「綱をのばし、杭を堅く打て」(イザヤ書54:1-3)(2002/04/17)

 背景は、キリストの生まれる700年位前、イスラエルの人々は、神に選ばれた民族として認められていたのにかかわらず、神に背き、偶像礼拝をしていました。その故にエゼキエル書の預言どおり、バビロン国に攻め入られ、捕囚として70年間、囚われの身となるわけです。1節の「不妊の女」「産みの苦しみをしたことのない女」とは、このイスラエルを指します。神の教えに背き、実を結ぶことのない民族ということで、象徴的にこういう言い方をするのです。しかし、完全に神さまから見放された訳ではなく、やがて悔い改めて、祝福にあずかることができる。ということも預言に含まれているのです。

 当時の生活は、多くの家畜を養い、移住しながらの生活でしたので、草や水の豊かな場所を探しては、そこに天幕を張っての暮らしでした。そしてその住まいを広げなさいとは、現状に満足してはいけません、イスラエル民族の子孫をもっともっと増やしますよという神さまの約束です。
 同時に、天幕は教会を表します。当時は神さまのご臨在なさる場所を、幕屋あるいは神殿と言っていましたが、「人々が集まって、神さまを礼拝する場所」と言い換えてよいのではないでしょうか。教会に神さまが期待するのは、神さまを知り、その救いにあずかる恵みは、常に現状満足ではいけないということです。同じように救いを受ける人々がもっと増えるように、器を広げておきなさい、ということでしょう。より多くの新しい方々が教会を訪れるように、そして福音に触れることができるようにとの願いを持って、その備えをしておくことを期待されているのではないでしょうか。

 現在の木造あるいは鉄骨の建物を広げるということは容易ではありませんが、別の意味でも考えてみたいものです。@イエスさまは復活して召天される前に「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われました。すなわち距離的な工夫−出て行く、路傍伝道、家庭集会等々。A時間的な工夫−礼拝、集会の時間、曜日の設定等々。B方法の工夫−都会、地方の別など、地域の実情に応じた、またニーズに合わせた工夫等々。
 また「時間と空間」だけでなく、「一人が一人を」お誘いするといったヨコへの福音、また、父母、祖父母、子、孫へと連なる「タテの福音」もとても大切な命題でしょう。

 そのためには「杭を堅く打て」といっています。口語訳では「あなたの杭を強固にせよ」でした。それは、自らがみ言葉を深く学ぶことです。このことなしには全て上滑りになってしまうでしょう。み言葉を学ぶ(栄養)(アシュラム)、伝道する(運動)(こころの友伝道)、この両輪が機能する時、真の意味での教会の成長へとつながるはずです。
 同じイザヤ書37:31には、「ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ」とあります。捕囚から免れて、神に聞き従う者が残り、その後のイスラエル再建の中心となりました。まず実を結ぶ前に、根を深く下ろすことが重要だと思われます。ある人が言いました、「リバイバルは、器なしでもおこるが、祈祷なしにはおこらない」と、まず自らが栄養たっぷりのみ言葉の土に深く根を下ろすこと、そこから教会の様々な活動を起こしていくなら、神さまは祝福して下さるに違いありません。

 「主に信頼し、善を行え」(詩編 37篇)(2002/11/06)

詩篇は、珠玉の言葉の宝庫であり、時にこれらの言葉に聴き、黙想することは、魂の安らぎのためにも必要不可欠なことだと思います。
 私たちクリスチャンは、バプテスマを受け、キリストの救いに与っているわけですが、人間ですから気分の良い時、悪い時というものが誰にでもあります。本当に自分は神さまの救いに与っている、という確信を持つことが出来て、感謝に溢れる時があるかと思うと、果たして私は神さまに知られているのだろうか、愛されているのだろうか、と疑わしくなることもあります。クリスチャンになりさえすれば、疑い、不安、落胆から全く解放されるというわけではありません。それだけ私たち人間は非常に弱い存在であります。
 そういう中で時々、私たちが試されるのは、お友だち、お隣りの人等、周囲の他者と自分とを比べるとき、自分が惨めに思われる瞬間というのがあります。たとえば、神さまを信じて、一生懸命信仰生活を送っていても、病気をする、失業する、人から誤解される、といったこともある。そうかと思うと、お隣りさんは、神さまなど信じない、唯物主義者、であるにもかかわらず、ある程度成功して、裕福である、幸福そうに見える。他者のそのような姿を見ると、神さまは不公平だ、などといろんな疑問が沸いてくることもあります。
 しかしこれは、現代の私たちに限ったことではありません。聖書に登場する人物にも、そんな思いになる人々がありました。例えば、旧約聖書に登場する預言者エリヤは、その絶頂を過ぎた頃、非常な不安に襲われました。というのもアハブ王の妻イゼベルがエリヤを煙たがって、エリヤを亡き者にしてしまおうと、王に持ちかける、そういうことが重なり、急に不安になって山の中に逃げ込むことになります(列王記上17章−19章)。
 また新約聖書に登場する、バプテスマのヨハネは、ヘロデ王の罪を指摘したり、パリサイ人を非難したり、人をも恐れぬ大変勇敢な預言者でした。やがて捕らえられ獄中で過ごすことになります。牢での生活が長く続くと、やがて不安におそわれます。はたしてあのイエスというお方を信じて大丈夫なのだろうか、あの方は本当に救い主だろうか。そこで弟子を遣わして、先生、あなたは本当に救い主ですか、と聞きにやるのです(ルカ7章)。
 私たちの目が、神さまから離れて、他へ移ると、不安におそわれたり、疑ったり、信仰が揺らぎます。そういうときに読みたいのが、この37篇なのです。
 ユニークなのは、アルファベットによる詩と括弧書きされているように、日本で言えばいろは歌ということでしょうか、もちろんこの場合は、ヘブル語のアルファベットということになりますが、初めから終わりまで、論理的な一貫性を100%求めることは無理ですが、しかしそこに流れる思想は一貫しています。その一貫した思想とは、信仰の生活を勝ち抜くためには、クリスチャンとしてこの世に勝つためには、どう生きたらよいのか、そしてこの中で一番強調されていることは、悪しき者の繁栄に心を悩ますな、うまく生きている人間がいくら栄えようと、それを見て妬むな、自分の心を悩ますな、いらだつな、といっています。クリスチャン生活は、人と比べて生きる生活ではなく、神さまと私との関係を見つめる生き方なのです。

◇「彼らは草のように瞬く間に枯れる」(2)
 「千年は一日のごとく、一日は千年のごとし」神さまはそういうスパンで世界をみていらっしゃいます。神さまの時の流れ、永遠というものさしで見ると、一人の人間の人生はほんの一瞬です。ですから、そんなに悩ましく思う必要はないのです。
 7節にも、「沈黙して主に向い、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。」とあります。“don't be worry”(心配するな)ということです。

◇「主に信頼し、善を行え」(3)
 では、心配しないで生きるためにはどうしたらよいのでしょう。それが3節に示されます。具体的には、4-5節の「主に自らをゆだねよ」「主にまかせよ」「信頼せよ」というご命令です。神さまとの関係をしっかりつなぎ止めていくためには、信頼ということが大切になります。信頼=信仰と考えてよいでしょう。例えばアブラハムの信仰、ということがありますが、このアブラハムは何をもって信仰を証ししたかというと、自分の故郷を出て、私が今から示すところに出て行きなさい、という神さまの声を聞いて、住み慣れたところを後にして、家族と、家畜と荷物をまとめて、この神さまの声に従って出て行った、神さまの声を信頼した、これがアブラハムの信仰です。
 信仰は、神が存在するということを認めること、これが半分、そして残り半分は、必ず神さまは報いて下さる、神さまのお約束を信じ、神さまの御心に沿って祈り求めることには、かならず応えて下さる、という確信をもつことです。「神が光の中で、あなたに語られたことを、暗闇の中で疑ってはならない」とある人がいいました。雲の上は常に快晴です。曇り空であっても、飛行機で雲の上まで上昇すると、そこは素晴らしい青空が常に広がっています。私たちは、いろんな思わしくない出来事に囲まれていると、神さまなんていないんじゃないかと疑ってしまうことがあります。しかし信仰を持って高いところへ出ると、永遠に変わらない神さまの光に触れることができるのです。

