ペトロの手紙T研究(第1回)  1:1-9  (2003/4/9)
 
 ペトロの手紙を学ぶにあたって、一番最初にペトロ書というものがどんなものなのかということを少し申し上げて本文に入って行きたいと思っております。ペトロ第一の手紙は、公同書簡と呼ばれます。書簡というとローマの信徒への手紙から始まる一連の手紙のことですが、その中にはたとえば牧会書簡(エフェソ、フィリピ、コロサイ各書等)のような、一つの教会に宛てて、そこのクリスチャン達が立派な教会形成をし、地域社会に良き証し人として伝道ができるようにという意味で書かれたものもあります。それに対して公同書簡というのはある特定の教会ではなく、その地域人々、一般的な不特定多数の人々、特にここでは小アジアの人々に向けて信仰をしっかり持っているようにということで書かれたものです。

 このペトロ書について、マルチン・ルターは「新約聖書の中の正しい、貴重な書物は何か、それはヨハネによる福音書、ローマ人への手紙そしてペトロの手紙Tである」といってこの書物を位置づけています。内村鑑三先生も「殊に初めて信仰に入る人にとって、最も愛読すべきは本書である」、ウィリアム・バークレーは「今日までペトロの第一の手紙は新約聖書の中で最も読みやすい手紙の一つである。それは人間的な心情への魅力ある一体を失わなかったからである」と書いています。

 本書は、キリスト教とは何か、という教理的なものではなく、キリスト者はいかに生きるべきか、ということを教えてくれます。信仰生活の総論ではなくて各論、すなわちより具体的なことをあらわしているのです。

1−2
 手紙の宛先は、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア(1)で暮らすクリスチャンです。小アジアのこの地域は、パウロの第2次伝道旅行の際に、行くことを聖霊によって禁じられた地域であります(使徒16:6-7)。しかしこの地域にも福音は知らされていました。迫害に遭いながらも、忠実にその信仰を守り通そうとする、熱心な信者が存在したのです。ペトロはクリスチャンという言い方をするのに面白い言葉を三つ使っています。すなわち、「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(1)と。この三つとも非常に的確にクリスチャンというものをあらわす言葉であると思います。
 まず「選ばれた人」。まさにクリスチャンは選ばれた人であります。キリストが私たちを選んでくださったのです。神さまの選びがなければ、それぞれ今の境遇にはありません。全ては神さまのご計画の内にあるのです。そして「仮住まい」。クリスチャンは旅人です。私たちはこの世に生まれて、天国に帰るまでは、あくまでも仮住まいの生活です。まことの故郷は天国なのです。
 「離散して」というのはギリシャ語で「ディアスポラ」という言葉です。教会をあらわす言葉に二つありまして、一つは「エクレシア」、これは集められたものという意味です。クリスチャンの集まりは、神様がこの世から選び分かってくださった群れである、ということです。私たちはイエスさまを信じ、神さまに捉えられてからは、神さまに選び分かたれている。そして逆に、現実の生活に遣わされている。「召し集められたもの」といった方がいいかもしれません。と同時に「ディアスポラ」、離散あるいは散らされたものということですが、この二つが教会を指す代表的な言葉です。礼拝に集まります。そして礼拝が終るとそこから遣わされます。それぞれの現実の生活に遣わされていきます。そしてそこで集められたときにいただいた恵み、祝福、力、感謝、喜びを分かち合います。分かち合って、自身は空っぽになって、再び礼拝に集められてくる。そして再度、礼拝で神さまのエネルギーをいただく、愛に満たされるのです。エクレシア⇒ディアスポラ⇒エクレシア⇒ディアスポラ・・・、この繰り返しが教会の健全な姿なのです。集まっているばかりでは、これは本当の教会ではない。逆に離散の方ばかりでもいけない。両者のバランスが釣り合っているところには大きな神さまからの祝福があることでしょう。

3−5
 続く6節に「心から喜んでいるのです」とあります。この神さまを心から讃美する言葉に続く6節につながるこの箇所は、クリスチャンが讃美せずにはいられない、嬉しくて仕方がない、という理由が三つあるといっています。
 第一は私たちは新しい命、永遠の生命をいただいたということ(3)、第二に神さまからの財産を受け継ぐものとしていただいたということ(4)、ある人の言葉では「いつまでも残るものは、得たものではなく与えたものである」という言葉があります。三浦綾子さんがよく引用していた言葉です。第三に神さまが私たちを守っていてくださるということ(5)です。パウロはロマ書8章で「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)といいました。神さまが私たちの味方、ボディガードになってくださるのだから怖いものは無いのです。私たちは弱いけれど、強い神さまがともにいてくださるのです。これ以上に心強いことはありません。ジョージ・ミューラーは、「心配の始まりは信仰の終わりである。真の信仰の始まりは、心配の終わりである」と書いています。心配するということは、生ける神さまのことを一瞬でも忘れてしまっているからなのです。

6−9
 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」(6)。当時のローマ帝国はそうであったのですが、今日でもそれほどの厳しい迫害はないにしても、無理解、誤解、あるいは偏見といったもので、信仰に生きる上で、色々な障害や壁にぶつかることは少なからず必ずあることです。しかし私たちの試練は、あくまでも「しばらくの間」なのです。「いつまでも、永遠に」ではないのです。詩編30編6節に「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」とあります。朝の来ない夜はないのだ、ということを覚えたいものです。そして試練によって、神さまに近づくことができる、忍耐が養われる、苦しみにあっている人々の気持ちを理解できるようになる、試練の中で自分に頼れないことを知り、神さまだけに頼ろうとする心がおこされる。そのことに心を留めたいと思います。試練によって信仰が本物であると認められ、キリストの再臨の時に、称賛に値する者とされるのです(7)。


 ペトロの手紙T研究(第2回)「恵みに与った者の生き方と源泉」 1:13-25  (2003/4/16)

 13節からは、私たちに聖い生活をするようにと、ペトロは勧めます。
 「心を引き締め」は、衣の帯をキュッと締めるように心を引き締めなさい、といったところでしょうか。「身を慎んで」は、シラフで、あるいは正常な状態で、自らをしっかりコントロールしなさいということです。私達は自分自身の生活のブレーキを外部から求める場合があります。例えば、人がいけないといったからやらない、「それはダメよ」と親から言われたからやらない、というようなブレーキも確かにありますが、ここでいう身を慎むは、「克己」「セルフコントロール」をしなさいということなのです。神さまの救いに与った者は、一層身を引き締めて、緊張感を持って、生きていくということが求められているのであり、そして「ひたすら待ち望」むことが求められているのです。

