「キリスト教教理の七つの柱」(エフェソの信徒への手紙)

「父なる神ーキリスト教の神観ー」(2002/05/15)
◇エフェソ1:1-6
 今回は「父なる神ーキリスト教の神観ー」と題して、キリスト教の神とは、イエス・キリストとは何なのか、また三位一体の聖霊とは何なのかを学びたいと思います。
 ある神学者はエフェソ書を「人間の書いたものの中で最も神聖なもののひとつである」と評しています。それだけキリスト教の教理を学ぶのに最も適した書物ということがいえるのです。
 エフェソ書は、パウロの獄中書簡の一つで、紀元61年ごろティキコという弟子を通じてエフェソ地方の教会、そしてクリスチャンたちに向けて書かれた手紙であるといわれています。内容はユダヤ人だけでなく、一般の信徒に向けて書かれたものといってよいといえます。

◇まず第一に私たちの信ずる神とはいかなるものなのかということを考えたいと思います。「カミ」という日本語の語源は「カガミ」「カシコミ」等の略だといわれていますが、近世では上(カミ)、やがては天皇も「カミ」といわれるようになります。偉い人を「カミ」、その人が亡くなると神として祀られた。そして森羅万象が神々になりえたのです。ですからザビエルによってはじめてキリスト教が日本に伝えられたとき、その神という概念を日本人に伝えるのは非常に難しかった。そこで「天主」と訳したのです。

◇「すべてのものの父である神は唯一のであって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4:6)
 第一に「すべてのものの父である神」(4:6)、すなわち万物の創造主であり、唯一の神である。そこがまず東洋的な神概念とは異なるのです。そして今も生きておられる、すべての初めにおられた方であるのです。

 「すべてのものの上にあり」(4:6)。「上にあり」とは超越している神(超越)。そして「すべてのものの内におられます」とは、はるか遠くにいて断絶している関係ではなく、聖霊という形で、私たちの中に住むことができる(内在性)のです。「すべてのものを通して働き」とは、見えるイエス・キリストとして私たちにその姿を現して下さり、私たちに常に働きかけて下さる(歴史性)ということです。
 「神になった人間によってではなく、人間になった神によって世界は救われる」(A.M.ハンター)

 「主イエス・キリストの父である神」(1:3)「わたしたちの父である神」(1:2)。神さまは@万物の父(すべてのものの父)であり、Aキリストの父であり、そしてBわたしたちの父でもあるのです。この神さまをわたしたちのお父さんと呼べることは何と幸いなことでしょう。天のお父様が私たちを父親として愛と恵みをもって導いてくださる、そこに私たちは他で得られない平安が与えられます(摂理の神)。

◇「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがでれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3:18-19)
 神さまの愛は「広い愛」ーキリストの救いは、ユダヤ人だけのものではなく全人類に向けられたものであるということが、このパウロの世界宣教によって示されます。
 また神の愛は「長い愛」ーこの世の初めから終わりまで永遠に続く愛。
 神さまの愛は「高い愛」ー天上におられる神さまが地上の低いところまでも下ってくださった(キリストの誕生)。
 神さまの愛は「深い愛」ー人間の手に届かない程の深刻な問題をも解決に導き、またそれを神さまのご栄光を現すものとして作り変えてくださる。
 我々の信ずべき神様はどんなお方なのか、エフェソ書はこのように示してくれるのです。

 「主なるキリスト・イエス」(2002/05/29)

 2回目は、私たちが救い主と信ずるイエスさまとはどんなお方なのか、ということについて学びたいと思います。
 その前にこの書簡の著者、パウロはイエスさまのことを「キリスト・イエス」と書いています。普通は「イエス・キリスト」という言い方をするのですが何故なのでしょう。それは、パウロが十二弟子のように、イエスさまがこの世で活動をされている時にであったのではなく、その召天後、復活のイエスさまに出会い、それまでの迫害する側から180度変えられて、宣教活動をするに至ったからだと思われます。すなわち信仰上のイエスと最初に出会い、歴史上のイエスはその後に学んだのです。
 では歴史上のイエスをどのようにして学んだかというと、一つは「ルカによる福音書」の著者、ルカとの出会いによってです。ルカはパウロの良き理解者として、その活動を支えました。もう一つは、十二弟子の一人、エルサレム教会の中心であったペテロを通してでした。この二人を通して歴史上のイエスのことを学んだのです。

