ヨハネの手紙T

 「生命(いのち)へとみちびく交際(まじわり)」(ヨハネの手紙T 1:1-4)(2002/09/11)

◇著者
 「ヨハネの手紙」という題が示すように、著者は福音書の一つをも書いたヨハネです。聖書の中にはヨハネという名前が良く出てきます。それほど一般的な名前なのです。新約聖書に最初に出てくるのは、バプテスマのヨハネ。その後登場するのは、十二弟子の一人のヨハネ。ヨハネは、イエス様からかつて「雷の子」(マルコ3:17)と呼ばれたように、非常に気性の激しい人でした。たとえばサマリア人の村に入っていったときに、村の人々が歓迎しないのを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったとの記事も残されています。(ルカ9:51-56)
 ところが晩年は、イエス様のみ旨に身を委ねて「愛の人」と呼ばれるほどの人となりました。キリストに出会うことによって、彼自身が大きく変えられたのです。
 ヨハネという名前には「主の賜物」という意味があります。彼は漁師でした。「漁師のゼベダイの子、ヤコブとヨハネ」とこの兄弟が紹介されていますが、イエス様が伝道を始める際に、ガリラヤ湖畔で最初にペテロ、アンデレの兄弟と共に弟子にされた四人の一人です。ですから弟子たちの中でも、一番長くイエス様のお側にいた人、そしてその弟子たちの中で一番長生きした人だといわれています。90歳を越えてから、パトモス島に島流しに遭います(黙1:9)。そしてそこで神さまからの啓示を受けて書いたのが「ヨハネの黙示録」です。こう考えると、ヨハネを知らずして新約聖書は語れないという気がいたします。さらにヨハネによって多くの教父が輩出されているという初代教会の歴史を見ると、この人の晩年の働きの大きさが良くわかります。
 
◇特徴
 ヨハネ第一の手紙で特徴的なのは、「命」「愛」という言葉が多く語られているということです。これはまさに、「生命への畏敬」「隣人への愛」という点で非常に今日的な書物であるということを改めて知らされます。パウロが一番使った言葉は「信仰」それに対してペテロは「希望」という言葉でした。そして文字通り「命」で始まり、「命」で終わる書簡です。
 このヨハネが確信し、訴えていることは、「命」は賜物として与えられたものであって、真の生きた命というものは上から与えられたものであるから、イエス・キリストとの交わりを抜きにして命を得ることはできない、いきいきとした生き方はできない、喜びのある人生は送れない、ということです。そしてイエス様を知る、イエス様との深い交わりを通して、私たちは命がいただける。そしてそこに愛が芽生える、愛が増し加えられるというのです。

◇目的
 この手紙はヨハネが80代あるいは90代になってから書かれたもので、紀元90〜110年頃とされていますが、当時の教会内ではいろいろな哲学的な考え方というものがでてきて様々な影響を与えていました。例えばグノーシス主義(主知主義)という考え方があり、その中でも二元論がありました。それは霊は善、肉は悪という考え方で、キリストは目に見えないということであれば善だが、人間の体を持つのは悪である。イエスは神が人間となられた実体ではなく、あくまでも幻影として存在していたという考えです。またドケティズム(仮現論、仮現説)も台頭していて、それはキリストは仮の表れに過ぎない。本当の神ならば肉体を通して現れるはずが無いという考え方で、あくまでも受肉(見えない神さまが、見える肉体をとって人間となった)というキリスト教の大事な教義を否定するものでした。ですから当時のギリシャ的影響を受けて教会内にあらわれた誤った神学的、哲学的な考え方に対してそれは誤っているとはっきりと訴えたのがこの手紙なのです。

◇命の言
 「命の言」(1:1)。ここでいうことばとは単なる言語ではなく、神の言葉ということです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)とあるように、肉体をもつ人間として、私たちの救いのために地上に来て下さったイエス様について伝えます。といいます。
 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1:1)。文字通りヨハネはイエスさまと3年間寝食を共にした人です。その歴史の目撃者としてヨハネが述べようとしているものがいかに確かなものかということを感じさせてくれます。
 2節は命というところをキリストと置き換えて読めば理解しやすいと思います。
 「あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)と伝える目的を述べます。この交わりによって私(ヨハネ)がいただいたこの喜び、感謝、生きがい、希望、これをあなたがたに分かって欲しい、といってこの手紙が始まります。この「交わり」という言葉には、コイノーニアというギリシャ語が使われています。もともとは「分かち合い」「共有」を意味します。永遠なる存在者であられる神様は、本来超越の神ですが、御子キリストを通して、私たちとの人格的な交わりを開かれました。そしてその交わりによって「喜びが満ちあふれるようになるため」(1:4)にこの手紙を書き送るのだとヨハネはいいます。

 「光の中を歩め」(ヨハネの手紙T 1:5−2:6)(2002/09/18)

◇1:5
 「神は光であり」、あらゆる輝かしいご性質に満ちておられる。しかも「神には闇が全くない」、神さまご自身が光であるだけでなく、周囲を照らして闇を退けてしまわれるお方であるといっています。

◇1:6
 「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら」、それはうそで、真理を行っていない。これは当時の教会の一部に見られた、うわべだけの熱狂的な信者たちに対する警告でもあります。

◇1:7
 「光の中を歩む」とは非常に抽象的な言葉ですが、はたしてどういう意味なのでしょう。ひとつは正しい行いをすることと捉えられます。自分が善を行うならば、神さまは救って下さる、と考えることがあります。しかしそういう風に解釈すると、実はキリスト教的でないのです。この解釈は、あくまでも自分の力、業による救いであります。キリスト教は、私たち人間は罪人で、力の無いもので、それを承知の上でキリストは私たちを受け入れて下さる、という神様の贖いの業が根本にあります。
 イエスさまは「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(同9:12)といわれました。「病める者」すなわち、自分が不完全で弱い罪人だとわかっている者のためにイエスさまは来て下さった。ですから光の中を歩むとは、正しい生活をするという意味ではなく、文字通り、神さまのまばゆいばかりの光の中で、あるがままの私で生活をする、ということなのです。
 この明るい中で生きていくということは大事です。光の中を歩くと、あるがままの自分が見えてきます。不完全で弱い矛盾だらけの自分が見えてくる。これが闇の中では見えないのです。よい行いをするということよりも、神さまの光に照らされて、あるがままの自分で歩もうと努める。そこからはじめて清められる喜び、許される感謝が心から湧き上がってくるのです。
 鹿児島アシュラムが来週開催されますが、私はアシュラムは人間ドックのようなものだと思っています。アシュラムに参加すれば、急に信仰心が厚く燃やされたり、聖人君子のような人物へと急激に変えられるわけではありません、むしろ今自分がどんな状態かということを示していただく、人間ドックに行きさえすれば病気が治るというものではないのと同じで、自分自身の状態をチェックしていただき、そこから成長へとつなげていこうとする集いなのです。
 