 16節「あなたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」これはレビ記11:45の引用です。この「聖なる」という語が、ときに分かりにくかったり、ある人にとっては、つまずき、あるいは重荷になることがあります。と言うのは、「クリスチャンであるあなたは、聖なる者となりなさい。」と言われると、「私はとてもそんな人間にはなれない」と恐れが生じるからです。聖という概念は、東洋的に考えると、欠点短所がなく、そして完璧な、いわゆる「聖人君子」というときの聖、これを想像しがちです。ところが聖書に出てくるこの聖という概念は、大分違うのです。「ハギオス」というギリシャ語ですが、「聖別する」という言い方をするのに使われますが、別に分ける、という意味があります。神さまが、この世にどっぷり浸かって、この世的生き方しかしらない私達を、イエスさまを通して選んでくださって、そして神さまの方に向いて歩いていくように分けてくださった。今まではただ自分中心、この世中心であったのが、神さまの方へ向くようにと、選び分かたれた、というのが「ハギオス」であります。ですから聖でありなさい、という意味は、神さまの選びにふさわしく生きなさい。神さまの選んだ方向に行きなさい、という意味なのです。ですから私たちのような不完全なものであっても、神さまが選んでくださったものとしてその方向に歩むことは出来るはずです。

 17節、私達は地上では仮住まいする者であり、この地上では永遠ではありません。一時的に平均70〜80年の仮住まいをしているのが、この地上の人生です。誰しもやがて天のふるさとへ帰る日が来ます。だから常に神さまを畏れ敬って生活をしなさい、ということになろうかと思います。神さまの救いに与ったものは、このような緊張感を持って、時には己に厳しく、神さまのお選びになった方向に向って歩いていくべきであり、そこにキリスト者の姿があるのです。

 18-21節、18節以下は、我々クリスチャン生活のエネルギーというのはどこからくるのか、また祝福された信仰生活の原点、源は何かということを教えてくれています。
 その一つは19節にあるように、罪のない神の子が流された、尊い血潮によって、私たちが罪から贖い救われた、そこにあるのだ、ということであります。この贖う、救うという言いかたは、聖書のいたるところにでてまいりますが、贖うとは、身代金を払って身柄を助け出すことです。サタンのとりこ、死のとりこになっている私達を、神さまがキリストを通して、私達を救ってくださった、そこには身代金が要るのです。神の子が身代わりになってくださるという代償、これ以上のものはありません。ですから私たちの救いは、確かなのです。しかも神さまとともにあって、イエス・キリストは、天地創造の前からおいでになった、天地創造にも参与された、と聖書にはでてきます。私自身、牧師になったばかりのときは、イエス・キリストは2000年前にこの世にお生まれになった、ということしか知りませんでしたが、後になってから知りました。イエス・キリストは2000年前に生まれたというよりも、来られたのだ、神さまと共におられたお方が、人間の中に降ってこられたということがわかりました。「主は来ませり」という讃美のとおりに、その御子が来てくださって、私たちに神さまの愛をお示しになって、そして救いの道はここにありますよと、教えてくださったのです。そのためには犠牲が払われなければならないから、尊い血を流して、私達を救ってくださったのです。それゆえに私たちの信仰と救いは、神にかかっています、と21節で言っているのです。
 ある神学者がこう言っています。「人間的可能性の上に立つ未来への期待ではなく、甦りのキリストに基づく確かな約束。ここにクリスチャンの希望がある。」私達はそのことをはっきりとおぼえたいものです。

 23-25節、もう一つ、エネルギーの源泉をどこに求めるべきか、どこからその力が湧いてくるかというと、神さまの生きた命の言葉が与えられているということです。命の生けるみ言葉、これが私たちの拠り所であります。24節は、イザヤ書40:6-8からの引用です。私たちの人生はいかにはかないものか、草のようで花のようです。いまようやく咲いたかと思うと、すぐに枯れてしまう、神さまの視点から見れば、それほど一時的ではかないものなのです。しかしはかなさが際立ってくればこそ、確かな拠り所も際立ってきます。それは命のことば、神の言葉、聖書であります。これは決して枯れることはないのです。2000年以上も前の神さまの言葉が今も生きて働いています。時代と共に変ったり、科学が発達したら聖書は価値がなくなるとか、そんなものではありません。どんなに世の中が進もうとも、科学的な世の中になろうとも、あるいは人類社会が様々に変化を遂げようとも、聖書の真理は変らないのです。この聖書を拠り所としてその生活の基礎に据えるとき、その歩みは確かなものとなるのです。

ペトロの手紙T研究(第4回) 2:11-17 「この世に生きるキリスト者」 (2003/5/7)

前回私たちはキリスト者とはどういうものなのか、神の民としてのキリスト者という視点から学びました。そこでは「生ける石」あるいは、「霊の家」といった表現でキリスト者は例えられておりました。
 私たちは、神の民としてのクリスチャン、という面と、もう一つこの世に生きるクリスチャンという二つの面を持っているわけですが、今回は、この後者の面に目を向けて、この世で生活するキリスト者はいかに生きるべきなのか、ある意味この手紙全体が、そのことを中心に取り上げているのですが、そこをこの箇所から聞いていきたいと思います。
 
◇11-12 仮住まいの身
 まず11節には、私たちキリスト者はこの世にあって、旅人、仮住まいの身であるということが初めにでてまいります。「仮住まいの身」とは口語訳では、「寄留者」となっています。「旅人」という言葉の元々の意味は、市民権のない外国人が、自分の国以外のところで一時的に住むことであります。ところが「寄留者」となると、同じ国民あるいは市民ではあるけれども、現住所から離れて、別なところで一時的に生活をする場合、これを指します。いずれにしましても、私たちのこの生活は、あくまでも一時的なもの、仮のものである、ということであります。キリスト者は本当の故郷、あるいは本籍地は天国であり、この世でのこの生活は仮住まいなのです。“私たちは旅人である”という認識にたつときに、そこからは二つの反応が生じます。先ず一つは、「旅の恥はかき捨て」ということわざが示すように、旅であれば、そこで好きなように自分勝手に生きればいいのだという考え方と、もう一つの反応は、旅は一時的な生活なのだ、二度と戻っては来ない時なのだから、大事に生きようという考え方であります。キリスト者の場合、この後の箇所でも示されるように、後者をとるのです。
 12節では、仮住まいの身なのだから、○○しなさい」と二つのことを命じています。まず「肉の欲を避けなさい」(11)は、神さまの祝福に与る生活をする以上、霊的にプラスになるものは大いに求めるべきであるけれども、足を引っ張りマイナスになるようなものは、避けたほうがよいというある意味消極的な勧めです。流れに沿って進む魚は死んだ魚だというような言い方がありますが、元気な魚は、水の流れに逆らっても生き生きと泳ぎます。同じように本能の流れに流される人間は、ある意味で霊的に死んだも同然です。ときに私たちはその流れに逆らって生きていくということができるとき、その人の中には本当の命があるのです。
 そして「異教徒の間で立派に生活しなさい」が二つ目の勧めです。「異教徒」とは、神さまを知らない人々という意味です。つまりいつの時代にも存在する人々であります。決してこれはユダヤ人と異邦人という分け方ではなくて、対象はクリスチャン、神さまを知っている人です。神さまを知り、イエスさまを知っている人間は、そうではない人とは違った価値観を持っているはずではないですか、というのです。「立派に」は「カロス」というギリシャ語が使われているのですが、単に良いという意味だけではなくて、“美しい、愛すべき、よい香りのする、魅力のある”といった意味があります。使徒言行録を見ると、初代教会の人々は、神さまに愛されているという喜びがあふれて、お互いにすべてを分かち合って生活をしていた、という記事がでてまいります(使徒2:44-47)。元々は他人であったのに、キリストに出会うことによって、家族のような関係に作りかえられたのです。そしてそれを見た周りの人々は、あの人たちは素晴らしいといって仲間に加わった、と書いてあります。初代教会でクリスチャンが増えていったのは、単に教えが良いとか、建物が素晴らしいとかいうことではなくて、信仰を持ったクリスチャンたちの生活が、お互いに愛し合う生活であった、ということが魅力となって、一人また一人と加わっていったのです。今の時代、私たちはこの初代教会の原点に立ち帰るべく反省したいと思います。教会を良くするために様々な工夫も必要ではありますが、一番大事なことは、お互いが救われた喜びを感謝して、許し合い、感謝し合って、互いに仕えて生きる姿、その中に本当の魅力が、キリストの香りが立ちのぼってくるのではないでしょうか。ある方は、「一人の誠実なクリスチャンは、キリスト教信仰の真理についてのいわゆる証しでいっぱいの百巻の本よりも価値がある」と言っています。教会に集う一人ひとりが良き証し人となって、それぞれにイエスさまの愛を写す者とさせていただきたいものです。