◇「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(7)
 沈黙して、耐え忍んで、主を待ち望みなさい、忍耐しなさい。忍耐、これは信仰者にとって大切なことです。忍耐強い信仰者は、必ず勝利します。祈り続けると、その祈りがきかれるか、それ以上のことが起こるかどちらかです。私たちには忍耐が必要です。信仰とは忍耐である、ともいえるでしょう。例えばヤコブ書には、ヨブの信仰に倣いなさい、と出てきますが、ヨブの信仰とは何でしょうか。それは忍耐です。どんなに自分が不利な条件に陥っても、周囲が、神を呪いなさいといっても、彼は主の名を呼び求め、讃美し続けたのです(ヨブ記)。

◇「悪を避け、善を行え」(27)
 人がどう言おうと、非難・中傷されようとも、善いと示されたことをしなさい。このことをパウロはガラテヤ書でもいっています。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:9)善い事をあきらめずに行い続ける。このためにも信頼と忍耐が必要になってきます。

◇「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(24)
 人が倒れる(失敗、挫折)ことがあっても、再び起き上がることのできないような状態はならないのです。神さまの手が必ず救いの手を差し伸べてくださるからです。 

◇「神の教えを心に抱き よろめくことなく歩む」(31)
 正しい者は、神さまの言葉(聖書)を瞑想し,そこから生活の知恵が引き出されるとき、しっかりとした足どりで歩むことができるのです。

 私たちが、神さまに要求されているのは、神さまに対して忠実に生きる、ということです。それによってこの世で成功するとか、結果がうまくでるとか、ということではないのです。結果は神さまにお任せして、大事なのは、死に至るまで忠実である、ということです。それぞれ預かっているタラントがあります。それを活用すればよいのです。そして神さまに「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」(マタイ25章)とほめていただける者となりたいものです。

 「我山にむかひて目をあぐ」(詩編 121篇)(2002/12/04)

 昔の人たちは、巡礼の旅をしながら、交読文のように一節ずつ交互に節をつけて賛美しながら旅行したようです。旅行といっても、それは過越祭や仮庵祭、五旬節等に、みんながエルサレムに集まるためのものなのです。
 この121篇を含め、120篇から135篇までは、「都に上る歌」とあるように、そのエルサレムに向う旅の途中で歌った歌です。当時のユダヤ人たちは、砂漠を何日もかけて歩いて旅をしました。エルサレムは海抜約800メートルというところにあり、そこまでいくのにヨルダン川を北上していきますが、ヨルダン川の周辺は海抜約マイナス200メートルから300メートルという海より低いところです。死海が最も低く海抜マイナス400メートルといわれます。それだけの高低差がありますから、海抜数百メートルの山々も非常に高く感じられます。
 今ではさすがにバスでいきますが、昔の人はみんなてくてくと歩いていきました。ですから昔の人の旅は決して物見湯算の旅、観光旅行の旅ではなくて非常に大変なものでした。しかし大変であればこそ、そこに着いたときの喜びもひとしおであったと思われます。

◇1-2 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」(1)
 私たちは人生の中で、助けを必要とする瞬間がいくたびとあります。孤独を感じるとき、病と闘っているとき、人間関係で悩むとき、体においても、心においても疲れを覚えるときがあります。そういうときに、人はどのようにして疲れを癒そうとするでしょうか。最近の傾向で、一番手っ取り早いのはアルコールだそうです。しかし不眠の人がお酒で眠ろうとするのはあまりよくないそうです。睡眠薬も過度に取りすぎるならば毒になります。
 クリスチャンが幸いなのは、人生いろいろな問題で悩み苦しむときに、目を上に上げる、神さまに向って目を上げるという道が一つあることです。賛美する、祈る、み言葉に聴く、こういう機会が、本当の意味でのストレス解消、真の休息であります。
 ギリシャ語で「人間」は「アンスローポス」といいます。元々は(顔を上に上げる)という意味をもっています。もともと人間は上を仰ぐように造られたのですが、どうしたことか神に背くようになってからは、下ばかり見て暮らすようになりました。
 山というと、どっしりとした不動のもの、重量感のあるもの、対照的に海は不安定なものとして聖書にはでてきます。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」とヨハネの黙示録21:1にもでてきます。
 山をみるとき、昔の人は何を思ったか、この山は私たちの生まれる以前から存在していたのだということに想いをはせるうちに、時は永遠なのだ、それに比べれば人間の一生などほんの一瞬だ、人間の力など微々たるものだ、この山をはじめ、天地万物を造られた神さまはなんと偉大なことか、といったことに想いがいくのです。そこでこの神さまが私を助けてくださるのだ、と思い当たる。人間的には失望しても、この神さまがついていて下さるのだということを思えば絶望はないはずです。

◇3-4「足がよろめかないようにし」(3)
 神さまは私たちの足がつまずかないように、倒れないように守っていて下さる。巡礼をする人たちのことを思い浮かべて下さい。草履のようなはきものをはいて砂漠の中を何日も歩いて旅をしていると、ときには何足もはきものをかえなくてはいけない、ついには足にまめができたりする、或いは、つまずいて倒れたりして、骨を折ったり、ひびが入ったりすることもある。特に年配の人には致命的で、そこから旅を続けることが出来なくなってしまいます。しかし神さまは私たちの足を守って下さる方、つまずく場合にも、普通大きい岩にはつまずきません。小さな石ころにつまずきます。誘惑もそうではないでしょうか。悪魔のしわざだとはっきりとわかるような誘惑には警戒しますが、ちょっとしたいざないとかに以外に人間は弱いのです。その面でも、足を守って下さるというのは深い意味があるように思います。
 「まどろむことなく、眠ることもない」(4)
 神さまは居眠りしてしまう方ではありません。私たちが眠っている間も、起きて見守っていて下さる、そして私たちの祈りを聞いてくださいます。ノイロ−ゼ気味だったある人の証しを聞いたことがあります。夜中にどうしても眠れずにお祈りしていると、「お前は寝なさい、私が起きていてあげるから」という神さまの声が聞こえてきたそうです。その方はそれ以来眠れるようになったそうです。

◇5-6「あなたの右にいます方」(5)
 右、すなわちあなたの利き腕をも守って下さる方ということです。
 6節については、聖地旅行に行ったときのことを思い出します。シナイ山を登ったことがあります。丁度元旦、1月1日の午前3時に登ったのですが、オーバーを着ていてもぶるぶるふるえる位、寒かったものです。ところが午後になると汗がダラダラでるくらいの暑さで、シャツ一枚でもいいくらいの気温になりました。一日で真夏と真冬が同時に味わえるのが、イスラエル独特の気候です。そこに行って初めてこの意味が分かりました。昼はあの太陽の下、熱射病にならないように守って下さるし、夜はあの凍えるような寒さから守って下さる。どんな状況にあっても守って下さるまことの神さまに信頼したいものです。

◇7-8「あなたの出で立つのも帰るのも」(8)
 8節のこの箇所はどういった意味があるでしょう。朝出かけて、夜帰ってくる、といった一日の生業を守って下さる、そういう意味がひとつあります。また、この世に生まれてから、天に帰るそのときまで、神さまは守って下さるということもあります。あるいは公のことをするときにも、私事をなすときにも守って下さるということもいえるかもしれません。榎本保郎先生は、「旧約聖書一日一章」の中で、ここをこう受け止めていらっしゃいます。思い切って古い生活から出てクリスチャンになる、そのときから、新しい命を得て、そして御国へ帰るときまでをも、神さまは守って下さる。だから古い生活を出るとき、信仰告白をしてバプテスマを受けるときに少しも恐れる必要はない、神さまはその門出のときから守ってくださるのだから、と書いておられます。

 初めから終わりまで、神さまのまどろむことのない目が私たちに注がれている。そしてパウロは「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)と言いました。恐れるものの全くない、そんな信仰にまで導かれていくならば、なんと幸いなことでしょうか。

 「奇跡は躓きか、励ましか」(マルコ1:21-28他)(2002/12/11)