◇「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、」(1:8)「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり」(1:10)
 自分は罪人だと思う人が正常なのです。そして、人間は罪を犯してしまう者なのです。これを読むと少しほっといたします。
 ただ覚えていただきたいのは、だからといって罪を犯してよいということではないということです。私たちは罪人であることを認識し、神さまによって許されねばならない、ということがわかってくるのが神さまとのよい交わりの出発点です。

◇2:1
 だからといってわたしはあなたがたが罪を犯してよいということを奨励しているわけではありませんよ。罪を犯さないようになることが大事なのですよ。そしてその罪を許してくださる方がいらっしゃるのだということを教えて下さいます。それがイエス・キリストです。
 「弁護者」の原語はパラクレイトスといいます。「パラ」は「側」、クレイトスは「呼ぶ人」、側に呼ぶ人、私たちを側に呼んで、抱き抱え、一緒に悩み、苦しみ、悲しみ、慰めてくれる人という意味なのです。こういう方がいらっしゃるというのは本当にすばらしい恵みです。クリスチャンにとって、慈しみ深き友なるイエス様が弁護者として私たちについていてくださる、こんな幸福なことはありません。
 「慰め」は漢字では、「尉」と「心」から成り立っています。これは苦しみにであうときに、心をおさえて、我慢して抑えるといったような意味合いで、中国的、儒教的な慰めの意です。また「凪ぐ」+「冷める」からきているという説もあります。心が荒れるとき、何か代替物見つけ、一時的に忘れることによって慰めようとする。日本的な考え方のようです。ところが英語では「comfort」、「com」(一緒に、共に)と「fort」(力)から成り立ちますが、一緒に力を合わせるというような意味合いでしょうか。一人では耐えられないような深い悲しみに出会うとき、一緒に泣いてくれる、一緒に励ましてくれるキリスト教の「慰め」はここからきているといえます。

 光の中に自分を置いて、罪を自覚することから始まり、その罪の許しを神さまからいただく、そして罪を犯したならば、主に告白すればイエス様は弁護者であるから、神様の前で執り成して下さる、許して下さる。まずはこのことを覚えて常に私たちは光の中に自分を置きながら歩み続けたいものです。


 「この世に生きるキリスト者」(ヨハネの手紙T 2:7−17)(2002/09/25)

◇新しい掟(7-11)
 最初に、あなたがたに古い掟を思い起こして欲しい、この古い掟を新しい掟としてあなたがたに伝えたいのです、といって愛なくば価値はない、ということを訴えています。もし兄弟を憎むものがあれば、闇のうちにあることになる。兄弟を愛するものは光の中にある。この愛するということが古い掟であるというのは、はるか以前の旧約の時代からの戒めであったのです。⇒(レビ19:18)それをイエスさまは再度自分の新しい戒めとして示されました。⇒(ヨハネ13:34)イエスさまはこのことを、唯一の新しい戒めとして述べられました。古くて新しい、つまりいつの時代にも最優先されなければならないのは何か、価値の第一におかなければならないことは何か、それは愛だというのです。

◇キリストにとどまる(12-14)
 ここは同じことが繰り返し語られていますが、キリスト者とはどのようなものであるかということを三つの柱で述べています。
 @罪が許された者−あなたがたは自分のことが良くわかっていますか。どんな存在か分かっていますか?という問いかけです。よく言われることに、自分を知らないもの、あるいは自己の尊厳がないものは何も大事にしない。自分自身の尊厳というものがないと、人も尊重しない、これは非常に大事なことです。一人一人が神の聖霊を宿す神の宮なのだからこの肉体を汚してはならないという思いがあれば、法律ができなくとも、自分の生き方は分かってくる。どんなに法律が出来ても、人間は動物の一種なのだとして、神に創造されたもの、神の聖霊を宿す宮としての人間としての尊厳を失ってしまうと、どんなことでもできる、恐ろしいものになり得るのです。そこで必要なのが、私たちの罪は許されているということです。私たちキリスト者は罪許されているというこの大きな恵みを、朝ごとに思い起こしたいものです。ある人がいつも小さい手帳をポケットに入れていたそうです。その友人が「その手帳には何が書いてあるの?」と聞いたら、わずか3ページの手帳で文字は書いていない。表紙を開けるとまず真っ黒のページ、次のページは真っ赤、最後は真っ白。黒は古い私の心、どうしようもない罪でいっぱいの心、赤はキリストの十字架の血、イエスさまは十字架の血潮で、私たちの罪を清めてくださった。白はこの十字架の贖いによって、私たちを雪よりも白くして下さったということです。
 A初めからおられる方、あるいは御父を知っているということ。これはキリストを指します。我らは神の子イエス様を知っている。と同時にキリストに知られている存在です。これもまた大きな恵みです。
 B悪い者に打ち勝った者−私たちは幾たびサタンの誘惑にあってきているでしょう?そしてそのたびに何度、神さまの憐れみによって打ち勝たせていただいたことでしょうか。悪しき者に勝つ経験、誘惑のいざない、サタンの誘いに勝ったといって、自分が聖人君子になったのかといえば、全然違います。今も不完全で弱いのだけれど、にもかかわらず、罪を許されている。そして初めから存在なさる方イエス・キリストを知っている。どんなに金、名誉、名声があろうとも、人生たかだか70年か80年、キリストを知らないで人生を終わるなら、これほど淋しいことはありません。「キリストには変えられません」という讃美のように、なにものにも変えることのできないほど価値のあるキリストを知る者とされた、そして知っていただくものとされた。そしてサタンのいざないにも、聖霊様の助けにより、これに勝たせていただいて、今日まで何とかこうして守られてきた。ということを改めて思い起こしたいと思います。