◇13-17 一市民としてのクリスチャン
 13節には、「制度に従いなさい」とあります。皇帝、総督とか、いわゆるこの世の権威者に従いなさいと言うのです。以外に思われるかもしれません。というのは、この世の指導者というのは大体、神さまを知らない人たち、いろいろ間違いを犯すことはもちろんありますし、唯物的な考えで指導する人もあるわけです。当時でも皇帝は、キリスト者に対して好意的ではありませんでした。ネロのように恐ろしい迫害者として有名な皇帝が何人もいました。そんな中で生きている人たちに、ペトロはここで権威に対して従順でありなさい、と教えるのです。これはどういうことでしょうか。クリスチャンは、何事にも反対するという過激なものではありません、平和を愛して、出来る限り争いをしないというのがクリスチャンの基本姿勢です。「平和ならしめる者は幸いなり」とイエスさまも山上の垂訓で言われました。不必要な争いをしない、平和に暮らす、穏やかに暮らす、そのことをとても大事に考えます。そして上に立つ権威を尊ぶ、これはローマ書13章にも出てくるテーマであります(ローマ13:1-4)。キリストもパウロもいたずらに権威に逆らうことを勧めておりません。従順であれ、と言っています。
 ここで二つのことを申し上げておきたいのですが、一つは何故私たちは、信者であろうとなかろうと、上に立つ権威に従わなければならないのかということです。それは権威というものは神さまから出るものであるからです。上に立つ者は、神のお許しによって権威ある立場に今置かれているのです。時々、そういう位置におかれながらも感謝せず、利己的な支配者になることもありますが、基本的には権威は神さまからくるものであるということです。そしてもう一つは、この世の秩序というものも、基本的には勧善懲悪であるということです。もちろん独裁者なり、上に立つ者が神さまに背くような生き方をするような場合には、神さまの義を主張せねばなりませんから、デモ行進をしたり、あるいは抗議の手紙を送ったり、ということもあり得るのです。
 16節では、「服従しなさい」とは対称的に、「自由な人として生活しなさい」とあります。この自由な生き方というところに、本当のクリスチャンの生活が現れています。クリスチャンの特徴はまさに「自由」であります。マルチン・ルター「キリスト者の自由」という著書の中で、「キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であり、何人にも従属しない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」と書いています。一方は従属しない、奴隷が誰かの所属になってこき使われるというような従属から、我々は自由なのだ、もう一方、私たちは、全ての人々に仕える僕、奉仕する僕となったので、誰にでも従属する。誰の為にも仕えることができる。そういう自由も与えられているというのです。イエスさまは自ら弟子達の足を洗われたことがありました。足を洗うという行為は当時奴隷の仕事でした。そして「私があなたがたを愛したように、あなたがたも愛しなさい。」と言われたのです。つまりイエスさまは奴隷のお姿になられて、私たち一人ひとりの足を洗ってくださったのだから、私たちも喜んでイエスさまのように、他の人の足を洗える者とならなくてはならないのです。チャールズ・キングズレーという人がこう言っています。「自由に二種類ある。一つは偽りの自由であって、それは自分の好む勝手なことを行う自由である。もう一つの自由は真実の自由であって、それは人間が為すべき事を行う自由である。」
 17節には、今まで述べられてきたことが短い言葉で凝縮されています。すなわち、全ての人に対して尊敬の念を持ちなさい。兄弟を愛しなさい。神さまを信じる仲間を大切にしなさい。ここにある兄弟は肉にある兄弟はもちろん、主にある兄弟姉妹も指します。そして神を畏れなさい。皇帝を敬いなさい。秩序をいたずらに破壊しようとしてはいけない、上に立つ権威を尊びなさい。これが神の僕として生きる私たちのつとめであります。ジョン・ウェスレーは「あなたの成しうる限り、すべての善事を行いなさい。あなたの成しうる方法で、あなたのたどりうるすべての道において、あなたの至りうるすべての場所で、あなたの及ぼしうるすべての民のために、あなたが生き永らえる限り善事をしなさい」と言っています。最後にパウロの言葉を読んで今回の学びを閉じさせていただきます。
 「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9 )

ペトロの手紙T研究(第5回) 3:1-7 「主にある夫婦」 (2003/5/14)

 前回の続きとなる2:18−25は「召し使いたちへの勧め」というサブタイトルが付けられていまして、当時存在していた奴隷制度、その奴隷と主人の関係について勧めがなされています。奴隷制度は今日私たちの周囲に存在しませんが、そこで一貫してペトロが教えていることは、僕は主人に従順に従いなさいということなのです。一方主人は僕を主にある兄弟として扱いなさい、というようなことがでてきます。これは、奴隷制度が当たり前であった時代には非常に画期的な言葉であったことは想像することができるのです。前回学んだように、クリスチャンは何事にも争いごとを好むものではなくて、秩序を大事にして、できるだけ平和ならしめる者であるべきだと学びましたが、同じように人間関係においてもそういうことなのです。3章に入ると、さらに具体的に妻と夫との関係、がでてまいります。今回はそこを学んでみたいと思っております。

