ヨハネの手紙U(2002/11/20)

◇1-3 あいさつ
 「ヨハネの手紙二」は、わずか一ページの短い書簡です。著者ヨハネについては、第一ヨハネの項で述べましたので省略します。
 1節に「選ばれた婦人とその子たちへ」とありますが、これは文字通り、特定の婦人に宛てた手紙であるという説と、「婦人」という名称を使いつつも、小アジアの教会に宛てた手紙だという説がありますが、その内容からして、後者だと理解するほうが自然なようです。
 テーマは「真理を知った人は愛するようになる」ということです。ここでいう「真理」という言葉から、他の聖書箇所を参照したいと思います。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあななたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)
 キリストの言葉を知るとき、またキリストを信じ、キリストにつながるとき、与えられる恵みは、自由になるということです。ある特定の宗教を信じることは、不自由になることだ、こういう風に思う人があります。また教会に行って話しを聞くのはいいけれど、洗礼だけは受けるなよ、と親が子どもを教える家庭もあります。信心することによって不自由になる、束縛されるのでないか、といった誤解があるのでしょう。ところがキリストの福音はそうではありません。私たちは全く自由です。

 またその「真理」は愛であるということもいっています。「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」(1)真理を知ったものが、本当の意味で愛する(奉仕する)ことができるのです。ガラテヤ5:13-14に「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」とあります。
 キリストによって、私たちは自由に導かれると同時に、愛に導かれる、「自由に」とは「○○から自由になる」ということ、この世のあらゆる慣習、迷信、呪縛から自由になる、この世のしがらみからも自由になる、恐怖心、孤独感からも自由になる、境遇からも自由になる、また人間はエゴイズムの塊、自己中心的なものです。ところがキリストの福音によって初めて、自分のことばかりを考える殻が少しずつ剥けてきて他の人のことも考えられるようになってくるのです。罪の束縛の中にありますが、罪を許すために来られ、十字架の血によって私たちは罪から解放されました。最終的には死という恐れ、人間とは死の恐怖のために一生涯奴隷になっているようなもの、とヘブライ2:15にありますが、その恐怖からも、キリスト、復活の主を信じることによって、解放されるのです。

◇4-11 真理と愛
 7節に「人を惑わす者が大勢世に出て来た」とあるように、当時の諸教会は、グノーシス主義的な異端によって混乱しつつありました。そんな中で、しっかりと本当の福音の真理にとどまり、歩んでいる人がいることを、ヨハネは率直に喜んでいます(4)。
 5−6節では、ヨハネの手紙T、2:7にも書いてある「新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟」(5)を守りなさい、「互いに愛し合」(5)いなさい、「愛に歩」(6)みなさい、と勧めています。
 7−11節は、イエスさまの受肉を否定する仮現論等、異端の人びとを警戒するよう注意を促しています。特に「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(9)という言葉は、自分たちの知恵や知識を過信して、科学や技術が絶対であるというような、神さまをないがしろにする現代社会への警告にも聞こえてきます。

 讃美歌333番は、この箇所と関連した歌詞になっています。「主よ、われをば とらえたまえ、さらばわが霊は 解き放たれん。」キリストにしっかりと捉えられたなら、私たちは自由になる。「あまつ風を おくりたまえ、さらば愛の火は 内にぞ燃えん。」主よ私を捉えて下さい、私の中に愛の火が燃え上がって、愛や奉仕に導かれていきます、という内容です。真理によって自由へと導かれる、真理によって愛へと導かれる、そのことを考えながら歌いたい讃美歌です。


「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」(「キリスト者の自由」マルチン・ルター」)