◇世を愛することへの警戒(15-17)
 「世も世にあるものも、愛してはいけません」(15)、ここにこの世と対峙しなさい、ということがでてきます。この世とは何かというと、先ほどの三つのことを気づかせない影響力のことともいえます。聖書は福音書も含めて、この世との対決の姿勢を明確にしています。例えば、私たちはかつてはこの世のもので、この世に埋没していました。しかし、イエス・キリストによって、この世から別の価値観、目標、新しい生き方へと移して下さった。つまりこの世から決別したのだというのです。(ヨハネ15:19)「聖別された」というときの「聖」とは全く清い人間という意味ではなくて、今までの世界から別の世界へと選び分かたれたという意味なのです。
 しかし、私たちはこの世に生きています。この世から離れていくことはできません。しかし、この世に属さないで生きること、そこに難しい面があります。一つの例えがあります。海に一艘の船が浮かんでいます。この船が教会であり、キリスト者です。海はこの世。もしもこの教会がこの世から離れては存在価値はありません。陸に上がった船では意味がないように、海に浮かんでいるからこそ船は役に立ちます。ところが浮かんでいる船の中に海水が入ってくると困ります。私たちはこの世に存在しても、この世に影響されないで、生きていくそういう存在でなければなりません。そうすると非常に難しい。信仰生活が時々難しいと言われるのはそういう意味なのです。我々の国籍は天、現住所はこの世です。どろどろした罪の世界が私たちの場所、と同時に私たちの故郷、行くべきところは天です。
 「私たちの生活は海に潜って働く潜水夫のようなものだ、この世の中で生活をするけれども、常に上から空気を補給していただいてはじめて活動することができる」という言葉があります。私たちもお祈りを通し、み言葉を通して神さまの息吹をいつも頂いていれば、どんなこの世の深みででも生活できる。クリスチャンは、この世は曲がっていて悪しきサタンからの誘惑に満ち満ちているものだという認識を持つ必要があります。同時にこの世から離れて暮らすべきではなくて、この世を愛し、この世に仕え、この世をむしろ私たちが感化していく、影響を与えていく存在でありなさい、とイエスさまは「世の光、地の塩」と言われました。教会の中だけで光る、あるいは天国において光る、これは意味がありません。光は暗いところでこそ価値があるのです。この世に属していないけれど愛してくださるのは神様です。そしてこの世もこの愛してくださる神様を知るように努めていく、これが私たちの務めではないでしょうか。
 ここでいう「世にあるもの」には三つの要素が含まれます。まず「肉の欲」、これは感覚的なものに及ぶ誘惑、心の中から出てくる欲望です。そしてこれはしばしば目を通して入り込むことから、「目の欲」、これは外部からの誘惑。そして「生活のおごり」です。物欲、虚栄心を表します。サタンはこの三つのチャンネルを通じて、我々を誘惑します。誘惑はどんな人間でも避けることはできません。ただ問題は誘惑に勝つ人と負ける人、この2種類があるということです。マルチン・ルターが「空の鳥があなたの頭上を飛び回るのを妨げることはできない。しかし空の鳥があなたの頭に巣を作ろうとするのを防ぐことはできる。」と言いました。誘惑というのはだれの周囲にもあります。特に、神さまに近づこうとすればするほど、誘惑は強く働くのです。ですから、@誘惑があるのは覚悟する。そしてAそれをしっかりと見分けることが大事なのです。それがサタンからの誘惑だということが分かったら、B立ち向かう、抵抗する、対峙する。これが必要です。自分は信仰的に強いから少々誘惑されてもいざとなれば、撥ね退けられるという過信が最も危険です。それがサタンの誘惑だとわかった瞬間からそれとは縁を切ること、遠く離れること、それがないと誘惑に屈することになり、ミイラ取りがミイラになってしまうということにもなり兼ねません。
 ただもしも誘惑に破れたときにはどうすればいいのでしょう。もうその人の人生は終わりなのか、そうではありません。悔い改めて、神様の前に告白すれば主は許して下さる(1:9)。もしいざないに破れた者はこの約束にすがるべきです。
 この世にあるものは過ぎ去って、滅びます(17)。永遠に生き続けるものにすがって、希望をもって歩みたいものです。

 「真理の霊と迷いの霊」(ヨハネの手紙T 2:18−29、4:1−6)(2002/10/02)

◇2:18−19
 「終わりの時」が来ている、というのは、多くの「反キリスト」が現れているからだ、といいます。そして「あなたがたがかねて聞いていたとおり」というのは、そのことをイエスさまが予告し(マタイ24:4-5、ルカ21:8)、使徒パウロもそう言っているからです(テサロニケU2:3)。
 「反キリスト」とは、「わたしたちから去って行きましたが」「わたしたちの仲間ではない」というところから、キリスト教ではない人々ではなく、むしろ、かつてキリスト教会に通った者、あるいは、キリスト教の中の人たちであり、キリストを単なる預言者の一人とみなして、あたかも自分たちがメシア・救世主であるかのように考える人々のことです。
 このように、「キリスト」「教会」「聖書」といった言葉を巧みに用いながら、本当の福音とはかけ離れた自分勝手な教義で、私たちを欺こうとする団体が、今日も実際に存在します。私たちが異端と呼ぶ団体の中でも、統一教会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教は有名ですが、今回は「反キリスト」の一例として、聖書研究ということとは離れますが、意外に知られていないモルモン教のことについて触れたいと思います。

