ヤコブの手紙研究(第1回) 「境遇に勝利する道」 1:1-18  (2004/9/8)
 
 この手紙は、聖書の分類で言うと、書簡といわれるものの一つです。手紙にもいろいろありまして、ローマ書のような神学的なものもあれば、牧会書簡といわれる、エフェソ、フィリピ、コロサイ書などの手紙のように、伝道者が信徒を育てる意味でのものもありますが、このヤコブ、ペテロ(3)、ヨハネ(3)の七つは新約聖書後半に置かれており、一般書簡または公同書簡と呼ばれます。それはある特定の教会のクリスチャンに宛てた、というものではなくて、どこにいるクリスチャンだとしても、一般のキリスト者にあてはまるように書かれたものであるということです。その意味では非常に読みやすいということが言えると思います。
 この手紙は誰が書いたのか、ということですが、表題の通りヤコブが書いたという説が一般的です。ただし、聖書中にもヤコブという人は何人も出てきまして、この人物は12使徒のヤコブではありません。主の兄弟ヤコブ、つまりイエスさまの弟になります。このヤコブはどういう人物かといいますと、キリストの公生涯の後になりまして、12使徒以外の中からも信じる者が出ました。その中に母マリヤ、そして弟ヤコブもいたわけです。このヤコブはエルサレムに最初にできた教会の中心的な存在、長老格の責任者の一人になります。キリストが地上におられるころは、家族はイエスさまを誤解していましたが、十字架と復活を目の当たりにして、イエスはメシヤであったと知り、救い主と信じたのです。ヨセフスの記録によると、このヤコブは、66年頃に祭司アンナスによって石打ちの刑にあって殉教したと言われているそうです。その60年頃は迫害の厳しいときでした。皇帝ネロは62、63年頃に現れ、クリスチャンを迫害しましたし、そういう迫害にあえいで、貧困とたたかっているクリスチャンたちを励ますためにも書かれたのが、このヤコブ書であったといえます。そして迫害が強いものですから、信仰を捨てる者、あるいは離れる者がいた、そういう人たちがもう一度立ち返るように、backslideという言葉がありますが、もとの生活に戻ってしまう、堕落してしまうそういう人たちをもう一度励まして、信仰に堅く立つようにということを願って書かれたのがこのヤコブ書であります。ですから、60〜63年頃に書かれたのではないか、と聖書学者は推測しています。

 このヤコブ書の特色は、非常に実践的な信仰を勧める書、つまり信じる者はいかに生きるべきか、行動するべきか、そういうことを強く訴えます。だから行いがなければ、信仰だけではダメだ、という言い方が2章に出てきますが、そこでこの書物が、聖典として聖書に取り入れるべきか、ということで論議を醸したこともある。特にパウロの書いたものには、ローマ書を典型として、信じるだけで救われる、ということを強調しています。恵みによって人は救われる、というところに立つ者にとって、ヤコブ書は福音的でない、という言い方もある意味できるわけです。にもかかわらず、聖典として現に新約聖書中に収められて今日まで来ています。そこには表面的ではなく、もっと深く理解していかなければならない部分がある、つまり私たちが救われるのは行いではないけれども、救われたら当然よい行いをすることを神様は期待しておられるのだ、ということを知る必要があると思うのです。

 1節、僕(しもべ、デューロス)、十二部族、ユダヤの人々のことを指します。離散している(ディアスポラ)エクレシア(集められる)両方とも教会を意味します。私たちも日曜日には教会に集い、神さまを礼拝します。そしてそこから、それぞれの家庭、職場に散らされて、生活します。私たちは日曜日だけでなく、散らされているときも、教会=主のからだである、ということを忘れないようにしたいものです。

 2節 私たちはいろいろな「試練」に出会う、と単刀直入に書いています。しかし「この上ない喜びと思いなさい」これは意外な言葉です。私たちは逆境、試練にあうと、神も人もあるものかと思いたくなります。しかし非常に喜びなさい、なのです。なぜなのでしょうか。それは試練にあうことなく、忍耐を養うことはできない。忍耐のない信仰は崩れるからです。忍耐した人は、キリスト者として、よく成長した完全な、何一つ欠けたところのないキリスト者としていただける。パウロはローマ5:3-4で言いました。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」と。苦難によって忍耐が生じ、忍耐が練達を生む、練達とはいろいろとテストしてみても間違いのない状態です。たとえば自動車を作るときに、お客さんに安心して車に乗ってもらうためには、何回も安全性のテストを繰り返して出す。人間であればくたくたになるくらいに、車をこきつかって、これならば大丈夫、という状態になってから市場に出します。自ら進んで逆境、試練を呼び込もうとする必要はまったくありません。箴言に「順境のときは喜べ、逆境のときは考えよ」といある通りです。苦しみにあうとき、神さまは私をどのように訓練しようとしておられるのか、考えなさい。ということです。