 それでは歴史上のイエスさまはどんなお方だったのでしょう。
1、愛の方(3:19、5:2)
 福音書の中のどこをとっても「愛」が語られています。十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。」と人々を執り成して祈られたことなどその最たるものです。そして何といっても人間の罪のために自らを生贄として捧げて下さった究極の愛に勝るものはありません。
2、謙虚な方(4:19、フィリピ2:6−10)
 イエスさまは神さまと等しい性質でありながら、馬小屋でこの世の生を受け、貧しく地上での生涯を淡々と送られました。
3、徳の満ちた方(4:13)
 愛、忍耐、義などといった全ての徳がイエスさまの中に含まれています。

 そして、信仰上のキリストとはどんな方なのでしょう。「キリスト」とは名前ではなく職名です。「メシヤ」とも呼ばれ「救い主」「油注がれる者」を意味します。イエスさまは預言者、祭司、王、この三つの職を兼ねていらっしゃるのです。ここでも三つの点からみていきたいと思います。
1、仲保者、調停者(2:14−16)
 「ふたつのもの」すなわち神と人間との間に立って、その和解を実現して下さったのです。それは罪人である人間の姿で生まれ、すべての人間の罪を担って十字架にかかられた、そのことによって、断絶から和解へと導いて下さったのです。
2、教会の礎石(2:19−22)
 人間的にみたら、いかに小さく貧しくみえる教会であってもキリストがその礎石であったがために、いかなる迫害を受けようとも、時代ゝの試練に遭おうとも、教会は2,000年の間存在し続けているのです。
3、宇宙万物の究極の目標(1:10)
 パスカルはパンセ(冥想録)の中で「イエス・キリストはあらゆるものの取る目的であり、あらゆるものの向う中心である。イエス・キリストを知る者は一切のものの理由を知る」(556)といっています。また八木重吉氏の詩には「時と/ところと/すべては/キリストへ向っている/拝んでいる」とあります。
ローマ書11:36には「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」とあり、また同じ8:19-23の中には「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。(中略)被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。
 すなわち被造物(宇宙全体)は、神と人とが和解するのを待ち望んでいる。そしてそのためにうめいている。年々深刻になっている環境問題などは、この被造物のうめきの現れだと思えるのです。
 このことを知るとき、我々が真に立ち返るべきところは自ずと見えてくるはずです。

 「約束された聖霊」(2002/06/12)
1、聖霊とは何か
 今回は「聖霊」について学びたいと思います。はじめに聖霊とは何なのかということですが、まずそれは神さまが私たちに約束して下さったものであるということです。(エフェソ1:13−14)
 (ルカ11:9−13)は有名なみ言葉ですが、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉の意味するところは、まさにこの聖霊なのです。そして、その聖霊は限られた人に与えられるのではなく、イエスさまを信じ、バプテスマ(洗礼)を受ける人には誰にでも与えられるものなのです。(使徒言行録2:38)
 聖霊は神さまが私たちに与えてくださる力です。バプテスマを受けても何も変わらないじゃないか、という人は、聖霊に働いていただいていないのです。私たちから聖霊に働いて頂けるように感謝と悔い改めをしてゆかねばなりません。
 
2、聖霊の働き
 (ローマ8:14−17)には、この霊は「人を神の子とする霊」であり、同時に「神の相続人」とさせてくださるものだとあります。すなわち私たちの罪を赦して下さり、真の救いへの確信をもたせて下さるのです。
 2番目に、この聖霊は、神さまのみ言葉(聖書)を通して働いてくださいます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)とあるように、聖書を通して、神さまのみ旨の理解へと私たちを導いてくださいます。
 3番目には、祈りを通して働いてくださいます。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6:18)神さまは私たちに、神の子として歩むべく力をお与えになろうとしておられますが、それを私たちが受け取るためには祈りが不可欠です。祈りは神さまとの交わり、対話です。私たちの願いを神さまに届け、恵みを頂くために、聖霊に介入していただかねばならないのです。
 このような聖霊の働きによって、私たちは「内なる我」を強めることができるのです。(エフェソ3:16−17)

