたしたちはこのような希望によって救われているのです。」(24)

26−28 執り成しの霊
 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(26)
 私たちには理想とする人間像、このようでありたい、こうあるべきだという姿をそれぞれ持っています。しかしそうなれないという経験を通して、自分の無力、無能を思い知らされます。聖霊は、この私たちのこのうめきを執り成して下さる働きをするのです。私たちはふさわしいお祈りができない、という悩みを持っています。祈るべき言葉が見つからない、またどう祈っていいのかわからない、そういうときにもバプテスマにあずかって賜物としていただいている聖霊が、言い表せないうめきでもって執り成して下さる。その執り成しによって、神さまは、まともな祈りの出来ない私たちの願いを受け入れて、聞いていてくださるのだ、ということを覚えていただきたいと思います。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(28)
 全ては神さまの栄光のためであるばかりでなく、神さまを信じる者にとっても益であるのです。私たちの人生に起こることは偶然ではありません。それは統治者であられる神さまの業であります。
 この聖句は、私たちに大きな慰めを与えてくれるあまりに有名な箇所です。そして、クリスチャンが明るく生活できるなら、また楽観的な生活が可能になるためには、この約束が欠かせないのです。益となる、とは人間の側から見た、いわゆるご利益ではなくて、神さまの目から見た祝福です。神さまは私たちをご覧になって、何が今必要か、何が最も幸いか、という見方で示して下さいます。そのためにいろんんな事柄が働きあって導かれるのです。中には、私たちにとって好都合ではないことも、もちろん含まれるでしょう。今は苦しむことがあっても、将来そのことがあったことで、より良い自分に造り変えられた、ということもあるはずです。全ては神さまの摂理の中で、最善へと導いて下さるのだ、「あなたに全てをお委ねします」という祈りをもって、聖霊の導きをいただきながら、日々を歩むことが出来るならば、なんと幸いなことでありましょうか。

 8:29−39  「勝ち得て余りある命」 (1999/10/20)

 
ある聖書学者が聖書の中で勝利の章(chapter of victory)というものがあるとすれば、一つは旧約聖書のヨシュア記1章、もう一つはローマ書8章である、といいました。特に今回学ぶところは、非常に力と慰めに満ちています。特に31節以下は、「勝利の章」あるいは「信仰の凱歌」と呼ばれています。

◇29−30 定められた救い
 31節の「これらのこと」とは何かというと、その直前の29,30節を指すといってよいと思われます。私たちをお救いになった神さまは、前もって私たちを知っておられたお方であるということです(29)。あらかじめ定めて、救いに導いて下さった、というのです。
 私たちの救いというものも、ある意味では自分が洗礼を受けたとき、自分がイエスさまを信じて救われたのだ、と思います。しかしクリスチャンとなってしばらくすると、そうではなくて、自分がはじめに決心したのだというよりも、神さまの方から働いて下さって、私たちが救われるように仕向けて下さったのだ、ということが分かってまいります。「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(Tコリント8:3)とある通りです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16 )
 救いのイニシアチブは私たちの側にあるのではなく、神さまの側にあります。
 また29節には「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」とあります。私たちの救われた目的は何でしょうか。人格の完成のためでもない、社会の改善のため、世界の平和のためでもない、もちろん副産物としてつながることは実際あります。しかし究極の目的は、イエス・キリストに似たものとなるためであります。キリストに似るとはどういうことでしょう。それはイエス・キリストの思いと同じ思いを私たちが持つようになるということです。創世記には「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあります。それは外面的な姿のことではなくて、愛である神さまのそのご性質に似るものとなるようにつくられたという意味です。イエスさまの願いは、この世の人々が一人としてもれることなく救われることです。その願いが私たちの究極の願いとなっていくときに、神さまによって本当に救われて正しい方向に向かって歩いている、といっていいのではないでしょうか。そして私たちは神さまの家族に加えさせていただいて、神の国の相続人の一人となる、これがキリストの救いの恵みです。

◇31−39 勝利の賛歌
31節 神さまはあらかじめ私たちを選んで、召して、義として、栄光を与えてくださった(30)。このように神さまは私たちと共にあり、味方でいて下さる方であります。“If God is for us, who can be against us?”(31)(NKJ,TEV共)神さまが私たちの側にいれば・・・私たちのために存在するとすれば・・・、何を恐れる必要があるか、と言うのです。
 「苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。」(詩編118:5−6)