 6-8節、試練に一人で立ち向かうことはできません。何事も祈ることが必要です。ここで私たちが祈り求める、その求め方がここで問われる気がいたします。信仰は大きいか小さいか、という問題ではなく、質の問題、徹底して、疑わずに信じるひたむきさが大切なのです。「疑う」という言葉ですが、英語ではdoubt、そしてdouble(2つの)は語源が一緒だそうです。心が二つに分かれること、二心は疑いに通じるものです。神さまにも近づきたいけれども、この世の楽しみも捨てられない、こういう二心があると徹底しません。そこから自己分裂がおこって、せっかく祈っても、力ある祈りとならずに、神さまに届かない、神さまの応答も得られない、ということになります。

 9-11節 富んでいるといって傲慢になってはならない、やがて低くされるときが来る、というのです。人生初めから終わりまで、不運で貧しいばかり、という人もなく、はじめから終わりまで、贅沢三昧という人もありません。いずれもまずは傲慢になってはならない、ということをいっています。

 12-18節 試練と誘惑が対比されています。誘惑で人間を惑わすということを神さまは決してなさらないのです。それは悪魔の仕業です。ではなぜ神さまはそれを止めないのかと疑問に思われるかもしれません。神さまはサタンが誘惑するがままに任せられて、その人がどちらを選ぶかを見守られることがあるのです。たとえばアダムとエバはエデンの園で、蛇の誘惑にあうのを神さまは赦されました。ヨブの場合もそうです。その誘惑に負けてしまう原因は、14-15節にあるように、私たちの内にある欲望です。罪を犯したときに、神さまのせいで罪を犯してしまった、という理屈は成り立ちません。良いものはすべて神さまからくるのです(17)。良いものに対しては、すべて神さまに栄光をお返しして、神さまをたたえようではないですか。

 試練はマイナスばかりではありません。試練を通して成長させていただける機会をいただいているのです。境遇に負けないで勝つ生き方を教えてくれるのです。試練による祝福の道があることを覚えたいものです。

 ヤコブの手紙研究(第2回) 「信仰生活の両輪」 1:19-27  (2004/9/15)

 前回学んだように、1章の前半では、試練にあってもそれを不幸なこと、災いだとは思わずに、その試練がその人に忍耐を与え、その人をまた飛躍させてくれる、その人を全き人に造りかえてくれる、だから試練にあったらむしろ喜びなさい、と非常に力強いメッセージがありました。

 19-21節 私たちが神さまに祝福される人生を送るためには何が大事なのでしょうか。19節に「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」とあります。非常に深い言葉です。しかし現実はどうでしょうか。むしろ逆の場合が多いのではないでしょうか。
 人の言ったこと、色々な噂話、そのようなことを聞いたか、聞かないか、充分に聞く前に感情的に怒ってしまう、そして文句を言う、その後で、向こうの言い分を聞いてみると、思ったようではなかった。でもそのときには取り返しがつかないのです。大切なのはこの順序なのです。まず聞く。次に語る。最後に怒る。聖書は、いつも柔和でにこにこして、怒ってはいけませんとは書いておりません。ときには神に逆らい、真理に逆らう場合があるでしょう。そういう場合には怒ってもいいわけです。たとえば子どものしつけは、褒めることばかりではなく、ときに叱るということも大切です。そういうものがなくて、どうして健全に子どもが育つでしょうか。今の子どもの育ちで非常に気になるのは、乳幼児期、子育てがきつい、大変だ、というお母さんが増えまして、昔は働いて、保育に欠けるから保育所に預けていたのですが、今はそうしなくてもやっていけるはずなのに、少しでもストレスがたまらないように子どもから離れて過ごしたい。そんなことで簡単に預けるわけです。子どもにとって一番大切な時期に、親が子どもを褒める、いけないことをしたときには注意するというしつけがなく、育っていく。残念ながらそれが現実の姿であります。
 ギリシャのある哲学者は、「人間はもともとよく聞くように造られたのである。なんとなれば、口は一つだけれど、耳は二つある。」と言いました。まず充分に聞いてから、しゃべりなさい。この順序がうまくいきますと、人間の生活において、もっと人間的な温かい関係が築けるのではないでしょうか。
 内村鑑三先生は「多言有害」と言っていて、文字通り言葉が多いと害をもたらす、といいました。しゃべりすぎると罪を呼び込んでしまうことがある。間違いを引き起こすことがある。内にたくわえられた言葉が、人によい影響を与えることなく、ときにとげとげしく、むしろ、真理を構築することができにくい、ということがあるのです。人にかける言葉がいつも良い言葉でありますように、いつもみ言葉から良いものを心に蓄えておくことを心がけたいものです。
 
