「恐れるな」の福音      (2003/4/30)

 「恐れるな」の福音(2003/4/30)
 聖書の教えに特徴的な言葉の一つに「恐れるな」ということがあります。神さまは私たちに「恐れるな」と常に言って下さっています。今回はその言葉が出てくる箇所を七ヶ所選んで、そこから何故恐れないですむのか、恐れないで平安を保ち得るのか、その理由を見出してみたいと思います。

1、「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」(ルカ2:10)
 イエスさまがお生まれになった時の有名なクリスマスの出来事です。羊飼いが野原で羊の番をしていると、強い光が天から現れて天使が語りかけた。そして大合唱が聞こえた。天からの啓示、その第一声が「恐れるな」であったのです。というのは、それまで神さまを恐れるということが当然のことだったのです。それも「畏れる」ではなく、「恐れる」「怖れる」であったのです。旧約聖書には、神さまは聖なる方だから、神さまを直接見ることはできない、あるいは神さまを見たものは死ぬ、といったことが出てくるのです。サムエル記下には、ダビデの命令で契約の箱をエルサレムへ運ぼうとして、途中傾きかけた箱をウザが押さえたために、神に打たれて死んだとあります。「さわらぬ神にたたりなし」と言いますが、神さまは恐いもの、恐ろしいもの、我々は罪人であるから、義なる神さまを直接見たり、触れたりしてはいけない、そういう概念が強くありました。そういう中でイエス・キリストが地上にお出でになりました。そのときの第一声が「恐れるな」であることは意味が深いのです。言い換えれば、神さまは正しい、清い、義なる神さま、ということだけが前面に出てきていた旧約時代に比べて、イエスがお出でになったということで、「神は愛なり」の宣言をされたのです。神さまは愛なる方だから、御子イエスさまをこの世に送られた。神さまは愛だから恐れるな、という意味でこの最初のメッセージはあるのです。今日でも多くの人々が、自分の先祖や死んだ人たちの霊を慰めたり供養をしたりといったことをきちんとしていないから、自分は病気になったのではないか?あるいは不幸に遭うのではないか?といって恐れて生活している人が多いのです。しかしイエス・キリストの福音は、いわゆる無知からくる迷信やいろんな言い伝えの呪縛から逃れられない人々に「恐れるな」と言って下さっているのです。

2、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
 ここは、ファリサイ派、律法学者による迫害や中傷、あるいはローマの高官たちの抑圧が始まってきたころです。しかしそういう人々を恐れる必要はない、と主は言われるのです。なぜかというと、体は痛めつけることが出来るかもしれない、あるいは死に至らしめることはできるかもしれない。しかし体だけではなく、魂をも滅ぼすことの出来る方は神のみであり、私たちはこの神を恐れるべきであって、人を恐れる必要はない、というのです。この後は「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と続きます。一人ひとりを神さまは顧み、愛しておられる、だから恐れるな。前のほうでは神のみを恐れなさい、と言いながら、31節では恐れなくてもいいのですよ、と言っている。矛盾するようですが、その間にキリストの十字架があったから恐れなければならない神さまを恐れなくてもよくなったのです。人を恐れるな、なんとなれば、神さまは守っていて下さるから。人々の迫害、中傷を恐れるなというのです。これもまた幸いなことであります。というのは非常に多くの人々は、みんなから好かれたい、という願望を持っています。人から悪く言われたり、批判されたり、中傷されたりすると、人生もうだめだ、と死を決断したりする人もあります。しかし神さまから守られているということが本当にわかれば、どんな批判や中傷にも忍耐して、全てを主にお委ねすることができるようになるのです。

3、 「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』」(ルカ8:50)
 会堂長のヤイロという人がありました。この人の娘が危篤状態になったので、使いを遣わして、イエスさまに「先生、来て祈ってください」とお願いをします。それを聞いたイエスは、この敬虔な人のためにそこへ行くことになり、弟子を伴って行こうとするその途中でまた別の出来事にぶつかります。ようやくヤイロの家に着くと、すでに娘は息を引き取っていた。そこで「恐れるな」といわれた。そして娘を蘇えらされたのです。聖書によるとキリストのご生涯で、ご自分の復活以外に3回、人を蘇えらされています。一人はやもめの息子、そしてヤイロの娘、三人目はマルタ、マリヤの弟であったであろうと言われるラザロです。神さまは力あるお方だから、御心ならば顧みてくださる。死人を蘇えらせる、病いを癒す、それだけではなくて、あるいはそれ以上の奇跡、すなわち人を作りかえる奇跡を含めて、そういう私たちの想像を絶する偉大な力のあるお方であることを教えてくれます。