◇モルモン教とは
 モルモン教とは、正式名称を「末日聖徒イエス・キリスト教会」(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)といい、布教を行っている殆どが若い白人男性で、自転車に乗り、「無料で英会話を学びませんか?」と声をかけて教会に誘います。自称「宣教師」である彼らは、コーヒー、紅茶、煙草、酒をたしなまない禁欲的で熱心な人々です。
 しかし創始者のジョセフ・スミス以来、上層部では一夫多妻主義が当たり前で、米国内で大きな批判を受けてきました。最近は霊的多妻主義と言い方を換えていますが、信者に対しては、什一献金を強制し、その豊富な資金によって、米国内でもビジネス、放送、大学、政治等あらゆる分野で幅をきかせています。
 ジョセフ・スミスはアメリカ、バーモンド州シャールというところに生まれた移民の子でしたが、18歳のときにモロナイという天使が現れ、神の啓示が示されたものが埋蔵されている場所を示されます。そして古代エジプト語で書かれたその啓示を翻訳したのが「モルモン経」で、聖書と同格あるいはそれ以上に大事にしています。そして聖書はユダヤ人にかかれたものではなくて、アメリカ先住民を通して、アメリカに神様の啓示があったというのです。そこで布教を始めたわけですが、38歳の時に射殺されます。その後を受け継いだ指導者がブリガム・ヤングという人です。10人の弟子を選んで活発に伝道活動を繰り広げます。ジョセフ・スミスの時代からこの団体はかなり迫害を受けまして、そして逃れ逃れたところがユタ州ソルトレイクシティでした。そこの住民は殆どがモルモン教です。信者になるとすぐに世界中に宣教に行かされて、受肉を否定して、イエス・キリストは預言者の一人に過ぎないという立場をとります。このようにキリスト教と関係あるような名前を使い、聖書の中身も大幅に改ざんしてしまっている宗教。現在、このような点で非常に私たちの周辺をおびやかしているのが、このモルモン教、統一教会、エホバの証人であるということを認識していただきたいと思います。

◇21−26
 第一ヨハネが訴えているのはもうすでにクリスチャンとなっている人々です。このクリスチャンとなっている人たちが、キリストの名による異端的な宗教に惑わされてそちらに移ってしまう傾向があったので注意をしているわけです。未信者、一般の人に対する注意ではないのです。24節をみると「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」といっています。イエス・キリストによって弟子とされたあの十二使徒、あの人たちの教えをどうか心にとめておきなさい。25節には「御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」人間となった御子イエス・キリストこそ天の父なる神の御子であり、神様の御心を100%お示しになるために来て下さったお方。神が人となって働いて下さった。この確信に戻りなさい。このお方を信じることによってのみ命が与えられるのだから、といっています。

◇26−27
 27節には「あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません」とあります。「油」は聖霊を指します。また聖霊をもたらすチャンネルであるみ言葉といってもいいかもしれません。信仰告白をしてバプテスマを受けた人々にはそれぞれ聖霊が宿っています。だからその聖霊に働いていただくようにすれば、聖霊が万事私たちに道を教えて下さる。だから私たちはみ言葉に静聴するのです。み言葉に聴く、礼拝でみ言葉を学ぶ、そのことによって聖霊さまが私たちに必要なことはすべて教えて下さるのです。
 イエスさまが十字架にかかってから後、復活によって喜びの絶頂にあったときに、うれしくてすぐに出て行って伝道しようとしていたときにイエスさまはなんとおっしゃったでしょう。祈って待ちなさい、上から聖霊が与えられるまでまちなさい。わたしの霊が降ったときに何をなすべきかわかるから、と言われました。聖霊を受けた弟子たちは、知恵と力が与えられて、自分たちで判断してでかけていき、あらゆる言葉を大胆に語り、伝道し、殉教も恐れなかった。聖霊がすべてを導いて下さる。これが本当の霊なのです。誤った霊に惑わされることがないように、そのためには御子のうちにとどまりなさいと強調しています。

◇4:1−6
 6節に「真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」とあります。見分ける知恵、そのためにキリストにとどまる、具体的にはみ言葉に聴く、或いは教会の交わりを大事にする、どんなことがあっても、交わりの中で問題解決を考えていく、このことがとても大事なことだと思うわけです。キリストのうちにとどまる、これが鍵です。すると聖霊さまが豊かに示しを与えて下さる。今日もいろんな宗教、異端があります。そのいろんな問題を学ぶ必要もありますが、と同時にさらに大事なことは、本物を知る、本当の福音を知る、聖書のみ言葉を深く学ぶ、そうすると必ず正しいか間違いかという区別ができるようになるというのです。

 「義と愛を生活の基調として」(ヨハネの手紙T 3:1−24)(2002/10/09)

◇バランスのとれたクリスチャン生活(1-3)
 この第一ヨハネはクリスチャンに宛てた手紙であって、当時の教会内部からの腐敗をもたらす様々な議論や思想に対して注意しなさいと警告した書簡であると同時に、では本物は何かということを訴えて、キリストの福音に固く立って、この世の中がいかようであってもその道をまっとうするようにと力強く教えています。。
 
 クリスチャン生活を考えるときに、まずバランスが取れていることが大切だと思います。例えば私たちは罪人です、許された罪人です。自分の罪が分からなければキリストの十字架は分かりません。同時に私たちは神の子なのです。キリストによって神の子とされているのです。神の子の自覚を持たないでいては健全な信仰生活は送れません。ここに罪人と神の子というものがバランスよく、私たちの信仰生活の中で認識されている必要があります。別の言葉で言うと、神の義と愛というものがバランスよくとれているとき、健全な信仰生活が送れるということです。卑近な例で言えば、親が子どもを愛する場合、厳しさと優しさがバランスがとれているとき、初めて子どもは健全に育ちます。また父性的な愛、母性的な愛この二つがバランスよくとれている場合、子どもは良く育つといわれています。人間は常にバランスが必要です。一方に極端に偏った生き方というのは、非常に熱心で素晴らしくも見えますが、危険をも伴います。政治思想でもそうではないでしょうか。極端な右翼、左翼、両方とも理想は掲げますが、暴力を辞さないというようなことにもなりかねないことがあります。
 