32節 神さまの愛が、そのひとり子を十字架へ送るほどに深いものであるならば、神の子として下さった私たちにして下さらないことなどないはずです。

33節 宇宙の統治者、全てを正しく裁かれる神さまは、御子の業を通して、救われた私たちの義を宣言されました。もはや誰が神の前に私たちを訴える者がありましょう。

34節 イエスさまは、私たちの罪を全て引き受けて、十字架にかかって下さいました。もはや有罪判決はありません。それ以上に、イエスさまは神さまの右の座におられ、私たちのために執り成していて下さるのです。なんと心強いことでありましょう。

35−39節 この宇宙に神さま以上の存在があるでしょうか。絶対にそのような者はありません。ゆえにキリストの愛から私たちを引き離すものなどありません。この確信に立ってクリスチャンは正しい歩みをすることができるのです。37節には、「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とあります。口語訳では、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」となっています。この勝利とは何に対する勝利でしょうか。サタンが挑んでくる戦いに対する勝利もありますが、最終的には死に打ち勝つことができる、死に耐えることができる、否、死に勝つことができる、ということであります。
 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Tヨハネ5:4−5)
 世に勝つ、罪に勝つ、死に勝つ、その力の源泉は信仰です。何を信じる信仰か、イエスが神の子救い主であることを信じ、信頼し、お従いする生活、これこそが世に勝つ勝利の力である、「勝ち得て余りがある」という言葉に、8章全体が凝縮されているといっても言い過ぎではない気がします。

 9:1−29  「神の選びの恩寵」  (1999/11/17)

 ローマ書は大きく三つに区分されます。1〜8章では、人間の救いがテーマでした。人を救い得る福音とは何か、イエスさまの救いの内容とは何か(救済論)、そして今回の9章から11章では、ユダヤ民族の運命、イスラエル人の生涯、こういうことがテーマになっています。そしてそれを通して、人類の歴史の進展について述べています。ある人はこの部分をパウロの歴史哲学観が表されているところだ、と称しています。
 神さまは、イスラエル民族を、救い主をもたらす民族として、長年はぐくんできました。しかしその恵みにもかかわらず、キリストを十字架にかけるという大きな罪を犯してしまい、神さまの前から捨てられることになったのです。それは歴史上明らかです。紀元70年にローマの軍隊がやってきてイスラエルを占領します。イスラエル民族はその後、自分たちの国を回復できないまま、19世紀に入って1948年にイスラエル共和国というものが独立するまでは、ユダヤ人は民族としては存在するけれども祖国がない、という歴史をたどることになってしまったのです。選ばれた民族が何故捨てられていくのか、この時点ではまだそこには至っておりませんが、ユダヤ民族とキリスト教というものが扱われているのが、この第二部(9〜11章)であります。非常に遠大なテーマであり、その意味では非常に難解であるということがいえます。しかしここを通らないと、旧約、新約をもつキリスト教の信仰には十分な理解が得られないということになります。ですから、8章で高みに達したトーンも一気に下がって、深刻なテーマになります。

◇深い悲しみ(1−5)
 パウロは同じユダヤ人として、同胞に心を痛めています。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」(2)その悲しみ、痛みとは何でしょうか。それはイスラエルの民が、キリストを十字架につけて、神さまの選びに反抗して、自分の行くべき方向を誤ってしまった。神の子を十字架につけるということは重大な罪であります。自分の同胞が悲しい運命を背負っていかなければならない。その同胞のためならば「神から見捨てられた者となってもよい」(3)と、これほど深刻に心を痛めているのです。
 「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト32:32)かつて、モーセもパウロと同じようにイスラエルを思って心を痛めております。そしてこれはまさに十字架上の贖罪愛の雛形であります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」自分が十字架に架けられながらも、十字架に架ける者をも救い上げようとするイエスさまのこの祈り、これらがパウロの愛国心の深みではないでしょうか。
 4‐5節でパウロは,ユダヤ人に与えられている特権と栄光を列挙しています。それは、@神の子として選ばれた身分であった、A神さまの啓示を目撃し、その栄光にあずかった、B神さまと従う人々との間に結ばれた契約の相続人であった、Cシナイ山においてモーセを通して律法を授けられた、D「礼拝の規定」といった神殿の奉仕をする特権を有していた、E神さまの約束の受取人であり、その多くは未来においての約束であった、Fアブラハム、ヤコブ、イサクなど偉大な族長たちは、彼らの先祖であった、Gその中でも特に、イエス・キリストが人としてはユダヤ民族の1人として生を受けられた、ということです。このキリストこそ<万物の上にあり,とこしえにほめたたえられる神です.アーメン>と告白しています(5)。この賛美は、神であるキリストを拒み続けるユダヤ人の不信仰と罪の悲劇性をひときわ鮮明に示しているといえます。