 1節「同じように妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」
 ここでも「従う」という言葉がでてきます。口語訳聖書では、「仕える」となっていました。服従という意味合いにもとれるような非常に重みのある言葉です。一節後半は「夫が御言葉を信じない人であっても」とあります。つまり夫が未信者であってもということです。そしてそれは「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」とあり、さらに詳しく「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」とあります。ここで面白いのは、夫が御言葉を信じていないのなら、まずその夫を信仰に導きなさい、とは書いていないということです。あるいはあなた自身がもっと聖書の知識を深めて夫によく教えなさい、と書いていないのです。全くそうではなくて、未信者である夫に信者であるあなたがまず仕えなさい。しかもそれは言葉で、ああだ、こうだと教えたり、注意したり、励ましたりというよりも、あなたの生活を通して夫を導きなさいということが言えるのではないでしょうか。さらにくわしく3節には、「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服と言った外面的なものであってはなりません。むしろそれは柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」(3-4)と勧めています。

 7節「同じように夫たちよ、妻を自分より弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐものとして尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」
 夫に対しては、ここでは7節だけに記されています。この中で「自分より弱いもの」と言う箇所を、かのルターは、「妻の中に女性的なものを認めて生活をしなさい」としました。またある英語の聖書には、「女性はデリケートであるということを理解しなさい」と書かれています。

 ここだけを読みますと、いろいろな疑問や反発もでてくるのではと思われます。というのは、妻に対してはただ従いなさい、と昔の封建的な主従関係を押し付けるような意味合いにもとられかねないからです。そういう誤解を避ける意味でも、他の箇所をも参考に見ていただきたいと思います。例えば、エフェソ書には、バランスのとれた書き方がされています。キリスト教の夫婦観というものを理解するために、エフェソ5:21−33をご覧下さい。ここには「互いに仕え合いなさい」(5:21)とあります。決して妻だけに仕えることを要求しているのではないのです。「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」(5:22)とは非常に深い言葉であります。また夫に対して「妻を愛しなさい」(5:25)とあるこの妻を愛するというときの程度も、キリストが自分の命をささげて、全ての罪人を贖い救うために自分の命を捧げた様に、それまでに妻を愛しなさい(5:25-28)というのです。また自分を愛するように妻を愛しなさいとありまして、これは一心同体の夫婦であるから、妻を愛することは、すなわち自分を愛することにもなるのだ(5:28)という論理です。ここでは半分以上を夫に対する勧めの言葉が占めています。ですから一概に、聖書は、妻に対して厳しく、夫に対しては寛大すぎるのではないだろうか、ということは当てはまらないのです。自分自身を愛するように夫が妻を愛したら、神さまから助け手として作られた妻は喜んで夫を支える、あるいは従う、仕えるに違いないと思うのです。妻がそうして自分のようなものにも仕えてくれる、従ってくれる、ということがわかれば、夫も心から妻を尊敬し、愛することができることでしょう。それはどちらか一方だけに要求するものではなくて、妻も夫も同じように神さまからこれらの言葉を頂いているのです。それを集約すれば「互いに仕え合う」ということになるのです。ただそれぞれを別の言葉で表すと、妻には「夫に従いなさい」ということ、これがまず助け手として作られた女性の使命だと言っているのです。そして今度は夫の方には、「妻を愛しなさい」。創世記には、アダムのあばら骨からエバが造られたとあります。非常に詩的な表現ですが、あばら骨はハートの宿るところ、愛情の宿るところです。ですから本当の助け手として、ベターハーフとして造られたのが女性なのです。これが創世記の主張であります。言葉が違うからといって不平等ではないのだということをわかっていただきたいと思います。

 「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7)
 ここは、信者同士の関係を書いているのではありません。御言葉に従わない夫であっても仕えなさい、とありましたが、ペトロは、究極においては二人が共に祈りあえる関係になることを願っているのです。お互いに祈りあえる関係にまで二人が成長するために妻は夫に従いなさい、ということなのです。このように学んでまいりますと、聖書の示す夫婦の関係というものが、どれほど深いものかということがわかると思います。これを実際に行動に移すのはなかなか容易なことではありません。しかし多くの方々がそういう証しを持っていらっしゃることも事実です。それぞれの分を尽くしあう時、必ず神さまは良い方向へと導いて下さいます。箴言に「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの。」(19:14)とあります。夫婦は、偶然が重なって一緒に生活するようになったわけではないのです。神さまのご計画の中で導かれて夫婦となった、ということを考えると、個人的な考えだけで受け止めないで、もっと広い、高い神さまに近い視点で見ようとすると、これは神さまから頂いたものであると納得できるのではないでしょうか。そういうところから堅実な家庭が築かれていくのではないでしょうか。今ほど家庭がもろく、崩れやすい時代はありません。そういう中にあって、神さまから与えられたものとして、互いの結びつきをしっかりと持って生きるとき、夫婦の結びつきも清められるし、さらにタテの親子関係も清められていくということがいえるのではないでしょうか。

ペトロの手紙T研究(第6回) 3:8-16 「祝福を受ける道」 (2003/5/21)

今回のは「終わりに」という言葉で始まっていますので、なんだろうと思われるかもしれません。前回まで、人間関係についての教えが語られました。ペトロはいよいよこの手紙を締めくくろうと、「終わりに」と書いたのです。ところが書いていくうちに、言い残しておきたいことが山のようにあったのでしょう。そんなこんなで5章にまでなってしまったのです。もう一つ、単に「最後に」という意味だけではなく、非常に大事なことを今から記します、という意味でもあるのです。大事なことを付け加えます。最後に申し述べます。といった意味で捉えておく必要があると考えます。

◇「終りに、皆心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(8) 
 当時キリスト教に対する迫害が上からもありましたが、一方、異教の人たちの中で信仰を持つと、その生き方なり、価値観が従来のものと異なるということで、その周辺からいろんな批判、中傷も受けたことでしょう。どんな批判や誤解があっても、大事なのはキリスト者が心を一つにして、お互いに同情し合い、謙虚でありなさいということを、ペトロはまず言いたかったのです。使徒言行録の2章のペンテコステ、初めて教会が誕生した当時、この群れには続々と人々が加わっていった。それは人々が教理や教えに共感して加わったというよりも、この人々の生活が本当にお互いに愛し合い、分かち合い、麗しい生活をしていたので、その姿を見て加わったとあります。心を一つにするというのは非常に大切なことであります。孫子の兵法の教えの中の一つに、勝利を収めるときは、「天の時、地の利、人の和」この三つがそろったときに勝利するのだ、と言っています。「天の時、地の利」というのは私たちは、ままなりませんが、「人の和」は変えられるのです。一つになるところに本当の強さがあります。「人は人中、木は木中」という言葉があります。人間は人間同士の中で幸福に生きていくべき存在である、木もお互いに支えあって育たないとよくは育たない。屋久島は九州でも台風の影響をまともに受けるところであります。そこで巨大な木が何千年も行き続けるには秘密があるらしいのです。それは木の根っこが深く根を下ろすだけでなく、横にも這っていって、隣の木の根っこと絡むのだそうです。アメリカのレッドウッドもそうです。目に見えない地下の中で、木と木の根っこが絡み合って支えあっている。お互いに助け合って生きているのです。そこに台風にも負けない強さの秘訣があるのです。愛、憐れみ、謙虚さ、ここに基づいた一致をペトロは強調しています。