 22-24節 信仰生活を車の両輪に例えれば、片輪は、神さまのみ言葉をまず聴くことであり、もう片輪は、聞いて信じたら、そのみ言葉に従って行うということでありましょう。ときに信仰者は、救われるのは行いでなく、信仰であるということを強調しすぎるあまりに、信仰生活で行うべきことも行わないことになってしまいます。霊的な健康状態を保つには、霊的な訓練を自分に課さないといけないのです。そういうことさえおろそかになってしまい、安易に何もしないで、エスカレーターに乗ったように天国にいけるように考えることは危険です。確かに救いは神さまの恵みによって救われるものです。しかし同時に救われた私たちは、神さまに造られた作品として、神さまの栄光をお示ししていきたいのです。そのためには聞いた神様の言葉を実践すること、そこにそれを伴いえない弱い自分が発見できますから、祈って力を求めるようになるのです。祈らざるをえなくなるのです。み言葉が真実か否かを確かめるには、み言葉を私たちの生活に当てはめて実践してみる必要があるのです。

 26-27節 み言葉を行う、愛の実践ということについて、二つの言葉が出てきます。みなしごややもめは、当時一番貧しくて、一番助けを必要とする人たちでした。そういう人々のお世話をしなさい、というのですが、同時に「世の汚れに染まらないように自分を守ること」が重要である、と述べています。私たちは隠遁の生活をするのではなく、地の塩、世の光として、イエスさまを証ししつつこの世の中で生活することを望まれています。神さまに喜ばれる愛の実践を行うためには、「世の汚れに染まらないように」常に清めていただきながら、祈りつつ行動することに務めたいと思わされるものであります。 


 ヤコブの手紙研究(第3回) 「生きて働く信仰」 2:1-26 (2004/9/29)

 1-13節 今でこそ人権問題、あるいは差別問題が大きな話題となり、人権を守ろうとする運動などが時代ですが、昔は、それこそ聖書の時代などは、そういった考え方に乏しいことの多かったことでありましょう。1:27では、みなしごややもめのお世話をしなさい、という勧めでしたが、そういった人々に代表される貧しい人々に対する差別の問題がここで取り上げられています。
 「人を分け隔てしてはなりません」(1)というには、理由があります。一つは、神さまは全ての人を愛しておられる。そしてイエスさまは、この全ての人のために死んで下さった。まず神さまの愛は差別のない愛であるから、ということなのです。
 二つ目に、特に神さまは貧しい者を顧みてくださるからです。ルカ4:18には、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」とあるように、貧しい人のためにイエスさまは来られたのだと、教えておられます。またコリントT1:28-29にも、「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」とあります。
 そして三番目に、イエスさまご自身が貧しい生い立ちで、貧しい生涯を送られたからです。神さまに造られた私たちは、神さまの前で皆平等であります。