4、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)
 「小さな群れよ」とあります。例えばクリスチャンの数は、日本ではわずか1%、あるいは自分の家族の中で、神さまを信じているのは私一人であるとか、いろんなところでクリスチャンは常に少数者としての劣等感を持ちやすいものです。マイノリティ・コンプレックスとでもいいましょうか、小さい、少数者、だから力がない、とあきらめがちなのです。しかし「小さな群れよ、恐れるな」です。罪許され、とこしえの命をいただいたものは、やがて御国に帰ったときに、神の国を受け継ぐ相続人の一人として頂ける、こういう素晴らしい約束があるのです。ここで「恐れるな」とはどういうことでしょうか。神さまはたとえ小さな者であっても共にいてくださるということを思えば、大きいもの以上の力を発揮する。神さまはいと小さきものにも、与えると約束されたこの約束は必ず果たされる、神の約束にくるいはないのだ、ということです。榎本保郎先生がこういうことをおっしゃっています。「信仰は自分の能力+α(アルファ)ではない。自分の能力+∞(無限大)である。」小さくても、全能の神さまがいっしょに何かをなさるときに、実に大きな力を発揮することが出来る。そのような例は聖書中にたくさんでてきます。一人の少年が持っていたわずかなパンをイエスさまのみ手に委ねたら、5千人の人々を満腹にさせた、しかも十字架の福音を表す象徴的なオブジェクト・レッスンとしてすべての人にこれを示し、この5千人の飽食という事件は、四つの福音書全てに記されるという特異な出来事です。御国を受け継ぐとは、大きなビジョンを頂いています。そしてイエスさまはおっしゃっています。その約束には決して間違いはないのだと。

5、「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」(ルカ5:10)
 ペトロの献身への決意の記事です。半年前にバプテスマのヨハネに紹介されて、すでに出会っていたのですが、まだ確信に至らず、故郷ガリラヤに帰って漁師を続けていたのです。そこにある朝、夜通し網を降ろしたけれども、魚がとれずにがっくりしていたところに、キリストがあらわれます。イエスさまは岸辺に集まっていた人々に向って説教するためにペトロの舟に乗り、岸から少し離れて、舟の上から話をされます。きっとその話もペトロは感動して聞いていたと思われますが、その後、沖に出て網を降ろしなさいといわれる。ペトロはびっくりした。一つは沖にでても魚はとれない、なおかつ朝はとれない、ということを漁師としての経験から充分にわかっていたからです。しかしそこがシモン・ペトロの偉いところなのですが、お言葉ですから、網を降ろしてみましょうと言った。そしてたくさんの魚がとれるという奇跡に出会い、ペトロはかぶとを脱いで「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言います。魚はとって食べる物、そして死んでしまいます。ところが人をとる漁師とは、とってこれを作りかえる、とってこれを生かす、とってこれを祝福する、そのための「とる」なのです。とって死に至らしめるのではなく、とって生かす仕事、その仕事に加わらないか、とイエスさまはおっしゃったのです。そうして人をとる漁師、という伝道者、宣教者、福音の救霊の働き人、にさせていただけるということになりました。ここで「恐れるな」との意味は、神さまが仕事をお与えになるときは、同時にその仕事が出来るだけの力を与えて下さるということです。人をとる仕事に召されたら、その仕事が出来るように、主は共にいて働いてくださる。沖に出てみなさい、と言われたときも、口で言うだけでなく、イエスさまご自身も一緒に舟に乗られたのです。主の用であれば、神さまが共にいて、イエスさまが力添えをしてくださるから、恐れない。能力+無限大の力になるのです。ときどき私たちは、「神さま自分の力に見合った仕事を与えてください」と祈ります。ところが私たちが祈るべき祈りは、「神さま、この仕事を果たしうる力を与えてください。」であるべきです。

6、「こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」(使徒言行録27:24-25)
 パウロが囚われの身となって、パレスチナからローマに向って船で護送されていきます。彼は晩年ローマの獄中で過ごす事になるのです。そしてその後に殉教したと言われています。船で運ばれたときの彼の身分は囚人なのです。ローマで裁判を受ける為に護送される囚人。ところがその船が、地中海の真ん中でエウラキロンと呼ばれる暴風にあって、船員も番兵も助かるだろうかと心配になり、食事ものどを通らない状態でした。そのときに彼らを励ましたのが囚人であるパウロであったのです。というのはパウロに前日、神さまの声が聞こえてきて、『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』と言われます。ここでの「恐れるな」は、今は絶望的な状況にあるかもしれないけれども、これは一時的なものでいつまでも続かない、やがて嵐は収まり、ローマに到着することができる。当時の世界の中心であるローマで最後の証しをするときが与えられる。万事を益となさる摂理の神さまがいらっしゃるのだから恐れるな、ということです。今日がダメだから明日もダメなのではないのです。どんな暗い夜にも必ず朝がくるのです。今日よりは、明日、明日よりは明後日と次第によくなるのだという気持ちで毎日を送りたいものです。

