聖書の学び方

 その1 「聖書−この不思議な書物」        (2003/1/15)

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(第二テモテ3:16-17)

 聖書の信仰、これがキリスト信仰であり、聖書による生活がクリスチャン生活です。キリスト教は聖書の宗教であり、全ては聖書に基づいています。
 終戦直後に、「無人島に一冊だけ書物を持っていけるとしたら、何を持っていきますか?」という一般向けのアンケートを文芸春秋社が行いました。すると不思議に聖書が圧倒的に多かったそうです。
 「聖書ハンドブック」(ハーレー著)には、聖書に関する著名人の言葉があり、中からいくつかご紹介します。
 「私は聖書をこれまでに神が与えた最上の賜物と信じる。世の救い主から発する一切の善きものが、この書を通して我々に伝えられる」(アブラハム・リンカーン)
 「私が著作したことに何か功績があるとすれば、それはひとえに、私が幼かった時に、母が日ごとに聖書のある箇所を読み聞かせ、暗唱させてくれたお陰である。」(ジョン・ラッセル)
 「聖書は、この世界でいまだかつてなかった、また今後あろうとも思われない最善、最良の書である。」(チャールズ・ディケンズ)
 「聖書」という言葉は、ギリシャ語で「ビブリオン」、これには「書物」という意味があります。日本語では「聖」という字が加えられますが、元々は「書物・本」という意味です。つまり“本の中の本”であるということです。今日バイブルと言えば,キリスト教の正典のほかに,一般的に何らかの「基準」あるいは「最終的な権威あるもの」といった意味合いに使われているのは皆様もよくご存知のはずです。

◇霊感の書物
 聖書を書いたのは、元漁師のペトロであったり、元取税人のマタイであったりと、書いた人々は普通の人々です。それでも聖書が神の「霊感の書物」といわれる所以はどういったところにあるのでしょうか。
1.統一性
 聖書は一冊の本のようで、そうではありません。旧約が39冊、新約が27冊の計66冊の本が一緒に集まったもので、これ自体が図書館のようなものです。では聖書を書いた人は何人いたのでしょう。パウロは13、14冊(ヘブル人への手紙を含まない説もある)というように一人で何冊も書いた人もあれば、一冊しか書いていない人もあります。全部数えると約40人で書かれたといわれています。いちばん早く書かれたのは、モーセ5書の一部やサムエル記下10章以下などで、紀元前10世紀ごろだといわれています。最後に書かれただろうUペトロ等は二世紀に入ってからのようで、聖書66冊分を書き上げるのに1500〜1600年の期間があることになります。しかも同じ場所で書かれたのではなく、エルサレム、ローマ、エフェソ等々、いろんな所で書いているのです。1500〜1600年の間に40人もの人が、面と向かって打ち合わせや相談をして書かれたのではないにもかかわらず、この66冊がまとまった。そして創世記からヨハネの黙示録まで、矛盾するところがない。そこには統一性があるのですから驚きです。
 金太郎飴は、どこを切っても同じ顔が現れるように、どこを読んでも聖書の中心はイエス・キリストです。旧約聖書はイエス・キリストに向かって、律法、預言がその光をキリストへと導いていき、新約聖書は、そのキリストから出た光が広がって世界中にキリストの愛が伝えられていきます。この統一性の背後には一人の意志があることは明らかです。一軒の家を建てるのには、様々な職業の人々が関わります。大工さんもいれば、左官屋さん、電気・水道・・・それぞれが設計図に従って、与えられた仕事を全うすることによって、統一のとれた家が出来上がります。そしてその背後には設計士の存在があります。オーケストラにはたくさんの楽器があり、バイオリン・チェロ・フルート・ホルン・打楽器等々、それぞれに演奏者がいます。それらが一同に集まって楽譜に沿って演奏が始まると、素晴らしいハーモニーが生まれ、聴衆を魅了します。そこには背後に作曲者の意志、あるいはそれをまとめる指揮者の意志があるのです。同じように聖書66冊中にも、ただ一人の神さまというお方の意志があります。
2.不滅性
 聖書は誕生してから、長い歴史の中で、いろいろな人々によって批判され、試されてきました。ある人は「聖書はただの神話だ」といい、またある人は「荒唐無稽の書物だ」「奇跡などあり得ない」と、いろいろなことを言われてきました。しかし聖書は科学の文献ではない、宗教の書物なのです。しかもそこに記されたものは、今までいろいろと試されてきましたけれども、この聖書を打ち破るほどのものは出てこなかった。聖書は今に至るまで旧くて新しい書物なのです。
3.優れた内容
 創世記から黙示録までは、初めから終わりまでについて書かれています。そしてそのテーマが、信心するとご利益があるというレベルのものではなく、人間が神さまを崇め、秩序ある世界を造ることを望まれているということです。そのために、神さまと人間との間の妨げになるものを取り除いて、神さまをお父様と呼べる関係に戻れるように、イエスさまをこの世に送られたのです。その教えが素晴らしいだけではなくて、その生涯のどこをつついてみてもボロが出ないイエス・キリストの完全な人格を模範として下さっているのです。イエスさまは確かに誘惑にも遭われました。悲しみには涙を流されました。一方では全く人の子でした。と同時に「右の頬を打たれるなら左をも」「敵を愛せよ」と教えられた。この生涯から、ガンジーは無抵抗主義を学んだのです。イエスさまほど、多くの人に影響を与えた人は他にありません。
4.与えた感化の大きさ
 アブラハム・リンカーン、キング牧師といった優れた指導者、マザー・テレサのような偉大な愛の奉仕、数知れない文学、音楽、美術など、聖書なしでは現存する優れた芸術遺産はなかったでしょう。さらに1,200くらいの言葉に訳され、今も世界中で読まれています。このような書物は世界広しといえども他にはありません。そして聖書は何よりも人を作り変えることができます。聖書は人間がいろいろと苦労をして、神に向かう努力をした結果を記した宗教書ではなく、神さまの方から一方的に人間に働きかけて、ご自分の愛を示すために、ある人々を通して書かしめたもの、上から下に向かって語られたもの、神の愛の啓示書、神さまからのラブレターなのです。

◇聖書の働き
 聖書はどういう働きをするのかということは、今日の聖書箇所が簡潔に示してくれます。もちろん宗教的心情を教えてくれるわけですが、同時に我々の現実の生活の中で、私たちの歩みを正し、必要なことを教えてくれて、そして何より義に導く訓練をさせる、そして私たちが救われるようにと導いて下さるのです。
 「聖書は、私どもに最も善良なる生活の仕方と、最も高尚な苦労の仕方と、最も完全な最後の遂げ方を教えてくれる。」(フレーベル)