 14-26節 信仰的にここを読むときに、なかにはここに反発を覚えるひともあるのです。なぜかというと、パウロの言葉で「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ3:28)と聞いているからです。ところがここを読むと、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(24)とあります。はたしてどうなのでしょうか。
 ローマ書にもアブラハムを例にとりあげています。ヤコブ書では、アブラハムはイサクをささげるという神のご命令に従ってそれを実行したからこそ義とされた。一方ローマ4章では、彼は神を信じた、つまりイサクをささげよ、という命令に対しても信じた。だからその信仰によって義を得た、というふうに受け止められます。どちらも間違いではありません。そこでこの二つは、神学論争の的となったわけです。
 しかし両者は矛盾するものではありません。ローマ書は、救われる前の者が、イエスさまに救われ、御国にその名を記されるためには、何か善行を積み、律法を守り通すことで神さまに認めていただいて、罪なき者として受け入れて頂く、ということではない、と言っているのです。律法を全て守り通すことは人間には不可能です。故に別の方法としてイエスさまを地上に送って下さったのです。
 ローマ書でいうアブラハムは、神さまを何よりも第一に考えて、愛していることを、神さまのみ言葉に従順に従うということで、苦しみながらも言われたとおりに、一人息子イサクを、神さまのご命令だから、といってささげた。それを神さまは喜ばれたのです。一方ヤコブ書の方は、頭の中で、神は存在する、と考える信仰だけで義とされるということではない。信じたらそれを行いをもって応える、応答するということで救われるのだ、ということです。神を信じる、と言う事だけならば、悪霊も信じると19節でも言っています。頭で信じ、体で応答するということが本物の信仰だ、というのです。ローマ書のアブラハムの信仰は、神さまを信じ信頼する、そしてこれに応える、ということまでを含めたことを信仰に含んでいる。ヤコブは、頭で信じるのを「信仰」、行動で応えることを「行い」、と言っています。
 信仰と行いの関係は、律法を守るということではなくて、神さまの与えてくださった、キリストを信じるという信仰によって、救われる。ヤコブ書のいう行いは、救われた者は、救われた者らしく、神さまの言葉を聴いたら、それに応答して行動に移すべきである、ということ。救われたら全く何もしなくても天国へ行ける、というわけではないのです。
 ローマ書でいう行いはクリスチャンになる前のものが、救いの条件として考える行いなのであり、ヤコブ書のほうは、救われた者がその後生きていくときに、神さまの言葉に応えて生きるという行いは欠かせない、という意味での行いなのです。
 
 神さまを信じる信仰には、自然にその行いが伴うはずであります。「信仰」と「生活」を分けるのは本物ではなく、「信仰生活」という一つのものとして生活が新しくされることこそ理想であり、神さまもそれを願っておられるのではないでしょうか。
 「信仰なしに行動へと動かされた人は、いまだかつていない。その人の信仰が、その人を行動へ動かさないなら、それは本物ではない。」(バークレー)

 ヤコブの手紙研究(第4回) 「上よりの言葉と知恵」 3:1-18 (2004/10/6)

 3章は、言葉と知恵について論じられます。
 1節 「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」ここでいう教師とは、み言葉をとりつぐ聖職者という意味に解されます。教師は、その言葉によって人々を教え、諭します。そして言葉を聞く人々に多大な影響を及ぼすという点で、その責任は重大ですよ、と教えているのです。同時に、教える人に限らず、聖書の言葉を知る私たちも学んだことに対する責任が伴うことを思わされます。
 「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:48)

 2-12節 「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(2)
 ヤコブはイエスさまのように、大変分かりやすいたとえを用います。馬はくつわで制御する、大きな船も小さい舵で意のままに操ることができる。ですから、舌という小さい器官を制御することができれば、完全な人間になることもできる、というのです。
 しかし現実はどうでしょうか。この小さな器官によって、一言の言葉によって「全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(6)「舌を制御できる人は一人もいません。」(8)。悲しいかな、これが現実です。これが人間です。
 「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(9-10)
 同じ舌でも、神さまを賛美する一方で、人を呪うこともある。このような矛盾を神さまは喜ばれません。賛美と呪い、これは全く相反するもの、私たちの内にある二心にその原因があるのです。
 それでは、その解決法はどこにあるのでしょうか。それは「上から出た知恵」(17)をいただく、いつも私たちの内を良いもので満たすことにあります。

 13-18節 「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」(13)
 ヤコブの挑発的な問いかけです。そして、この問いかけに対して私たちは、ただ閉口するばかりではないでしょうか。表面上は「知恵があり分別があ」るように見えても、内側は「ねたみ深く利己的」(14)であることを痛感させられます。このような知恵(に見えるようなもの)は、「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」(15)と言っています。
 それでは私たちの望む「上からの知恵」は、というと、それは「何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」(17)とあります。これを読むと、このような者になれればと思いますが、ますます自分自身で勝ち取ることなど出来ないものであることを思わされます。ただただへりくだって、主にお願いするしかないことを思うのです。
 日々の生活の中で、神さまを仰いで、善悪を見分ける知恵、適切な判断を下す知恵を、隅々にまで頂きながら歩んで行きたいものです。 

 ヤコブの手紙研究(第5回) 「霊的成長をはばむもの」 4:1-17 (2004/10/13)