 今回は聖書の奇跡について理解を深めることができれば、と思います。ギリシャ語で「ドゥナミス」といいますが、英語で「ミラクル」、そして日本語では「奇跡」と訳されています。
 聖書になかなか溶け込めない、あるいは、信仰の道に思い切って入ることが出来ない、という人びとの理由の一つに、「奇跡が信じられない」ということが挙げられます。しかしそう思われるのは無理のないことで、決して不真面目なことではありません。確かにそういう目で見るならば、聖書は奇跡でいっぱいです。
 マルコ福音書は全部で16章。A.M.ハンターという聖書学者は、その著書の中で、マルコ福音書の中に直接的、あるいは間接的に奇跡のことを書いてある節が、全661節の内(マルコ福音書は16章8節までで、後は付け加えられたという学説もある)、209節あるといっています。31%、約3分の1、これほど福音書の中身は奇跡が大きな割合を占めています。特にマルコ福音書においてはそのことは顕著です。福音書の中でも一番早く書かれたであろうと言われるこの書物は、イエスさまのお誕生の出来事も書かず、いきなりその公生涯からはじまります。そしてその中身は奇跡の連続です。

◇奇跡の定義
 聖書では奇跡をどう表わしているでしょうか。文字通り「奇跡」という他に、「力ある業」「不思議」「しるし」「すばらしいみ業」「おどろくべきこと」「不思議な業」、これらは旧、新約を通じて奇跡を表わす言葉として用いられています。
 「広辞苑」(岩波書店)では、
・既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理のしるしとみなされるもの。
・神の直接的な力が外的世界に働いておこる超自然的な出来事。
・神がご自身、御子、預言者、使徒らを通してなし給う、超自然的と思われる業。
・神の臨在を示す出来事。
・日常経験の世界にあらわれた神の啓示。等となっています。

◇奇跡の見方
 聖書の奇跡というものを我々が理解するときにどういう態度でこれに臨むのか、どんな考え方で捉えれば良いのか、ということを考えたいと思います。聖書の奇跡の読み方は、この奇跡は果たして起こり得たか、という角度でそれを検証するというのではなくて、なぜそれは起こったのか、なぜそれが聖書に記されているのか、という視点から、奇跡の問題を見るべきではないだろうかと考えます。 そしてこの奇跡は起こるべくして起こったのだ、と分かってきますと、奇跡を信じることができるのです。この順序を間違って、果たしてこんなことがあり得るだろうかと科学的に、あるいは現象的なことでこれを片付けようとすると、分からないことがいっぱいあります。なかには合理的に、今の人にもわかりやすく理屈をつけて説明する学者もあります。しかしどうしても説明のしようのない奇跡もあります。例えば処女降誕、そして、一番難しいのはキリストの復活です。イエスさまのご生涯は、まさに奇跡で始まり、奇跡で終わったのです。

◇奇跡はなぜ起こったのか
 奇跡にもいろんな種類のものがあって、ひとつは自然現象に関わる奇跡、たとえば嵐をしずめるとか、海の上を歩くとか、それから悪霊を追い出すといった類のもの、そして病気を癒すという奇跡、そして死から甦らせる奇跡、これはイエスさまのご生涯で、三度ありました。ヤイロの娘、ラザロの復活、それにナインという町で、やもめの息子がよみがえったという記事があります。
 これらの奇跡についていえることは、まずこれは決してキリストがご自身のために行ったことものではなかった、ということです。例えば四十日四十夜、荒野での断食をされたときに、悪魔が誘惑をしてきますが、自分の飢えのために奇跡は行いませんでした。一番いい例は十字架にかかったとき、イエス・キリストは大変な苦しみに遭われていても天の軍勢を呼ぼうとはしませんでした。人類の罪を背負って、罪の全くないキリストが罪人になりきって黙々と死んでくださったのです。このように自分のために何一つ奇跡をおこされることはありませんでした。
 ですから、@神さまの愛と憐れみを示すため、Aこの世には超自然的存在があるのだということを示すため、つまり神の存在とその力を示す必要のあるとき、B神の国が近づいたという証拠として、キリストが来られたことによって神の国が到来した、というこの良き訪れを示すため、に奇跡はおこったのです。

◇奇跡は信じ得るものか?
 奇跡というものははじめからあり得ない、という風に私たちは考えがちですが、神さまは天地万物の創造主です。そして造った天地に自然の法則、秩序をお与えになったのも神さまです。創造主である神さまが、ときにこの自然の秩序を越える働きをするとしても、なぜこれがあり得ないといえるでしょうか。逆に、もし聖書の中に登場するイエスさまのなさったことが全て、人間として可能なことしかしていなかったとすれば、すなわち奇跡が何もなかったとしたならば、このイエスさまは私たちにとって偉大な先生かもしれませんが、神さまではない。信じる拠り所とはなり得ないはずです。
 奇跡を理解するための秘訣は、まずキリストの復活を信じること、これができたらキリストの生涯の全てが納得できるはずです。迷路には入り口があって出口があります。当然入り口からはじめなければいけないのですが、なかなか出口までたどり着くことはできません。しかし見方を変えて出口からたどると、その道筋は容易に解くことができます。同じようにイエスさまの生涯を、その復活からさかのぼってみると、十字架の死からよみがえられたキリストが神さまの存在を示すため、御国が近づいたことを教えるためにその奇跡をなさったのだということがわかってきます。
 最終的には処女降誕の奇跡をも信じることができるのではないでしょうか。罪のない神の子が人間となり、しかも人間の罪を赦すために十字架にかかる、その使命を果たすために、神の子が人間の中に入ってくる方法としては、マリヤ、ヨセフという二人の人間から生まれるわけにはいきませんでした。なぜなら、そこから生まれてくる子は、すでに原罪、生まれながらにして先祖代々受け継がれた人間の弱さを持っているからです。ですから、マリヤという人物の体を借り、聖霊がそこに働くことによってイエスさまが誕生したのです。罪のない方が人間の中から生まれてくることによって、罪を持たなくとも、人間の弱さもご存知である、人であり神の子、半分人で半分神ではない、100%神の子で、100%人間であるイエスさま。このイエス・キリストであればこそ罪なきものとして、私たちの罪の身代わりとなることが出来たし、また人間の弱さもご存知ですから、私たちを思いやることもできるお方なのです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)

 もしも奇跡などあり得ないとしたら、聖書の存在意義はないでしょう。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15:14)「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(同15:17)とパウロもいっています。
 理解や理性によらないで、「わたしに来なさい」と両手を差し伸べておられる神さまのところに、いつでも素直にとびこんでいける者となりたいものです。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)

 「excuseについて」(ルカ14:15-24)(2002/12/18)

 この話は、神の国を大宴会に例えています。そしてこのたとえで、イエスさまは何を教えておられるのでしょう。人々は神の国は素晴らしいでしょうね、信仰生活はいいものでしょうね、といいます。ところがいざ「私のところへいらっしゃい、共に食事をしよう」とイエスさまに招かれると、「実は、私は・・・」と皆、途端に拒み始める、というのです。こういった現象は今日も多く見られます。多くの人びとが、いいことだと解っていても、それを自分のものにして味わい知る、となると難しくなります、そしていろんな言い訳が出てまいります。
 今回はその言い訳、excuse(エクスキューズ)について考えたいと思います。現在もいろいろなexcuseがあり、神さまの恵みに与れない場合があります。そのいくつかを挙げてみたいと思います。

○私は忙しすぎるから・・・
 たいていの方は忙しく毎日を過ごしています。しかし三度の食事にもあずかれないほどの人はあまりいません。イエスさまに呼ばれて弟子になった人びとも、毎日忙しく働く人びとでした。ヨハネ然り、ペテロ然り。私たちは忙しければ、忙しいほど、真の心の安らぎが必要なはずです。忙しいというのは、悪いことではありませんが、危険なことではあります。「忙」の文字通り、あまりに忙しいと心を滅ぼすことにもなりかねません。ルカ10章にあるマルタとマリヤの記事がよい例です。この世の評価では、イエスさまをもてなそうと忙しく働いた姉のマルタがよく気のつく女性、イエスさまの足元に座って話に聞き入っていた妹マリアはあまり気がつかない女性、となりますが、イエスさまの評価は違いました。「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。マリアは良い方を選んだ。」(ルカ10:41-42)と言われました。この働き者で、よく気のつくマルタも、その忙しさのあまり、本当に大切なものを忘れて、気づかないうちに、妹にあたってしまうようなとげとげしい心になっていたのです。忙しい人ほど、礼拝への出席をおすすめしたいと思います。