◇聖書をどう読むか
 最後にこの聖書をどう読むかということを、いくつかの原則を挙げて、その1を締めくくりたいと思います。
1.聖霊に導かれて読む
 神さまの霊感によって書かれた書物ですので、読む私たちも聖霊の助けをいただきながら読むべきです。そのことを覚えて祈ってから読みましょう。
2.規則的に忍耐強く読む
 神の言葉は私たちの魂を養う栄養です。ですから常に摂らなくてはいけません。私たちは食事を一回抜くだけで調子が悪くなります。同様に魂の糧も、年に一回クリスマスの時だけ、あるいは週一回の礼拝の時だけではなく、毎日読むことが大切です。あるいは今日はたくさん読んだから、2,3日は読まなくても大丈夫、というものでもありません。出エジプト記16章に、イスラエルの人々が2日分のマナを集めたら、翌日分は腐っていたという記事があります。「朝ごとにそれぞれ必要な分を集め」(出16:21)ることが大切なのです。
3.己を空しくして読む
 自分の中を空っぽにして読む。絶えず先入観や偏見を取り除いて読むことです。よく知られた句や有名な話などは、もうわかっているものと思いやすいものです。そうした先入観を持ってしまうと、聖書のことばの持っている無限のメッセージをとらえることに失敗するかもしれません。他の誰かにではなく、自分自身に語られるメッセージとして、「主よ.お話しください.しもべは聞いております」(Tサムエル3:9)というへりくだった心で学ぶならば,必ずや大きな祝福が与えられることでしょう。
4.聴従しようとして読む
 私たちは学問として読むのではありません。聖書のことばは私たちの信仰や生活に生かされるためにそこにあるのです。自分の信仰や生活に適用されて初めて、聖書の学びも完成すると言えるのではないでしょうか。
5.問題意識をもって読む(対決的読み方)
 自分の課題や問題を担いつつ、私のそれらと聖書のことばを結びつけ、それを基準にして生きるべきだと思います。聖書のことばはあらゆることに対して適用可能なのです。
6.前後関係の中で読む
 ただ一つの言葉だけを取り上げても、前後の関係を理解せずに読むならば、それは私的な解釈や曲解になりかねません。聖書の内容は様々ですが、どの部分を理解しようとするにせよ、文脈を無視して正しい理解を望むのは難しいことです。そのためには繰り返し全体を読むことです。

 次回からはより具体的に、聖書の読み方について、ご一緒に学んでまいりましょう。


 その2 「こんなところに注意して・・・」        (2003/1/29)

 今日の本論に入る前に、こういう読み方では聖書は解らないという例を二つほど申し上げたいと思います。一つは、「読書百篇、意自ずから通ず」という言い方がありまして、それは本は繰り返し読めば解る、精読を続けるうちに解ってくるということです。しかし聖書は、もし誤った見方で読むならば、何回繰り返して読んでも正しく受け止められないということがあります。
 もう一つ、ある人が目をつぶってパッと開いた今日の聖句は「(ユダは)立ち去り、首をつって死んだ」(マタイ27:5)でした。慌ててもう一度開き直したら、「正しい答えだ。それを実行しなさい」(ルカ10:28)。いよいよ気味が悪くなり三度目に開くと「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13:27)だった。これが古い例話で、非常に極端な話ですが、思いつきで読むのではなく、継続して規則的に、ということが大切です。
 
1.コンテキスト(文脈、前後関係)において読む
 聖書はその箇所を理解しようと思ったら、その前後関係の中で読むことが大切です。文脈を考えながら読むということをしないと、間違った聖書理解へとつながってしまうことがあります。
 ヨナ書で、神さまが「ニネベに行って私の言葉を伝えなさい」とヨナに命令しますがヨナは従いませんでした。神さまのいいつけに背いて、船でニネベとは反対の方向へ逃げようとします。そこを説明しようとするときに、「ヨナさんは臆病で、神さまのいいつけを守らずに逃げました・・・」という話をする方がたまにあります。しかしヨナの逃亡は、臆病とか怠慢からではありませんでした。ニネベは異邦人の町で、そこへ福音を伝えよ、と言われたので、イスラエルの民であるヨナは従いたくなかったのです。またニネベが40日経っても滅びないことにヨナは怒ります。それも神さまが異邦人を許されるということに我慢ができなかったからです。聖書の背景もそうですが、文脈の中でみていくと解るのです。
 またコリントU5:1-4には、「幕屋」あるいは「住みか」という言葉が出てきます。これは「肉体」を表します。一節だけ読んでもピンと来ないと思いますが、その前後を丁寧に読んでいけば解ります。

2.並行文を参考にして読む
 新約聖書の最初の四福音書は、イエスさまの生涯を書き記したものですが、そのうちマタイ、マルコ、ルカの福音書は同じような見方で書かれていますので共観福音書といいます。四つ目のヨハネによる福音書は、前の三つとは少し違った見方で書かれていますので第四福音書という言い方をします。そして共観福音書では、同じ記事を違った著者が書いた並行記事がありますので、比べて読むとより正確な見方が出来るようになります。
 例えば四つの福音書に記録されている記事の中から、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子(ユダ)の裏切りを予告する記事がありますが、四つの福音書を比べて見てみましょう。
 ルカ22:23「いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(不信感)
 ヨハネ13:25「主よ、それはだれのことですか」(強い憤り)
 マタイ26:22「主よ、まさかわたしのことでは」マルコ14:19「まさかわたしのことでは」(不安。まさか自分では・・・)
 こうして比べていくと、弟子たちの心の変化も捉えることができるわけです。並行文については、四福音書がともに取り上げているのは、この最後の晩餐を含む、イエスさまの最後の一週間と、5千人の飽食の記事です。それ以外については共観福音書の中で読み比べていくとよいでしょう。

3.聖書自身の主張に聴く
 例えばコリントT12:1を読めば、ここは聖霊の賜物について書かれているということが明らかです。このようにはっきりとその主題について書いてある場合には、素直に読み勧めてよいということになります。

4.たとえ(比喩)
 聖書にはたとえが数多くでてきます。ルカ9:57-62に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉がでてきます。ここは弟子になるということについての覚悟を促しているのですが、「死んでいる者」とは霊的に死んでいる者、つまり未信者を指します。神さまに召された者の務めは福音宣教であるから、そちらを優先しなさいということです。もちろん実際に肉親の埋葬をしてはいけないということではなく、そのくらいの覚悟で望むべし、といっているわけです。たとえですから、文字通り受け止めると非常識で冷酷なイエスさまが映ってくることになりますので注意が必要です。
 そしてそのたとえにもいろんな種類がありまして、以下にいくつか挙げてみたいと思います。

