ペトロの手紙U研究(第1回)  1:1-21  (2003/9/3)
 
 ペトロの手紙二の著者は、言うまでもなくペトロであります。他の箇所ではシモン・ペトロと呼ばれていますが、書簡の中ではシメオン・ペトロという言い方がされています。受け取る人たちは、ローマの信者たち、あるいは異邦の国の信者たち、そしてそのテーマは、世俗的に流されて、時には不品行に陥るような、異教の地のクリスチャンたちに清めを求め、信仰生活をしっかりと守るようにという訴えです。その意味では、コリント書とよく似ています。それから最後の審判というものなどない、というふうに思って、神の義に対して誤解をしたり、それを無視したりして、最後の審判を軽視する人々に対して警告をしています。さらに異端とか偽教師に心せよ、というようなことも述べられてまいります。

1-2 あいさつ
 「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(2)
 「恵みと平和」という言葉は、聖書中の手紙の中に再三出てきます。恵み、それは神さまからの一方的な祝福であり、私たちに価値があろうとなかろうと、神さまが一方的にくださる恩恵であります。平和(平安)はギリシャ語ではエイレーネ、ヘブル語ではシャロームといいます。これらは本当に心からの祝福を祈る言葉であります。この祝福はどうしたら与えられるのかというと、この一節の中にはっきりと示されています。すなわち「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」であります。何か特別な修行をすることによって、あるいは難しい学問を学び、究めることによってではないのです。神さま、そして神さまがお遣わしになったイエスさまを知ることだというのです。この「知る」とは、単に知識として「知る」ということだけではなくて、人格的に「知る」ということです。キリストはどんなお方であるのかということを、体ごと奥深く全身で感じることです。参考までにヨハネ17:3には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。最後の晩餐を終えて、十字架に架かられる前に遺言のように祈られた祈りの一部です。キリスト教というと、その難しい教理のことを思い浮かべる方もいらっしゃいますが、その中心はイエス・キリストを知ることであり、それに尽きるのです。

3-11 主イエスを知る知識
 「神の本性にあずからせていただく」(4)
 イエスさまを知ると、またイエスさまを信じて受け入れると、私たちは、情欲に染まったこの世の退廃に流れっぱなしではなくなります。人は神さまにかたどって造られた、と創世記にありますが、その神さまの本性にあずかって造られた人間として、ふさわしい人間となることができる、清めていただくことができるのです。ですからペトロは、この約束にあずかるために「力を尽くして・・・加えなさい」(5−7)と強く勧めているのです。

 「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を」(5-7)
 神さまに救われた、その恵みを感謝して、少しずつでも成長していきたいと願うのが、クリスチャンの務めでもあります。私たちの目標は、全き天のお父様です。ということは、もうこれでいいという人間的な完成には達し得ません。私たちは昨日よりは今日、今日よりは明日というふうに成長し続けなければならないのです。ここに挙げられているのは信仰生活のステップです。信仰を訓練することによって、徳を伸ばしなさい。徳を訓練することによって知識を伸ばしなさい。というように、信仰が与えられたら、さらに訓練によって徳が与えられる、「徳」には勇気という意味もあります。神さまを信じる者は時に、勇気を持って決断し、実行するべき時があります。例えば善いものはそれを選んで、悪いものはきちんとがまんして遠ざける、その辺が曖昧になると、この世に流されることになります。それから徳を立てるという意味もあって、自分が立派でありたい、有名になりたい、自分だけよければそれでいいというのではなく、信仰の恵みにあずかったならば、今度は他の人に伝えていくことが大切です。生まれながらの人間は、皆自己中心的です。その人間がキリストを知ることによって、人の徳を高めるところへとのびてゆくのです。
 「知識」は、単に知ることだけではなく、人生の基本的な知恵をも意味します。そして「自制」、セルフコントロール、自分を抑える力です。「信心」は分かりにくい言葉ですが、口語訳では「敬虔」と言う言葉が使われていますが、神さまに対する真のおそれであります。「兄弟愛」とは、文字通りの血のつながったものに対する愛も含まれますが、同じ信仰を持った仲間も含まれます。最後に「愛」(アガペー)最高の愛です。イエスさまが私たちを愛して下さっている愛、報いを望まず、自分の命を捧げるほどの愛、これが霊的な成長のステップです。そして私たちの理想は、成熟したクリスチャンとなること、バプテスマを受けたときが新しい命の誕生ですから、赤ん坊同然です。そこから少しずつ、神さまから身につけさせていただいて成長することができるのです。
 「これらを備えていない者は、視力を失っています」(9)
 霊的に盲目の状態であると述べ、さらに「近くのものしか見えず」とあるように、一時的、感覚的なことに目が奪われて、天的なことには近眼の状態であることを述べます。