7、「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」(ヨハネの黙示録1:17-18)
 神さまはパトモス島でヨハネに啓示をお与えになりました。様々な啓示、黙示を与えられたのですが、そのなかの一つです。「最初の者にして最後の者」は口語訳では「アルファでありオメガである」と書かれていました。すなわち初めから神と共におられて天地創造の業にも関わった、この世の終わりに、私がきてこの世の終わりを告げる、ですから初めに神があって、世界が造られたのです。世界が生まれて、人間が誕生して、それから宗教が誕生したのではないのです。私たちの信じる神さま、そして救い主は、万物の創造主、そして全能の神です。この主が私たちをお守り下さる。今も生きて働いておられるのです。ここに恐れないですむ理由が三つ書いてあります。一つ目は主は初めであり終わりである。つまりキリストは万物の根源なるお方であるということ。二つ目は「見よ、世々限りなく生きて」神さまは現在も生きておられるということ。三つ目は「死と陰府の鍵を持っている」とは最後の審判者として、世の終わりにおいて、万物の総決算において、審判される方としてお出でになる。それだけの権威のある方であるということであります。ここには神さまの完全な支配と究極の勝利が約束されています。私たちの神さまは個人の神さまであるだけではなく、教会の神さまだけではなく、世界、そして宇宙の神さまであります。

 「恐れるな。神さまは愛なる方です。神を畏れて人を恐れません。神さまは人間がどうしようもなく行き詰ったところでも力を発揮されます。私たちはすでに御国の相続人とされています。神さまの召しによって働きを与えられるとき、私たちには能力以上の力が与えられます。神さまは最初であり、最後である完全なお方、そして今も共にいて働いて下さるお方。この神さまに愛されている私たちは何を恐れましょう。だから恐れるな。」

「沈黙のすすめ」(アモス書5:13)     (2003/6/4)

「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」(アモス5:13)

 聖書にはしばしば、沈黙することを勧める言葉が出てまいります。ベルナルドというすぐれた修道士は、「聖人を準備し、存続させ、完成させるものは沈黙である」と言いました。またカーライルは「話すことは時間に属し、沈黙は永遠のものである」と言っています。
 聖書の中では、例えば、「口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。無知な者も黙っていれば知恵があると思われ/唇を閉じれば聡明だと思われる。」(箴言17:27-28)という言葉もあります。アラビアのことわざにも、「我々は口に出さぬ言葉の主人であるが、口に出してしまった言葉の奴隷である」とあります。
 アシュラム運動では、沈黙し、静まって、み言葉に聴き、祈る時を過ごします。この忙しい時代に反するようなことでありますが、どうして我々には沈黙が必要なのでしょうか。今回はそのことを考えてみたいと思います。