○イエスさまはいいと思いますが、私は別に人に後ろ指をさされるような生活はしていません。今のままで結構正しい生活をしていると思うから、救いをいただく必要はありません。
 この人たちは、本当の自分を知らないのです。本当の自分を知らないときには、私はまあまともだ、他の人に比べれば・・・、と人と比較しますから、まあまあになってしまいます。
 私たちも以前はそうでした。しかし今は比較するものが違います。天の神さまの基準で考えます、み言葉に自らを照らします、神さまの曇りない鏡に映します。すると、私という者がいかに罪深い人間であるかが分かってきます。私は自分の力で、自分の考えでしっかりと生活しているから、というのは、暗い部屋で、暗い自分の顔を見ているのに似ています。
 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(コリント一10:12)

○私は罪深い者ですから、教会に行く資格などありません
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)とイエスさまは言われました。私は罪人だ、と思う人があれば、その人こそイエスさまの呼び求める対象です。悔い改めて、イエスさまのもとへいくならば、あるがままの姿で主は受け止めて下さるのです。自分で自分を清めてから教会に行く、洗礼を受けよう、とするならば、一生かかっても私たちは教会には行けません。光なる主をお迎えすると、闇が逃げていくのです。節分の時には、「鬼は外、福は内」とやりますが、福音的に考えると、神さまをまずお迎えすることで、悪霊は放逐されるのです。

○教会には偽善者が多いから行く気になれません。
 このように言われますと正直心痛みます。教会の中にいる自分が人びとに躓きを与えているのではないかと反省もさせられます。しかし、教会は聖人君子が集まっているところでしょうか。決してそうではありません。教会は罪人の集まりです。そして自分が罪人であると自覚している人々の集まりです。みんな人間としての弱さを持っています。だからこそ神さまの救いを求めて教会に通ってくるのです。

○私は疑い深い人間ですから、きちんと頭で理解できないと信じることはできません。
 疑うこと自体は悪いことではありません。疑いは真理を知ろうとする段階において必ず抱くものではないでしょうか。疑ったから罪であるというわけではありません。疑いをマイナスに捉えて、私は疑い深い人間だから宗教には向かない、精神的なものは合わない、無神論者として歩む以外ないのだ、などと悲観的になる必要はありません。意外なようですが、クリスチャンの中には、理系の人が少なくないのです。理系の人は科学的なものの見方をしますから、聖書を読むにしても疑う、科学的な目で見るとどうも納得がいかない、となりそうですが、不思議なことに、信じてその信仰から離れないのは、理系の人が多いそうです。その点では文系の人のほうが、熱しやすく冷めやすい面があるようです。疑うのは皆同じです。最初から疑いのない人などいません。そういう方でも決して希望がないとはいえません。私たちは、全てを知り尽くして、納得して信じるというのではないのです。分かってから信じるというのは信仰ではありません、知識です。見ずして信じるのが信仰、イエスさまは「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1:39)と言われました。来なければ分からない、そのことは信仰生活にとっても大事なことです。

○いつか信じる時が来るとは思いますが、今はちょっと・・・
 入信された方の多くが、「私はもっと若い頃に決心していれば良かったと思います」と言われます。神さまは、私たち人間が少しでも若いうちに救い主を信じて、地上の生涯を神さまと人のためのお役に立つ生き方をすることを願っておられ、そうする人を喜ばれます。やがてそのうち、という日は永遠に来ないかもしれません、いつのまにか信じる気持ちも消えてしまっているかもしれません。聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントU6:2)こういって止まない。私たちは、今日神さまの声を聞いたら、すぐに動き出すということを心がけねばなりません。

 いろんなexcuseで、私たちは、今の自分の現状維持を図ろうとします。しかし、そうしている間は、新しい生活はできないのです。求道者の中には、何年経っても決心のつかない人もあります。しかし、これは人間が理屈で説き伏せて入信させる、というものではありません。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリントT12:3)と書いてあります。聖霊さまが働いて、自らがみ霊の導きに与ったとき、はじめて求道してまもなくだろうが、十数年経ってからだろうが、イエスさまは救い主だといえる時が来る。我々はそれに委ねなければならないのです。いろんなexcuseに出会うときに、聖書の視点から考えることが出来れば、と思います。 

 「神に用いられるとき」〜一柳米来留(ウィリアム・メリル・ヴォーリス)の生涯〜(2003/01/08)
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)

 昨年末から今年の初めにかけて、ニュースで盛んに報じられたものの一つは、昭和の初めに建てられた小学校校舎が解体され、新校舎に建て替えられようとしているという、滋賀県の豊郷小学校の話題でした。実は、私はこの問題に非常に関心を持って、その成り行きを見守っている者の一人であります。というのは、この建物を造ったのがウィリアム・メリル・ヴォーリスという方で、日本に帰化して、一柳米来留という名前になって日本に骨を埋めた方であるからです。キリストの福音伝道のために日本にやってきましたが、この人は建築の専門家でもありました。また近江八幡市に住んで、この町を中心に活躍すると同時に、近江八幡市の名誉市民第一号にも選ばれた。この人の生涯は実に素晴らしい証しに満ち溢れた生涯なのです。
 朝日新聞の記事からですが、次のように紹介されています。「1880年米国カンザス州に生まれ、1905年に来日、1964年に滋賀県近江八幡市で死去。キリスト教伝道の傍ら、建築家として関西学院、神戸女学院、青山学院など各地の校舎や教会を設計し、豊郷小学校は、地元出身の実業家、古川鉄治郎氏が私財を投じて、ヴォーリスの設計で1937年(S12)に完成、鉄筋コンクリート一部3階建て、アール・。デコ様式のE字型の校舎である」
 アメリカでクリスチャン・ホームに育った彼の夢は建築家になることでした。ところがコロラド大学卒業直前に、外国宣教の話を聞き心を動かされます。建築家になりたいという希望が半分、キリストのために働きたいという希望が半分で、気持ちが揺れ動いているときに、日本の滋賀県立商業学校で英語教師を求めているということが、日米のYMCAを通じて知らされました。地図でみて見ると近江八幡は、日本のほぼ中心、そこで求められていると聞いて、これは神さまの思し召しであると悟った彼は、25歳で来日。学校で英語を教える傍ら、週末は自宅を開放して聖書研究会を行い伝道に励みます。ところが2年後、英語だけでなくキリスト教を教えていると非難の声があがって退職を余儀なくされます。借金をしてまでして日本にやってきた彼にとって、職を失ったことは大きな痛手となります。そこで建築家としての技術が生かされてくるのです。「ヴォーリス建築事務所」を立ち上げ商売をはじめます。最初は泣かず飛ばずでしたが、誠実な仕事ぶりが徐々に認められ、次第に仕事も入ってくるようになります。そこで「近江兄弟社」という会社を興して、事業の幅を広げます。神さまは、ひたすら神の国と神の義を求める者には、必ずやその必要を満たして下さるのです。生活が成り立つようになり、余裕が出てくると、それに甘んずることなく、神さまのためにさらに働こうと、四つの方面で活動をしていきます。
 第一は伝道です。「近江ミッション」といって、琵琶湖周辺の町や村を訪問して、路傍伝道を行いました。そこでの記録は、日本の農村伝道において大変貴重となる資料として残されることになります。琵琶湖湖畔を中心とした伝道でしたので交通手段には舟を用いたそうですが、その舟も「ガリラヤ丸」と名づけて、あちこちの漁村を訪れたそうです。また文書伝道として「湖畔の声」という雑誌を1912年(M45)に発行し、なんとこの雑誌は未だに続いているということですので驚かされます。
 二番目には、教育面において素晴らしい働きをされました。1922年に近江兄弟社学園を設立、幼稚園、小学校、中学校、高校までをも創設しました。現在でも全体で約1,600人の生徒が通う学校であるようです。また図書館を造ったり、聖書を学ぶ人のために近江聖書塾という神学校も建てました。
 三番目は医療面です。「近江サナトリウム」という結核の療養所を1918年に作り、病院内でも毎日礼拝があり、スピーカーを通して、説教や讃美歌を病室にいながら聴くことができたようです。この病院は、現在「ヴォーリス記念病院」と名前を変えて総合病院として地域の医療のために貢献しているようです。
 第四に事業面です。先ずは建築事務所ですが、日本の優れた私立学校の多くは、このヴォ−リス建築事務所の手によるものです。それ以外にも大阪の大丸百貨店、梅田の大同生命ビル等々、手がけた建物は数知れません。他にもハモンドオルガン、ピアノの輸入販売などの貿易業をしました。この仕事の中では、メンソレータムが特に有名なのではないでしょうか。現在では薬の名前はロート製薬に売却して、メンタームという名前で販売が続けられていますが、この有名な薬の権利を米国から買い、日本での製造販売をはじめたのはこのヴォーリス氏なのです。
 この方の働きについては「失敗者の自叙伝」という著書に詳しく書いてありますので、興味のある方はお読みいただきたいと思いますが、いろんな壁、困難にぶつかるたびに、神さまが働いて、ますます豊かに与えられようになるということがヴォーリス氏のこの証しを通して良く解り、励まされる本です。
 最後にこの方の生涯を見ていくときに、三つのことを教えられます。一つはこの方が信仰の人であったということ、その表れとして礼拝を第一にしたということを教えられるのです。大同生命ビルの建築に当たって、工期に間に合わすために工事関係者は、日曜も返上して仕事を続けようとしたところを、ヴォーリス氏は日曜日は主を讃美、礼拝する日であるから、とそれを許さなかったそうです(決して工事関係者がクリスチャンであったわけではありませんが)。しかし結果的には日曜日をしっかり休んだことによって能率が上がったのか、きちんと工期に間に合う形で建物を見事完成させた、というエピソードがあります。二番目に希望の人であったことです。ヴォーリス氏は「今日は昨日に勝る」という言葉が好きだったそうです。それは、一日一日神さまが共にいて働いて下さるのだから悪いようになるはずがない、例え困難にぶつかろうとも、それをバネに神さまはそこからきっといいように導いて下さるという彼の強い神さまへの信頼が感じられます。そして三番目には愛の人であったということです。教職を追われるなど迫害に遭いながらも、この日本を愛し、日本人を愛し、近江八幡市を愛した。日本に帰化したことが何よりその証しだと思います。1941年、60歳にして日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名しました。そして生涯愛したこの日本の地で1964年、83歳の地上の生涯を閉じることになります。
 私たちに同じようなことはできませんが、神さまに用いられ、その生涯を神さまにささげるとき、何も持っていない者にもすべてが与えられ、ますます用いられていくという生きた証しに、私たちは大いに励まされるのではないでしょうか。

