聖霊について その1      (2003/10/29)

 「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(Uテモテ1:7)

 今回は、「聖霊」というテーマで、三回に分けて学んでみたいと思っています。中でも特に聖霊の働きということにしぼって学びを進めてまいります。聖霊に対する考え方は、非常に多岐にわたっておりまして、この聖霊理解によって、いろいろなキリスト教の教派、分派が生まれてきたという歴史があります。聖霊理解、聖霊に対する正しい受け止め方、は非常に大事なことだと思います。
 そして私たち自身の信仰生活に、聖霊の働きは欠かせません。スタンレー・ジョーンズ先生は、次のように言われました。「クリスチャンというものは、自分の力を練り鍛える人ではない。聖霊を受けることによって、神の力に生かされる人である。またキリストを模範として、生きる生活ではなくて、キリストがわが内に生きておられる、という人である。」クリスチャン生活というのは、洗礼を受けてクリスチャンになったから、自分で一生懸命努力をし、修養して、どこから見ても「ああ、あの人は立派なクリスチャンだ」と人から思われるように、自分を練り鍛えるのがクリスチャンのあるべき姿なのではなくて、むしろいただいた聖霊さまに、生きていただく、働いていただくようにすること、つまり聖霊を受けることによって神さまの力に生かされる人、これがクリスチャンなのです。キリストを模範として、理想として仰いで、自分はイエスさまのようになろう、と歯噛みして頑張る生活ではなくて、(主よ、どうぞこの罪深い、弱いこの不完全な私ですが、私の内に生きてください)といって、イエスさまを心にお迎えして生きる人、これがクリスチャンだというのです。ですから、聖霊というものをあてにしないで、あるいは聖霊というものを考慮しないで、生きる生活はあり得ないのです。
 ただこの聖霊というのものは、どうしたら私たちの内に働いてくださるのか。例えば徹夜祈祷会をして、あるいは断食をして聖霊よ、来たり給えといって祈る祈りを捧げる方もあります。様々な教派を批判する気持ちはないのですが、聖霊は、感情の高まりに応じて神さまから降り注ぐところのもの、というだけではない、と思っています。静かに聖書を読みながら、主に委ねて聖書を読むときに聖霊が働いてくださる、ということもあり得るのです。よく考えて見ますと、聖霊は私たちにすでに与えられています。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38)キリストを信じて、罪を悔い改めて、信仰告白をして、バプテスマにあずかった人は、すでに聖霊が与えられているのです。だからまずここから聖霊について考えるべきなのです。すでにクリスチャンは聖霊を頂いているのだ、ということを忘れないようにしたいものです。 キリスト者は皆、神の賜物として聖霊を頂いている。だから大事なことは、せっかく頂いた聖霊を燃やしなさい、聖霊さまに働いていただきなさい。聖霊さまをせっかくもらっても、それを閉じ込めて大事に金庫の中にしまっておくようにして、結局は自分の考えや、努力、価値観でキリスト教生活をする、聖霊にはいっこうに働きの場を提供しない、というようなことがないように、ということです。

◇力の霊
 では聖霊はどんな働きを私たちにしてくださるのか、ということについて、ここに三つの言葉で説明がされています。「力」「愛」「思慮分別」とこの三つについて考えてみたいと思っております。まずその一つが、「力」であります。聖霊は力の霊、聖霊は、それが働くときに力を発揮する。聖霊は何かを起こすのです。「力」というのはギリシャ語で「ドゥナミス」という言葉が使われています。この言葉からダイナマイト、ダイナモ、ダイナミックといった言葉が派生してきています。ある学者が「人類は四つのエネルギー革命を経て今日に至っている。人類が初めに発見したエネルギーは火、蒸気、電気、原子力であった」と、ところがその先生の結論は、人類の文明は行き着くところまで行った、にも関わらず、人間の罪を清めたり、人間の内側を変革したりするエネルギーは見つかっていない、というのです。それは聖霊以外にありません。聖霊のエネルギーは私たちの内側を新しくするエネルギーなのだ、ということなのです。

@真理へと導く力
 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)
 聖霊の働きのまず一つは、真理を悟らせる。私たちを真理へと導く。これは大きな力です。同じヨハネ14:26に「「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とあります。また15:26には「その方がわたしについて証しをなさるはずである。」イエス・キリストがどんな方かということを私たちに示すのは聖霊の働きです。このようにして聖霊は真理へと導くのです。そして8:31-32には、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とあります。この真理ということが、今日の価値の多様化と乱れた世の中で、まことのものを示してくれるのではないでしょうか。