◇神の選びの計画(6−13)
 神さまは、イスラエルに多くの輝かしい約束を与えられたのに、なぜ彼らは救いから漏れてしまったのでしょうか。パウロはこの疑問に対して、だからといって「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」(6)と答えています。なぜならば、もともと、イスラエル人として生れる者がみな、真のイスラエルなのではないからである、というのです。その具体的な例証として、アブラハムの子どもたちを挙げています。アブラハムには、女奴隷ハガルとの間に生れたイシュマエルと、妻サラとの間に生れたイサクがいました。2人ともアブラハムの子であることに違いないのですが、肉の子供であるイシュマエルは神の子どもではなく、約束の子供のイサクが「子孫とみなされる」というのです(7‐8)。老齢のため、子どもを期待出来なかったサラに与えられた神さまの「約束」は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」でありました(9,創18:14)。この約束通りに生れたイサクが,アブラハムの子と見なされたのであります。
 神さまは、イシュマエルではなく、イサクを選ばれました。この2人の間には、共にアブラハムの子であったとしても、母親が異なるという条件の違いがあると言われるかもしれません。パウロは、「自由な選びによる神の計画」が「人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められる」(11)ことを示すために,もう1つの例を挙げます。
 それは、イサクとその妻リベカとの間に生れた双生児ヤコブとエサウの場合です。神さまは、「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに」すなわち彼らが生れる前に、「兄は弟に仕えるであろう」(12)とリベカに語られました。同じ母から双生児として同じ時に生れた兄弟、しかも、その兄ではなく、弟を選ぶという、当時では全く考えられないようなことによって、神さまの選びの原理を明らかに示されたのです。それは、どんな人間的な行為や手段にも左右されない、全く自由な神の選びによって決められたものでした。そして「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(13)というマラキ1:2‐3を引用することによって、この原理を確認します(13)。
 イスラエルの不信は、神さまの言葉が無効になったということではなく、その偉大なご計画の中に既にあったことなのです。その理由は11章で説明されることになりますが、ここでは、神さまはその全き自由から選び、あるいは拒絶する、という事実を受け入れなければなりません。それは二つの例からも明らかなのです。
 