12-15 仮の宿
 この地上での私たちの人生は「仮の宿」あるいは「幕屋」と表現されています。ペトロはここで自分の死期の訪れを感じています。それは「主イエス・キリストが示してくださった」(14)とあるように、ヨハネ21:18-19でイエスさまから伝えられています。それ故に「これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」(12)、「奮起させるべきだと考えています」(13)、「絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」(15)というように強い決意を現しているのです。

16-21 聖霊に導かれたみ言葉
 当時広がっていた一つの考え方は、イエスさまの再臨を疑うものであり、この誤りを正すのがこの手紙の主な目的の一つでした。ここでペトロは、作り話ではなく、「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」と、歴史的な事実を語っていることを主張しています。そして17-18で、ペトロが他の2人の弟子とともに、イエスさまの変ぼうを目撃したことを回想しています(マルコ9:2-8)。
 「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」(19)
 メシヤに関する旧約聖書の数々の預言は、イエスさまの誕生から地上での生活を通して、ペトロたちにとっては、弟子として、イエスさまと共に生活をしたことを通して、さらにイエスさまの行なわれた奇跡、復活、変ぼうを通して、「いっそう確かなもの」となったのです。
 「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」(20)
 次回になりますが、2章で偽預言者、偽教師のことが語られます。当時、預言を都合のいいように解釈して、キリスト者を惑わす者がいたようで、そのことを念頭において述べているのです。そして預言は「人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」(21)であると言っています。「聖霊に導かれて」とは、船が風を受けて進むように、聖霊によって運ばれた、動かされた人々が神さまからのみ言葉を語ったものだということです。私たちクリスチャンは、このみ言葉によって歩む生活をしています。聖霊によって語られた言葉ですから、聖霊の助けを頂いて、祈りつつ、このみ言葉に聴く、ということを改めて学ばされます。
 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Uテモテ3:16)


 ペトロの手紙U研究(第2回)2:1-22         (2003/9/10)

 この二章には、新共同訳聖書では、「偽教師についての警告」という題がついています。当時の教会は、様々な迫害、試練にあっていたのですが、中でもクリスチャンたちがその信仰途上で、つまずく一つの原因に、この偽教師の暗躍があったのです。

1-3 偽教師に対する裁き
 1:20-21で語られたように、かつてのイスラエルに偽預言者がいたように、これからも使徒の教えを曲げる偽教師が現れると、ペトロは警告します。「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。」(1)。このような人々の運命は決まっています。すなわち「このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」(3)。


4-10a 神の裁きと救い
 このような人々の運命を示す例として、三つの例をペトロは示しています。
 @天使の堕落(4)(創6:1-4)
 ユダ6にも示されているのですが、神さまの裁きの最初の例として挙げられています。
 A大洪水(5)(創6〜9章)
 ノアについては、3:5-6、またTペトロ3:20でも言及されています。「ノアの箱舟」は、来るべき神さまの審判と、悔い改めによる救いへの神さまの導きを説明する例として、よく用いられてきました。しかし、このペトロの時代にも、聞く耳を持たない人々は多く、イエス・キリストの十字架の贖いの事実さえ受け入れない人々がいたのです。
 Bソドムとゴモラ(6-8)(創19章)
 ロトは周囲の不道徳な生活をする人々の中にいて、日々心を痛めていた正しい人であって、その信仰を知る神さまは、このロトを救い出して、ソドムとゴモラの町を滅ぼしました。

10b-16 偽教師の罪の生活
 さらにペトロは偽教師について詳述しています。
 今日でも、宗教というだけでアレルギーをおこす人々がいます。おかしな宗教を信じて人生を台無しにしてはいけないから、むしろ近づかない方がいい、というような考え方が一般社会にあるのです。しかし偽物があるからには、必ず本物があるのです。私たちも、本物があるから偽物も存在する、ということを心しておかねばなりません。
 そしてその偽物の特徴は、「理性のない動物と同じ」(12)で、「昼間から享楽にふけるのを楽しみ」(13)、「絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねてい」(14)るにとどまらず、「心の定まらない人々を誘惑し」(14)、自らの罪にふけるだけでなく、未成熟な若いクリスチャンまでをも、そのみだらな生活に引き込もうとする、自ら「呪いの子」となっている、といいます。
 15-16のバラムについては、民数記22章に出てきますが、なすべき善を知りながら、故意に悪に走った人の例として挙げられています。

17-22 「その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です」(19)
 「彼らは無意味な大言壮語をし」(18)、「その人たちに自由を与えると約束」(19)する。偽物のさらなる特徴は、真理を語るのではなく、人々が聞いて喜ぶようなこと、つまり耳障りのよいことばかりを語る、ということです(ミカ3:11)。
 20-21については、ぜひヘブライ10:26-27を参照していただきたいと思います。
 人間は被造物であり、創造主である神さまに依り頼んで、その声に従い、導きを求めて生きるように造られました。私たちは元来、神さまと交わりながら生きていくべき存在なのです。その意味で本来は神さまに従順にお従いするべきしもべなのです。そして主体的にものを考えることを許されている私たちの道は、神さまのしもべとして生きるのか、偽教師の言葉に従ってサタンのしもべとして生きるのか、この二つに一つです。どちらを採るべきかは明白なのです。