A慰める力
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)
 「弁護者」とは、口語訳では「助け主」となっていますが、「パラクレイトス」というギリシャ語が使われています。「パラ」は側(そば)、傍ら、「カレオー」は「呼ぶ、招く」という意味です。ですから「そばに呼ぶ」、つまりイエスさまが悲しんでいる者をそばに呼んで肩を抱いて一緒に悲しんでくださる。共感してくださる。これが助け主、慰め主、ということであります。人は何か悲しいことがあると、酒を飲むとか、旅行に行くとか、別のもので紛らわせようとします。そうして荒れた悲しい心を慰める。しかしこれは一時的な解決でしかありません。ところが聖霊による慰めはどうでしょうか。それはそばに寄ってくださるという慰めです。イエスさまがそばに呼んでくださる、それがキリストによる慰めです。ですから聖霊が慰めてくださるということは、とてもありがたい気がします。
 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、」(エフェソ3:16)
 聖霊は私たちを内側から強めてくださる。内側に主が共にいてくださるところの慰めを与えてくださるのです。

B解放する力
 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2)
 「もし、イエスを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(8:11)
 「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(8:13-14)
 聖霊は、私たちを罪と死から解放する力であります。そしてこの聖霊に導かれる者が、神の子である、というのです。教会の名簿に名を連ねる者がクリスチャンなのではなく、聖霊の導きによって生活する者が神の子です。そしてその働きは私たちを罪から解放し、命に移す力を持っている。ここに聖霊の大きな力の働く場があります。

C証しする力
 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(使徒言行録4:31)
 神の言葉を大胆に語る力、イエス・キリストを証しする力、それは聖霊の力です。
 「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(第一コリント12:3)
 。クリスチャンになるとき、救いにあずかるときには信仰告白をします。その信仰告白ができるということは、その人が聖霊に導かれたからであります。聖霊ご自身が、イエスは神の子救い主であると、告白させてくださるのです。ただの人間の言葉ではないのです。

D実を結ぶ力
 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22-23)
 幹であるキリストに、枝である私たちがつながれば、幹から栄養が流れて、やがて枝に実をつけることになります。これは枝の努力ではありません。イエスさまが、聖霊さまが実を結ばせるのです。ともすると私たちはそれを逆に考えて、いい実を結ばねばならない、と思って努力するがうまくいきません。それは幹につながる、ということを忘れてしまっているからなのです。私たちのするべきことは、キリストとつながること、豊かな実を結ばせてくださるのは、イエスさまの力、聖霊の働きであることを忘れてはならないのです。

 聖霊について その2      (2003/11/5、12)

 前回から聖霊の働きというテーマで学んでおります。前回は、聖霊は力を与えて下さるもの、聖霊は力である、ということでした。そして、どんなところで、どんな力を聖霊は発揮されるのか、イエスさまにつながって聖霊の導きを頂くと、どういう作用を聖霊が私たちにしてくださるのか、どういう力を示して下さるのか、といったことを学びました。そして今日は「愛」テーマになります。聖書の中でも、使徒言行録を見ますと、初代教会、特に、キリストの召天された直後の初代教会は、実に生き生きとした教会であったことが記されています。そして信者が次々に増し加えられた、とあります。現代から見て、うらやましい姿が見られるのです。その要因は何であったかというと、教会の交わりに加わっている人々がお互いに愛し合っていて、その姿を見て人々が惹かれて加わった、という姿でありました。聖霊が働いた初代教会の特徴は、互いに愛し合うという具体的な形になってあらわれた、それが周囲に、尊い力となって現れていった、ということです。