 「天国は本当にありますか」(ヘブライ人への手紙11:13−16)(1999/02/10)

 「天国は本当にありますか?」と聞かれたら、私たちはどのように答えることができるでしょうか。もちろん私たちは信仰から、天国の実在を確信しています。しかし天国については解らないことが多いのです。何故なら向こうへ行って、帰ってきた人がいないからです。唯一、イエスさまだけが一度死んでよみがえられただけです。ですから天国について知る知識というのは、決して私たちの経験とか、理性の思索から生まれてくるものではありません。これはあくまでも神さまからの啓示、神さまが示してくださった真理、それに聞く以外に道はないのです。そのためにイエス・キリストが神さまのもとからおいでくださったのです。ですからこのお方に聞く、それが最も確かなチャンネルです。復活して今も生けるイエス・キリストの啓示、教え、それは福音書の中にたくさん記されていますし、その信仰を持った弟子たちが「ローマの信徒への手紙」以降にもいろいろと書いてくれています。
 では神さまの啓示、イエスさまの教え、使徒たちの教えの中で、天国はどのように捉えられているのでしょうか。今日はこの天国ということだけに集中して学んでみたいと思います。
 まず天国あるいは天という表現は、聖書の中に三種類あるということをおぼえていただきたいと思います。まず使徒言行録1:9−11、ここに出てくる天は、人間の側に一番近い天、雲が覆っていて、晴れると大空が見えてという天です。2番目は、創世記1章の天地創造の天です。天体、広大な宇宙、これを天といっています。3番目が今日問題にしているいわゆる天国です。神さまのおいでになるところ、といってもいいかもしれません。神の住まい、今日の箇所で「天の故郷」といっているところです。たとえば詩編11:4には主がそこにおいでになるところとして記されています。天国、天についてはこの3種類があります。
 ではその天国の住民はどういう人たちでしょうか。まずはやはり神さまがいらっしゃって、御子なるイエスさま、神の使い、天使、そしてイエスを信じて贖われた者がいる。そして悪しき者、不審な者は除外されるという厳しさがあります。エフェソ5:5に「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。」とあります。神の国に住むことのできない者もある、全ての人が救われるとは聖書には書いていない、ということも覚えたいと思います。そして天国に迎え入れられた者には祝福が与えられる、黙示録14:13には、「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る」とあります。神の国に移される者への第一の恵みは、休息、安らぎです。この世のいろんな苦痛、しがらみから解放されるということです。次にテモテU4:8に「義の栄冠を受ける」とあります。神さまから、信仰の戦いを戦い抜いた報奨をいただけるのです。
 天国について、「天国においてはお互いが認識できるのでしょうか?」と聞く人があります。天国に移された時、私たちはどういう姿になるのでしょうか。これには二つあると思います。一つは、キリストの生涯をみるとわかるのは、地上で生活されていたときのイエスさまと、復活後、しばらく地上で過ごされたイエスさまのお姿とは、明らかに違いました。マグダラのマリヤが復活のイエスさまに最初に会いますが、最初は気づきません。エマオの途上で弟子たちに付き添っておられ、会話をしますが気づきません。12弟子が揃っている所にイエスさまが現れたときは、戸が閉まっているのにそのまま中に入ってこられた。あるいはトマスに自らを現されて、トマスが最後に信仰告白すると、その後すぐにそのお姿は見えなくなった。復活前のイエスさまは、私たちと変わらない人間としての歩みをされました。ところが復活後のお体は、見たところイエスさまだと認識できる反面、非常に自由な体を持っておられた。それを栄光の体とか霊の体、と聖書はいっています。体がないのではないのです。ここは大事です。ギリシャの思想でも、人間死んでも永遠に生きる、霊魂不滅ということをいいます。ギリシャ哲学では、肉体は悪、霊は善なのです。救いというのは、肉体の牢獄から魂が自由に解放されることを指すのです。仏教では輪廻という思想になり、それは命は続くが必ずしも人間になるとは限らない、いろんな姿をとって次の世代に移っていくという考え方です。キリスト教は、私たち自身が天国に移って、肉体の体と違う、霊の体、栄光の体を持つのです。ですからお互いを認識することはできるのです。ルカ16章にもそのような天国の様子が書かれています。認識できるということは、天国で親しい者と再会できるという喜びがそこにあります。そのことを暗示する箇所として、テサロニケT4:16−17を見て下さい。象徴的な表現ですが、向こう側からこちらには来ませんが、こちらからむこうに行く日が必ず来るのです。マタイ8:11ではアブラハム、イサク、ヤコブと共に(彼らを認識して)宴会の席につくと書いてあります。問題はいったい何歳の自分が天国で認識されるのか、ということですが、まずお互いに兄弟姉妹として、神さまを崇めるわけですから、めとったり嫁いだりが天国ではないと聖書にあります。そして天国に存在する私というのは、自己実現の一番完全な姿で移される、たとえば地上ではどこかに欠陥があったとしても、障害があったとしても、御国においては失ったものを回復して、全き栄光の体で神さまの前に立つのです。そしてその姿については神さまが判断されることだと思います。ただ、イエスさまの場合は、トマスに手の釘の跡をお示しになりました。ということは、復活後もそれを通して神さまを崇める、そういうしるしであれば、ある種の象徴として傷が残ることもあるのではないでしょうか。創世記49:33には、「(ヤコブは)息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。先に移された同胞、家族の中に加えられると考えられるのです。
 「天国についてのすべて」(P.J.クリーフト 新教出版社)は、ボストン大学の哲学者、神学者のクリーフトという方がお書きになったものですが、この中に「召された人たちは、今も私たちを見ているでしょうか」という質問に答えて、ヘブライ12:1を挙げています。ここを読むと、競技をする私たちを、天においてその観覧席から、先に召された者が、私たちを応援し、執り成してくれているのが解ります。
 パスカルは、「キリストから離れないで死を考えよう。主から離れると死は忌まわしくなる。主にあっては死は全く別になる。それは愛すべき、清浄な信者の歓喜である。」といっています。私たちは天国については、聖書の啓示によって考えたいと思います。ただはっきりわきまえたい事は、天国について地上の私たちがすべてわかることはないということです。さきほどのクリーフト氏が「天国について考える時に大事なことが三つある。一つは信仰、それから理性、そして想像力、この三つが大事である」といっています。
 聖書に啓示されていることから、私たちの想像を働かせて天国をイメージすることは楽しいことです。やがてその中に私たちも入れていただいて、先に召された親しい人々との交わりの中に加えられる、その希望を胸に日々歩みたいものです。