(1)直喩(明喩)
 「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。」(イザヤ1:18)「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(マタイ28:3)「雪のように白い」というように直接的なたとえです。
(2)隠喩
 ルカ13:32に「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」とあります。その前を読むと、「あの狐」はヘロデを指していることが解ります。
(3)換喩
 コリントT10:21「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。」とあります。杯はぶどう酒を意味します。中身ではなくその器で置き換えてあります。他にも王様のことを「冠」という言葉で表す場合もあります。
(4)提喩(代喩)
 イザヤ書2:4「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。」とあります。ここでは「剣、槍」で戦争を表しています。「剣、槍」という武器の一つで「戦争」という全体を表す方法です。
(5)誇張法
 ここからはたとえというよりも表現の方法ということでご紹介します。旧約聖書にでてくる何百歳という長寿も、ある種誇張法ではないかと思いますが、他にも「四十日四十夜」とか「七の七十倍までも赦しなさい」という表現もこれにあてはまると思います。
(6)婉曲法
 やわらかく表現する方法です。使徒言行録7章で、ステファノが殉教する記事では、「死んだ」といわずに「眠りについた」と書かれているのがこの表現方法です。
(7)緩叙法(曲言法)
  詩編51:19「 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」の「侮られません」は「重んじられる」の意です。逆の言い方で否定的に言いながら元の意味を強調する言い方です。

 以上今回は4つの点から、聖書の読み方について学びました。一人で聖書を読んでいくときに、これらに注意していただくと同時に、ぜひそれぞれの教会の礼拝や聖書研究会等にも出席し、霊的な交わりと養いを受けることと、一人静かに聖書に聴くこと、その両方を大切にすることが、クリスチャンとしての成長につながるものと信じます。


 その3 「背景を理解する」 (2003/2/5)
 
 文章を読む上で、5W1H(who,when,where,what,why,how)を頭に入れて読むと、正しい理解へとつながる、ということはよく言われます。それに加えて今回は、背景を理解するということを、具体的な箇所を見ながら考えていきたいと思います。

1、語り手は誰か
 5W1Hの一つ、「誰が語ったのか(who)」について考えてみましょう。創世記3:4−5に、エバを誘惑する言葉が出てきます。もちろんこれは神さまの言葉ではありません。その前に「蛇は女に言った」(4)とありますので間違えようはありません。しかし次のような場合どうでしょうか。マタイ16:22−23、ペトロの言葉に対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ」と叱責しています。これは明らかにペトロの発した言葉ですが、サタンがペトロを通してイエスさまを誘惑に陥れようとしているのです。イエスさまの目的は十字架に架かることです。その必要と心構えを弟子たちに語られたばかりです。人間的に考えれば、ペトロの言葉は先生を思いやる優しい言葉に聞こえますが、これはイエスさまの御心ではなかったのです。このようにサタンは時々、親しい者を通して語りかけてくることがあるのです。「だから、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」(Uコリント11:14)
 またヨブ記では、苦難にあったヨブと、それを慰めようとする友人との詩的な会話が延々と続きます。読み進めていくうちに交錯して、誰の言葉であるのか解りづらくなりますので注意が必要です。

2、著者の背景
 著者がはっきりと、この書物はどういうことのために書くのだ、ということを記している場合、理解しやすいものです。エゼキエル書1:3、エゼキエルは祭司ブジの子で、エゼキエルの書物であることが最初で分かります。ですからこの書物では、祭司の仕事のこと、神殿のこと等について、詳しく記されているのには納得のいくところだと思います。
 四福音書は著者の違いで、タッチが微妙に違うのですが、ルカによる福音書は特に、例えばゲッセマネの園でイエスさまが血の汗を流して祈られた姿など、他の福音書にない体の微妙な変化を詳細に描いています。これは著者ルカが医師であったことを知れば、なるほどな、と頷けます。

3、風俗、習慣を知る
 「胸を打つ」(創23:2、ルカ18:13、ルカ23:48)とか「衣を裂いた」(U列5:8、6:30、22:11、U歴34:19)という表現が出てきますが、これは深い悲しみや、神さまへの心からの悔い改めを意味します。またヨハネ13章に、イエスさまが弟子たちの足を洗われる場面が出てきます。当時の舗装もされていない道路はほこりっぽく、雨が降るとどろんこです。一般民衆の履物はサンダルのようなものなので、外から帰るとその足はほこりだらけでした。通常、家の戸口には水がめが用意され、召使が客の足を洗うのが習慣でした。(創18:4、19:2、24:32、43:24、士19:21)本来、足を洗うのは召使の仕事でしたので、イエスさまが弟子たちの足を洗うということは、この上ない謙遜をあらわすのです。
 同じヨハネ12章では、ベタニヤ村のマリヤがイエスさまに高価な香油を注ぐ場面が出てきます。(マタイ26:6−13、マルコ14:3−9)一般の労働者の一年分の賃金にも相当する高価な油を、頭にも、足の先にも注ぐ行為に、弟子たちはもったいないと怒りますが、「油注がれた者」といわれるように、これは王さまに対する行為であり、十字架を目前にしたイエスさまにとっては埋葬の用意となったのです。
 またTコリント11章には、女性の礼拝でのかぶり物のことが出てまいります。当時の教会の集会では、女性は頭にかぶり物を着けるのが習慣でした。この習慣は現在のイスラム社会でも見られる光景です。このように風俗、習慣を知らないと、ある種奇異な光景に思える場面に出くわすのです。特に私たち日本人にとっては、聖書の中心世界はほど遠いところです。それだけに補助的な書物(辞典、注解書)で勉強するとよいでしょう。