◇「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(9)
 イエスさまも同じことを言われました。むしろイエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)とまで言われました。しかしこれは実行するのはとても困難です。イエスさまは豪華な家も持たず、家族も持たず、また武器を持たず、ただ愛の福音を語り続けました。そしてその教えが2000年を経過した今日まで受け継がれてきています。あのローマ帝国は鷲のマークが表すように、武器においても、政治力においても、何においても世界のトップでした。その強いローマも永遠には続きませんでした。やがて壊滅をみることになったのです。そのことを考えるとき、最後の勝利というのは、肉的な、物質的な、力のある、早いものだけが生き残るというものではないことを思わされます。トルストイが「我々の敵といえども我々のために、我々の友より有益になることができる。けだし友はしばしば我々の欠点を見逃すけれども、敵は常にこれを指摘して、我々の注意をそこへ向けさせてくれるからである」と言いました。敵の存在によって、日頃見えない自分の赤裸々な姿が見えてくることがあるというのです。人に指摘されないとわからない欠点、短所というものがわかる。そうなるとそういう存在も感謝すべきものだと思えるのではないでしょうか。「かえって祝福を祈りなさい」と言っています。それによって自分も祝福を受けるというのです。自分だけが恵まれよう、自分だけが祝福されようと思う人に限って、幸せになることができないものです。
「幸福は香水のようなものである。人にふりかけようとすれば、自分にも必ずふりかかってくる。」
「いくら追っかけてもあなたは幸福を捕まえることができない。幸福は人を手助けしている間にいつしか気づかぬうちにやってくるものである。」(ピーターソン)

◇10節〜12節
 ここは詩編34篇からの引用です。ここに祝福にあずかる道としていくつかのことがでてきます。一つは、言葉の問題です。「舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず」、舌を制御するということは、ヤコブの手紙3:1-12にも語られています。そして平和、「平和を願ってこれを追い求めよ」キリスト者は、まず平和を求めます。ただ求めるものではなく、追い求めるべきなのです。

◇13節〜16節
 「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(14)
 クリスチャンが迫害を受けることは幸いである、といいます。使徒言行録に記されているペトロやパウロの態度はまさにそうでした。「人々を恐れたり、心を乱」さぬよう、いつも「キリストを主とあがめ」ることです。そして、「説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(15)とあります。「あなたがたの抱いている希望」とは、イエス・キリストがよみがえられたこと。それにより、私たちが新しく生まれることができたこと。そして、神の国の相続人の一人とされたこと。主イエスが再び来られて、救いが完成することです。それらを「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」(16)弁明しなさい、といいます。そうすれば迫害する者は逆に恥じ入るようになる、というのです。

 私たちは小さな群れですが、心を一つにすることによって神さまを証ししていきたいものです。そのためにも言葉には意味を込めて語る、讃美する者でありたいものです。私たちの口は呪うこともできるし、讃美することもできます。言葉は人を陥れることにも用いることができるし、人を励ますために用いることもできるのです。「心にも無いことを・・・」と嘆くことがありますが、人間は心に無いことは出てこないのです。ですから私たちは内側を常に良いもので満たすことで、いざというときに、正しく弁明する備えをしていきたいものです。

ペトロの手紙T研究(第7回)3:19−22「陰府にまでくだり給う主」(2003/5/28)

 今回は、聖書の中でも難解な箇所の一つを学ぼうとしております。いろんな注解書などを見ましても、ここを取り上げていないものも多いのが事実です。しかし今回は敢えてここから学ぼうと思います。
 長いこと連れ添ってこられたご夫婦で、死んだらお二人は同じお墓に入りますか、と聞きますと、中には「いやあこの世でずっといっしょだったから、あの世はせめて別になりたいですね」と言われる方が時々あります。逆に「たとえ天国に行けなくて、行き先が地獄であってもやっぱり主人と(家内と)一緒がいいです」と言われる方もあります。そしてその時に、こう言われるのです。「伴侶はキリスト教ではありませんでした。私はクリスチャンで、死んだら天国へ行けるかもしれない、そうすると別々になってしまうのでしょうか。もしそうなら、たとえ天国でも、地獄でもやはり同じところへ行きたいです」これは私たちにとって素朴な疑問であります。そして夫婦に限らず、キリストを知らずに、あるいはキリストを信じることなく亡くなった人は、その後どうなるかというのは大きな問題です。今回の箇所はそういう点も含んでいるといえるのです。

19節「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」
 讃美歌566番に「使徒信条」というものがあります。これはキリスト教信仰をまとめて文章にしたものです。何の為にこれが生まれたでしょう。それは中世、迫害のために教会から離れていった人々や、また様々な異教的な影響があったりで教会から離れていった人たちが、またあるとき悔い改めて帰ってくるということがありました。そのときに教会が、その人の信仰をまともな正しい信仰かどうかを確かめる為の一つの手段として用いられたのが「使徒信条」なのです。ですからその中身には、キリスト教の信仰が見事に要約されています。その中に今日のテーマのところがでてくるのです。それは「(イエス・キリストは)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり・・・」という後半の箇所です。「陰府(よみ)」とは口語訳では「黄泉」とも書かれ、新改訳では「ハデス」と記されています。そして使徒信条のこの箇所は、このペトロT3:19がその根拠となっているのです。
 「捕らわれていた霊たち」というのが、いったん死んだ者ということです。ここでもう一つ理解を深めていただくために、「陰府」と「地獄」とは違うということも覚えていただきたいと思います。地獄と天国という言い方があります。しかし「陰府」というのは、死んだ人の全てがいったん行くところ、そしてそこから地獄へ落ちる人は落ちるわけです。この(よみ)へイエスさまは降って行かれた、というのです。おそらくイエスさまは、天上で創造の業に加わり、地上に降りてきて人間に福音を語り、最後には(よみ)にまで降って、そこでまた福音に触れることのできなかった人々に福音を語って、そして甦られたのでしょう。このように考えると、考えられないこともないのです。
 「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」(20)とありますが、(よみ)に降るということについて、様々な解釈がありまして、この時の人たちはキリストを知らない人たちです。またノアを通して、神を愛し、神に従うようにという教えに耳を傾けなかった人々です。これは必ずしもノアの時代の人々を対象としているというよりも、キリストよりも前の時代の罪人たちということを、ノアの時代の不従順な者たち、という言い方で表しているという見方もできるのです。もし、ノアの時代の人々ということに固執すれば、イエス・キリストは地上にお出でになるはるか前に、神とともにおられた方でありますから、そのキリストがノアの時代に洪水で滅ぼされた者たちのために降ったというふうに解釈しなければならなくなります。ずっと前からキリストはおられたのですから、確かにそれも不可能ではありません。しかし私は、キリストを知る機会のなかった人々の代表としてここに記してあるのでは、と考えます。