 今日は愛とは、ということを大きく三つに分けて学ぶことにしています。
1.愛の本質
 すなわち愛とは何か、ということを見ていきたいと思います。
 (1)それは最大唯一の戒めです。
 ☆マタイ22:36−40
 二つの掟とは、神への愛、そして人への愛、この愛ということに掟は尽きる、というのです。
 ☆ヨハネ13:34−35
 このところはイエス・キリストがそのご生涯の中で、たった一度だけ「私の戒めを守りなさい」といって、お命じになったことがでてくるのです。それがどんなご命令であったかというと、「互いに愛し合いなさい」でした。
 ☆ガラテヤ5:14
 この前の13節で「愛によって互いに仕えなさい」といって、律法全体がこの愛に尽きるといっているのです。
 ここで改めて、愛ということの重みを考えてみたいのですが、モーセの十戒というのがありますが、これは文字が613あるそうです。この613の中には、「〜するな」という禁止と「〜せよ」という命令の律法があるのです。もちろん十戒は十の戒めですが、ここから派生して、ユダヤ教の律法のことですが、禁止の律法が365、248が命令で、全部で613です。この613の律法が凝縮したものが十戒、そしてこれをもっと詰めて行くと、最終的に聖書全体から見ても、愛という一語に尽きる、というのがこのことです。365は一年の日数、248というのは人体の部分の数だそうです。ユダヤ人は数を非常に象徴的に使うのです。いずれにしても、これだけの数の律法の中で、最大最高の戒めが、愛なのです。そしてキリストは殆ど命令や掟をお与えになることはありませんでした。「互いに愛し合いなさい」が唯一の戒めでした。愛はキリストご自身もお与えになったご命令であった、というふうに受け止めていただきたく思います。

 (2)愛の種々相(しゅじゅそう)
 愛といいましてもいろいろあります。日本語は愛という一語であらわされますが、聖書の言葉では、主に三つで表されます。それは「エロス」「フィリア」「アガペー」です。この違いは、「エロス」は最も低級の愛、たとえば動物的な、肉体的な、本能的な、そういう愛です。「フィリア」は、夫婦間の肉体的のみならず、精神的な愛、あるいは友情、郷土愛、そういうものを含めて全部「フィリア」に入ります。そしてこれらは人間的な愛です。普通私たちが口にする愛は、このあたりまでのレベルの愛のことなのです。ところが聖書ではもうひとつの愛を使います。聖書本文中には、こちらの愛のほうがむしろたくさん使われております。イエスさまの言葉もこの愛、パウロの説く愛もこの愛でした。それが、すなわち「アガペー」です。ニンブレンという神学者が、愛について神学書を書いていまして、その中のでは、「自らを低くして、価値なきものに向かい、自己を捨てることによって相手を生かすところの犠牲的活動」と定義しています。相手に好意や善意を示したから、相手からも報いがある、ということを期待しないで愛する、報いを望まぬ愛といいましょうか、自らは犠牲を払っても、それをいとわぬ愛。罪びとの私たちをイエスさまが愛して下さった、まさにこの愛であります。

 エイリッヒ・フロムという神学者は、愛に5種類あるといっています。
1、受容的な愛
 愛されることのみを求めること、他者依存的な愛。「愛されたい」という思いだけが自分を支配して、愛を失うことにびくびくしている。
2、搾取型の愛
 自分が愛されることばかりを望んで、そのためには手段を選ばず、それを獲得しようと奔走する。他者利用型、とも言えます。 
3、貯蓄型の愛
 内にある幸せや、愛の感情を、自分でしっかりと保っていたい。人にこれを分け与えるのは惜しい、と考える、自己防衛的愛。愛を独占して、これを出し惜しむ。周囲が自分だけに愛を集中してくれないと不満なのです。
4、市場型の愛
 愛するけれども、それに報いる愛を相手からもいただく、向こうからの愛がないとこちらも愛さない、ギブ・アンド・テイクの愛。
 この四つがいわゆる人間的な愛の姿であります。
5、生産的な愛
 これが「アガペー」に近い愛なのです。与えること自体に喜びを感じる愛。人を愛することに喜びを感じる。報いを期待しない。愛することの中で自分に生きがいを感じる愛。この愛は周囲にいろんな良い波紋を投げかけます。そして自分が意識しないうちに周囲が変わってくるのを体験します。
 このように、愛にはさまざまなレベルがありますが、聖書で語られる神の愛は、「アガペー」の愛であると覚えて頂きたく思います。