3、聖霊によって満たされるためには
 「キリスト者は、自分の力を練磨する人ではなく、聖霊を受けることによって、神の力に生かされる人である」という言葉があります。聖書を通して、み言葉に聴こうとする時、祈りを通して、神さまと交わろうとする時に自分を空っぽにする。すなわち、あらゆる先入観や偏見を捨てて、ただ神さまの力に頼っていくことが大切です。
 「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちに下さったのです」(テモテU1:7)「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22−23)私たちの力ではなく、神さまの与えて下さる力に身をゆだねるときに、私たちのうちにある古い性質は排除されていき、聖くなるのです。

 「絶大なる救い」(2002/06/19)

 前回まで3回にわたって、三位一体の神さまのそれぞれのご性質を「父」「子」「聖霊」とに分けて学んでまいりました。そして今回はその神さまの与え給う「救い」について学びたいと思います。
 「救い」という言葉に近いものとして、仏教では「解脱(げだつ)」(業、輪廻、煩悩といったものから抜け出ること)或いは「悟り」(考え方を変えることで、周囲を変わって見てとるようになる)といった言い方がありますが、それに対し、キリスト教の「救い」はさらに倫理的、実存的であるといえます。またここでいう「救い」とは、それによって心がやすらぐとか、気が紛れてすっきりしたとか、今はやりの「癒し系」といわれるものとは全く違う、我々には計り知ることのできないほどの壮大なものであります。

1、過去の救い−義認(義とされる)
 ひとことでいうと、罪が赦されたということです。エフェソ1:7には「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪をゆるされました」とはっきりと宣言されています。ではなぜ過去の救いが必要なのでしょう。エフェソ2:1−3に私たちは生まれながらに罪を有するが故に「神の怒りを受けるべき者でした」とあります。ローマ書にも「正しいものはいない。一人もいない。」(ローマ3:10)、とありその故に、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)といっています。神さまに喜ばれ、受け入れられて清く新しい生活を始めるために、過去の一切を清算して「救い」に与る必要があるのです。

2、現在の救い−聖潔(潔められる)
 「だから以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向っている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:22−24)
 私たちは過去を清算して、罪を赦されたからそれでよかった、では終わりません。そこから新しい生活を始めなければなりません。エフェソ2:10には「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」と書かれています。善い業を行うことによって救われるのではなく、救われたから善い業を行うことができるのです。

3、未来の救い−栄化(栄光に与る)
 「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:14)
 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(同4:30)
 「贖いの日」、そしてこの世の終末のとき、最後の神の審判が下るとき、御国へ神の子としていれていただけることが保証されています。これが未来の救いです。ローマ8:18-23には、自然界(被造物)もその日を待ち望んで、人が悔い改めてともに神の子となることを「うめきながら待ち望んでいる」と書いてあります。そこにこの広大な宇宙の完成があるわけです。
 賀川豊彦先生は亡くなる前にこう祈られたそうです。「教会を強めて下さい。日本を救って下さい。世界に平和を来たらせて下さい。」なんとスケールの大きい祈りでしょう。しかしこれがキリスト者の行き着くところではないかと思わされます。

 この3つ全てが「救い」です。ですから、今わたしたちクリスチャンは「救い」の真っ只中、進行形の位置にあるといえます。
 他の宗教の方が「キリスト教は他力(宗教)ですか?自力(宗教)ですか?」と問われることがあります。答えは「両方を含んでいます。」ということでしょう。ただイエスさまを信じることだけで私たちは救われます。その意味では他力ですが、神の作品として現在の、そして未来の救いの達成のためには、自らが能動的に関わっていく必要がある。ですからキリスト教は、他力、自力のどちらかに偏る宗教ではありません。
 この神さまの下さる「救い」に与り、その豊かな恵みの中で、それぞれが豊かな人生を送りたいものです。

 「恵みの務め」(2002/06/26)