 ヤコブ書の一つの特徴は、誰が読んでも分かりやすいということです。しかし分かりやすい言葉で書かれてありましても、心に意味深く受け止めるには困難を覚えるところがあるのも事実です。
 前回は皆が教師になるな、それは語ることの多い務めであるから、そして言葉に気をつけなさい、といわれました。心に満ちているものが言葉として出てくるのだから、言葉を制する、ということは、内側を良いもので満たすということである、とも学びました。そしてこの4章では、私たちの霊的な成長を阻むものがある、それは何なのか、ではどういうことを求めなくてはならないのか、が語られます。

 1-3節 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」(1)
 私たちの間におこる戦いや争い、もめごと、これが国と国との関係になると紛争、戦争となるわけです。その原因はどこからくるのでしょうか、それは「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」と言っています。2節には「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」とあります。「殺す」「戦う」というと、過激に受け止められますが、私たちの内にある欲望によって、自己中心の心から離れられないと、小さなもめごとがおこり、それがだんだんと大きくなり、歯止めが利かないような状態に陥ることさえあるのです。
 「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(3)
 私たちは祈り求めているでしょうか。また一生懸命お祈りをしているでしょうか。その祈りの動機は、自己中心的な見当違いのものではないでしょうか。「主の栄光が顕われますように。私のようなものを通しても主の栄光が明らかになりますように。」と祈れる者とさせていただきたいと心から思います。

 4-6節 「神さまはねたむ」とはおもしろい表現です。ねたむほどに、それほどに神さまは私たちを愛していて下さっているのです。にもかかわらず、私たちがこの世を愛するとき、神さまは深く悲しまれます。ねたむとは、人間のねたみとは違い、心から愛する純粋な愛ということです。それは愛に対して愛で応答することを期待するものなのです。神さまとイスラエルの関係、またキリストと教会との関係を、聖書では新郎と新婦の関係に例えることがあります。それほどの愛の応答が期待されているということを留めたいと思います。

 7-10節 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(8)
 自分の力で神さまに近づこうとしても、近づけません、神さまに祝福される人間にはなれません。ということを思い知らされて悲しむ、嘆く。そのときに私たちは謙虚にされるのです。自分の力で自身を救うことはできないものです。どうか主よ、私をお救い下さい、という気持ちになったとき、これがへりくだるということです。そうすれば主が高めてくださる(10)のです。

 11-12節 私たちは、神さまの憐れみによって救われています。であれば不用意に兄弟を裁くことはできないのだ、もし裁くのであれば、同じ基準でまず自分はどうなのか、を知る必要がある、そういうことが言外に含まれている箇所です。イエスさまも、「人を裁くな。あなたがたもさばかれないようにすつためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1-2)と言われました。本当に裁くことのお出来になる方はただ一人主なる神さまのみです。
 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ローマ12:19)

 13-17節 「むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」(15) 
 みこころであれば、という謙遜さが大切です。一寸先は闇、明日はどうなるか分からない、という将来を考えるとき、主のみこころならば、こうしたい、ああしたい、という一言を、常に私たちの考え方の中に頂きたいと思います。
 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(17)
 これは罪の定義の一つとして重要です。善、すなわち神さまの御心に沿うことであれば、あるいは神さまのお示しになられたことであれば、それを行わないことは罪である、というのです。ここでも愛で応答することが望まれているように思います。

 ヤコブの手紙研究(第6回) 「勝利へと導く忍耐」 5:1-20 (2004/10/20)

 すでに申し上げましたように、このヤコブ書は、ヤコブが迫害下にあるローマのクリスチャンたちへ宛てた励ましと慰めの手紙でありました。いよいよ最終章です。最後まで丁寧に読んでまいりましょう。