 (3)愛の特性、特質
☆浪費
 マルコ14章に、ナルドの香油の記事があります。この人は罪深い女でしたけれども、イエスさまに出会って、平安が与えられ、感謝して先生のために何かして差し上げたい、と思っていたところ、先生が町に来られました。そして彼女は自分の持っていた財産といってもいいような、高価なにおい油をイエスさまに注いで差し上げたのです。ところが、それを見た弟子たちはびっくりして、「もったいない」「こんなことをイエスさまが喜ばれるはずがない」「お金にして貧しい人々を助けたほうが喜ばれるのに」などとつぶやいたのです。ところがイエスさまは、それを大変喜ばれて、「福音の伝えられるところには、このことも伝えられるだろう」とおっしゃいました。この婦人はイエスさまに対する愛と感謝から、一番尊いものを惜しげもなく捧げたわけです。損をしないで人を愛そうとしても、なかなか人は愛せないのです。愛には浪費、無駄と思われるようなこともあります。

☆犠牲
 親が子供を愛するというときに、親が子供のために夜なべして何か作るとか、子供のためには苦労してもいとわないとか、親はそういう犠牲をものともせずに子供を愛するのです。

☆譲歩
 Tコリント8章では、肉を食べてもいい、悪いということで意見が分かれました。偶像に供えられた肉を食べると汚れるというのは弱い人、肉は肉でも市場で売られているのを食べるのは、栄養を取るためであるから、それは悪くはない、そうでないと肉を食べることは出来ないのだ、と割り切れる人、これは強い人、とパウロは言いました。しかしこの言い方は、強い・弱い、という表現で、いい、悪いではないのですが、AとBという二つにパウロは分けました。パウロ自身はどちらかというと「強い」の方なのです。しかしBの人たちがつまずいてはいけないから、その人たちの前では意識的に無理して食べようとは思わない、と言うのです。このように、愛とは、弱い、あるいは幼い、そういう人たちを殺さない、むしろ生かすようにするのです。そのためには、自分自身の方を譲る、歩み寄る、あるいは低くする、そういう性質のもの、これが譲歩という意味です。

☆具体的、個人的
 抽象的に愛するということは誰にでも出来ます。私は日本を愛する、世界を愛する、そういいながら自分の家族を愛せない人もいます。「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、長老ゾシマはこう言いました。「一般を愛すれば個人への愛は少なくなり、全人類のために十字架もいとわぬと思うが、友と二日と一部屋におられず、憎しみが増すと、人類愛は熱烈になる」非常に矛盾するこういうことがあり得るのです。人は抽象的なことは愛することが出来るのです。しかし目の前の特定の人に対して、なかなか愛することができない。そこに人間的な愛の弱さを思わされます。ですから「アガペー」の愛は具体的であるのです。

☆現在的 
 トルストイの言葉に、「未来の愛は存在しない。愛はただ現在のみの行為である。現在において愛を示さない人間は、愛を持たない人間である。」とあります。明日愛そう、来年から愛そうなどと、思ってみても、今でなければ意味がない、というのです。幼児教育の世界でもそういうことが言われます。倉橋惣三先生の「育ての心」という本の中で、子どもは突然教師に飛びついてくることがある。そのときに、教師が他のことをしていたら、「ちょっと待っててね」といって用事を済ませてから、その子の方を向いても意味がない。つまり飛びついた瞬間、その子どもをしっかりと抱いて、言葉をかけてあげる。子どもにとっては、そういう「今」の愛が非常に大切なものなのです。

 聖書の愛が「アガペー」のこういった愛である、ということを学ぶときに、私たちはもともとこの深い愛を持ち合わせていない、ということを思わされます。だからこそ、この愛を求めていく、この愛の性質にあずかる必要があるのではないのでしょうか。

2.愛の価値
 愛とはどういう効用があるのか

☆愛は人を生かす
 ゴルビッツァーは、「私を大切に思ってくれる人、私との間柄がまったくみずいらずの人、その人のためなら全世界も問題でないという人、そういう人がなければ人生には幸福もなく、何の意味もない。」と言っています。言い換えれば、この人のためなら何も惜しくない、というほどのそういう愛を示してくださる存在があるということ、愛されているのだ、という実感が伴うときに、私たちは生きる喜びや生きがいを感じるのです。聖書を読めばわかる通り、私たちは一人ひとり神さまから愛されている存在であります。何よりそこが出発点であるということを思わされるのです。