(エフェソ2:7-10)
 今回は「恵み」について考えたいと思います。この「恵み」については、その意味するところが、旧約と新約では異なります。
 例えば「ノアは主の前に恵みを得た」(創6:8 口語訳)「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出33:19)、ノアやモーセといった偉大な信仰者は、神さまの前に常に正しい生活をしていたので神さまの「恵み」を受けました。従ってどちらかというと旧約時代における「恵み」とは、よい行いに対する報酬といった意味合いが感じられます。
 しかし新約聖書には、たとえ恩知らずな罪人であっても、神さまはかえりみて下さる(ルカ6:35)とあります。またイエスさまご自身、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われました。ザアカイが良い例でしょう。従って旧約と違い、それを受ける資格のない者にも「恵み」を与えて下さるのです。

 私たちは神さまから豊かな「恵み」を頂けるということが解りました。しかし認識するだけでは「恵み」は頂けません。その為には応答が必要です。即ち、神さまの方を向いて、ただ頂けばよいのです。「限りなく豊かな恵み」(エフェソ2:7)を、神さまは私たち一人一人に与えてやりたいと思っておられます。神さまの方へ顔を向けることを待ち望んでおられるのです。

 「善い業のために」(エフェソ2:10)
 「恵み」を豊かに頂くことによって、私たちは感謝にあふれ、必然的に押し出されて、神さまのこの「恵み」に応えたいと感じます。これが「善い業」「恵みの務め」です。英語のこんな言葉があります。“We are saved not by good deeds but for good deeds”(善い行いによって救われたのではなく、善い行いに向って(のために)救われたのだ)
 そしてこの「恵みの務め」を行い、用いれば用いるほど、与えれば与えるほど、私たちには「恵み」が増し加えられるのです。「タラントン」のたとえ(マタイ25:14-30)にある通りです。これは揺るがない霊的な法則なのです。 

 「信仰による新生活」(2002/07/03)

(エフェソ5:15-20)
 6回目の今日はキリスト者の生活とはどういうものかを学んで行きたいと思います。このエフェソ書は二つの側面を持っていて、一つは非常に深い、霊的な真理を指し示しているところと、もう一つは私たちの身近な信仰的な生活とはどうあるべきかを教えている部分とがあります。今回は後者の部分を学んでいくわけです。
 ここでは、私と神さまとの関係(対神関係)、自分自身との関係(対自分関係)、他人との関係(対人関係)と、大きく三つに分けて見て行きたいと思います。

T、対神関係
 @(エフェソ5:4、20)「感謝の生活」
  感謝することというのは信仰者の一番の特徴です。例え同じ環境であっても、ないものねだりで失望する人もあれば、その一方で今あるものに心から感謝できる人もあります。河野進氏の詩を紹介します。「どんな苦難を吸っても、吐く息は感謝でありますように、呼吸もみな、天のお父様のお恵みですから」
 A(エフェソ5:21)「畏れの心」(畏敬)
  創造主への畏れこそ、今最も大切なことではないでしょうか。ここでは夫婦についても、また他の家族に対しても畏れをもって仕えなさい、とあります。伴侶、家族も神さまからの授かりものであるという視点で捉えるとき、「親しき仲にも礼儀あり」というよりむしろ「親しき仲にも畏れあり」ということがいえるでしょう。「真の教会は家庭のような教会、真の家庭は教会のような家庭」であるという言葉があります。私たちの目指すべき目標であります。
 B(エフェソ4:30-31)「純潔」
  「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4:30)、むしろ聖霊さまに喜んでいただけるように、様々な悪い思いを断ち切って生活することです。しかしクリスチャンは聖人君子ではありません。常にみ言葉を頂いて、神さまの方を向いて生活するところからスタートしなければならないのです。

 U、対自分関係
 @(エフェソ5:1)「神に倣う者」
  他人を基準とする生活を止めて、神さまがどう思われるかということを第一に考えて行動したいものです。
 A(エフェソ5:8)「光に歩め」
  私たちは「光」ではありませんが、常に神さまの「光」に当っていければ何と素晴らしいことでしょう。光に当っていれば自分の欠点、短所も見えてきます。進むべき道も明らかになることでしょう。しかし闇にいてはそれも見えません。反射体として、神さまの「光」を輝かせましょう。
 B(エフェソ5:10、17)「み旨を求める」
  私の思いではなく、神さまの思いがなんであるかを知るために、み言葉に触れる、み言葉に学ぶ姿勢を大切にしたいものです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)