 まず一つは、沈黙するということにより、私たちは、物事を正しく捉えることができる、ということがあると考えます。パースペクティブ(perspective)という言葉がありますが、私たちは、遠近感覚が正しいとはっきりとものを捉えることができるのです。片目で見ると、見えはしても遠いのか近いのかが分かりません。しかし複眼で見るとき、遠近がはっきりと分かります。
 一つの例としてヨハネ8章をご紹介しますが、ヨハネ8:1-11に、イエスさまが朝早く祈ろうと神殿に行かれると、それを知った民衆がかけつけました。そこへ律法学者たちが、姦通の現場を捕らえられた女が連れてこられました。連れてきた律法学者やファリサイ人たちは、群集の人気を一手に集めているイエスさまを何とかしておとし入れようとたくらんでいたのです。姦通の罪には、当然男性の存在もあるはずですが、なぜかその女だけを捕まえてきました。察するにその現場を差し押さえる為に、工作でもしたのでしょうか、買収して男にわなをかけさせたのでしょうか、なぜか女だけを捕らえてきたのです。非常に卑劣な行為です。律法学者たちは、「掟に従って、石で打ってこの女を罰しましょう」とイエスに問いかけます。イエスさまの答えは二つに一つしかありません。一つは、「律法に書いてあることだから、罰してもよろしい」ですが、そうすると一般の群集は、キリストというお方は、愛や憐れみのない人だ、と非難されてしまいます。一方、「そんな可愛そうなことをしてはいけない。石で打つなどという行為はお止めなさい」と言えば、律法に背くのかと咎められます。従って、どちらを答えてもイエスさまには不利になる、というような質問を用意周到に考えたのでしょう。この罪を犯した女性は、その策略のためのわなであったのかもしれません。そこでイエスさまはどう答えられたでしょうか。6節に、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。このイエスの行為はまさに沈黙です。地面に何と書かれたかは分かりませんが、私はこのイエスさまの姿は分かる気がするのです。この女性を引っ張ってきた連中の心の汚さ、卑劣さに心を痛めて、黙る以外になかったのではないでしょうか。それでもしつこく周囲は問い続けるので、イエスさまは、おもむろに立ち上がられて、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7)と言われるのです。これは人間的になかなか考えつく言葉ではありません。「石を投げなさい」という言い方で、イエスは律法を否定していません。悪いことを裁く掟は、それに条件をつける形で肯定されたのです。周囲が手に石を持って今にも投げつけようとしている状況の中で、「罪を犯したことのない者から」と言われて、皆ドキッとしたことでしょう。そしてハッと我に返るのです。「いままで生きてきた中で、罪を犯したことのない者などあり得ようか。」と。そしてイエスさまは、またしゃがんで地面に書き続けられました。さてその後どうなったでしょう。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(9)とあります。そのときの女性の気持ちを考えてみるとどうでしょう。(良かった、助かった)と思ったでしょうか。私はこの女性はいよいよ観念したことと思います。なぜなら罪のない者はすなわちキリストご自身、ここにまさしく私に石を投げる資格のあるお方がおられるのです。彼女は身構えたことでしょう。死を覚悟したかもしれません。ところがイエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11)と言って女を許したのです。そしてやがて十字架にかかるときに、この女性の罪をも背負って十字架にかかられることになるのです。ここでイエスさまは、沈黙するということで、このときに最もふさわしい答えを神さまからいただいたのではないでしょうか。急いでしゃべるとどんなことを言うのか自分でも分かりません。どなりちらしたところで良い結果は得られなかったことでしょう。「罪のない者から打て」という答えはまさしく神さまからきた答えだと思うのです。
 このように私たちは、沈黙することで、最も正しい見方が出来ることがあります。河野進先生の詩をご紹介します。「私よ/黙っていて後悔したか/話をして後悔しなかったか/はっきり示されます/天のお父様/もだす恵みを/たえずお与えください」

 二番目に、弁明すること以上に弁明になることがあるということです。イエスさまはピラトの前に引き出されたときに、沈黙しました。皆に訴えられているときに沈黙しました。その沈黙がじつは神の子イエスの権力を示す結果になりました。バークレーという聖書学者は、「ほめることには遅れをとってはならないが、批判するには早まってはならない」と言いました。「丸薬と批判はなかなかのみにくいものだが、飲み込むとよい結果を生み出す」という言葉もあります。

 三番目に、静まるときに神さまの声を聴きやすいということがあります。列王記19章に、あの立派で勇敢な預言者であるエリヤが、非常な不安にさいなまれるということがありました。エリヤは神さまのみ声を聴きたくて一生懸命祈るのですがなかなか聴くことが出来ません。山の中で立っていると激しい風がおこり岩をも砕くほどでしたが、その中には神さまはいらっしゃらず、地震がおこりましたがその中にもいらっしゃらず、火がおこりましたがその中にもいらっしゃらなかったのです。しかしその火の後にささやく声、細い声があった、と書いてあります。このように耳をすまして静かにならないと神さまの声が聴こえてこない、ということがあるのです。
「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
 バークレーは、「我々が今日、神の声をめったに聞くことができないのは、聴こうとして耳を傾けることがめったにないからだ」と言っています。私たちも心を静かにして、神さまに心を開いて静まるということがないと、私たちの奥深くに神さまのみ声は届いてこないのです。ですからアシュラムでは、まず静まってみ言葉に聴こうという時を持っているわけであります。
 サムエルは「僕は聞きます。主よお語り下さい」と祈りました。祈りというと、私たちの願いを神さまに訴えることだと思いがちですが、私たちの祈りは神さまの声を聴くということも大切な祈りの一部であることを忘れてはなりません。30分、あるいは1時間と祈る人の話を聴くと、「よくもそんなに祈ることがあるものだ」という人が時々ありますが、半分は神さまの声に耳を傾けるのだと思ったら、不思議ではないはずです。私の願いをみ前に申し上げた後に、聞くのです。聖書を読んだ後に黙るのです。榎本保郎先生が最初に勧めたことは、「朝の15分があなたを変える」ということでした。その15分間、まず5分間、聖書を読みなさい。5分間お祈りしなさい。そして5分間は静まりなさい。これが瞑想、沈黙です。わずか朝の15分のこの出発があなたの人生を変えます、と先生は勧めました。忙しい現代では、読んで祈ったらもう走り出しているのです。静まるということがなかなかできません。黙想というときがなかなか持てません。注意したいものです。
 また祈っているときには、「右に行くべきでしょうか、左でしょうか」と二つの答えしかないように思えるときにも、祈り続けるうちに、第3の可能性が示されるということもあります。それ以外の道が開けてくることがあるのです。それこそ神さまのみ声だと思うのです。