☆愛は人を作り変える
 「罪と罰」(ドストエフスキー)の主人公ラスコリーニコフは、世の中に尽くすためには、皆から忌み嫌われている高利貸の老婆を殺害してもいいのだ、という極端な考えを持ち、その殺人を実行し、そのことで一層彼は苦しむのですが、その人を救うのがソーニャという娼婦でした。彼女の純粋な愛が彼を救って、もう一度全うな人生へと立ち返らせることになるのです。聖書ではザアカイが良い例です。彼は収税人として、人々から多額の金を巻き上げて私腹を肥やしていたのですが、キリストに出会って、まったく彼は変えられます。この奇跡といってもよい力は、イエスさまの愛のゆえでした。
 ヒルティの「眠られぬ夜のために」には、「信仰など全然解しない最悪の人間の心にも、愛はなお入り込み、神とのつながりを作り出す。」とあります。

☆愛は人に神を示す

☆愛は愛する人を神に近づける
「愛して愛を失うのは、一度も愛したこのない人より幸いだ」(ルター)
私が愛し、相手がそれによって変わらなかったとしても、実はそのことを通して、神さまの方から近づいてくださるということがあります。それによって私たちは、神さまをよりよく理解できるようになるのです。
Tコリント13:8に、「愛は決して滅びない」とあります。愛は決して無駄にならないということです。愛は相手を作り変えるという働きをするだけではないのです。相手が愛に応えてくれなくても、逆に相手が、私に恩を仇で報いるようにして遠ざかったとしても、その愛する者を神さまが顧みて下さって、祝福して下さり、神さまがより近くその人に近づいてくださるのです。

3.愛の源
 最後に、ではその愛はどこから来るのか、どうしたら私たちも愛する人間になれるのか、一番の問題はそこにあります。みんな愛する人になりたいのです。しかしそれができないでもがき苦しんでいます。現代人は愛することのできない悩みと、愛されない苦しみ、こういう中で生きているのではないでしょうか。

 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです・・・」(Tヨハネ4:7ー12)
 出発点は神さまの愛です。神さまが愛して下さらなければ、私たちは愛を知らないし、愛することもできません。神さまから愛されるという経験を私たちが持つことができたところから、愛のない自己中心の私たちも、いささかでも神さまの愛の一部にあずかれるように変えていただけるのであります。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22−23)
 愛とは何か、「霊の結ぶ実」とあります。榎本先生は「私たちは枝なのだ。キリストご自身は木の幹なのだ。だから幹に枝がしっかりとつながっていることによって、その幹から伝わってくる養分が枝に伝わって枯れかかったように見える枝でも、幹にしっかりとつながっておれば、時が来たら実を結ぶ。葉を茂らせて実を結ぶ。」と言っています。
 イエスさまはもし枝が木につながっていれば、豊かに実を結ぶ。しかし枝が木から離れたら、何一つ実を結ぶことはできない、と言われました(ヨハネ15:5)。どちらかということはないのです。中間のように見えるかもしれませんけれども、本当はキリストにつながって豊かに実を結ぶか、そこから離れてまったく実りのない生活をするのか、どちらかだというのです。非常に徹底しています。そして愛とは、幹につながったときにはじめて結ぶ実なのだ、とこういうのです。
 しかし、私たちは逆のことを考えるときがあるのです。「私たちはクリスチャンになったのだから、いい実を結ばなければならない。いい実を結んで、いい証しをしなければイエスさまに申し訳ない・・・。」と。そして一生懸命がんばるのだけれども、なかなかそういう生活はできません。何か特別な集会でもあるときには恵まれるのだけれども、それからしばらくするとまた落ち込んでしまう。感激だけでは、人間は長続きしません。感激ではなくて、御霊の導きにあずからなくてはならないのです。これは単に興奮状態にならなければ御霊はくだらない、というのではなく、ただ静かにしていれば御霊は働くということもあるのです。聖霊は感情の問題ではなくて、み言葉を読み、み言葉に委ねる、そのことによって幹につながっていくことができるのです。そして結果として実を結ぶことになるのです。

 愛の源泉は神さまの中にあり、キリストの中にあります。豊かな愛の人になりたいと願うならば、愛する人になろうと思うその決心をあきらめて、キリストの弟子になりきろう、イエスさまとしっかりとつながろう、み言葉をいつも聴こう、聴いたみ言葉には従おう、これだけを考えたら、神さまが責任を持って私たちをも愛の人にして下さるのです。そのことを信じたいと思います。そしてそのためには祈りが必要になってきます。それは一つの形式でもなければ、習慣でもなく、神さまに祈るということを通して、神さまの言葉を聴き、また神さまの前に自分を投げ出す、委ねる、それが祈りになるわけです。
「主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」(エレミヤ33:2−3)