4、読み手の理解
 新約聖書は、マタイによる福音書の冒頭、壮大な系図から始まります。ここでいきなりつまずく読者もあろうに、と思われる方も少なくないでしょうが、しかしこれは読み手をユダヤ人に想定して書かれたものであるからです。ユダヤ人が最も興味を持つのは家系です。系図を冒頭に持ってきて、その興味を引き付けるのです。さらに繰り返し旧約聖書から引用しているのも、ユダヤ人読者を意識したマタイ伝の特徴です。
 ルカ伝は一般にギリシャ人を対象にしたと考えられていますので、書き出しからして違います。系統的にキリストの生涯を書こうと思います、といって書きはじめています。またヨハネ伝は、異邦社会に向けて、一番最後に書かれた書物です。哲学的な影響の強いギリシャ・ローマの人々が関心を持つような書き出しをしています。すなわち「初めに言(ロゴス)があった」と。
 Tコリント7章には、結婚について書かれていますが、読んでいくと「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」(7:7)と独身をすすめるような発言が出てきます。ここだけ読むと、キリスト教は極端な禁欲主義、独身主義をすすめるのかと誤解を受けそうですが、決してそうではありません。この手紙の読み手となるコリントの人々は、いよいよ終末が近いという気持ちで暮らしています。そんな状況の下で無理して結婚する必要はないのですよ、ということです。そのような特殊な事情、背景のある人々に向けられた発言であることを理解する必要があります。
 結婚については、アダムとエバがその原型で、ここにおいて結婚は一夫一婦制であることが暗示されています。族長たちを初め、旧約時代の人々が複数の妻を持っていた(一夫多妻)という記事は、当時の社会的な背景からきています。すなわち(a)本妻に子どもが生まれなかったために、子どもを得て子孫を残すため(アブラハムやエルカナの例)、(b)多くの種族や人々の同盟関係によって利益を得ようという政略結婚のため(ソロモンの例)、(c)戦争で捕虜にした女たちを妻としたため(参照、詩45篇)、(d)女奴隷を妻としたため、とこれらの理由によるものです。しかしあくまでも聖書の結婚観は、一夫一婦制なのです。イエスさまもマタイ19:4−6で述べておられるとおりです。

5、聖書の啓示の歴史
 最後に、聖書全体の理解のために、その啓示の歴史を大まかにみて、今回の締めくくりとしたいと思います。神さまは人間が罪を犯して堕落してから、人間を救うために、ご自分をあらわして下さいました。その神さまの、時代時代における啓示の区分をディスペンセーションといいます。
(1)スターライト・ディスペンセーション
 最初は星のような光。アブラハムやヤコブといった民族の指導者、族長をお選びになって、その人を通して人間に御心を語られました。
(2)ムーンライト・ディスペンセーション
 やがて人々に、より深くみ旨を知らせるために、モーセを通して律法をお与えになりました。そして律法を守って生活するように義務付けられたのです。
(3)サンライト・ディスペンセーション
 新約の時代に入ると、神さまはその御子イエス・キリストを地上に送られ、100%御心をあらわして下さいました。そしてこの恵みの時代の私たちは、キリストを救い主と信じ、聖霊に導かれて生活することが望まれているのです。さらに旧約の時代は、天地創造で神さまが7日目に休まれたことから、土曜安息でしたが、新約時代には日曜日を聖日、主日としています。それはイエスさまが週の初めに復活され、さらにペンテコステも週の初めであったところからきているのです。

  その4 「たとえについて」 (2003/2/19)

 今回はたとえをどう理解するか、ということについて学びたいと思います。たとえ話は聖書の中にたくさん出てきます。ある方の調べたところでは、福音書の中に53ほどの「たとえ」がでてくるそうです。特にルカ伝が多く、ヨハネ伝が最も少ないのです。種類もいろいろありますけれども、その中でも主なものが二つあります。そのたとえの受け止め方を少し考えたいと思っています。その二種類は、「たとえ」(parable)と「寓喩」(allegoly)です。

(1)たとえ(譬、比喩、parable)
 今日のテキスト、マタイ13章だけでも4つのたとえが出てきます(種を蒔く人のたとえ、「からし種」と「パン種」のたとえ、「毒麦」のたとえ、「天の国」のたとえ)が、これらはいずれもこの「たとえ」(parable)の部類に入ります。
 まずこの「たとえ」は何でないか、ということを申し上げておきたいと思います。第一に、「たとえ」は空想的なあり得ないようなお話、通俗的、かつ空想的なお話ではないのです。たとえば動物が出てきて、それらが擬人化されて会話をするといったお話があります、これは「たとえ」ではなくて「寓話」(fable)です。これは私たちの日常的、現実的なことではなく、いわゆる想像の世界、動植物を擬人化して人間のように登場させるもの、イソップ物語のようなものです。
 二番目に、民話、神話のようなものともまた違うということ。
 そして三番目に、簡潔に、端的に表す格言、ことわざのようなものでもないのです。
 それでは何でしょうか。parableという単語は、para(側に)ble(置く)、側に置く、側に投げるという意味を持ちます。たとえば天国の真理を教えようとするときに、こちら側に分かりやすい例話を持ってくる。これが日常的、現実的、誰が聞いてもわかる、農業の話、食事の話、羊の話など日常だれもが経験していることを持ってきて、これを抽象的な概念、深い霊的な奥義を表すために持ってくるのを「たとえ」といいます。
 「たとえ」には二つの目的があります。その一つは深い真理を分かりやすく伝えるため。「たとえ」で聞いて、ようやくなるほどと理解できることがあるのです。もう一つは矛盾するようですが、ある特定の人には真理を隠すため、に使われたということです。例えばサドカイ人、パリサイ人などイエスを殺そうと躍起になっている人々にあからさまに語って、誤解を生じたり、怒りや憎悪を増幅させることになると、まだイエスさまが十字架に架かる時が来ていないのに、その時期を故意に早めるようなことがあってはいけない、だから「我がとき未だ来たらず」と何度もおっしゃいましたが、私のときはまだ来ていないのだから、そのときにまで不用意に私は人々の手によって殺されてはならない、ですからそういうときに、一般の人々や弟子たちに真理を分かりやすく語りながら、一方イエスさまに対して嫉妬心とか憎しみを持っている人には、その真理を覆い隠す為に「たとえ」は語られたのです。そのことをぜひ覚えていただきたいと思います。
 「たとえ」を知る上で大切なこととして、まず当時の風俗、習慣が分かると、理解しやすいと思います。例えばここで種蒔きのたとえがでてきます。これは今の農業しか知らない人には理解しにくい面があります。今のようにトラクターで一気に耕していくような農業ではなくて、昔の農業は馬や牛に鋤を引かせて、耕した後、袋の一部に穴を開けて、持って歩きながらポロポロこぼすようにして種蒔きをしていました。あるいはかごのようなものに種を入れて、蒔いていく、そういう蒔き方をするから、ある種はこっちにある種はあっちに、と落ちたところもいろいろと違ってきたのです。
 二番目は、「たとえ」は訴えようとするところは一つだけであるということです。ただ一つのことを教えんがためにこの「たとえ」は用いられるということです。あれもこれも教えようというのではありません。この種蒔きのたとえでは、種はいろんなところに落ちた、その落ちたところによって育ち方が違った、さてこの話はどこに重点を置いて理解すべきでしょうか。結論からいうと、種蒔きのたとえといわれますが、種の話ではないのです。種は2千年前も今も変わらない神のことば、それでは種を蒔く人のことでしょうか、これはイエスさまが種を蒔かれたし、今日伝道者も種を蒔くし、信徒も証しをし、伝道します。そこに重点があるのではなく、ただ一つ違うのは蒔かれた地面です。ですからこのたとえの場合は、どこに種が落ちたか、ということを考えるべきなのです。道端というのは踏み固められた心、先入観とか、誤解、偏見に固められているものだから根をおろす暇もないうちに鳥が来て食べてしまう。サタンが妨げに来る。石だらけの所、ここには土がありますから根を下ろすことはできる、ところが石が多いので深くはおろせないちょっと下ろしたらすぐ横に這ってしまう。つまり熱しやすく冷めやすい心を表します。感情だけで信仰を受け止めようとして長続きしない、ですから冷めたが最後、すぐに枯れてしまう。次は茨の中、茨が生えているところですから植物が育つには前のものに比べればよい環境の下にあります。根も適当に下ろすことができます。しかしある程度成長すると茨に邪魔をされて伸び切れない。これは私たちの心にある二心、神さまや霊的なものも大事にしようとするのだけれど、この世の財産、名誉、快楽も捨てきれないというような心を表します。従って花や実を結ぶまでには成長できないのです。では良い地面とはなんでしょう。それは素直な心、神の言葉を素直に受け止める心、困難にぶつかっても倒れることのないように根をしっかりと下ろして、しかもこの世的なことに執着がないから順調に成長する、これが良い土地です。そうすると自然に百倍、六十倍もの実を結ぶことができるというのです。これは13:18-23でイエスさまご自身が説明を加えております。こういう例は他にありません。