 雄弁であること、立派に話すことの出来ることは確かに素晴らしいことです。しかし沈黙すること、これは更に素晴らしいことだと改めて教えられます。
 「ヨブよ、耳を傾けて/わたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ。わたしに答えて言うことがあるなら、語れ。正しい主張を聞くのがわたしの望みだ。言うことがなければ、耳を傾けよ。沈黙せよ、わたしがあなたに知恵を示そう。」(ヨブ33:31-33)

 「三・一六のメッセージ」(ヨハネ3:16他)    (2003/7/16)

 
三・一六というと何の事件だろうと思われるかもしれませんが、実は聖書の3章16節を意味しています。聖書は「神の言葉」と言われ、金太郎飴のように、どこを切っても神さまのみ心が語られているわけです。
私はあるとき、ヨハネ伝3:16を読んで、聖書のメッセージはここに全てが凝縮されていると感じました。ここは聖書の中の聖書、あるいは小聖書と言われている箇所です。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 この一節がキリスト教の全てであるといっても過言ではないのではないかと思うわけです。ヨハネ3:16節がこれほど重要な箇所であるということが分かると、さて他の書簡の3:16は果たしてどうだろうかという興味に駆られたのです。もちろんこれは正当な聖書研究の方法ではありませんが、そうして調べてみますと、一つひとつの3:16が、とても意味の深いものであることに驚かされました。さらに整理すると、次のように五つのテーマが浮かび上がってまいります。

T 現実の生
「その道には破壊と悲惨がある。」(ローマ3:16)
 これは現在の社会情勢をも言い当てているかのような言葉であります。

 「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(ヨハネ黙示録3:16)
 これもまた現実の中で私たちが現状に満足して、物質的な豊かさにのほほんと生きている、なまぬるいといって叱咤激励をしている、これが今の現実の姿である。それに対して神さまはこの世によき訪れを示されました。

U神の啓示
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(テモテU3:16)
 神さまはこの聖書を通して、この現実の無関心、また欲望のままに破滅に向かう人間の世に救いの道を示されているのです。

 「信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(テモテT3:16)
 神が人になった。神学用語では受肉といいますが、これがギリシャではなかなか受け入れられなかったのです。キリストの救いは、人間の努力でもって、最高の境地に達しようとする下から上への働きではなくて、神さまの方から私たちに愛を示して下さっているということです。私たちがいかに弱いのか、その罪を示して、救われる道を備えて下さったのであります。

 「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」(マタイ3:16)
 キリストは神の霊の宿るお方、そのことを公の生涯に入る前に、神さまはイエスさまを通しお示しになりました。

Vキリストの救い
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 私たちはキリストを信じて救われます。救いの条件は、よい行いをすることではなく、神さまがお遣わしになったイエス・キリストを神の子と信じる信仰によって救われるのです。そして神さまの愛は、ここに示される通り、御子を人の世にお与えになって、世の人々のために犠牲にされたほどの大きな愛である、ということなのです。

W信仰(救い)の恵み
 さてその救いに与り、信仰生活の恵み、キリストの救いにはどんな恵みがあるのでしょうか。

 「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(使徒言行録3:16)
 美しの門と呼ばれていた、神殿の入り口で、生まれながら足の悪い人が乞食をしてその日暮らしをしていたのですが、そこへペトロとヨハネが通りかかって、「憐れんで下さい」という彼の言葉に立ち止まったわけです。彼らはこの人をじっと見つめて、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言われたのです。そしてその通りになりました。この男は一時的な満足、今日一日分の食べ物を得るために物乞いをして金を求めていました。金さえ少しもらえれば、また一日生き延びることが出きる、そんな人生であったのです。まさか歩けるようになるとは、自分の足を使って働けるようになるとは予想だにしなかったことでしょう。金銀では与えることの出来ないもっと大きな力、それがイエスによる救いの恵みであったのです。キリストの恵みはこのように、人知をはるかに超えた大きな力であるということです。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリントT3:16)
 キリストを信じ、洗礼を受けた者には、聖霊がその中に与えられるという恵みです。信仰生活の恵みは、私たちの中に聖霊が宿るということです。私たちは御霊を宿している聖霊の宮です。三位一体の一つ聖霊さまが、私たちの側で支え導いてくださるという計り知れない愛の内において頂いているのです。