 さてこの記事は、私たちに何を訴えようとしているのでしょうか。一つはこのメッセージはイエス・キリストの影響力について言及しているということです。キリストというお方は、天も地も地下のものも、全ては御子イエスの前にひざまづくべきもの、つまり、キリストに栄光があるようにと神さまが定められた、王の中の王、宇宙の主宰者であることを、この出来事はまず示しているのです。それに関する御言葉をご紹介しますと、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)キリストは生きる者の神であると同時に、既に召された者の神でもある、全ての者の主であると言っています。「「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」(エフェソ4:9-10)「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」」(ヨハネ黙5:13)といったみ言葉が挙げられます。生ける者と死せる者とを含め、その全ての主であるキリスト、万物の主、そのキリストの力が及ばない所はないのだ、ということを「(よみ)に降る」という言い方から教えられるのです。

 そうなるとイエス・キリストよりも、さらに以前に生まれた人々は皆救われないのかという疑問がおこってきます。2000年前に地上にイエスが来られましたが、それ以前の、キリストを知らない人々、そして福音に触れる機会のない今の人々はどうなるのか、例えば一人の伝道者との出会いがあって福音を聞くことのできた人は幸いです。しかし福音を聞くチャンスさえないという人はどうなるのでしょう。そういう人たちは地獄へと行かなければならないのでしょうか。
 「二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」」(使徒16:31)この言葉は、イエスを信じるならば、自動的に家族も救われるということでしょうか。家族の一人でもイエスを信じない人があれば、その人は地獄に移されるということでしょうか。これは私たちにとって大きな疑問であります。
 ルカ16:26-31に「金持ちとラザロ」のお話があります。この記事に固執するならば、私たちの救いはこの地上にある限りにおいて決断をして、主イエスが救い主であると信じて、罪の赦しと永遠の命を頂かなければ向こうに行ってからは第二のチャンスは無いのだ、ということになります。一方、ペトロTのイエスは(よみ)にまで降られてみ言葉を語られたというところをみると、すでに召されたものたちのところへもイエスの影響力は及んだ、ということになります。しかしこの部分について、聖書は、はっきりした形で説明しておりません。あるのは、地上において救いの選択はしなければならないということと、一方で、キリストを知るチャンスがなく、キリストが来られる前の時代に生きた人々が亡くなった場合はどうなるのか、ということについては、キリストが(よみ)に降られたということしか、聖書には書いていないのです。聖書に書かれていないことを断言することはもちろん出来ませんが、私たちが推測できることは、神さまは生ける者の神であると同時に、死せる者の神でもあるということ。そして天上のもの、地上のもの、地下のものにも、キリストの影響は及ぶ、ということです。とすると、イエスが(よみ)にまで降って、そこで宣教されて、そこから救われる者が現れても不思議ではないのではないでしょうか。私たちはそういうことさえ、あり得ないと断言することは出来ないのです。かといって、こう書いてあるから、イエスを信じようが信じまいが、神さまは愛だから、すべては最後に救われるのだ、と安易に語るべきでもないのです。

 聖書が示すように、主イエスを信じる者は救われる。そしてこのキリストという門を通らなければ、救われない。という確信に立って、このお方にのみ救いがあるということをはっきり宣言すべきです。しかしキリストよりも前の時代の人、あるいはキリストの福音を知らずに亡くなった人がどうなるかということについては、聖書ははっきりと書いていませんので、私たちは判断が出来ません。判断を下すべきものでもないのです。そこは神さまの領域であって、委ねるしかないのです。家族の中で一人クリスチャンとなって、既にご主人は召されている、他の家族も亡くなり、私一人だけだけれど、クリスチャンになると、あの世で家族とは別々になってしまうから淋しい、と嘆く必要はないのです。むしろ「あなたが救われれば、家族も救われます」というみ言葉に賭けて、あなたが神さまとの関係をしっかりと持つことです。そうすればその人の信仰を神さまは喜ばれますから、その家族に対して、神さまがいいように取り扱わないはずがないのではないか、と思うのです。そこから先は書かれていませんので断言できませんが、そういうことも含んで、後は神さまにお委ねすべきだと思います。要は福音をまっすぐに受け止めて、自分がまずしっかりと神さまとつながることが大事なのです。神さまは信じるものを決して悪いようにはなさいません。全て相働いて益となる、というふうになさる神さまの御手に後はお任せをして、私たちが神さまとしっかりとつながっていればいいのです。ここに大変難しいこの箇所の正しい受け止め方があるのではないだろうかと思います。


ペトロの手紙T研究(第8回)4:7−11「終末に生きる」(2003/6/11)

 前回学んだように、3章の途中からペトロは結論に近いことを書き始めたわけなのですが、遺言のように言い残しておきたい言葉があふれてきまして、結局5章まで続くことになるわけです。

 「万物の終わり」(7)とはどういう意味でしょうか。いわゆる終末というと振興宗教では、この言葉を利用して、人々の不安をあおり、脅迫的に用いることがあるわけですが、ここでいう終末には二つの意味があると思われます。一つは文字通り、この世の終わり、ということです。聖書にははっきりとこの世の初めがあったように、必ず終わりもある、と主張しています。まったく何も最初はわからないまま、いつのまにか世界が出来上がり、やがて人知れずこの世が消えていく、などといわゆるファジーなものではなく、創世記には「はじめ」を記し、黙示録が「おわり」をはっきりと記しています。神さまは全ての存在の責任をお持ちになったと同時に、最後にも関わられるということなのです。そしてその最後を締めくくられるのは、再臨のキリストであると書かれています。最後の時は、審判の時、ただし審判の時というのは、悪人にとっては、永遠の苦難への出発点であり、良き者にとっては、御国に招かれる出発点、となるわけです。ただ前回も学んだように、向こう側に行ってからのことは、想像することしか出来ませんので、早まって判断すべきではありません。ただ聖書が示すところは、神さまはいい加減なことはなさらない、ということです。神さまは義なるお方ですから、善を喜び、悪は憎まれます。最後の審判の時にははっきりと決着をつけられるのです。
 もう一つの終末は、個人個人の生涯の終末も必ず訪れるということです。人の一生の終わりのときも、神さまの御手の中にあるとしか言いようがありません。ここで示されるのは、「世の終わり」ということですが、並行して我々の人生の終末も近づいている、ということであります。そういう緊迫感を持って読むべき箇所ではないかと思わされます。