 1−6節 ここは、特にこの世の富に望みをおく者に対する警告が語られます。地獄の沙汰も金次第、世の中金が全てだよ、という考え方がどうしてもあります。「理想主義者として朝食につき、現実主義者としてテーブルにつき、唯物主義者として夕食のテーブルにつく」という諺があります。朝食は青年時代、まだ若いときは理想主義に燃えています。それぞれに大きな夢や純粋な願いがあります。ところがやがて就職して、結婚して家族を養うようになると、非常に現実的になって、組織の中で平穏に過ごしていかなければ、安定した生活は送れない。まあなんとか、よらば大樹の陰といいますか、そういう生き方以外になかろうということで、現実的になってしまいます。やがて歳をとると、体力がなくなり、社会的な肩書きもなくなり、最後は年金、やはりお金だということで、唯物的になってくる、ということでしょう。大抵の人生は大まかにこのような経過をたどるのではないでしょうか。
 しかし、教会に集うお年寄りは、天国が近づくと、だんだん幼子のように純粋になっていき、しっかりと天国を見据えていきいきと過ごしていらっしゃいます。地上ではこうでも、御国においてはちゃんとイエスさまによって住まいが備えられている。やがて神さまのところに帰ったとき、「善かつ忠なる僕よ、よくやった」といって神さまに受け入れていただきたい、と願うのです。この地上にいくら蓄えても、死を迎えれば全てが終わりであって、逆に、この地上で与えたもの、愛したものが、天国に宝として蓄えられているのだ、と聖書には書いてありますから、ちょうどそういうことをここでいっているわけです。最終的に拠り所は金しかない、あるいは富こそ我が拠り所、こう思っている人は心しなさい、というのです。「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。」(2-3)とあります。私たちもやがて神さまの前に立つ日がやってきます。そのことを思い、心して聴きたい箇所であります。

 7-11節 「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」 
 ここでヤコブが強調しているのは忍耐ということです。ただ耐え忍ぶ、我慢するというだけではなく、さらに積極的な意味を含んでいます。聖書のいう忍耐は、耐え忍び、やがて来る祝福された将来に対して備えるという意味があるのです。ヘブライ10:35-36には、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」とあります。最後の勝利を得るためには忍耐が必要なのです。イエスさまも、マタイ24:13で、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われました。
 11節に「ヨブの忍耐」とあります。有名な旧約聖書の人物ですが、ヨブ=イコール「忍耐」という評価が、新約聖書中には何度か出てきます。ヨブはその生涯を忍耐をもって全うしました。次々家族を失う、財産を失う、自身も重い皮膚病にかかって、妻にも見放される。それでもヨブは最後まで、神さまを信じ続けました。その結果、ハッピーエンドを迎えます。ヨブ42:10に、「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」とあります。ヨブの最終的な祝福の秘訣は、主を信じ続ける忍耐に他なりません。神さまの善意を信じて、決して裏切られることはない、と耐え忍んだ、この忍耐です。神の約束された言葉には偽りはない。御国は備えられている。そして永遠の命をいただく者には、将来が約束されている。それを信じ続けてその恵みに与ったわけです。今なぜ神さまは私をこんな目に遭わせるのかわからない、ということがあります。しかし分からないけれども、後になって分かる、ということがあります。長い目で見ると試練が最善に導かれる、ということがあるのです。ですから忍耐が必要なのです。全てを最善に導かれる神さまに信頼し、お従いする人生でありたいものです。

 12節 マタイ福音書の山上の垂訓にもありました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:37)誓うというよりも、イエスかノーかで答えたほうが良い。たとえ神さまに誓ったことであっても、人間の都合ですぐに破棄してしまうことがあります。これは人間の悲しい性です。ですから、「誓う」ということを軽々しく言うべきではないのです。その代わり「そうです。」「そうではありません。」あるいは、「引き受けました。」「お断りします。」と言うべきだ、ということです。

 13節 素晴らしい言葉です。いたずらに苦しみや困難を求める必要はありません。決して聖書はそういう禁欲主義を勧めているわけではありません。苦しいときには、神さまに祈りなさい。神さまに求めるならば、必ず道は開けるのだから。喜びのときは、神さまを賛美しなさい、感謝をささげなさい。
「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ」(コヘレト7:14)

 14-16節 「だから、主にいやしていただくために、罪の告白をし合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(16)
 執り成しの祈りについて語られています。執り成しは、神さまの心に近い祈りです。ですから神さまが一番喜ばれる祈りであります。私たちはただ口先だけではなく、心から祈る必要を覚えます。この力ある祈りを用いない手はないのです。17-18節では、「義人の祈り」の例として、エリヤのことを取り上げています。

 19-20節 最後にヤコブは、「真理から迷い出た者」を連れ戻す行いへの励ましをもってこの手紙を終えています。罪を犯してしまった人を、裁くのではなく、忍耐をもって、柔和な心で受け止めることのできる者とさせていただきたく思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)一人が救われる喜びを表現されたイエスさまのお言葉が響いてきます。
 「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(マタイ18:12)