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、」(エフェソ3:16)
 聖霊の働きは何か、それは信じる者が楽な生活ができるように、障害物が無くなるように、嫌な人が消えてしまうように、などと言うような人間的な願いをかなえてくれる力ではありません。聖霊の働きは、どんなところで、どんな人々といっしょに、どんな境遇の中で生活をしてもそれに耐えられるように、あるいはそれを越えていけるように、それを愛し、進んで受け入れていけるように、と私自身を強めていただける、そういう働きをして下さるのです。内なる我を愛で満たし、作り変えていただけるのです。

「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。」(テサロニケU3:16)
 テサロニケの信者に対するパウロの最後の祝福の祈りが手紙の最後に書かれています。信仰の恵みの四つ目は平安が与えられるということです。

X福音による生き方
 この恵みに与ったクリスチャンはどういう生活をすべきでしょうか。福音に生きる生き方とはどういうものなのでしょうか。

 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
 救われた者の生き方そのものを示してくれる素晴らしい言葉です。心の中が空っぽになっていると、サタンの格好の標的になります。その意味で、み言葉で私たちの内側をいっぱいに満たしておくことを勧めています。

 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」(ペトロT3:15−16)
 クリスチャンが証しをするときに、私たちは神さまより知恵をいただいて、逆につまずきとならないように、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」ということを心がけたいものです。

 「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」(フィリピ3:16)
 この言葉の延長線上の、同13-14節に「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。ここで言っているのは、もう私は知るべきことを全部知った、などと私たちは言うべきではない。常に全き完全な父なる神さまに向かって歩む私たちは、まだそこに到達していない、いつでもその途上にある。未完成なのです。今からまだまだ学ぶべきことがあるという姿勢で従うべきである。クリスチャンは常に成長すべき存在です。発展途上、そういう謙虚な気持ちで学び続ける、その姿勢が大事です。

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネT3:16)
 神さまが私たちを愛してくださり、イエスさまが私たちのために十字架にかかって下さった。その恩恵に与った私たちは、その愛によって周りの兄弟たちのために尽くそう。これはヨハネ3:16となんとよくつながることでしょう。この愛に感謝して、その愛にお応えして犠牲を惜しまぬ者とされるのです。

 ヨハネ3:16の神の愛から、ヨハネT3:16の人の愛へと到達する生き方を、私たちは大きな目標とさせていただきたく思うのです。 


 「大漁の奇跡」 ルカ5:1−11              (2003/10/22)
 
一般に「大漁の奇跡」と呼ばれるこの個所は、私たちに信仰生活のありようを訴えている出来事ではないかと思われます。「ゲネサレト湖」(1)、あるいは「テベリヤの海」と現されるのはガリラヤ湖のことを意味します。このガリラヤ湖ですが、南北に20km、東西で一番広いところで12kmの広さで、琵琶湖の約4分の1くらいになります。このガリラヤ湖は、海抜マイナス211mですので、海よりもかなり低い位置にある非常に特殊な湖であります。そして湖の周辺は緑が多く、湖に住む魚も多く、漁が大変盛んでした。

◇イエスさまと出会う
 ここにイエスさまが来られました。伝道を開始されたばかりのまだ12弟子が揃っていなかった頃です。その使徒の群れを組織していくのがこの前後なのです。1節には、「神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せてきた。」とあります。それに対してペトロはどういう状況かというと、彼は網を洗って家に帰ろうとしていたわけです。よっぽど一般の人々の方が熱心に先生のお話を聞きたいと集まってきた。ペトロは一度イエスさまにお会いしているのです。はじめてヨルダン川においでになった時、バプテスマのヨハネという人の弟子であった人に紹介されて、初めてイエスさまに会いました。その前にイエスさまと出会ったのはアンデレという人でした。イエスさまに出会って、感激して帰って「あの先生のところへ行こう」といってペトロを誘ったのです。その出来事がヨハネ1章にありますが、そこから、半年後の出来事にあたるわけです。ペトロは一度イエスさまに会って感動したのですが、まだ弟子にはなっていませんでした。ガリラヤに戻って漁を続けていたのです。そういう背景を心に留めていただきながらこの個所を見ていただきたいと思います。

