フィリピ書研究(第6回) 「福音に根ざした一致」(フィリピ2:1-4) (2005/1/26)

 2章の最初は、「そこで」という接続詞から始まっています。それは前回学んだ1章27節の「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という言葉をつなぐものと考えてよろしいかと思います。ここからフィリピ教会に対する勧めが、より具体的に語られます。
 フィリピ教会は及第点をもらうことのできる優れた教会でした。伝道に対し非常に熱心でした(4:15)。献身的でした。ただ一つだけ、不一致という点が問題でありました。これはフィリピの教会に限ったことではありません。現代の教会にも大いに起こりうることであります。むしろ問題のまったく無い教会はない、といった方が良いのかも知れません。
「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(4:2) 
 この二人は熱心なクリスチャンでありましたが、お互いの個性が強すぎたのか、一致することができずに派閥争いになったりと、衝突することがあったようです。教会が成長するためには、一致が必要です。逆に言うと、教会成長を妨げる一番の要因は、外からの迫害ではなく、内側からの不一致や腐敗である、ということが言えると思います。
 それでは逆に、教会の成長の秘訣は、というと、これは初代教会が良い例になると思います。
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2:44-47)
 初代教会が聖霊に満たされて、どんどん成長していった秘訣の一つは、「心を一つにして」という点にあるかと思われます。教会が成長して、主のご栄光をあらわすものとなるために、大切なこととして私たち一人一人がこのことを覚えたく思います。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:21-23)

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(2:3-4)
 「利己心」や「虚栄心」が一致を妨げるものであります。「利己心」は口語訳では、「党派心」と記されています。自分を第一とするのではなく、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさい、と言うのです。へりくだる、謙遜な者となることはキリストの教えの中でも重要なことであります。謙遜とは何かと言うと、物腰が低い、やわらかい、というものではなく、自分は赦された罪人である、ということを認めることです。そこに立ったとき、他の人を見る見方も変わってきます。「理解する」という言葉は、英語では[understand]です。自分を低いところにおいて、相手を高く見る、それが理解する、ということなのです。すべての人は神さまの愛の対象である、あの人のためにも、イエスさまは十字架にかかって、罪の身代わりとなってくださったのだ、という思いで周りの人に接することができるようになりたいと思います。

 フィリピ書研究(第7回) 「謙遜の模範」(フィリピ2:5-11) (2005/2/2)

 今日の箇所は、「キリスト賛歌」とも呼ばれているところです。きれいな詩のように書かれているので、聖書学者の中には、パウロの筆ではなく、誰か別の人物が書いたものではないかという人もあるくらいです。しかし大体の保守的な学者たちは、パウロの書いたものであると言い切っています。この箇所で、謙遜とは何かということを、イエスさまのお姿を通して示してくれているのです。

 「互いにこのことを心がけなさい。」(5)
 これは、へりくだる心のことです。謙遜でありなさい、ということです。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(6)
 「身分」は口語訳では「かたち」と記しています。キリストは神さまと同じご性質を持っておられたお方、いや神さまそのものであるということです。三位一体といいますが、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、いずれも神ご自身であります。神ご自身の表れが、三つのかたちであらわされるのです。バプテスマのヨハネも「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」(ヨハネ1:30)と言いました。後から来て、先におられた、ということは、天地創造のときからおられた、ということです。
 「かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」(7)
 「僕の身分になり」人間の中でも一番位の低い、僕、奴隷の状態にまで降ってこられた。イエスさまはその誕生のときから、馬小屋で生まれ、枕するところもない中で宣教され、やがて十字架にかかられた。まさに奴隷の身分で人間として過ごされたのです。
 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(8)
 それゆえに、人類を贖う使命を全うしたこのイエスさまを引き上げて、神さまの右の座におつきになった。
 あの最後の晩餐の前にも、イエスさまは弟子たちの足を自ら洗うということをされました。その行為も最高の模範を私たちにお示しになられたことの一つです。そして「仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。」と教えられました。
 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Uコリント8:9)
 自ら死を味わうことによって、私たちの苦しみを取り除き、罪から贖い、死から命へと移し、豊かにしてくださった。まさにそのためにキリストは貧しくなられたのです。
 「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」(ローマ15:2-3)
 キリストのご生涯は、何よりも謙遜ということが言えます。神の栄光の座を投げ捨てて、人間の中に飛び込んで一番どん底まっで降って来てくださった。そして十字架の死に至るまで、み心を成し遂げるために、世の罪を取り除く神の子羊として来られたイエスさまは、これを果たすためにどんなことがあっても十字架に向かわれました。それから神さまへの従順。この謙遜と従順をもって生涯を貫いたから、神さまはこのイエスさまを高く引き上げ、栄光の座につけられました。このことを通して私たちは、神さまが喜ばれる生き方、神さまが高く引き上げて下さる生き方を学ばされます。
 「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)
 「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコブ4:10)