◇選びにおける神の主権(14‐23)
 14節と19節で、2つの反論が提起されます。1つは、神さまが、思いのままに、ある者を選び、ある者を退けるのは、神に不義(不公平)があるのではないかという反論であり、もう1つは、もしこのことが正しいのなら、人間の責任を問題にすることは出来ないのではないかという反論であります。パウロはこの2つの反論に対し,選びにおける神の主権ということについて弁明するのです。
 「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」(14)
 神さまの側に不正や間違いなどあり得ない、とパウロは叫びます。そして、出33:19で、神さまがモーセに語っておられる言葉を引用します。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しむもうと思う者を慈しむ」(15)。神さまの義に照らせば、人間はすべて有罪になってしまいます。「正しい者はいない。一人もいない。」と3章でも論じられた通りです。ですから神さま選びは、義ではなく、憐れみの問題です。神さまの憐れみは、「人の意志や努力ではなく」(16)憐れんでくださる神さまご自身の一方的,自発的な働きなのであります。本来ならば神さまの義によって正しく裁かれるべき私たちも、同じ神さまの憐れみによって、つまりキリストの十字架の贖いによって救われたのです。
 さらにパウロは、モーセの前に立ちはだかったエジプト王ファラオについて語られている出9:16を引用します。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(17)。神さまに対するファラオの頑固な抵抗は、イスラエルの救いにおいて神さまの絶大な力が示され、神の救いの恵みの偉大さが全世界に語られるようになるためであると言われています。
 モーセに神さまは憐れみを行使し、ファラオには神さまの義を行使しました。興味深いことは、この両者とも、神さまの計画を進めるためであったということです。神さまはモーセを、その民を救う者として、またメシアが来ることの型(タイプ)として用いられました。一方、ファラオは、神さまの偉大な力を示し、その栄光を宣言するために用いられました。
 神さまは、「自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(18)、どちらにおいても全く自由であり、主権を有するお方です。
 しかし、このような神の主権的な自由が主張される時に必ず聞かれるのが第2の反論です。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか。」(19)
 神さまがそのように絶対主権をもって、自由に選ばれる方であるなら、人間の側の道徳的責任を問うことは出来ないのではないかという反論であります。これに対してパウロは、被造物にしかすぎない人間が創造者に向かってどうしてこのような問を発することが出来るだろうかと、この反論そのものが成り立たないことを指摘します。この思想は、イザ29:16,45:9‐10に見られます。神さまのなさることに対して、人間が勝手な批判を加えることは、立場をわきまえない出すぎたことなのであるというのです。ここで大きな神学的な問題が出てきます。それは神さまは救われる者をあらかじめ選んでおられて、自分でイエスさまを信じたように思うけれども、その前から神さまはその人を選んで、導かれて、救いへと至らせて下さる。このようにあらかじめ選んでおられるならば、何故私たちは福音宣教に励まなければならないのだろうか、伝道が必要になってくるのだろうか、という疑問も湧き上がるでありましょう。ヨハネ3:16には、信じるならば一人も滅びることはない、例外なく皆救われるのだ、神さまは全ての人を救おうとしてキリストをくださった。この言葉と、神さまは救われる者をあらかじめ選んでくださった、神は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ、このこととどうマッチするのでしょうか。わたしはこのように捉えています。ヨハネ3:16の言葉は、キリストを知る前の者に与えられる論理であり、一方選びの論理というのは、救われた者が後ろを振り返ってみて神さまの恵みを思うときにわかってくる論理であるということです。神さまはその御意志のままに、私たちを用いられます。私たちはモーセ、あるいは」ファラオであり得るのです。モーセのように、私たちは神さまの憐れみの受取人であり、神の憐れみを実証するために用いられる器です。もし私たちが反抗するなら、私たちはファラオとして使われることでしょう。どちらにしろ、神さまは被造物を用いることにおいて自由です。

◇異邦人の救いとイスラエルの残された者(24−29)
 神さまは「憐れみの器」として、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召しだしてくださった(24)。25−26節で、ホセア書から引用して、そのことをあらわにします(ホセア2:23、1:10)。そして、ユダヤ人と異邦人とから成る一つの教会の出現が、神さまの永遠の御心の中で、「あらかじめ用意しておられた」(23)真のイスラエルの出現にほかならないことを示すのです。 
 さらにイザヤ書からの引用によって、イスラエルの大多数の者が、自らの不信仰の故に滅び、ただ少数の「残された者」(remnat)だけが救われるということを示します。イザヤ書からの引用は、10:22‐23,1:9からの引用の組合せであります。神さまはイスラエルをその罪の故に滅ぼされる。しかし、その民を滅ぼし尽すことなく、「残された者」を救われるというのです。イスラエルのかすかな希望は絶たれることなく、残りの者を守るという約束がなされたのです。このイザヤ書の預言は、決して全てのイスラエルの救いを考えているわけではない、というパウロの主張を確証しているのです。

 9:30-33、10:1-21  「信仰の言葉」  (1999/11/24)

◇つまずきの石、妨げの岩(9:30-33)
 神さまの義を追い求めてこなかった異邦人が義を得ました。その義は、9章に出てきたように、神さまのご自由な選びから、また神さまからの恩恵として与えられた義であって、それは信仰によって受ける義であったのです(30)。イスラエルは、「義の律法」(31)を追い求めることに熱心でしたが、律法の要求を完全に満たして義に到達することは出来ませんでした。
 その理由は32節に示されます。「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」(32) 「つまずきの石」とはイエス・キリストのことです。イスラエルは律法を遵守することばかりに一生懸命で、メシアであるイエスさまを拒絶し、十字架にかけるという大きな過ちを犯してしまったのです。33節は、イザヤ書の8:14と28:16を組み合わせて引用しています。 