 ここでイエスさまは、このシモン・ペトロを弟子としてお召しになるためにガリラヤに来られたといってもいいと思います。というのは、ここで群集に対してどんな話をされたか、ということは書いていないからです。シモン・ペトロがそこでどんな反応をイエスさまに対して示したか、ということが書いてある、というところから察することができましょう。
 「網を洗っていた」(2)というのは、一晩中漁をしたけれども魚がとれなかったということです。がっかりして網を洗っていたことでしょう。これがペトロたちの姿です。そこにイエスさまが現れたのです。

 神さまとの出会いを考える時に、例えば東の国の博士たち、この星の専門家は、不思議な星を通して神さまと出会いました。またサマリヤの女は、日常の水汲みの仕事をしていて井戸端でイエスさまと出会いました。そしてこの漁をしていた漁師たちは漁をしている中でイエスさまと出会いました。しかもその出会った瞬間というのは、収穫ががたくさんあって、これで収入も得られるし、しばらくは安心だ、といった時に出会ったのではなくて、魚一匹も取れないで、さて明日の食べ物をどうしようかと、いうような状況の中であったのです。

 信仰の証しをされる方の中にも、神さまを知ったとき、イエス・キリストを知ったとき、というのは、全てが順調にいっているとき、自分の思うとおりになっているとき、ではなくて逆に、自信を失ったとき、空しさを経験したとき、自分の弱さを発見したとき、こういうときに、ふと目を上げてみたらそこに神さまがいらっしゃった、神さまと出会った、ということがよくあると思います。昔から「空井戸の底から見上げると昼間でも星が見える」と言います。逆に夜、星が見えるのは当たり前のように思いますが、ネオンサインやきらびやかなイルミネーションが星を見えなくするということがあります。人間はどん底の経験をしたときに神さまと出会います。その意味で、このペトロたちもそういう出会いをここでするのです。

 そのきっかけはイエスさまの行動でした。「そこでイエスは、そのうち一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。」(3) 群集にお話をされるためでした。少し沖へこいで行ったところから岸の方を向きますと、ちょうど大学の階段教室の下のほうから大学教授が講義をするように、放送設備がなくても遠くまで聞こえたのでしょう。群集はイエスさまの素晴らしいお話に、きっと感動したことと思いますが、その内容は書いてありません。その次に書いてあることはシモンとの会話です。

◇お言葉ですから
 イエスさまは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をしなさい」(4)、と急にこんなことをおっしゃったのです。たった今、魚が取れずにがっかりして帰ってきたところであるシモンに、励ますように、慰めるように言われたのです。しかし漁については専門家であるシモンたちは、昼間になってから沖に出たところで魚はとれるわけがない、と内心思ったことでしょう。しかしここでシモンの偉いところは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5)と答えたことです。なかなか私たちはこう言えないものです。「お言葉ですが、それは無理です。」と言ってしまうのではないでしょうか。新改訳聖書では「お言葉どおりに」とあります。ところがどうでしょう。これは奇跡としか説明のしようのないことですが、「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6)とあります。更にその大漁ぶりについては、「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟はしずみそうになった。」(7)と書かれています。

 「お言葉ですから」これはその人の人生を変えるきっかけを作る言葉ではないかと思います。豊かな人生へと導かれる鍵となる言葉であります。ある意味、信仰は決断であります。そしてその決断というのは自分の常識とか経験といったものよりも、神さまのお言葉を優先する、先立たせることです。ここを読むときいつも私はあのクリスマスのサイドストーリーを思い浮かべるのです。

 東の博士たちは、不思議な星を見てエルサレムにやってきました。そこでヘロデ王を表敬訪問して、(偉い方がお生まれになったしるしの星が出ていました。どこで生まれたかご存じないでしょうか)、と聞きました。するとヘロデ王は驚いて、自分をおびやかす者が現れたと思ったのでしょう、律法学者たちを集めて、(どこに生まれることになっているのか調べてみよ)と調べさせました。彼らは旧約聖書の専門家ですから、いろいろ調べていくうちに、ミカ5:1を見つけます。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と。そこでヘロデは(ベツレヘムと書いてあるそうだ)と言いながら、(もしいたら帰りに私のところへまた寄って教えてくれ、私も拝みに行きたいから)と言います。そうして博士たちは、ベツレヘムという場所を聞いて出かけて、幼な子イエスさまと出会うことができました。
 私は、これは大変象徴的な出来事であると感じるのですが、東の国の博士たちは、専門の占星術、今で言えば天文学という言い方が当たるのかもしれませんが、この星の研究で、エルサレムまでは行くことができました。しかしそこからベツレヘムまでという道のりはまったく信仰によるものであったのです。神の言葉を信じて従うことによってイエスさまとの出会いが実現したのです。宗教に対する知識は、専門書を読んだり、あるいは専門家の話を聞いたりすることである程度頭で理解は出来るものの、信仰を持つ、信仰の道に入るということは、神の言葉に対する従順、決断が不可欠になってくるのです。