 この3章では私たちが神の子とされているということを忘れないで欲しい、ということを訴えています。1〜2節を繰り返し読んで見ますと、本当に驚かされます。我々は神の子とされ、そして今も神の子なのだとはっきりと示してあるからです。「神の子」という表現は、イエスさまの場合は大文字で“Son of God”と書き、文字通り天の父の御子ということですが、私たちを「神の子」という場合には“sons of God”です。キリストによって清められ、神の国に受け入れていただける一員にされた「神の子どもたち」になったという意味で、英語でははっきりと区別されています。日本語では同じ「神の子」という言い方になりますが、区別する必要があります。
 クリスチャンは罪人であるということを認識して悔い改めて砕けた心で神さまの愛と恵みに与る必要があり、それが信仰、バプテスマの条件です。しかし救われたら私たちは神の子となったという新しい段階に入った、そのことを意識し、自覚する必要があります。いつまでも罪人であって、救われても・・・という中には成長はない。罪人の私がいっぺんに神の子となったということはなかなか信じがたいことなのですが、それが本当なのです。だから驚くべき神さまの愛、そんなこと有り得るだろうか、私が神の子とされることが有り得るだろうか、驚くべき愛だ、そのことが分からないから信仰生活が憂鬱になったり、喜びがなかったりということがあります。神の子とされているということが分かったら、うれしくて感謝であるはずなのに、聖書を読んでも実感として受け止められない、しかしよく読むと分かるはずです。そのことが分かると自ずと私たちの信仰生活は変えられてくるはずです。パウロ先生はまさにそうだと思うのです。私は罪人の頭(かしら)です、とパウロ先生はいいました。同時にみなさんは私に倣いなさい、と権威のあることも言われました。それは彼が一生懸命ひたむきに神さまに従っていたから言えたことなのです。

 4節には、「やがて御子が現れるとき、御子に似たものと我らはなるのです。」とあります。最後のとき、主の御前に立つときに御子に似たものになるとはどういうことでしょうか。それは人間は罪のゆえに神から離れ、神さまに似せて人間を創ってくださったのに、罪によってこれを捨ててしまった、それがキリストを信じることによってもう一度神に似せて創られた私に戻れる、神の似像に戻れるということなのです。

◇罪のうちを歩まない(4-10)
 6節、9節は、クリスチャンになったら絶対に罪を犯さないで生活できるということでしょうか。であれば1:8との矛盾が生じることになりますが、そうではありません。クリスチャンは絶対に罪を犯さないということではなく、キリストにあって、つながって生活している限りは、自分から進んで罪を犯そうという気にもなれないし、罪を犯すことはない。逆に罪を憎むようになるというのです。もちろん人間は不完全ですから過ちを犯すことはあります。しかしそのときは2章の初めにあったように悔い改めれば弁護してくださるお方がおられる、というところにかえってくるのですが、要は「御子の内にいつもいる」(6)ということが大事です。逆に罪を犯してしまうときには、キリストにしっかりつながっていなかったときなのです。
 
 神の子として生きるために大事なことは、キリストにとどまることですということをいいたいのです。「罪を犯さない」ということは聖書学者によってもいろんな捉え方がありまして、例えば、霊によっては罪を犯さないが肉によっては罪を犯してしまうという意味だという節もあれば、それ以外の罪は犯すけれども、死に至る罪は犯さない、あるいは、罪の中に継続的にとどまることはありえない等いろんな意見があるのですが、私は「キリストにとどまる」ということを教える言葉だと思うのです。


◇愛を実践すること(11-18)
 神の子とされているということに感謝するだけでなく、私たちは神さまに愛されているがゆえに、他人を愛する者へと変えられていこうではないか(14-15)と主張します。そして、愛というものが最終的に大切だということがわかってきますが、その「愛」は「信」ということがあってはじめて生じるものであるということに注意したいと思います。神を信ずる信仰があってはじめて私たちの愛は本物になってくるのです。信仰生活はまずタテの関係、神様を信じること。そしてヨコの関係、友を愛する。この二つで私共の信愛幼稚園は名づけられました。順序はあくまでも「信」があって「愛」が生じるということを強調しておきます。

 イエス・キリストを信じて、キリストの内にとどまるときに、私たちの中に愛が働きはじめて、愛が浸透していきます。そして今までの利己的な私、他人のことなど考えたことのないような私であっても少しずつ変えていただけるのです。人をひきつけるような魅力ある人物になりたいと思うが、自分にはそれがないと皆悩みます。ちょうど釘が近くの釘をひきつけようとしても釘自体にはその力はありません。しかしその釘が磁石にくっつけられますと、磁石の磁気が伝わって、たとえそれが古釘でも、他の釘を引き寄せる。これはその釘が偉くなったのではありません。この釘が磁石にくっついているから起こる現象です。磁石の磁気が古釘に入ってきたから、隣の釘さえもひきつけられたのです。私たちも良くなろうと思って、歯噛みして頑張ったって良くはなれません。大事なことはなんでしょう。良くなろうということをすっかり忘れて、任せて、イエスさまとつながろうとする、キリストのうちにとどまる、それがコツです。ヨハネ15章には「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。キリストにつながることだけに一生懸命になれば自然に良いことがでてくるものなのです。

 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:6)

 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22-23)

 「愛は御霊の実」そのことを覚えて信仰生活を送りたいものです。

 「ここに愛がある」ヨハネの手紙T4:7−21)(2002/10/16)

◇十字架の愛(4:7-11)
 7節「愛する者たち」(7)は英語で“beloved”となっています。(愛されているものたち)という意味です。日本語では「愛する者たち」と能動的ですが、その前に神さまから「愛されている」みなさん、という呼びかけから始まっています。神さまから愛されているのだから、「互いに愛し合いましょう」(7)と、ここがこの4章の結論となります。そしてこの4章が、著者ヨハネが最も強調したかった部分なのです。まず自分が神さまから愛されているのだということが出発点です。そのことが「愛の書」を読む上での重要な点です。
 
 神さまから愛されている、ということはどうして解るのでしょう。神さまから愛されているのだから、感謝しなさいと言われてもピンとこないという人が中にはあるかもしれません。具体的には9節にでてきます。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(9) ヨハネ3:16でも同じことが書かれています(「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」)が、神さまは私たち一人ひとりを愛するがゆえに、御子イエスをお与えになった、「与えた」とは、十字架の上で御子を私やあなたのために犠牲として、その命を捧げてくださったということです。
 娘さんを早くに天国に送られた内村鑑三先生は、「己が子を失いし経験ある者にして、はじめてヨハネ3:16が良く解る」といっておられます。愛する我が子を亡くすという経験をされた方は、この教会にもおられますが、その方々は、私たちが理解する以上にこのことを深くお解りになるのだろうと思います。
 そして「ここに愛がある」(10)のです。それ以外のところに神の愛を見つけようとしても、見つからないことがあります。悪い言い方になりますが、神さまはたった一人の御子、イエスさまを十字架にかけて殺して下さった、殺すことを許して下さったのです。「ここに愛がある」これは厳然たる事実です。ですから他に愛を見つけようとしても見つからないで悩むとき、神さまなんているのだろうか、神の愛なんて本当だろうかと疑わしく思うときでも、もう一度私たちの目を十字架に向ければ、確信をもって「神は愛なり」というところに帰ってくることができるのです。
 