◇キリストは律法の目標(10:1-4)
 イスラエル民族の過ちは、熱心は熱心であったけれども、それが正しい認識、知識に基づく熱心ではなかったということです。では何に熱心であればよいのでしょうか。それは、神さまは何を望んでおられるのか、自分の業や努力で救いを勝ち取ろう、義とされよう、というような生き方は神さまは望まないのです。ただ御言葉を聞いて、従う、聖霊さまに働いていただくように委ねていく、この姿勢を神さまは望まれるのです。イスラエルの追い求めていた律法については、キリストがその目標、終わり、到達点であり、成就でありました。
「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)

◇信仰による義(10:5-13)
 永遠の救いに至る道は一つしかありません。イエスさまは「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われました。しかしユダヤ人の心には2つの道、すなわち行いの道(律法保持)と信仰の道(パウロの福音)とが相争っていました。5−13節では、この2つの道が対比されます。
 5節は、レビ記18:5からの引用です。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。」(レビ18:5)これは、律法をことごとく完全に守ることを要求する言葉です。たった1つでもつまずくならば、その人は律法のすべてを犯した者とされるのです。従ってここから示されることは、律法による義を手に入れることは全く不可能であるということです。
 しかし,信仰による義は全く異なります。これについては6−8節で、申命記30:11-14からの引用で説明されます。
「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:11-14)
 私たちは、神さまの助けを求めて「天に上る」必要はありません。天に上って律法を取ってこなければならない、といような考え方は、まるでキリストはメシアではない、メシアはまだ来ていない、と否定するようなものである、と言うのです。同様に、「海のかなたに渡り」は、「底なしの淵に下る」と言い換えていますが、律法の教え、真理を知るためには、「底なしの淵(よみ)」にまで下って行かねばならない、という考え方は、イエスさまの十字架の死と復活を否定するものだ、と言います。こういった行いによって義を求める、という考え方は、自分を中心とし、神さまを自分の利益のために行動させようと促すような高慢を引き起こすのです。しかしキリストの福音は違います。私たちは全てを神さまにお委ねしなければなりません。御言葉をそのまま受け止めなければなりません。神さまは御自ら、私たちに近づいてきてくださったからです。
 人類の救いは遠いものではなく、「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(8)のであり、その御言葉こそ、パウロが宣べ伝えている「信仰のことば」にほかならないのです。それは信仰を生み出す言葉であり、信仰から生み出される言葉なのです。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。」(10)私たちの救いは、信仰と告白の両方を必要であり、頭だけの知識でも、口先だけの行いでもないのです。そのことをここでパウロは強調します。
 11−13節ではさらにその信仰による救いが普遍的なものであることを示します。すなわち「主を信じる者は、だれも失望することがない」(11)のであり、ユダヤ人やギリシア人といった区別なく、主を呼び求めるすべての人を、救いへと導いて下さる、といいます。そのことはヨエル3:5からの引用がはっきりと述べています。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13)

◇伝える者の美しい足(10:14-15)
 福音が、ユダヤ人や異邦人も含めて、普遍的なものであるならば、それはより広く宣べ伝えられなければなりません。神さまは救いへの招きと成就において最高権威であるお方です。しかし人間は「宣べ伝える」ということに関して責任があります。
 14−15節には福音を伝える人たちのその姿の美しさと同時に、伝える義務を負っていることを知らされます。福音を伝えるのは単に牧師、伝道者のみの仕事ではありません。私たち全員の義務であり、その喜びがさらに大きな祝福へとつながります。私たちがそれぞれの賜物を用いて伝える者としての使命が果たせるように、日々祈りたいものです。