◇沖へ出る
 シモン・ペトロは主のお言葉に賭けました。ただし沖に出なさいといわれたときに、ペトロだけを沖に行かせたのではなくて、イエスさまも一緒にその舟に乗って行かれた、ということが恵みであります。イエスさまは私たちにも、(今の自分の生活に満足しているのか、沖へ出よ、沖へ出よ)とおっしゃっておられる気がするのです。確かに沖に出るのには不安を感じます。しかしイエスさまは決して私たちを一人ぼっちで行かせようとされるのではないのです。私もいっしょに沖に出るから、と言って下さっているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(同30)イエスさまも一緒にくびきを負って下さるから、私たちは確かな歩みが出来るのです。

 あの日野原重明先生は、そのお父さまのことを回想されてこう言われます。「父は私に三つのことを教えてくれた。vision(まぼろし),venture(冒険),victory(勝利)である。」この言葉を受けて、先生は本当にいろいろなことにチャレンジされて、それを一つひとつ実現なさっておられます。キュルケゴールは、「冒険は不安を引き起こす。しかし冒険しないことは自分自身を見失うことである。」と言いました。信仰生活は一種の冒険ともいえます。しかしこの冒険をしないと、かえって自分を失うことになるというのです。また「信仰は決断であり、冒険である。しかし確実な冒険である。」、やがてvictoryが与えられるという、やりがいのある冒険であります。「沖に出る」ということは、豊かな人生へと私たちを導くチャンスなのです。

◇本当の自分を知る
 8節で、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」とペトロは言いました。いったいこれはどういう意味でしょうか。、まさに今、大漁の恵みにあずかって、喜びにあふれているときにこの言葉です。もちろんこれは距離の問題ではなくて、ここでペトロは初めて本当の自分を知ったのです。今まで自分の経験とか常識で、ものを考えていたのが、それには限りがあり、まだ自分の知らない世界がある。イエスさまのお言葉に従っていったときに、このような祝福があった。いかに自分が小さく傲慢な者であるか、ということを知ったのです。自分を知るという瞬間はそう滅多にないかもしれません。不幸にも本当の自分を知らないで一生を送る場合もあることでしょう。本当の自分を発見するというのはなかなか難しいことです。どういうときにそういうことができるのかというと、心を打たれるようなものを読むとか、出来事にあうとか、あるいは自分の罪や弱さを知らされたときとか、特別な使命を与えられたとき、そして本当の自分に気が付いたとき、なんて俺は偉いんだ、というのではなく、なんとふがいない、罪深い人間であることか、ということを知らされるのです。それは何故でしょうか。人間は本来造り主ではなく、被造物であります。本質的には、神さまに向かって歩くべき者であるのに、神さまに背を向けて、的外れの生活をしています。そしていずれは死ななくてはならない存在です。これが人間の性質といいましょうか、限界であるといえます。このことを知るとき、私たちはいかに弱い存在か、ということを知らされるのです。
 しかしそれはまた恵みでもあります。ペトロはここでいかに自分が罪深いか、ということを知りました。だから(主よ、あなたの前に偉そうな顔の出来る私ではありません)という意味で「離れて下さい」と言ったのです。大漁も確かに恵みであったけれども、それ以上の恵みは、自分が罪人だということを知ったことなのです。

◇人間をとる漁師
 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(11)
 「魚をとる漁師」から「人間をとる漁師」へ、人をとるとは、人をとって生かす、ということです。ここで12弟子の一人、シモン・ペトロの召命が実現するのです(ヤコブ、ヨハネも同様)。信じたことによって、大漁の恵みにあずかった、というところで終わっていないのは、ここにキリスト教の大切な教えが含まれているからです。すなわちキリスト教の救いとは、罪を赦すというところにある、ということです。罪は神さまとの間を妨げて、正しい神さまとの交わりを妨げています。人間の最も根本的な問題はこの罪にあります。大漁の恵みの後の、このペトロの気づきと、イエスさまにお従いした、ということから、キリストの十字架の救い、すなわちこの罪と死からの解放の確かさを知り、またそこから永遠の命へと至る道のりを示していただけるのです。