 もう一つの例をみてください。ルカ16:1-13の「不正な管理人」のたとえです。主人の財産の管理を任されていながら、その金を横領していた管理人が、ある日主人に呼び出され、「お前に管理を任せておけない。すぐに会計報告を出しなさい」と言われます。管理人は、さあ困った、今から転職するわけにもいかないし、かといって物乞いをするのもいやだし、そうだこうしよう、ご主人様から借りのある人から借金の証文を少なく書き直してやって恩を着せよう、と考えます。それは自分がいざクビになった時にこの人たちに助けてもらうための策略でした。非常に悪辣です。主人をだます、貸した相手にも不正を強いて、うまい具合に立ち回ろうとしたのです。そして8節には、主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたとあります。ここを読みますと、このたとえは何を表すのか、自分がクビになりそうだと思ったらうまい具合に立ち回って自分を有利にする、これが世の中を上手に泳いでいく為には必要だ、とイエスさまが教えておられるのか、と解釈する人もでてきます。しかしそうではありません。「たとえ」の大事なポイントはただ一つです。不正を褒めているのではないのです。やったことは悪いけれど、この人の抜け目のなさ、将来を見据えて次々に手を打っていく先見性、これが大事だというのです。イエスさまはこのことを霊的な意味において伝えようとされました。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」(8)、「不正にまみれた富」はこの世の金銭をあらわします。ここで言っていることは、この世のものを用いて友達を作りなさい、どういう意味かというと、そうしておけば、金がなくなったときに、つまり天国に行ったときに、あなたは永遠の住まいに迎えてもらえる、そのときに天国に友達ができて迎えてくれる。こんな幸いはないではないかというのです。言い換えれば、伝道して、証しをして、神さまに救われる人をどんどん天に送っておけば、自分が天に帰るときに、その友達が神さまとともに自分を迎えてくれる、そのためにこの世のお金とか時間とか賜物とかをもっと賢く活用しよう、ということなのです。もっとクリスチャンはこの世の人に遅れをとらないように、この世の人が先を見て一生懸命手を打つように我々もいい意味で先を見て、天国のことを思って、天に宝を積むことを考えて、地上の生を許されている間、賢く生きようではないか、とこういう意味なのです。聖書の写本を比べてみるときにわかることなのですが、友達を作りなさいというときも「友」は、一般の友、信仰の友という意味で受け取れるのですが、同時に神さま、救い主ともとれるのです。つまりイエスさまとの関係をしっかりと築いておこう、というふうにも受け止めることのできる箇所です。また10節の「小さな事」とは、この世の事柄、この世の事柄を上手に活用して、「大きな事」、これは天国の事柄、霊的なことに役立つように用いようじゃないか、という意味です。このたとえのポイントは8節、抜け目のなさ、賢いやり方、ここを伝えんとしているのです。明日は明日の風が吹く、式のやり方ではなくて、将来を見据えて、もっと計画的にしっかりと生活をしようではないかということを訴えるたとえなのです。

 ただもう一つ前後関係ということが大切です。ルカ15章を見て頂きますと、有名な三つの「たとえ」が出てきます。九十九匹を残しても、たった一匹の羊を探しに行った羊飼いの話、十枚の銀貨を持った人が一枚無くしたときに、その一枚を探し当てて喜んだという話、そして有名な放蕩息子の話、これら三つは、もちろん神の愛を教えるたとえですが、実はこのお話をするには、動機があったのです。15:1-2をご覧下さい。このときイエスさまの話を聞こうと集まってきたのは、徴税人や罪人でした。しかしイエスさまはこういう人たちをも心から喜んで迎えてお話をして下さいました。むしろこの人たちこそ天国に行く資格がある、といったくらいです。そこにファリサイ派の人々や律法学者たちもやってきた。この人たちの目的は、キリストから何か学ぼうとしてきたのではなく、キリストを陥れようとしてきたのです。「この人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と2節ではイエスさまを非難しています。こういう状況下でのたとえです。ですから、徴税人や罪びとといった人たちを蔑むような心の間違いを指摘した上で、神さまはファリサイ派、律法学者のような人々だけを救う為にこられるのではない、こういう人たちをも救う為に来たのだということを教えるためのたとえなのです。このことは前後関係をしっかりと読むことによって理解できるのです。

(2)寓喩(諷喩、allegory)
 これは、そこに登場する人物たちが、みんな何かしらの意味を持って語られます。「たとえ」の場合は一つだけだと申しました。寓喩の方は、いくつかいろんなものがいろんな意味を持ってきます。allegoryは「他のもの」「語るもの」といった二つの語句が一つになった言葉です。理解を深める為に例としてルカ伝16章19-31を見ていただきたいと思います。金持ちとラザロの話ですが、ここには全く正反対の暮らしをしている二人が出てきます。23-26節で、金持ちは、いったんあの世に行けば、陰府と天国とを行ったり来たりできないのだ、ということがわかります。すると地上に残された家族が同じ過ちを犯して自分のように苦しむのは忍びない、何とか教えてやらねば、と考えます。そこで自分の家族たちのところへラザロを遣わして下さい、とアブラハムにお願いします。しかしアブラハムは「モーセと預言者に耳を傾けよ」と言うだけです。「モーセと預言者」、これは旧約聖書と置き換えることができます。つまりお前たちには聖書があるではないか、み言葉にしっかりと聴きなさいというわけです。しかし金持ちは「彼らは聖書なんか読みません、たとえ読んだとしてもそれだけでは信じません。死人をよみがえらせて見せてやればきっと悔改めるでしょう」と勝手なお願いをするのです。しかし人は最終的に奇跡で信じるということはないのです。そのときだけは驚き、心を動かされるけれども、すぐに冷めるのです。私たちの信仰はびっくりして信じるのではない、本当に罪を悔改めて、神さまの愛に出会って信仰するのです。