 聖霊について その3      (2003/11/19)

 「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(Uテモテ1:6-7)

 「思慮分別の霊」
1、心落ち着けて
 聖霊というのは必ずしも感情的なものばかりではありません。恍惚状態、興奮状態になるようなときに、御霊が満たした、と考える人たちがありますが、聖書はそういうふうには言っていないのです。ある意味では逆で、聖霊は「思慮分別の霊」、または「慎みの霊」(口語訳)であると言っています。これは英語でも2種類に訳されています。すなわち、"sound mind"(NKJV)(健全な心)、"self-control"(TEV)(自制心)です。つまり聖霊によって、感情に流されやすい自分、境遇に支配されて己を失いやすい自分、何かあると取り乱してしまう自分、そうならないで、自身が平静に、落ち着いてものを見ることの出来る心をいうのです。また"sober"(酒に酔っていない状態)という語を用いている英語の聖書もあります。
 聖霊は、御言葉を読み、祈るキリスト者に対して、(聖霊よどうぞ導いて下さい)と祈るならば、ここに表現されたような落ち着きを私たちに与えて下さるのです。興奮状態ではなく、逆に、どんな境遇の中でもバランスのとれた心でものが見れること、常識という言葉にも置き換えられることでしょう。内村鑑三先生も言われましたが、キリスト者は常識の人でなければならない。非常識ではいけないと思うのです。落ち着いてものを見ることのできるときに、本当の自分が見えてくるし、他人も正しく見ることができるのです。詳訳聖書には「聖霊は落ち着きのある、均衡のとれた心を与えてくれる(制御心、自制の霊)」とあります。自制についてはフォークナーという学者も「恐慌状態、または激情の只中での自制心」とあらわしています。盲信、狂信といった形に暴走せず、健全な常識ある心、あるいは正しい将来に対する洞察力、それらを含んだものが思慮分別、といえるのではないかと思います。
 「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4:23)
 
 「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」(箴言16:32)


2、舌(言葉)を制御する
「自分の口と舌を守る人は/苦難から自分の魂を守る。」(箴言21:23)

 「口と舌」とは言葉のことです、私たちは心を治めると同時に、自分の言葉を治めることが大切です。

 「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(ヤコブ3:2-10)

 人間は他のものには勝てる、あるいは治めることができても、自分の言葉をコントロールできない、ということがあり、それで失敗することが多いものです。これは自分の力ではどうにもなりません。聖霊さまに働いていただく必要を覚えるものです。そして全てを聖霊さまにコントロールしていただいて、いつも心の内側を良いもので満たしておきたいと思います。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」(ヤコブ1:19)

 言葉で失敗をしないために大事なことは、まず聞くことです。語る前に聞く。相手の言うことをまず聞くようにして、その次に何かアドバイスがあれば話してあげなさい。必要であれば怒ることもありうるでしょう。しかしこれが普通は逆になります。ギリシャのある哲人が、「人間は口が一つ、耳が二つ与えられている。まず聞くことを先にして、そして最後に話をする、というために、神さまは耳を二つ、口は一つしか与えられなかった。」と言いました。非常に示唆にとんだ言葉だと思います。

3、行いを治める
 三番目にコントロールすべきものとしては、私たちの行為があります。
「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」(Tテモテ4:7-8)
 
 自分自身を訓練しないと、私たちは悪しき思い、誤った言葉、人を傷つける行為、に溺れてしまいます。ですから自らを訓練しなさい、とここでいうのです。

 以上3回にわたって、聖霊について、その働きを学んでまいりました。聖霊は「力」と「愛」と「思慮分別」の霊であります。そのような聖霊さまが、私たちの内で充分に働いて下さるとき、どういう不思議が起こるのか、ということを最後にサムエル記から学んでみたいと思います。

「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。」(Tサムエル10:6-7)

 サウルが王に就任するときに、サムエルが語った言葉です。なんと自由なことでしょうか。御霊に満たされているあなたならば、何をしても、それは御心に適うことだから「しようと思うことは何でもしなさい」ということです。これがキリスト者の本当に豊かな人生ではないでしょうか。私たちも少しでも神さまの御心に適う者とさせていただき、一切をお任せして、この聖霊さまに充分に働いていただきたいものです。