◇神から受けた掟(4:12-21)
 イエスさまは唯一の戒めとして「互いに愛し合いなさい」といわれました。前の11節にも「神がこのように私たちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と言っています。そして、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされるているのです」(12)。
 しかしgive&takeの人間的な愛に対して、神さまの愛、アガペーの愛は、ときには自分に鞭打ちながら愛するということが必要になってくるのです。愛することは大変なことなのです。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でゾシマという長老さんが「愛は労働だ、忍耐だ」と言っています。気分次第で、愛してみようかな、といったものではなく、愛を神さまのご命令として受け止めなければならないときがあるのです。キュルケゴールという実論主義の哲学者が言いました。「真実の愛は、愛せよ、との神の命令において成立する。すなわち愛は義務となることによって、はじめて真実なものとなる。それが人間の心に、期限を持つものではないことが明らかになる。」
  アガペーの愛は、神さまから愛されているから、相手からの見返りを期待するのではなく、ひたすら愛するのです。そして、そこには理由があるのです。そのような愛においてのみ、なしうる大きな力が発揮されるのです。
 1.相手に神を示すことができる(14)
 ヒルティ「眠れぬ夜のために」には、「信仰など全然解しない、最悪の人間の心にも、愛はなお入り込み、神とのつながりを作る」とあります。言葉で説得しようが、重い刑罰を与えようが、人間はなかなか回心できないものです。しかし、愛はそれを可能にします。ザアカイがいい例ではないでしょうか。人から嫌われれば嫌われるだけだんだんとげとげしくなって、徴税人として、たくさんの税を取り立てて、私腹を肥やしていったザアカイが、イエスさまを一目見てみたいという好奇心から、木に登って見ていたら、イエスさまがザアカイを温かい目で見てくれた。他の人は険悪な目で見るのですが、心から自分を受け入れてくれる方がいらっしゃった。そのイエスさまの愛に触れたときに、180度彼は変えられました。周囲の人々は彼の変わった姿に目をみはったことでしょう。(ルカ19:1-10)愛する者は神さまの存在を示すのです。
 2.神さまが内にとどまって下さる(15)
 愛することは一見浪費のようであって、自分ばかりが損をするような印象を受けますが、実は愛する人自信が高められ、神さまに近づけられるのです。
 3.愛には恐れがない(18)。
 「恐れがない」という言葉の解釈にもいろいろありますが、@神さまとの正しい関係を保ちつつ生活するならば、やがて神さまの前で裁きを受けるとき、恐れなくてもよい、というのがひとつ。Aまた私たちの人間関係でも、しばしば人に対する恐れを感じることがあります。あるいはいやな人がいると、不安になることがあります。しかし、私たちが神さまにつながって、相手に対する愛が増していくならば、その人の存在は恐れでも不安でもなくなってくるはずです。Bまた、神さまに愛されて、その摂理の中で今日一日も生かされているということを覚えるとき、今日、明日の生活をいたずらに思いわずらって不安になったり、恐れなくてすむ、そういう面もあります。
 愛の神さまがおられて、全てのこと相働いて益となるように導こうとする、そのみ手の中で、今日明日の生活があるのだと考えれば、いたずらにくよくよしなくてもいいのです。今の時代どうでしょう、人を恐れ、明日を恐れ、恐れがいっぱいです。そんな中でイエスさまを信じていくことができるのは本当に幸いだと思います。またそこに本当の癒しがあります。カウンセリングもいろいろな方法がありますが、最終的にはここに立つものでないと本当に人を癒すことは出来ないと思うわけです。もしも恐れる要因をお持ちのときは、「どうぞ主よ、我が内にあなたの愛を満たしたまえ」と祈ることを先にすべきではないかと思います。
 「私を大切に思ってくれる人、私との間柄がまったく水入らずの人、その人のためなら全世界も問題ではないという人、そういう人がいなければ人生には幸福もなく、なんらの意味もない」(ゴルビッツアー)
 イエスさまがおられるということが私たちの中心にあるならば、現在がいかようであろうと、そこに感謝できる生活を築き上げて、作り出していけるのではないでしょうか、また一見意味なく、矛盾だらけの人生に思われる中に、意味のある人生を私は今生きているということがわかってくる、そういうものに変えられていくのではないでしょうか。

 「世に勝つ信仰」(ヨハネの手紙T 5:1−12)(2002/10/23)

◇神から生まれた者(1-3)
 イエスさまを神の子と信じるものは、神さまから生まれたものだといっています。信仰するということは生まれること、生まれ変わることなのです。(ヨハネ3:3-21)にニコデモという議員とイエスさまとのやりとりが記されています。私たちは、深く勉強することによって救いを見出すのでもなく、修養、努力によって救いの境地に達するというのでもないのです。罪人である私たちは、唯一、霊的な意味での生まれ変わりを経験しなければならないのです。しかし、よく意味のわからなかったニコデモは、「それはもう一度母親の胎内に戻って、もう一度生まれてくるということですか。」とたずねました。イエスさまのお答えは、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)でした。イエス・キリストを信じる信仰によって、そして水はバプテスマ、バプテスマの礼典を通して生まれ変わりなさい、とイエスさまはおっしゃたのです。「生まれる」という言葉が使われていますが、人間が「生まれる」ときは、自分の力だけで「生まれる」ということは出来ないわけで、生命を頂いて生まれさせられるわけです。日本語では能動態で「生まれる」と言いますが、英語では“be born”と受動態です。イエスさまを信じることによって、霊によって生まれさせられる、それが神の子なのです。
 「生んでくださった方」(1)とは神さま、「その方から生まれた者をも愛します」(1)、同じみ救い与った者を愛するようになりますという意味です。別な言い方をすると、神さまに愛されている者は、必然的に、神さまに愛された他の人をも愛するはずです(大きい意味では、私たちは神の家族の一員であり、兄弟ですから)ということです。愛はタテの関係とヨコの関係が相互に働くものなのです。