 寓話としてここで教えられる点を考えて終わりたいと思います。一つは、この世の生活を終えた後どうなるのか、ということです。地上にあっては人にはいろんな生き方があります。金持ち、貧乏人、しかしこの状態が永遠に続いていくわけではない。やがて地上の生活が終わるときが来ます。そのときに果たしてどうなるか。ときに立場が逆転することもあり得る。まずそのことをまず学びます。ラザロは貧しい生活でありながらも、神さまを呪ったりしたということは一度も書いていません。ただしこの話をしますと誤解が起きることがあります。金持ちは皆地獄へ、貧乏人はみな天国にいく、と簡単に結論をだしてしまうことがあります。金持ちはなぜ地獄に落ちたか、ラザロはなぜ天国に行けたのかというと、金持ちは何か悪いことをしたとも書いてありません。ただ目の前に助けてあげるべき人がいながら助けてあげなかったという罪を犯したのです。罪とは、してはいけないことをするのが罪だと一般には考えるでしょう。しかし聖書はしなければならないことをやらないのも罪だと言っています。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」とヤコブ4:17に書かれています。
 二つ目に、あの世に行ってからは陰府と天国を行ったり来たりができないということも中盤で教えられます。またそれはちょっと気の毒だから変えよう、という人たちもいまして、中世では免罪符というものが売られました。死んだ人が地獄から天国に上げられるようにお金で免罪符を買うことによって、陰府から天国に移されると考えたのです。しかしこういうことをルター等は聖書的ではないと批判しました。
 三つ目に、不思議なことを見て信じるのは本物の信仰ではないということです。聖書には神さまの啓示が書かれています。見ずして信じるものは幸いなりとイエスさまは言われましたが、神さまの啓示に触れてそれを信頼し続ける、それが信仰なのです。実際に見て頭で理解して、手で触って信じるというのは信仰ではないのです。神さまは信仰によって人間を救おうとされています。アダムは不信によって罪を犯しました。だから神さまは信によって回復しようとしておられるのです。
 これら一つ一つは、すべて真理です。allegoryですから、いろいろな事柄、真理を表しているのです。

 たとえを読むときに、これがparableかallegoryかということをよく判断して、み言葉を受け止めていくことが大事です。そのためには前後関係を読み、聖書そのものをよく読んでいけば、どちらかということはよくわかってくると思います。そうして私たちも聖書の持つ真理を正しく受け止めることが出来るようになるのです。


 その5 「象徴(シンボル)と(予)型(タイプ)」(2003/2/19)

 今回は「象徴」と「(予)型」ということを学びたいと思います。「象徴」とは[抽象的な概念を別の具体物で表したもの]と国語辞典にはあります。一方「予型」という言葉はギリシャ語のテュポスから来ていて、基本的に原型を表すこともあるし、その写しを表すこともあります。聖書中では、神さまの創造と救済のみわざの歴史の中で、より早い時期に現れた事物、人物、出来事、制度などで、後に来る成就や完成を指し示すことをいいます。「予型」には「象徴」としての意味が含まれますが、「象徴」のすべてが「予型」であるとは限りません。その意味で「予型」は特殊な「象徴」であるといえるのです。

◇「象徴」について
 例えばヨハネ黙示録5:8をご覧頂きますと、「この香は聖なる者たちの祈りである」と出ています。香とはお祈りを象徴する言葉です。他にも詩編141:2に、「わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし」とあります。香=祈りと覚えておきますと他の聖書箇所を読むのにも理解が深まります。
 同じ黙示録1:20には「あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」とあります。ここでも説明が加えられていますが、「燭台」=教会です。黙示録を読むときはこれを頭にとめて読むと良いと思います。「燭台」はその上にろうそくを置いて明かりを灯すものです。ソロモンの神殿には、純金の七枝の燭台が10個も作られて聖所の中の右側と左側とに5つずつ置かれていたとあります(T列7:49)。
 エゼキエル3:1に、「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」とあります。この巻物は、み言葉の象徴です。
 第一コリント5:7に「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」とあります。この子羊とは犠牲を意味します。当時の犠牲として捧げる捧げ物で主たるものは子羊でした。そこから子羊=犠牲という言われ方がしていたのです。他にも、火=純潔または神の裁き、水=バプテスマ、油=聖霊、パン種=腐敗、血=命、いばら=苦痛、といったようにいろいろな言葉が象徴として用いられています。

 また数字もさまざまな意味を象徴しています。
「1」は神さまの唯一性、独自性の概念を伝えるのに用いられます。またキリストと父なる神との一体性、信者と神との結合、信者の間の一体性など、結合・一体・一致といったことを表すのです。
「2」は成長を意味します。
「3」はなんといっても三位一体の神です。
「4」は、この地上、世界(東西南北)を表します。
「7」は完全数で(天をあらわす3+この世界をあらわす4)、聖書における神聖な数の中でも特別なものです。天地創造においては、神さまは7日目に安息され、創造の業の完成を告げて、その日を聖別され(創世記2:1-3)、7年の7倍を数えたその翌年の第50年めをヨベルの年とすることが定められ(レビ25:8)、またナアマンはヨルダン川に7たび身を浸し病いが癒された(U列王記5:10)等々、数多く「7」は登場します。
逆に6というと不完全をあらわすことがあります。カナの婚宴の奇跡があります。そこには水がめが6つありました。これは律法の時代を表し、不完全であることを意味します。そこでイエスさまが水をぶどう酒に変えられた。イエスさまが律法を完成されるという象徴です。
「千」は10の3乗で、完全な数です。イエスさまが世の終わりにこの地上に建てられる完全な神の支配である千年王国と関連付けられます。
「40」も40日40夜とか、40年とか、一つの区切りとしてよくでてくる数字です。また、7度を70倍するまで赦しなさいという言い方、40に一つ足りないという言い方、これは不完全を表します。
「12」は人間と神さまとのつながりを指します。12部族、12弟子、12の教会など、あるいはその倍の24で出てくる場合もあります。このように数字も様々な象徴として用いられていて、特に黙示録、ダニエル書などには多く出てまいります。