  「十戒を学ぶ」(出エジプト記20:1−17、申命記5:6-21)(2002/05/01)

 
十戒は旧約聖書の中心をなすものです。旧約聖書は、よく「律法と預言書」、あるいは「律法と預言者」という言い方で表されます。時には「律法」という言い方で表す場合もあります。旧約と新約という言い方を対照的に使うときに、「律法と福音」と呼ぶ場合もあります。その律法の中心がこの十戒です。その十戒から派生してさまざまな律法が加わってきました。ですから狭い意味で律法というときは、十戒そのものを指します。広い意味でいうときには、そこから派生したたくさんの決まりごとが加わります。

◇十の戒め
 では具体的にその中身をみてまいりましょう。
1.「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
 簡単にいうと「神のみを神とせよ」ということです。主以外を神とすることの禁止、この神さまが礼拝の対象としての唯一のお方であるということです。
2.「あなたはいかなる像も造ってはならない。」
 神さまは霊であるお方であるから、被造物で表すことは出来ないということです。偶像礼拝は、生ける神さまを命なき偶像にすり替えてしまう行為です。それ以外にも、神さま以外のものを大事にしてしまうと、これはまた形無き偶像となることがあります。私たちはいろんな意味で偶像礼拝をしてしまっているのではないでしょうか。
3.「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」
 「みだりに唱える」とは、名を口にしないということではなく、禁じられているのは、正しくない用い方です。価値のない目的や偽りのために、また悪を行うために、人間のの都合のいいように用いることを禁じています。
4.「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
 神さまが天地創造をされて、7日目に休まれたところにその根拠があります。単に労働を中断するというだけではなく、主を賛美し、その救いのみわざに心から感謝して礼拝をささげる喜びの日として守りなさいということです。
5.「あなたの父母を敬え。」
 私たちの命は、神さまが私たちの両親を通して授けてくださったものです。そのことがわかると、神さまへの感謝とともに両親への敬愛も当然なことです。逆に子どもも神さまから授かった宝物ですから、正しく神さまのもとへと導く責務が、親の側にもあることになります。この5番目の戒めは、神と人との関係を扱う1〜4の戒めと、人と人との関係を扱う6〜10の戒めへと移行する橋渡しの役を担っています。
6.「殺してはならない。」
 人命の尊重を命じる戒めですが、自明の理のように思われるこの戒めが、いとも簡単に軽んじられる現代においては、これが神さまからの戒めであることを改めて肝に銘じておきたいものです。
7.「姦淫してはならない。」
 結婚を重んじるようにという命令であり、配偶者以外の者と肉体的な関係を持つことが禁じられています。そこには結婚生活、家庭生活の秩序と神聖さが示されます。
8.「盗んではならない。」
 「誘拐行為」を指すという解釈もあったようですが、それだけには限らないようです。いわゆる所有権を守ることを目的とした言葉です。
9.「隣人に関して偽証してはならない。」
 基本的に法廷での偽証を禁ずる命令で、共同体の秩序を維持するための戒めです。
10.「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
 「欲しがる心」「欲望」は、1〜9すべての戒めを破る行為へとつながり得ます。心にこの欲望が満ちてくると、罪に陥り、あらゆる悪へと引きずり込まれてしまいます。

◇律法・十戒
 《 旧約聖書はしばしば「律法と預言者」(マタイ5:17、7:12、22:40)と呼ばれます。「律法(トーラー)」は、教示・手引等を意味し、創造主なる神の前に被造物なる人間が如何に生きるべきかを示した神の御意志なのです。神は昔、アブラハム等族長個人と交わした契約を、やがて選民イスラエルと交わし、神の民の団結と信仰の純粋性を保たせようとされました。その律法の要約が、モーセを通して神が授けられた「十戒」でした。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」で始まる「十戒」は、神に関するもの(1〜4)と人に関するもの(5〜10)から成り、神と隣人に対する基本的なありかたが教えられ、宗教と倫理の根本規範が示されているのです。
 新約聖書において、イエスはさらに律法を二つの戒めに要約されました(マタイ22:37-40)。但し律法は、全能者の御意志を人間に教えてはくれますが、人生の戦いの力とはなり得ません。「罪の自覚が生じるのみ」(ローマ3:20)です。然しその結果罪を悔改め(自力では律法をすべて守りとうせぬことを悟らされて)、信仰による義(救)へと導いてくれるので、使徒パウロは「キリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)と述べています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(ヨハネ1:17)と書かれ、イエス・キリストによって律法が成就しています。 (文責 吉井秀夫 「新・キリスト教保育者必携」より) 

◇律法から福音へ
 この十の戒めを頂点にして律法は成り立っていますが、律法はあくまでもそれ自体が完結したものではなかったのです。ある金持ちの青年がイエスさまのもとに道を求めてきました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われました。「どの掟ですか」と男が言うと、「戒めを守りなさい」「私は戒めを守っています」「なお一つ足りない。持ち物を売って貧しい人々に施しなさい」と言われました。それには従いきれずに去っていった、とマタイ19章にあります。イエスさまも決して律法を否定してはいません。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)とおっしゃっています。
 律法は私たちに何を示すかというと、この戒めを100%守ろうとしたら、それができないことに気がついて失望します。実はそれが律法の目的、私たちのありのままを示す鏡のようなものです。この律法に自分を照らし合わせてみると、汚れた自分というものに気づかされるのです。そういう私たちをして、イエス・キリストの十字架に律法は追いやる、イエス・キリストの購いの十字架によって、律法によってではなく、信仰によって義とされるという道が示された、ということに気がつくときに、十字架が有難いのです。感謝で満ち溢れるのです。
 聖書の「旧約」「新約」が敵対関係にあるのではなく、「旧約」の律法によって、「新約」の福音へと導かれていくのだということを覚えていただければ幸いです。 

 「主の祈り」マタイ6:9-13、ルカ11:1-4)(2002/05/08)
 
「天にまします 我らの父よ
 願わくはみ名をあがめさせたまえ
 み国を来たらせたまえ
 みこころの 天になるごとく
 地にも なさせたまえ
 我らの日用の糧を 今日も与えたまえ
 我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
 我らの罪をも ゆるしたまえ
 我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ
 国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり
 アーメン」      (讃詠564)   