 「思慮深くふるまいなさい」(7)
 キリスト教は、永遠の命とか、天国とか、いうことを言われるけれど、もっと大切なのは今どうか、ということではないでしょうか、と言う人があります。もちろんそれも大事ですけれども、聖書は二つを同じように大切にしています。なぜならば私たちの将来はどうなるのか、どこに目を向けて今を生きるかということが、とても大事であります。ですから私の今が生きてくるのです。もし将来がどうなるかさっぱり分からない、ということになってくれば、今焦ったってしょうがないじゃないか、あまりくよくよしないで、太く短く生きようよ、とこうなってしまいがちです。しかし、将来がはっきり分かれば、そこに向って歩いているのだということが分かると、今やはり備えておかなければならない、ということを感じさせられます。将来がはっきりしない人に限って、今をいい加減に生きてしまうものなのです。やがて神さまの前に立つ日が訪れるということが分かっていれば、今いい加減な生き方はできないのです。その意味で「思慮深くふるまう」という言葉を考えたいものです。あのウェスレーが質問されて、「もしキリストが明日再臨されたら、あなたはどうしますか」という問いに、「今日の予定を実行するまでです」と答えたそうです。「思慮深く」には、「心を確かにして」「冷静な心をもって」という意味が含まれます。「身を慎む」とは、酒によわないで、しらふの状態で、という意味があります。「よく祈りなさい」は「祈りの生活を続けなさい」ということです。私たちの祈りは、私たちの心を落ち着かせて、正しい判断ができるように仕向けてくださるものです。


 「心を込めて愛し合いなさい。」(8)
 私たちの人生には限りがあります。それが分かっていれば、他の人を憎むよりも、愛する方に全力を傾けるほうがどれほど有益な生き方でありましょうか。夫婦といえども、ある時出会って、結婚し、子どもが生まれ、一時的には賑やかな楽しい生活が続きますが、やがて子ども達が巣立って、どちらかが先に召されると、最後はまた一人になります。そうであれば私たちは、今こそ愛し合わねばならない、愛し仕え合わなければならない、と思えるのではないでしょうか。

 「もてなし合いなさい」(9)
 当時の人々の旅は大変困難なもので、宿泊するにも見ず知らずのお家に頼み込んで泊まらせてもらったのです。受け入れる側もよろこんで客人をもてなす、というのが習慣でした。見返りを期待しないで、喜んで与える人を神さまは心からお喜びになられます。

 「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え合いなさい」(10)
 「管理者」という語は、キリスト者を表すのにふさわしい言葉です。反対は「所有者」ということになりますが、私たちは生まれてくるにも裸で生まれ、死んで行く時にも何一つ持っていくことはできません。今私たちが持っているものは、全て神さまから預かったものです。だから私たちは皆これを管理すべきなのです。この与えられた人生において、預かっているだけなのです。それをどう用いるかが大事なのです。その意味で私たちは「管理者」であるということを忘れないように、と教えてくれます。天国に積まれるのは、この地上で行った愛の業、また神さまのみ心を宣べ伝えることであります。それぞれが賜物に応じて奉仕しましょう。そしてその全ては、私が誰かから尊敬されるようにではなく、イエスさまを通して、神さまが栄光をお受けになるように成されるべきなのです(11)。

 終末に生きる私たちは、究極においては、神さまの御名が崇められるように、神さまが喜ばれるように生きることが大切だ、ということを学ばされました。その一端として、私の賜物が活かされれば感謝です、と祈りつつ歩みたいものです。

 ペトロの手紙T研究(第9回)4:12−19「苦難と摂理」(2003/7/2)

 12-16 キリストにある苦しみ
 冒頭の「愛する人たち」という呼びかけですが、他にも出てくるのですが、これはペトロが愛する皆さんよ、という意味ではなくて、「(神さまに)愛されている皆さん」という受身の言葉なのです。もちろんペトロも手紙を受け取るローマの人々のことを愛しているのですが、それ以前に、まず神さまに愛されている皆さん、と呼びかけているのです。そして神さまに愛されていること、共にいてくださるということが、私たちの平安の拠り所であります。

 キリストの名のために非難されるならそれは幸いです、と言うペトロ自身もそういう気持ちで最後の殉教の死に臨んだことでありましょう。「火のような試練」(12)は、同1:7でも用いている表現ですが、溶鉱炉の中で金属が叩かれて金属が純粋なものとなっていく、すなわち不純物の浄化です。精錬されて朽ちることのない本物の信仰へと導くものであるというのです。

 また「驚き怪しんではなりません」(12)この言葉も心に留めたいものです。というのは、別に悪いことをしないのに「あの人はクリスチャンだ」というだけで特別な目でみられてしまうということがしばしばあります。人がこの世の慣習といったもので、皆が右倣えとなってしまうような状態の中で、非難されたりするかもしれません。しかしヨハネ15:18-20で、 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。」とイエスさまご自身が言っておられます。あるいは、同16:33「 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とも言われました。聖書はこのようにキリスト者として歩む道のりには迫害が必ず伴うものであることを正直に語っているのです。
 「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(テモテU3:12)キリストに従う正しい生活をしようとすると逆に人から誤解されることもあります。あるいは非難、迫害を受けることもあるのです。また詩編34:20−21には、「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」とあります。このように見てまいりますと、キリスト者の苦しみに、私はなぜこんな迫害を受けねばならないのですか、と嘆く必要のないことが分かります。神さまに従って生きようとすると、自ずと神さまから遠ざかる自分の名誉とか、欲望とかに従って生きようとする者とは、方角が違ってきます。その中でイエスさまが十字架に架かられたように苦しみを受けるのは逆に喜びだというのです。苦難を喜ぶとはなかなか出来ないことですけれども、信仰によれば決して不可能ではないのです。

 15-16節、「苦しみ」には二種類あることが分かります。一つは自分がそれ相応の悪いことをしたがゆえに苦しむということ。すなわち自業自得ということです。もう一つの苦しみは、全く自分の犯した罪からではなく、キリスト者であるがゆえに苦しみに遭うということであります。神さまに従おうとすればするほど、サタンは強烈に働きかけて神さまから私たちを離そうとします。しかしキリスト者として苦難を受けるときに「決して恥じてはなりません」むしろそれによって「神をあがめなさい」と繰り返し勧めています。

 キリスト者の苦難に対する態度は、苦しみを単に我慢するということではなく、むしろ苦難を喜ぶという生き方に変えられることです。ヨハネ9章で、イエスさまは生まれつき目の見えない人を見かけられて、この人が目が見えないのは、本人や家族の罪のためではなく、「神の業がこの人に現れるためです」(9:3)と言われました。苦難は、その原因がどこにあるのかを、過去をさかのぼって探すのでなく、今からこの人の上に神の栄光が現れるためのものであって、その栄光を現す器として神さまがこの人を用いようとしているのですよ、とイエスさまは言われたのです。

 17-19 裁きは「神の家」から
 迫害の激しい中にあるローマのクリスチャンたちは、世の終末は近いと感じていました。「神の家から裁きが始まる」は、すなわち教会から、信者から裁きが始まるということです。忘れてならないのは、私たちは「やっと救われ」(18)た者であるということです。神さまの審判は、我こそは信者、救われた者であると思っている人も例外ではないということ、このことを私たちは厳粛に受け止めて、備えておきたいものです。