◇信仰は世に打ち勝つ勝利(4-5)
 「世に勝つ」とはいったいどういう意味でしょうか。世(world)は、神に逆らっているもの、み心に背くもの、それらを全てを含んだものをいいます。広い意味では、神と敵対するこの世の傾向、モノの考え方、唯物主義、刹那主義、ご都合主義、これらすべてがこの世です。そして狭い意味では、自分自身あるいは自分の中のエゴイズム、自己中心の心ということもいえます。自己を愛し、或いは肉欲のままに生きること、また自分の中にある汚い心、ねたみ、憎しみetc.。王陽明という人が「山中の賊は破りやすく 心中の賊は破りがたし」といいました。自分の心の中にある悪をやっつけるのは難しい。案外一番大きな敵は自分自身かもしれません。スポーツ選手でも「最大のライバルは自分です。」という人がよくあります。この「世に勝つ」ということは、大変なことです。しかし「世に勝つ」ことが出来るのは、実は信仰なのだというのです(4)。
 信仰というと、目に見えないものを信じることですから、一番頼りなく思われるかも知れません。しかし本当に解っている人にとっては、信仰こそが「世に勝つ」力だということが解ります。西宮の日本キリスト教団香櫨園教会の伝道集会に招かれて行ってまいりましたが、この教会はあの阪神淡路大震災で全壊し、最近会堂を再建なさったところです。教会員の中にも肉親を天に送られたり、家を無くした方もいらっしゃるのですが、とにかく皆さん明るいのです。かつてそういう経験をしているのに笑いが絶えない、感謝が絶えない。その姿を見ました時、本当に目に見えない信仰の力、エネルギーというものを感じました。
 人間というものは順境のときはみんなニコニコして生活できるのだけれど、逆境に遭うとなかなかそうなれません。ところが信仰者は耐え難い試練に遭おうが、それを乗り越えて力強く生きているのです。「世に勝つ」力はお金ではない、名誉でもない、信仰こそが世に勝つ勝利の力なのだと、ここでは強く訴えています。
 パウロは(コリント第二5:6-8)で「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから心強い」といっています。この世の人は信仰は心強いどころか、不安をもたらすものだと思うでしょう。しかし、私たちにとっては、信仰こそ心強い。また(フィリピ4:11-12)では、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言っています。 貧しいと卑屈になったり、犯罪に走ろうとしたりする。逆に豊かになると傲慢になって、神さまから離れ、他人のことも顧みないような者になってしまいがちです。ところがパウロにとっては、豊かなときは、神さまの恵みだと受け止めて、感謝して分かち合う。貧しいときには、イエスさまの貧しさに比べれば大したことではない、といって、むしろ貧しい中で、神さまを信頼する心がいっそう深くなることに感謝する。どういう境遇にあっても足ることを知る。なぜかというと、同じ(フィリピ4:13)に、「私を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」と書いています。そしてついには、(フィリピ1:21)「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という境地にまで達しています。キリストが私のうちにいきておられる、だから死ぬことは利益である。なぜなら「永遠の命」が与えられ、全き救いに導かれるとき、この世で欠けの多い者が豊かに満たされて、全き自分として生きるときが来るという確信があるからです。
  「勝つ」という言葉は、英語では“overcome”という単語が使われますが、overは「上に」、comeは「来る、行く」という意味で、やっかいな障害を取り除いて行く、ということではないのです。どんな困難があろうとも、その上を行くということ。信仰によって、人知を超えた神さまのお力によって、はるかに高いところを行くことができる。障害が全く気にならなくなるほど、愛の力が増し加えられることによって、“overcome”(勝利)するのです。

◇水と血とによって来られた方(6-12)
 第一ヨハネが書かれたころ、その周辺では、グノーシス主義というギリシャの哲学的な考え方があって、それは霊と肉は相反するものという二元論という立場から、もしイエスさまが神であるなら、人間の姿をとるはずがない、人間の姿で現れたならそれは神ではない、と主張しました。そして神さまが目に見える肉体をもって地上にこられた(受肉)ということを否定しました。そういう背景があって、受肉、つまり霊の神さまが、肉の人間の姿でこられた、という真理を改めて主張しているのです。
 そして、そのイエス・キリストは、神の子であるというしるしとして、ご自身バプテスマを受けられました。それは「水」によってです。さらに、十字架上で「血」を流して私たちの罪を全て清めてくださった、という意味で、「水と血」という言葉で、霊なる神さまが肉体をもつ人間となって来て下さったことを示しています。そしてそこに本当の救いがあるのです。
 ところで、キリストがバプテスマを受けたというのは理解しがたいことではないでしょうか。バプテスマは罪の許しのために受けるものであって、罪のないイエスさまが、洗礼を受ける必要はないだろうと思われます。しかしそれは、罪なきイエスさまが洗礼を受けるという行為によって、やがて罪人となって十字架で神の罰を受けるのだということを前もって示した行為であり、「水と血」による受肉の福音にはそういう意味があります。だからこそ、私たちの救いは確かなものであるといえるのです。

 「永遠の命」(ヨハネの手紙T 5:13−21)(2002/10/30)

 ここまで第一ヨハネを学んできましたが、最もよく出てくる、「永遠の命」「愛」「交わり」という三つの言葉がこの手紙のキーワードでした。この「永遠の命」という一番大事なことについて、結論となるこの部分で、読者に、確信を持っていただきたいという願いで、ヨハネは再度訴えています。