 今回は「主の祈り」の意味について学びたいと思います。苦しかったり、悲しかったり、あるいは自分自身が情けなくなるような心情の中で祈れないときには、「主の祈り」を祈りなさいと言われる牧師先生もいらっしゃいます。「主の祈り」を祈ることによって、新たにそこから示されることがありますし、そこから変えていただけるから、というわけです。この「主の祈り」は、ある聖書学者は、「山上の垂訓の結晶である」といったり、「宗教と道徳との一切を総合したものである」ともいっています。ただ問題は、「主の祈り」は、あまりにもよく知られ、唱えられているために、本当の意味を把握せずに祈ってしまうということになってしまうのではないか、との反省です。その意味でマルチン・ルターは「主の祈りほど気の毒な殉教者はいない。それはいつも何らの尊敬もなく、了解もなく、乱用されるからである。」と戒めています。
 「主の祈り」はどのように弟子たちに教えられたかというと、ルカ伝によると、イエスさまのお祈りの姿を見て、弟子たちがこういいました。「主よ、ヨハネが弟子たちに祈りを教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」、つまり弟子たちは、師であるイエスさまのお祈りの言葉、姿勢に感激して、自分たちもこんなふうに祈りたいと思って、こういってきたのです。そのときに教えられたのが、この祈りです。これはイエスさまが、弟子たちに、祈りの根本精神はどうあるべきかということを、短い言葉の中で教えられた祈りなのです。ですから祈りを唱える前に、その意味についてよく理解し、心に留めておくべきではないでしょうか。そしてこの祈りは弟子たちに教えた祈りであり、すでに信仰を持っているクリスチャンにわかっていただける祈りなのであって、初めての人にこの祈りを教えても、よくおわかりいただけない場合もあるかもしれません。しかし場合によっては、主の祈りを学ぶということは、キリスト教の入門書を学ぶことにも通じるのではないかと考えます。主の祈りは、それほど、初めての人にキリスト教とは何か、ということをわかっていただくには、非常によいテキストであると思います。

◇「天にまします 我らの父よ」
 この呼びかけの言葉、第一声もとても大事なものだと思います。「天におられますお父さま」という呼びかけから始まっています。ルカではただ「父よ」となっています。神さまが父と呼ばれているところに、キリスト教の一番の特徴があります。私たちの信じる神さまは、単に絶対者、創造主などと特別に畏れ多い、近寄りがたいような気高い神さま、というだけではなくて、「お父さま」と呼びかけてもいい神さまなのです。私たちの信仰は、天地を造られた創造主である神さま、み子イエスをお送りくださった神さまですが、その神さまは被造物である私たち一人ひとりのお父さんでもある。そして親子関係ですから、愛の関係でもあります。そして「我らの神さま」と複数で呼びかけます。ここにも意味があります。私だけを幸せにしてくださいという自己中心的な祈りは、あまり神さまは喜ばれないのです。私たち(自分、家族、同胞、世界中の全ての人々を含む)のことを念頭に、そして「天におられますお父さま」と呼びかけるのです。

◇「願わくはみ名をあがめさせたまえ」
 「御名が崇められますように」「主イエス・キリストの父なる神さま御自身が崇められますように」という祈りです。

◇「み国を来たらせたまえ」
 神の国を支配する支配原理とは何かというと、義であり愛です。神さまの国を覆う神さまの正義と慈愛をどうかこの地上にも実現させてください。この地上を神さまの義と愛で満たしてください、「御国がきますように」と祈るのです。

◇「みこころの 天になるごとく 地にも なさせたまえ」
 義と愛が私たちの生活の中に染みとおってきますように、神さまの望んでおられること、父なる神さまのご意志、ご計画が地上でなされますように、という祈りです。

 ここまでは、神さまをほめたたえ、神さまの愛と義が地上において私たちにいきわたりますように、それが何より幸せなことである。という信仰をそこに表す祈りです。そして自分の必要のために祈る前に、神さまが神さまとしてたたえられ、神さまのご支配と神さまの御心が実現するように祈るのです。

◇「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ」
 日用の糧とは、食べるものに限らず、日々必要なものという意味があります。今日一日に必要なものを与えて下さい。生きていくために必要なものをください。という祈りです。「存在するために必要な糧を」「無くてならぬものを」と訳している聖書もあります。しかしどうか誤解しないでいただきたい。神さまは私たちの欲求の欲するままにお与えにはなるのではなく、私たちの必要をお与えくださるということです。人間の欲望は際限ないものだということは、神さまがよくご存知です。ただ私たちの必要なものは惜しげもなく、必ず与えてくださるのだということを覚えましょう。私たちは神さまに造られた被造物です。私たちは自分たちの力だけで生きているのではない、ということ。生かされているのだということを忘れないようにしたいものです。

◇「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をも ゆるしたまえ」
 この文語訳で文字通り読みますと、「我々が他の人の罪を赦しましたから、そのことに免じて私の罪も赦してください」という具合に読むこともできます。その通りだとしたら、私たちはなかなか人の罪が赦せない存在ですから、神さまに赦していただくことも出来なくなってしまう。しかしルカ伝を見ていただきますと、11:4に「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」とあります。神さまによって私の罪は赦されました。赦してくださったことに感謝します。だから私も他の人の罪を赦します。他の人の罪も赦すようにします。他の人の罪も赦せるようになりたいです。と、こういう祈りです。人を赦すことは、自分が赦されるための条件ではないのです。神さまに赦されたことの結果として、人を赦せるようにさせていただくのです。私たちは「赦された罪びと」であるという自覚を持ちましょう。
「赦されがたい私が赦されている。私は誰をも無条件で赦さねばならない」
「赦しうるものを赦す。それだけなら、どこに神の力が要るか。人間に赦しがたきを赦す。そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)

◇「我らをこころみにあわせず 悪より救い出したまえ」
 ここはルカ伝では、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」となっています。「人間は考える葦である」という有名なパスカルの言葉がありますが、人間は本来弱い存在である、ということを覚える必要があります。その弱さを認めること、これが大事で、弱さを自覚しながら強いお方に支えていただいて、生きるものこそ強いのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)私たちは弱いんだということが分からないと、この祈りはできません。「誘惑に遭わせないで」という言葉ですが、私たちは果たして誘惑に遭わずに生きていくことができるでしょうか。それは不可能です。誘惑に遭わないというのは、出会わないということではなくて、誘惑に遭った場合に、その中に取り込まれないように、導きれ入れられないように、という意味です。私たち誰もが誘惑には遭います。そのときに、そこに取り込まれることなく、誘惑を避けることができるか、そのまま誘惑のとりこになってしまうかのどちらかです。ですから「誘惑に遭わないことは不可能だけれど、誘惑に負けないものとして下さい」という祈りです。

 私たちが平安と感謝、喜びとにあふれた生活をするためには、イエスさまを私たちの生活の中心にお迎えして、この「主の祈り」を、自分の祈りとすることです。「福音全体の要約である」ともいわれるこの「主の祈り」をこうした意味を心にとめながら、祈っていきたいものです。 

 「バプテスマについて」(マルコ16:16)(2000/11/15)
 「信じて洗礼(バプテスマ)を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」

 教会の礼拝とは何か、といわれたときに、いろんな定義の仕方があるわけですが、一般的には礼拝が礼拝であるためには、み言葉が語られるということと、礼典が守られること、この二つが大切です。イエスさまは、2つの礼典をお与えになりました。一つは入信のときに受けるバプテスマ、それから受洗した後に与る聖餐式、この二つは教会に欠かすことのできないものです。本当の教会には必ずこの礼典があるはずです。礼典のない集いは、礼拝というよりは、聖書講演会あるいは聖書講義ということになると思います。私たちはこの二つを正しく理解しておくことが必要です。というのは礼典に対する無理解とか、誤解というものが、従来いろんな宗派・教派が出来てきた歴史があるからです。今回は特にバプテスマについて考えてみたいと思います。

◇バプテスマの重要性
 「信じて洗礼を受けるものは救われる」とキリストは最後の宣言をされました。「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)、この水はバプテスマを指します。そしてイエスさまがこのことを大事に考えられていた証拠として、マタイ3章に、バプテスマのヨハネの手に委ねて、自ら洗礼を受けられています。いかに洗礼というものが大事なことなのか模範を示されました。そして召天後、イエスさまのお言葉に従って、ペトロがエルサレムで最初の説教をした後に、三千人もの人が悔い改めて洗礼を受けたという記事があって(使徒2章)、これがキリスト教会の誕生であったといわれております。このように福音書をみても、その後の使徒言行録をみても、大切な礼典として扱われております。