 ペトロの手紙U研究(第3回)3:1-18         (2003/9/17)

1-2 愛する人たち
 3章に入り、ペトロは再び「愛する人たち」(beloved)と、読者に呼びかけます。そしてこの手紙の目的が、「あなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせ」(1)る、ということにあると繰り返します(1:12)。
 そして預言者たち(旧約)と「使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟」(新約)を思い出すようにと勧めます。イエスさまの語られた掟は、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)です。

3-7 主の来臨
 ここでいう来臨とは、「再臨」のことであり、終わりの日に再びイエスさまが来られることを意味します。聖書全体を通して、神さまの約束には五つの大きな柱があり、キリスト教教理の中心です。それは、@受肉(神が人となって世に来られる。クリスマス。)A十字架(贖いの供え物)B復活(永生)C聖霊降臨(ペンテコステ)D再臨(終末、終わりの日)で、@〜Cの預言は成就されました。
 ペトロは2章を通じて、偽教師の有害な教えについて語りましたが、彼らの中にDの再臨を疑い、「あざける者」(3)が現れると言っています。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(4)(終わりの日など来ないではないか)「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」(4)といって、使徒の教えに反論してくる、というのです。
 この反論に対し、ペトロは、天・地・水は神さまのご意志により「神の言葉によって」(5)できたのであり、「水を元として、また水によってできた」(5)その世界は「その水によって洪水に押し流されて滅ん」(6)だのである。だから世界は初めから同じ状態である、ということは正しくない、というのです。さらに、かつて水が神さまの破壊の手段となったように、火が同じ目的のために、その時を待っているのだと警告します(7)。

8-9 千年は一日のよう
 「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(8)
 この言葉は詩編90:4からの引用で、時間に無関係な神さまの永遠性を示します。人は有限、しかし神さまは永遠です。その神さまの目から見れば、人間的な目で見れば遅れているように思われることでもそうではない、終わりの日について、決して無関心を示すものではないのです。むしろ「そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9)、何という神さまの愛とあわれみであることでしょう。

10-13 その日は盗人のようにくる
 神さまは忍耐して、人間の悔い改めを待っておられますが、その日はいつか必ずやってきます。しかも「盗人のように」(10)、予告や前触れなしに突然やってくるのです(マタイ24:42-44、ヨハネ黙示録3:3)。ですから私たちは、絶えず目をさまし、準備をしておくことが必要です。そのためにペトロは「聖なる信心深い生活を送」(11)りなさい、と教えます。そして全てが燃え尽きたのちにあらわれる「義の宿る新しい天と新しい地」(13)を待ち望みなさい、と言います。これについてはヨハネ黙示録21〜22章に詳細に紹介されています。

14-17 平和に過ごしなさい
 主の再臨を待ち望む人にふさわしい態度は、何もしないで待つことでも、恐怖におののくことでもありません。それは確信に満ちて、目をさまし、用意しておくことです。「きずや汚れ」(14)は、2:13の偽教師と対照をなします。「平和」(14)は、人との間の平和というより、むしろ人と神さまとの間に障害のない平和、そのような状態で神さまのみ前に出られるように「励みなさい」(14)と勧めます。
 15-16でパウロの手紙について触れています。恐らくパウロの手紙のいくつかは、すでにこの手紙を受け取る人々に届いていて、彼らは「神から授かった知恵」(15)、パウロの賢明さに気づいて、中には彼の深い洞察に「難しく理解しにくい個所」(16)を見出す者もいたのでしょう。その理解しにくい個所を利用して、都合のいい解釈で人々を惑わす者に対して、ペトロは「堅固な足場を失わないように注意しなさい」と強調します。

18 キリストの知識における成長
 「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(18)
 キリストの知識とキリストについての知識とは異なります。キリスト者の目的は、キリストとのいっそう深い、より個人的な体験です。それこそキリストの知識、キリストとの絶えざる交わりです。

 最終的には、神さまは義を貫かれます。ですから再臨について、私たちはどういう態度をとるべきなのでしょうか。再臨はいつだろうか、ということばかりを考え、その時期を推測することに時間を費やすのはふさわしくありません。イエスさまご自身がわからないとおっしゃっているものを、わたしたち人間が知る由がありません。しかしわかることは、必ず主がお出でになる日が来る、ということです。そのためにいつその日が来てもいいような生き方をすることが大事なのではないでしょうか。そしてこの中間地点にあって、私たちは一人でも多くの方をキリストの恵みへとお導きする、という使命が与えられています。ある先生の言葉がそれを教えてくれるのです。
 「再臨という教えは、交渉する問題ではなく、待望して伝道するエネルギーとするべきと心得よ。」