◇イスラエルの不信(10:16-21)
 福音は広く一般に伝えられるけれども、広く一般に受け入れられません。これはこのイスラエルに限らず、今日においても明白です。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(16)
 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17)
 神さまがご自分を啓示してくださらなければ、私たちは神さまに近づくことはできません。神さまは私たちの目に見えるようにご自身を現されるのではなく、御言葉をもって語りかけてくださるのです。
 それではイスラエルは聞かなかったのだろうか?(18)この問いに対して、いいえ、確かに聞いたのです。福音はイスラエルに徹底的に宣言されたのです。とパウロは言います。では、聞いたけれども、分からなかったのだろうか?(19)
 「わたしは、わたしの民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(19、申命記32:21の引用)「わたしの民でない者」「愚かな民」は異邦人を指します。
 「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」(20、イザヤ65:1の引用)
 イスラエルは福音を聞いて信じなかったばかりか、逆に信じて受け入れ、義とされた異邦人に対してねたみをおこす始末でした。イスラエルの不信は、無知の問題ではなく、心の頑なさの問題です。誤解の問題ではなく、不従順の問題です。
 しかしその「不従順で反抗する民」にも、神さまは、「一日中手を差し伸べ」ておられるのです(21)。イスラエルの中に見ることのできる罪は、いずれも私たちの中にもあるものばかりです。私たちも自分の罪を悔い改めて、神さまの御言葉に素直に信頼して、従う心を日々新たにしなければならないと思います。

 11:1-36  「残された民族」  (1999/12/8)

◇イスラエルの残りの者(1−10)
 イスラエルは捨てられたと語ったけれども、実は自分もイスラエル人であり、捨てられた選民の一人であるとパウロは言っています。イスラエルは民族としては退けられたかもしれないけれども、その中でも少数者、神さまのご計画の中で用いられる者となりました。レムナント(残された者)が存在するが故に神さまは、まだこの民族をお見捨てにならないのだ、ということが、エリヤを例に語られます。 アハブ王がイスラエルを支配しているころ、イゼベルというお妃がエジプトからバアルの神さまを持ち込みました。そこでイスラエルは偶像崇拝の民に落ちぶれてしまったのです。そのときの預言者がエリヤでした。
 いつの時代にもキリスト者は少数者でありました。日本でもクリスチャンの数は常に少数者でした。考えてみるとアメリカはキリスト教国と言われますけれども、厳密にキリスト教国と言える国は存在しないのです。アメリカはそのはじめが、信仰の自由を求めてやってきた清教徒によって建て上げられたという経緯から、地下水のようにその国民性の源流にはキリスト教が下地としてありますけれども、同時に富を求める人間も自由を求めてアメリカ大陸に流れてきています。ですからアメリカはその両極端を持っているがゆえに、苦難を味わってきています。その大国の中でもキリスト者は少数者です。しかしその国の良心として国を底から支えています。少数者だと存在価値がないのではなくて、神さまは昔から少数者を用いて来られたのです。
 パウロにとって、エリヤへのこの神の言葉は大きな励ましになったことでありましょう。神さまが、約束を果たすことができる忠実な残りの者を維持することによって、神さまは常にイスラエルの希望の火をつけました。これは神の選びによる残りの者であって(5)、行いによるものではありません。なぜなら行いと恩恵は相容れないものであるからです(6)。
 神がイスラエルを退けたことを強く否定したパウロでありましたが、イスラエルの背信という事実は存在しています。その事実に対して説明を加えているのが7−10節です。イスラエルは、彼らが探し求めたものに到達することができませんでした。選ばれた人々が救いを得ました。そして残りはかたくなになりました。このかたくなな心は、決して新しいものでも、突出したものでもなく、旧約聖書で教えられていたものでした。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」(8)(申命記29:3、イザヤ29:10)また9−10節は、詩編69:23−24からの引用であり、このイスラエルの不信仰は、モーセの時代、またダビデの時代も同じであったことが示されます。

◇異邦人の救い(11−24)
わずかでも、キリストにおいて信仰を勝ち得たユダヤ人の残りの者がいた、という事実は慰めを与えます。しかし、全体としてイスラエル民族に対する希望はもうないのでしょうか。イスラエルの病は末期的なものなのでしょうか。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。」(11a) ようやくこの質問で、ユダヤ人のかたくなな心と異邦人の救いに関する、神の勧告の全体がここに姿をあらわします。11−15節で、ユダヤ人の不信と異邦人の回心に関しての神の二つのご計画が折り込まれています。16−24節では、私たち異邦人に対して、誇りと思い上がりに対して警告の言葉が与えられます。25−32節は、イスラエルの回復が最も明確な約束により記されます。

・彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる(11−15)
 イスラエルのかたくなな心は、神さまにとって気まぐれな行為ではありませんでした。はるか昔から、イスラエルの不従順と不信心を通して、異邦人が神さまへの信仰に到達するであろうことは神さまのご意志でした。「かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」(11b)
けれども神さまの目的は異邦人の回心の外にまで及びます。ユダヤ人にねたみを起こさせるという点で、異邦人の回心は彼らに対する皮肉な祝福となりました。異邦人へ福音を伝えることは、異邦人とユダヤ人双方にとって良かったのです。

・異邦人への警告:接ぎ木のたとえ(16−24)
 16−24節を通して、イスラエルの民族的な回復が接ぎ木のたとえによって明らかにされます。通常、接ぎ木することは無用の木を生産的にするための行為です。株の活気が非生産的な枝に浪費されないように、その枝を剪定するのです。そして丈夫で、肥よくな枝が良い果実を生み出すために接ぎ木されるのです。
 ここでの台木はイスラエルです。不誠実な懐疑的なユダヤ人ではなく、神さまが約束をしていた族長、神さまを信頼していた人たちのことです。これらの人々は「聖なるもの」(16)としてイスラエルの未来を保証されていました。ですから木はそれ自身が悪いわけではありません。すでに懐疑的なユダヤ人を表す無駄な枝は刈り込まれました。台木に接ぎ木されるそれらの枝は、異邦人をあらわします。神さまは、ここで不思議なことをされました。価値がないような株に良い枝を接ぎ木するのではなく、良い株に、価値がない枝を接ぎ木しました。ここに私たちには想像もつかない、神さまの偉大なご計画が見られると思うのです。
 そしてここには、おこぼれに預かるようにして恵みをいただいた異邦人に対して警告が与えられています。「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(18) ユダヤ人が折られたそこに異邦人が接木されて、救いにあずかることになったのだから、異邦人はユダヤ人のおかげを被っているだからユダヤ人を馬鹿にしたり、あるいは責めたりすることはいけない、ユダヤ人よりもすぐれているなどと傲慢になってはいけない。それは異邦人の力で実を結んだのではない、根っこの養分で実を結んだのだから、ただ恵みによるのだから、というのがここの接ぎ木のたとえです。異邦人は、いわば、イスラエルの祝福から一種の居候として生活しています、そしてここには誇りの余地がありません。枝は台木に対する信仰と依存によって木の一部になります。我々の人生に、自慢する基礎はありません、そして祝福は行いによってではなく、神から来ます。我々は、まさにユダヤ人が、その特権に対する誇りと横柄な態度によって、神の祝福からの断絶へと追いやられたことを忘れてはなりません。この接ぎ木のたとえに、ユダヤ人に対する希望の言葉と異邦人のための警告の言葉があらわれています。神は、同じ基礎の上で、両者とも養われるのです。

◇イスラエルの救い(25−32)
 最終的なイスラエルの復興は25−32節に明白に述べられます。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、」(25) 聖なるユダヤ人の忠実な残りの者がいるのですから、現在のイスラエル民族の過ちは部分的なものです。そして異邦人の救われる者の数が満ちて、異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民とされる時、イスラエルのかたくなさも終りを告げ、「こうして、全イスラエルが救われる」(26)と言うのです。
 福音について言えば、ユダヤ人は不信仰をもって神に敵対している者であるが、それは、異邦人に救いの祝福がもたらされるためでありました。しかし、彼らの敵意も神の選びを無効にするものではないのです。彼らは「先祖たちのお陰で神に愛されています」(28)。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(29)ここにイスラエル民族の希望の鍵があります。

◇なんと深い神さまの知恵か(33‐36)
 パウロが9−11章で教えてきた適切な応答はただ一つです。それは非難ではなく、歓呼です。神さまの主権に挑戦することは、私たちには出来ません。どうあがいてもできません。私たちは神さまの前にひざまずくしかありません。この神さまの主権は、36節で述べられます。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(36)
 神さまはすべての源です。神さまによってすべては起きるのです。私たちは、ただ被造物であって、神さまの栄光のためにここにいます。部分的、一時的なイスラエルの拒絶と異邦人の救いを通して歴史に示された神さまの主権に対する我々の応答は、それを意図された方への賢明さに対する驚きと賛美となるべきです。今まで神さまにアドバイスするものがあったでしょうか。神さまは私たちの助言や許可を必要とするでしょうか。全てをよきに導かれる神さまの主権に、パウロと共に、言い尽くせない賛美を持って、頭を垂れなければなりません。