◇永遠の命(13)
 ここは「永遠の命」を既に得ているということを覚えて下さいというアピールです。「永遠の命」は、そのうちに頂けるというものではありません、信仰生活を一生懸命頑張っていれば、やがて頂けるというものでもありません。実は、私たちは既に「永遠の命」を頂いているのです。
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
 イエスさまを信じるものは、「永遠の命」を頂いて、義とされている、だから神さまの前に立っても裁かれることはない。そして死からも自由になっているのです。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 ところで「永遠の命」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのでしょうか。普通はお墓の向こう側の命、という風に考えがちです。死んだ後も命が永らえる、それが「永遠の命」だろう、とこう思われがちです。はたしてそうでしょうか。
 マタイ19:16-22に一人の男がでてまいります。後半部分を見ると、この男は青年で、資産家であることが分かります。律法も詳しく勉強している、いわゆるエリートです。そんな若者が、死んだ後の命を求めて、イエスさまのところへくるでしょうか。この若者はお金もあり、地位や名誉にも恵まれていたのですが、何か心の奥深くに、まだ何か足りないものを感じていたのではないでしょうか。そしてイエスさまのところへ来て「永遠の命」について尋ねたのです。聖書の言う「永遠の命」とは、決して、死後も命がつながるというものではありません。それを含みますが、それだけではない、この「永遠の命」というのは、今私たちが持つことの出来るものなのです。どういうことかというと、今という時に、質的に違った命、つまり自分の境遇や環境が、どのようであっても、なおその中で感謝ができるような命。人間はこれとこれが揃えば幸せだ、というような条件が崩れても、その中で喜ぶことが出来るような命。「永遠の命」とは、いつか先のことではなくて、今、今日このところにおいて普通の人が、自分中心にものを考える考え方から、大きく変えられる、そういう力、普通は不平不満を言い、人を呪い、神を呪ってもおかしくないような状況の中で、神さまを讃美し、感謝し、そして周囲の人たち、かつては憎いと思っていた人たちへも感謝が出来る。今自分が満たされて、生きていることが喜びであるというような生き生きした命、これが欠けていたために、この青年はイエスさまのところにきたのではないでしょうか。

◇御心に適う祈り(14-15)
 神さまは私たちの願いを聞き入れて下さるといっています。そして神のみ心が成るようにと願って祈れば、必ず聞き入れて下さるというのです。これは祈りの極意です。
 祈りの最低のレベルは、神さま是が非でも、私を儲けさせて下さい、私を良くして下さい、私を有利にして下さい、といったことから始まります。しかし、祈りもだんだんと高められていくうちに、執り成しの祈りが出来るようになります。自分が良くなるように、得するようにというようなご利益から離れて、他の人の幸せのためというような祈りへと発展していくのです。そして一番上の祈りは何でしょうか。神さま、あなたのみ心が成りますように、神さまあなたが良いと思うことが、実現しますように、それに私が少しでもお手伝いできれば、私を用いて下さい、というところまで達したとき、それは最高の祈りです。そして神さまはそういう祈りを一番喜ばれるのです。そういう祈りは、必ず引き上げて下さる、というのがこの約束です。
 神さまのみ心にあわせて祈ると神さまのご意思ならば必ず成る。イエスさまはゲッセマネでそういう祈りをされました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
 私たちがお祈りするとき、「イエス・キリストのみ名によって」「イエス・キリストのみ名を通して」とこう祈ります。それはなぜでしょうか。これでお祈りが終わりますという合図でしょうか。そうではないのです。(私は様々な祈りをささげましたが、これが神さまのみ心のふるいに、イエス・キリストのみ名というふるいにかけてくださって、適ったものをきいて下さい。適わないものはどうぞ忘れて下さい。あなたのみ心がなりますように。)という意味がそこにあるのです。主のみ心にそって祈る祈りは必ず聞かれる、という確信を持ちたいと思います。
 「正しく考えて行われる祈りは、私たちの欲望を充足するために全能の力を借りようとする工作ではなく、私たちの願いが、神の御心に従って、方向を変えられ、神のご意志の力の通路とされる手段なのである。」(C.H.ドット)

◇「死に至らない罪」と「死に至る罪」(16-18)
 「死に至る罪」とは、もう許されることのない罪、滅びる以外に道がないという罪といえばいいでしょうか。「死に至らない罪」については、その罪を犯している兄弟のために、執り成しの祈りをささげ、「永遠の命」が与えられるよう願いなさい、といっています。しかし、「死に至る罪」に関してはその限りではない。これはどんな罪を指すのでしょう。
 「人が犯す罪や冒とくは、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒とくは赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)
 「死に至る罪」とは、聖霊に逆らうこと。これは神のみ心だと分かっているのに、それを否定したり、逆に、神のみ心ではないということが分かった上で、それを犯したりする罪、つまり故意の罪をのことをいうのです。過失致死、過失傷害といった言葉のように、誤って傷つけたという場合と、故意に、殺意を持って人を危めた場合とは、全く刑の重みが違います。
18節に「神から生まれた者は罪を犯しません。」とあります。クリスチャンは罪を犯すことを常習とする生活から解放された、といっても人間ですから、また罪を犯すことがあります。不注意な過ちを犯すことはあるでしょう。しかしそれを弁護し、許して下さる神さまいらっしゃる、そのことについては2章で学びました。神さまは愛であると同時に義である方で、義であると同時に愛である方だということをここから教えられます。

◇偶像を避ける(21)
 偶像とは、偽りの崇拝物です。拝むべきは、イエス・キリストと父なる神のみであって、それ以外のものを第一とするならそれは偶像です。一般的には、人間の手で作られた物を考えますが、それ以外にも目に見えない偶像もあります。フィリピ書に「彼らは腹を神とし・・・」(フィリピ3:19)とありますが、すなわち虚栄心、名誉欲などといった、自分の心や生活において、神さまよりも勝るものとして位置づけているもの全てが偶像です。
 モーセの十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)とあります。ところが自分の名誉とか虚栄心とかが自分の中にあると、それがその人にとっての偶像、神さまとなってしまうのです。
 「礼拝」という言葉は英語で“worship”です。「worth(価値)+ship(抽象名詞をつくる語尾)」というところからきていますが、つまり「神を最高価値とすること」、それが「礼拝」なのです。
 「子たちよ、偶像を避けなさい。」(21)との言葉で手紙が締めくくられていますが、この一言は、最初に学んだように、当時の異端との激しい戦いの中にあって、信仰を守りぬくために、愛情と力に満ちた言葉であると感じます。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
 イエス・キリストを知ること、信じること、ここに「永遠の命」をいただく道があるということを覚えて、この第一ヨハネの学びの締めくくりとしたいと思います。