 さらに「象徴」ということで三つのことを申し上げておきたいと思います。象徴にもいろんな種類がありますけれども、一つは奇跡的な出来事による「象徴」です。例えば出エジプト記をみますと、イスラエルの人々がエジプトを出たときに、昼間は砂漠に雲の柱が出て民を導き、夜は火の柱があらわれて、それに導かれることで旅を続けることができました。この雲の柱、火の柱が、神の臨在を象徴するものとして、新約聖書にも登場します(黙示録10:1)。
 二番目に夢や幻を「象徴」として表すことがあります。ヨセフの夢のことが創世記にでていますが、その一つに、太陽と月と11の星がヨセフにおじぎしたという夢をヨセフが見ます。太陽と月はヨセフの父母、11の星はお兄さんたちを指します。この夢による象徴がその後のヨセフの人生を波乱万丈なものとしていくのです。
 三番目に、ごく普通の事物の象徴として扱われるものがありますが、その中の一つに幕屋があります。幕屋については説明が必要ですので図を参照していただきたいと思います。(⇒
クリック

 出エジプト記で、イスラエルの人々がエジプトを出た後、荒野を旅します。その間、まことの神さまを礼拝するようにとのご命令で、幕屋をシナイ山のふもとに造りました。造るにあたっては、材料、寸法、組み立て方まで事細かに神さまからの指示がありました。幕屋の東西は100キュビト(44m)、南北は50キュビト(22m)この幕屋の中に、天幕を造り、特に至聖所の中には契約の箱が入れられ、香の壇、机、燭台が置かれ、入り口の外には洗盤、その前に祭壇が設けられました。異邦人は中には入ることが許されず、幕屋の外から礼拝に加わります。時代が進んで神殿が建てられるようになると外には婦人の庭とか異邦人の庭とかも建てられるようになります。至聖所というのは神さまがご臨在くださる場所、最も聖なる場所とされて、ここに契約の箱が置かれました。この中身は、モーセが十戒を受けた石の板とか、マナの入った金のつぼと芽を出したアロンの杖が入れられました。さらに聖所と至聖所には幕が張ってあって、至聖所に入れるのは、大祭司と言われる人が年に一回だけ、ヤギや羊の血の入ったコップをもって入って、これを注いだのです。そして神さまどうか我が同胞を一年間罰することを延ばして下さいと、一年間だけ罪の許しを願う。それが贖罪の日の大祭司の仕事でした。

 しかしよく考えてみると、この幕屋は新約時代にまで関係のある象徴的なものです。なぜなら至聖所は天国をあらわします。そして聖所は教会をあらわすのです。そして礼拝の中に三つのものがある。一つは祈り、聖餐式(パン)、み言葉を学ぶこと(ろうそくの火)、その前にしなければならないことが、外の洗盤(祭司が手足を洗うところ)、これがバプテスマを意味します。バプテスマにあずかって教会員として中に入ることが赦される。そしてバプテスマにあずかるためには、まず悔い改めて自らをささげねばなりません。それが祭壇です。しかし当時この天国をあらわす至聖所に入れるのは大祭司だけでした。ですからイエスさまが大祭司と言われることがあるのはそのためです。至聖所と聖所の境には幕があって、だれもそこに入ることは赦されませんでした。神さまは義なる方ですから、罪を持った人間をそのまま受け入れることはできなかったのです。神さまを直接見たら目がつぶれるということも旧約時代には言われていたのです。

 しかし十字架上でイエスさまが息を引き取られた瞬間に、この幕が上から下まで真っ二つに裂けた、と聖書にはあります。これがまた非常に象徴的です。つまり神と人間との間にはその罪のゆえに明確な仕切りがあったのです。ところが大祭司なるキリストが十字架に架かることによって、我々の罪を全て背負って神の罰を受けてくださったから、それに免じて神さまが私たちを受け入れてくださることになった。つまり幕によっていつでもだれでも神さまと交われなかった関係に、十字架のキリストが仲介をしてくださったがゆえに、この幕が裂けて、いつでも私たちが天のお父さまとお祈りするすることができる。またその祈りが神さまに通じる、神さまも我が子よ、といって応えてくださる。こういう関係が、キリストの十字架によって初めて可能になったのです。ヘブライ人への手紙をみると、昔は年に一度大祭司が、自分自身と民の過失のために献げる血を持って至聖所に入り、私たちにかわって備えの生き物の死に免じて許しを請うていました。ところがキリストが十字架に架かってくださったがゆえに、この一回きりの出来事で、私たちの罪が赦されたのです。こうやってみますときに、この幕屋は今日の教会をあらわし、私たちの信仰生活をあらわし、また十字架の購いをあらわしていることがわかります。つまり旧約聖書を勉強する必要が新約時代の私たちにもあるということです。

◇「(予)型」について
 たとえばダビデという人物はキリストの型といわれ、バプテスマのヨハネはエリヤの再来といわれました。そういう言葉が旧約聖書にもあるわけで、人々もエリヤがいつかこの世に来ると信じていたのです。マラキ書3:23に「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とある通りです。実際エリヤそのものが来るのか、というとそうではなく、エリヤの役割を果たす別の人物を送るという意味でありました。それはバプテスマのヨハネです。マタイ17:12に「言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」とあります。エリヤが来るという言葉を読むと、これはやがてバプテスマのヨハネをキリストの先駆者として遣わすという意味なのだなとわかるのです。それからダビデのような人、これはキリストを指しています。エゼキエル34:23-24には、「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」とあります。ダビデはエゼキエルよりも400年も前の人です。過去の人物ですので、キリストのあらわれるのをダビデという名を使ってあらわしているのです。ダビデはタイプ、キリストはアンチタイプということがいえます。

 以上のように旧約の象徴、(予)型ということを知っていると、新約聖書に対してより理解が深まるものと思われます。旧約聖書は膨大な書物ですが、新約とのつながりという意味においても重要であることは間違いありません。毎日の通読を祈りを持って続けていただきたいと思う次第であります。


 その6 「預言について」 (2003/3/5)

 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(ペトロの手紙U1:20-21)

 最終回は、預言をどう受け止めるかということについてご一緒に学びたいと思っております。聖書の中には預言が多く出てきます。イエスさまの生まれるずっと前から預言が語られてきたのです。その意味では、旧約聖書は預言、そして新約聖書は成就、ということがいえるのです。そして預言ということを考えずしては聖書は理解できないのです。
 テキストに、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」とありましたが、この言葉は、過去それぞれの立場で様々な解釈がなされてきました。例えばローマ・カトリックでは、「自分勝手に」ということを、個人によって解釈すべきでない、むしろ教会が解釈すべきである、という受け止め方をしてきました。今でこそ「新共同訳」という聖書が誕生して、カトリックの信者さんもそれぞれが聖書を持っていますけれども、それまでは聖書そのものを読むことはなく、公教要理というものを勉強していたのです。ルターの時代には特に、下々の人間は神さまの言葉を読むことは許されず、聖職にあるものが理解したことを人々に伝える、という受け止め方が支配的でした。このように適当な解釈をしてはいけないというのは、個人で解釈してはいけない、教会というものの解釈に従わなければいけないということであったのです。