 19節、最後に、では私たちはどうすべきかを勧めてこの章を閉じています。それは「善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(19)です。
 「そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(テモテU1:12)

ペトロの手紙T研究(第10回)5:1−13「栄光への奨励」(2003/7/9)

 最終章となるこの5章の一節には「栄光にあずかる者」(1)、また「栄冠を受ける」(4)、「あなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった」(10)というように、神の「栄光」という言葉が、この章を通し目に付きます。これらの言葉は、キリスト者の生活の究極の目標ではないかと思うのです。私たちが最終的に願うことは、神さまの栄光にあずかることであります。そこでこの手紙の最終章では、どういう生き方をすれば、この栄光にあずかることができるのか、ということを示し、ローマ、およびその周辺のクリスチャンたちに対して、迫害や試練の多かったこの時代に、より具体的に、その信仰を最後まで貫き通すことができるようにと、ペトロは語り続けます。内容的には、教会の指導者たちに対する勧めが1-4節、5-7節は若い人たちに向けて、また8-11節は一般の信者の人たちに対する勧め、とこの3種類の勧めでもってこの手紙を閉じているのです。

 1-4節 長老たちへの勧め
 「長老」という言葉ですが、現在の教会制度によって選ばれ、あるいは長年信仰生活を送ってこられた年長者に対して「長老」という言い方をすることがありますが、そういう方々を対象としていることは否定できませんが、それだけではなくて、ペトロ自身も長老の一人として念頭に入れて、話をしているのです。「わたしは長老の一人として」(1)と書いてあるとおりです。初代教会では「長老」というと、監督という言葉が同義語的に使われていたわけです。その中に牧師も使徒も、それから教会の役員として責任をあずかる人々も含んだ言葉として用いられていました。「証人」は「殉教者」という言葉をも意味して、単に目撃者ということだけではなく、そのために自らの命を捧げる者、苦難を共にする者としてペトロは自らを紹介しているのです。英語では牧師をpastor、ministerと表現しますが、ministerには「人に仕える」という意味があることは注目に値します。

 「神の羊の群れを牧しなさい」(2) 今でいえば、若いクリスチャンたちを導く、お世話をする、ということです。ペトロは三度イエスさまを知らないと裏切りました。その後イエスさまは十字架にかけられ、ペトロがまだ大きな後悔の念にかられているうちに、よみがえりのイエスさまに出会うことになります。そのとき彼は穴があったら入りたいという気持ちであったことでありましょう。そのときにイエスさまは「お前は私を愛するか」こう聞かれました。ペトロはイエスさまへの思いが人一倍強いですから「愛します」と答えました。するともう一回イエスさまは言われました。「お前は私を愛するか」と。結局3回聞かれました。そしてペトロは「主よ、私はあなたを愛します」とその信仰を告白しました。これはペトロがイエスさまのことを3回知らない、と言ったから3回同じ質問をされたのではありません。ペトロにしっかりとした牧者としての働きをしてもらいたい、その認識を深める為であったのです。ここでイエスさまは何を要求されたかというと、「私の子羊を養いなさい」でありました。子羊の面倒をみなさい、それがイエスさまに対する具体的な愛の証しとなるものでありました。その子羊の世話をするときに大事なことがここに出てくるのですが、一つは利得のためにしないで、自主的に、自発的に奉仕しなさいということであります。私たちクリスチャンの奉仕は、義務感からするのではなく、自分から喜んでするものなのです。私は神さまから愛されている、ということが実感として受け止められるならば、その愛に押し出されて奉仕する、それがキリスト教のボランティア活動であろうと思います。そしてもう一つは利得のためにではなく、献身的に、そして3番目は群れの良い模範になりなさい、ということです。コリント書を見ますと、パウロはこう言っています。「私に倣いなさい」と。私が主に倣っているように、あなたがたも私に倣いなさいと言うのです。私たちがイエスさまを模範として歩むときに気づかないうちに、私たちの後ろ姿を模範として受け止めてもらえる、これが指導者のあり方です。自発的なものでありなさい。打算を超えたものでありなさい。そして模範を人々に示しなさい。これが4節までの長老に対する勧めであります。

5-7 若い人たちへの勧め
 「長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5)、「従いなさい」とは、長老、教職者また霊的指導者に対して、尊敬を示し、彼らの勧告に従いなさい、ということです。年長者を尊敬すること、今日これが薄れてきているのではないでしょうか。何でもかんでも自己主張をするよりも、その前に秩序ということが大事ですから、いたずらに波立たせるのではなく平和を愛すること、これが大切なのではないでしょうか。アリストテレスは、「服従することを学ばなかった者は、良く支配することができない」と言っています。謙遜でへりくだる人は常に周囲から学ぶことができます。逆に偏見、先入観をもって周囲を見ている限り霊的成長はないのです。
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(7)、「思い煩い」すなわち私たちの心配事、悩み、懸念している事柄の全てを神さまに委ねなさい、というのです。なぜなら「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(7)、憐れみ深い神さまは、私たちのためにいつも心を配り、油断なく注意をしていてくださる、とは何と心強い言葉でありましょう。

8-11 一般の信者に対する勧め
 「身を慎んで目を覚ましていなさい。」(8)、目を覚ましていなさい、とはペトロ自身にとって忘れることの出来ないイエスさまの言葉です(マルコ13:35−37)。そして、これもキリスト教信仰の一つの特徴です。この世には、眠りなさい、という宗教が多く存在します。つまり何かに陶酔することで現実から逃れようとするものが多いのです。しかしこれはある意味、無感覚で霊的に眠っているような状態であります。キリスト教は、常に神さまを見上げながら周囲に対して目を覚ましていなさい、と言います。なぜならばサタンが私たちを陥れようとして常に私たちの隙を狙っているからなのです。
 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(9)、神さまへの信頼を固くして、善には親しみ、悪は憎む、サタンの誘いであると判断したものに対しては抵抗するべきです。
 「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(10)、激しい迫害に遭い、大変な苦しみを経験しているローマの人たちに対して最後に言っているのは、あなたがたはイエス・キリストのゆえに苦しみを味わったけれども、実はそれを通して神さまはあなたがたを完全な者にしようとなさっている、ということです。「完全な者」とは、神に従うべき本来の人間のあるべき姿にして下さる、ということです。キリスト者の経験する苦しみは、永遠には続かない、あくまでもしばらくのもの、そして神さまの栄光は永遠のものである、ということを心にとめておきたいものです。

 私たちの信仰生活に大切なのは、常に新しい何かを学び、新しいことに目を光らせるということではなく、良い訪れの福音をしっかりと受け止め、そこにどっかと根をおろして、踏みとどまる、このことがあってはじめて霊的な成長があり、またこの世の中がどんなに揺れ動こうとも、立つべきところにしっかりと立つことが出来るのです。そして行くべき方向がしっかりと見極めることが出来るのではないかと思います。