 V、対人関係
 @(エフェソ4:25)「真実の心」
  真実なしに信頼関係は生まれません。「互いに体の一部」であるという認識を大切に。
 A(エフェソ4:32)「思いやりの心」
  「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3-4)
 B(エフェソ5:2)「愛の心」
  パウロのメッセージはいつも「愛」でしめくくられています。そしてすべての行いの動機として「愛」がその根幹にあるようにと言っています。 「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。」(コリントT16:13-14)
 
 これらは自助努力によって可能となるものでは決してありません。主を信じ、聖霊さまが働いて下さる結果として、このような生活に変えられていくのです。

 「教会の本質と使命」(2002/07/10)
 
 
カルヴィン(カルヴァン)というマルチン・ルターと並んで有名な宗教改革の指導者が、「教会を母とする者にして、はじめて神を父とすることができる」と言われました。すなわち教会という交わりが、キリスト者にとって不可欠であるということです。その教会について最後に学びたいと思います。

 「教会」というと、一般に建物そのもののことを連想することと思いますが、本来はイエスさまを信じる者の集い、共同体のことを指します。そしてその共同体の土台、基礎となるのがイエス・キリストです。(エフェソ2:19-22)
 建物の強さは、その土台によって決まります。有名な「山上の垂訓」でもイエスさまはそのことを譬えを用いてお話になられました。(マタイ7:24-27)
 現実に、牧師のおられない、いわゆる無牧の教会があります。何年経っても信者さんの増えない小規模な教会もあります。この世的に見れば、吹けば飛んで行ってしまうような状態だという人もあるでしょう。しかし、信徒が神さまを仰いで集まる教会には、イエスさまがしっかりと、その土台にいて下さることを思わされるのです。

 「教会」の定義(エフェソ1:23)
 「教会はキリストの体である」この言葉にその定義は集約されています。そして「教会」には「キリスト」という目に見えない部分と、「体」という目に見える部分が共存しているところであります。それはまた、「統一性」と「多様性」と言い換えることができます。

 @統一性
 教会の計画、働き、活動等は、全てを民主主義で決めるものではありません。あくまでも教会の頭はキリストであり、キリストを中心として、そのみ心を第一にしなくてはならないからです。
 A多様性
 「体」の各部分がそれぞれの役割を全うすることによって、「体」全体の健康が保たれます。(コリントT 12:14-26)「教会」は不完全な者の集まり、神さまによって罪を赦された者の集まりです。お互いの違いを認め合って、賜物に応じた奉仕なり、働きを担い、お互いに支えあうことによって「教会」全体の成長につながるということを常に覚えたいものです。
 「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェソ4:16)

 「教会」の使命
 では、「教会」の使命、役割とはなんでしょう。以下三つの点で考えてみたいと思います。
 @礼拝(賛美)(エフェソ3:20-21)
 父なる神を崇める、礼拝することが「教会」の第一の機能、役割です。ですから私たちは主日(聖日)礼拝を一番の信仰生活の基本としています。
 A訓練(エフェソ4:11-13)
 ある意味「教会」は訓練を受ける道場であります。神さまの業のために働くには、み言葉の養いを受けて、時には自らイエスさまを証しする訓練、伝道する訓練を受ける必要がでてきます。
 B悪と戦う(エフェソ6:10-12)
 「教会」は悪と戦うところです。地の塩、世の光として「神の武具」を身にまとって悪と戦う使命が与えられています。
 「教会の礼拝の一番神聖な瞬間は、信者が説教と聖餐で力を与えられて、教会堂の扉から世間に出て、自分自身が教会になるときである。我々は教会に通うのではなく、我々自身が教会になるのだ」

 以上、7回にわたってキリスト教教理について学んで参りました。これからも折に触れてこのエフェソ書から、キリスト教の本質を学んで頂ければ幸いです。