◇バプテスマの意義
 コリントT15:3-4には、福音とは何かというと、それはキリストが十字架で死なれたこと、葬られたこと、三日目に復活されたこと、この出来事の中に要約されるといっています。バプテスマはこのイエス・キリストの福音そのものを目に見えるかたちであらわしたものなのです。ローマ6:3-4にも書かれているように、バプテスマはキリストの死と埋葬、そして復活という福音そのものをあらわしているのです。そして神さまのご命令であれば私は従いますということを神さまと会衆の前で具体的にあらわす行為なのです。信仰生活は神さまの言葉に従順に従う生活です。旧約聖書、列王記に、将軍ナーマンのことが書かれています。シリアの将軍であったナーマンは、重い皮膚病を預言者エリシャに癒してもらおうとイスラエルにやってきました。しかしエリシャは顔も見せずに「ヨルダン川に行って7度浸りなさい」といったのです。ナーマンはこのエリシャの非礼に怒って帰ろうとしますが、部下の説得で、しぶしぶ言われるとおりにしてみるのです。すると見事にナーマンの皮膚病は癒されました。(列王記下5章)いかに従順ということに対して、神さまは祝福をくださるのかということを示される記事であります。その意味でバプテスマは信仰生活の大切な最初のスタートなのです。

◇バプテスマのかたち
 キリスト教会には,水のバプテスマについての解釈と適用で幾つかの異なった立場があります。これはバプテスマを救いの手段と見なすローマ・カトリック教会に代表される見解と,救われた者への神さまの恵みの一手段とする大部分のプロテスタント教会の理解という基本的で重要な違いに始まります。またそのかたちについては、全身を水中に没する浸礼か、水を頭上から注ぐ注水礼もしくは滴礼か、どれが聖書で行われ、教えられているバプテスマのかたちなのかという点で見解が異なります。こういう中で、私たちの「キリストの教会」は、聖書に忠実であろうという立場から、浸礼を行います。
 しかし私たちは、滴礼や注水礼を他の教会で受けてきた方々に対して、その信仰は不十分だとかいうものでは決してありません。私たちの教会へお迎えするにしても、客員として喜んでお迎えしたいと思っております。ただし正会員として加わっていただく際には、浸礼を授かっていただきたいとお勧めしています。

◇バプテスマの祝福
 バプテスマによる恵みは何でしょう。一つは罪が赦されるということです。原罪を赦していただく。もちろん生身の人間ですから、クリスチャンとなればその後は決して罪を犯すことはない、というわけではありません。その都度神さまの前で赦しをいただき、もう一度きよめていただくのです。
  二つ目は新しい命をいただけるということです。ヨハネ5:24には「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とあります。「移るであろう」ではありません。すでに「移っている」のです。
 そして三番目は、聖霊を賜物としていただけるということです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)とあります。ただし、神さまから聖霊をいただいても、自分の力でことをなそうとしたり、聖霊に働いていただこうと祈らなければ、聖霊さまは働いてくださいません。
 四番目には、神の国の世継ぎとされるということです。テトス3:7に、「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」とあります。地上においてはなんら継ぐべき財産がなかっとしても、御国においては、そこでの恵みを受け継ぐ者の一人としてくださっているのです。

 イエスさまを救い主と信じて、その恵みにあずからせていただくためには、信仰告白をしてバプテスマを受けなければなりません。そしてそのバプテスマはイエスさまの福音、私たちのために十字架にかかられた死なれたこと、葬られたこと、そして三日後によみがえられたこと、この三つを目に見えるかたちであらわし、また神さまへ従って生きることを、神さまと会衆の前で宣言することであるということを覚えていただきたいと思います。

 「主の聖餐」(マタイ26:26−28)(2000/11/29)

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

 前回は礼典の一つバプテスマについて学びました。そのもう一つ聖餐について今回は学びたく思います。
 初代教会で礼拝の中心をなしていた聖餐は、聖書の中ではいろんな言い方がされています。使徒2:42には「パンを裂くこと」、コリントT10:16では「キリストのパンにあずかること」「キリストの体にあずかること」、同10:21には「主の杯、主の食卓」、同11:20では「主の晩餐」、などといわれています。
 聖書以外のところでは、キリスト教理史やキリスト教の歴史の中では「サクラメント」「エウカリスティア(感謝)」と呼ばれますし、カトリックでは「ミサ」と呼ばれています。

◇聖餐の考え方の違い
 聖餐は洗礼の約束にたって、教会の交わりのうちに祝われ、信者が継続的にあずかる礼典です。しかしこの聖餐も教会の歴史において、その解釈の違いからさまざまな議論を呼び、教派の分かれる原因の一つになってきました。その中の主な考え方を次に挙げたいと思います。

1.化体説:ローマカトリックは皆この立場です。キリストはパンを取り「これはわたしのからだである。」と言われました。だから主の晩餐で使うパンはキリストのからだになるのだというのです。主の晩餐で使うパンは「聖体」と言って、キリストのからだそのものになるのだと考えます。

2.プロテスタント三つの考え方:プロテスタントでは三つの大きな受け止め方があります。聖公会やルーテル教会では「共在説」といって、パンとともにキリストがおられるという考え方です。そして「霊的実在説」、改革派、長老派、メソジスト、日基教団のほとんどがこれに属していますが、信仰をもってこのパンと杯にあずかると、キリストが御霊においてご臨在くださる、聖霊において主がその人のうちにおられる、キリストの臨在がパンに伴うのだ、という立場です。そして「記念説」(「象徴説」)私どもキリストの教会、バプテスト教会がこの考え方です。コリントT11:24に「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とイエスさまがいわれたと記されていますが、ここから“しるし”として聖餐を守っているのです。

 以上のような考え方の違いがありますが、私は「霊的実在説」と「記念説」を一緒に考えるべきだと思っています。それは聖餐には三つの領域があると考えるからです。一つは過去的なこと−私の代わりにも十字架によって私の贖いを成し遂げてくださった、ということを聖餐の度に思い起こすため、そして現在的なこと−そして今も聖霊というかたちで「聖霊の宮」である私の内に共に生きてくださること、そして未来的なこと−やがて主が来てくださるときに私を顧みてくださるという希望をもつこと、この三つを思い起こしてあずかる必要があると思うのです。

◇ふさわしい態度
 最後に、聖餐はどういう態度で、あずかるべきなのかを考えてみたいと思います。第一に、礼拝の度ごとにあずかる、ということです。私たちの教会では毎週の礼拝で聖餐にあずかります。二番目に、誰がそれを備え、誰がそれにあずかるのか、聖餐に招く方は牧師ではなく、キリストです。あずかるのはイエスさまを信じ、信仰告白をして洗礼を受けた人がそれをあずかるにふさわしいのです。あずかる態度については コリントT11:27ー29に「 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」とあります。しかしどうでしょう。私たちは感謝にあふれているときばかりではなく、試練の真っ只中にいる時、あるいは、大きな失敗を犯して、自分の罪深さをいやというほど思い知らされる時に、聖餐が巡ってくることもあります。しかし聖餐は神さまの方から一方的に命じてくださっている大いなる恵みの食卓なのです。今なお罪を犯すことの多い私たちが、それでもなお赦してくださり、聖餐にあずからせていただける、そのことに対する心からの感謝と悔い改めをしながらその都度あずかりたいものです。

 マタイ26:30に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」とあります。弟子たちとイエスさまは、十字架を目前にして、悲嘆にくれるような状況であったにもかかわらず、聖餐にあずかった彼らは、喜びと感謝にあふれ、賛美して出かけました。今日も教会では、一週間のいやな出来事も癒していただき、将来の不安も神さまに一切を委ねて、聖餐にあずかることで、力づけられ、賛美しながら教会を出て、現実の生活に戻っていけるようでありたいと思います。
 「教会の礼拝で一番神聖な瞬間は、信者が説教と聖餐で力を与えられ、会堂の扉から世界に出て、自身が教会になるときである。我々は教会に通うのではなく、我々自身が教会なのである。」(A.サウスコット)