 ここで預言あるいは預言者というものについて申し上げたいのですが、もともと聖書の預言という意味は、現在の時点で将来を予測して語られるものというふうに受け止められがちですが、そうではないのです。それは将来について書きとめられたものではありませんでした。預言という言葉の意味は、ただ見る、とか語る、という意味ではなく、特に「代わって語る」という意味があります。すなわち「神さまに代わって語る」という意味です。 出エジプト記7:1に、「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。』」とあります。神さまがモーセを選んで、イスラエルの民をエジプトから解放する指導者にたてようとするのですが、モーセは自分が口下手でとてもそういう仕事はできませんと断るのです。ところが神さまは、「お前が語るのではなく、私が語るのだ、そしてアロンをスポークスマンとして用いる。あなたはリーダーとしての働きをすればよいのである。」と言われました。その神さまの言葉は現在のことを語られるのですが、ときとして将来のことを示す場合ももちろんあるのです。

 聖書では、キリストの生まれるはるか以前から救い主を送られるという預言が述べられてきました。この救い主の来臨を告げる預言というものがかなり多くあるわけですが、その中のいくつかをご紹介しますと、キリストがおいでになることについての一番最初の預言は、なんと旧約聖書冒頭の創世記3:15から始まるのです。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」お前は蛇、女はエバ、彼はエバの子孫ですが、女の子孫というのが、神がやがて送られる救い主を指すのです。サタンはキリストが十字架に架かられることでかかとを砕くが、三日後に復活されることで、その頭が砕かれる。ここにキリストの完全な勝利が既に予告されています。この箇所はメシヤ預言の最初のものだといわれています。

 創世記に始まって、救い主に対する預言というのは、たとえば民数記 21:6-9には、「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」とあります。
 荒野をさまよいながら、つぶやきを繰り返すイスラエルの民に対して、神が怒りをあらわされたところですが、新約聖書ヨハネ3:14-15には「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とあります。モーセが荒れ野で蛇を上げたというのが民数記のこの出来事なのです。キリストの十字架はこの民数記の預言の成就なのです。

 詩編16:10-11には、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」とあります。
 私たちの救い主は決して葬られたままではおられない、死を克服される方である。というキリストの復活をダビデを通して預言しています。実にキリストのおいでになる1000年も前のことなのです。
 同じ詩編の22:2には、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」とあります。
 そしてマタイ27:46に、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」と同じ言葉が用いられています。

 イザヤ7:14に、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」とあるこの箇所も、マタイ1:23の「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」というところに結び合わされます。キリストの生まれる650年前に、やがておいでになるお方はインマヌエルと呼ばれるにふさわしい方であると語られているのです。そしてキリストがお生まれになることによってはじめて、人類の歴史の中に、神さまが私たち人類と共にいてくださるという時代が訪れたのです。

 同じイザヤ9:1には、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」同9:5には、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」とあります。
 旧約聖書の預言はこのように、しばしば過去形で書かれて未来をあらわす場合があります。これはキリストがおいでになることを預言したものとしてよく知られています。
 マタイ 4:16「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 ルカ2:14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 キリストのおいでになる預言として代表的なものは、イザヤ53:1-2の「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」です。
 これはイエスが貧しいみなりをして人々に仕える姿です。そしてこのイザヤ書53章全体が、まさにキリストの十字架を示しています。650年前にすでに具体的に記されているのです。そしてその預言の成就は新約聖書の中にはっきりとみることができるのです。

 ミカ5:1「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
 神がお遣わしになる偉大なお方が、あのエルサレム郊外の閑村ベツレヘムで生まれる、と預言されて見事に成就するのです。これはマタイ2章で記されています。

 預言の成就ということで、最後にイエスさまの預言をまとめた文章を、「聖書ハンドブック」という本から抜粋してご紹介させていただきます。
 「まず、この人物はユダ族より起り、民を支配する「シロ」と呼ばれる。次に「星」と呼ばれ、支配権を握り、ついで、「モーセのような預言者」を通して人類に神は語られる。また何度も、彼はダビデの家系に生まれ、「枝」「君」「油そそがれた者」「神の長子」「不思議」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」と呼ばれると語られる。その来られる時も正確に預言された。彼は処女から生まれる。ベツレヘムに。幼年時代の一時期はエジプトで過ごし、ナザレで育てられる。彼はその民に、エリヤのような先駆けによって紹介されるであろう。その働きの場はガリラヤ。癒しの奇蹟を行い、たとえで語られる。ご自分の国の指導者に拒まれ、撃たれた羊飼いとなり、苦しみを受け、悲しみの人となる。また彼は、ろばの子に乗ってエルサレムに入るが、銀30枚で友に裏切られる。しかしこの銀30枚は陶器師の土地のために使われる。彼はほふり場に引かれ行く小羊のように引かれて行く。彼は罪を取り除く1つの泉を開いて、悪者と共に死ぬ。彼の臨終のことばも預言されている。苦しみの時には苦みを混ぜたぶどう酒を与えられ、その手と足は刺し通される。しかし骨は一本も折られない。彼の衣のためにくじが投げられ、金持ちと共に葬られる。3日の間墓にいるが、死人の中からよみがえり、天に昇り神の右の座に着かれる。次のように預言されている。彼は全地に新しいことば、すなわち新しい理念、「救い」を導入する。人類に新しい契約を与え、神の民に新しい名を与える。それから聖霊時代を導入する。彼の王国は異邦人をも含み、宇宙的であって終ることがない。」(「改訂新版聖書ハンドブック」ヘンリーH.ハーレイ著、聖書図書刊行会)

 最後になりますが、聖書の理解、あるいは預言の理解として大切なことは、最終的には聖霊によって解釈するということになろうかと思います。聖霊の導きが無いと聖書は正しく理解できません。イエスさまはそのことをヨハネ14章でこういわれました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)
 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)
 この学びの第1回にも申し上げましたが、聖書は聖霊によって書かれた書物です。従って私たちも、聖霊に導かれて読むときに、以心伝心でその真理が、奥義が解ってくるのです。ですからまずは、お祈りをして、神さまのお導きを求めてから聖書を開くことを第一にしたいと思います。