テモテへの手紙U
1章「力と愛と思慮分別の霊」(1999/02/17)

 テモテへの手紙二は新約聖書の中でも、一番最後に書かれたものだといわれています。パウロはやがてローマでその生涯を閉じることになるわけですが、地上での生涯の終わりが近づいていることをひしひしと感じているときです。4章6節では、「世を去る時が近づきました」と言って、いざ神さまのもとに帰るときには、どうありたいかということも書いています。ですからこの手紙はパウロの遺言といってもいいでしょう。そのことを心に留めながらいっしょに学んでまいりましょう。
 一時テモテはエフェソの教会で牧会伝道していたわけですが、そこから出ていって、いろんなところで伝道していたようです。そういう中でそのテモテに宛てて、パウロは獄中からこの手紙を書きました。

1−2節「挨拶」
 あいさつも書簡によってそれぞれ違います。同じ決まり文句であいさつしておりません。その中でキリストから与えられている命の約束を述べ伝えるために、私は使徒とされました、とありますが、この辺にも一工夫があります。地上の生涯が残り少ないということをひしひしと感じているときですから、命という言葉が先に出てくるのでしょうか、そしてその命とは永遠の命を意味します。

 4節「あなたの涙を忘れることができず」これには二通りの解釈がありまして、一つはパウロ先生と別れたテモテが、悲しみの涙を流した、その涙がまぶたに焼き付いていて、この弟子のことがずっと気がかりであったのだろう、という解釈と、もう一つは、これは牧会上の涙、若いテモテが苦労して伝道する中で流した彼の涙が忘れることができない、だからどうしてもこの弟子を励ましていきたい、という気持ちの表れである、という解釈があります。私は後者ではないだろうかと思うのです。単に別れが辛かった、というだけではなく、神さまのために働く上で、いろいろな困難、問題にぶつかるという伝道者ならではの涙、逆に伝道者でなかったら味わわなくても済む涙、それをパウロは霊的な親という気持ちで受け止めて書いているのではないでしょうか。

 5節 テモテの信仰は、素朴な、純真なものでした。それをパウロは賞賛します。そしてそのテモテの信仰は、祖母のロイスから母親のエウニケへ、そしてテモテへと受け継がれている姿をここで言っています。よくいわれる「信仰の継承」ということです。継承というと、財産を継承するとか、資格を継承する、お店ののれんを継承するという言い方がされますが、信仰は決してそういう形では継承できません。しかしそれでも子どもに、孫にと信仰が受け継がれていくことがあります。これは何よりも素晴らしい財産だと思います。親が子どもに「信じなさい」といって伝えられるものではありません。その親の信仰生活を見て、子どもが自分の決断で信じるわけです。ですから非常に難しい面もあります。

 6節 「手を置いた」とはなんでしょうか、按手(あんしゅ)という言い方をしますが、これは伝道者となるときに、その師なり先輩なりが頭に手を置いて祈って聖別することです。現在でも教会では、按手礼という儀式があります。テモテはパウロ先生に頭に手を置いてもらって按手礼を受けました。それによって神さまの賜物(聖霊)を受けたのです。この聖霊は、イエスさまを信じてバプテスマを受けた人、一人ひとりに神さまが与えてくださっているのですが、按手というのはむしろ、与えられている賜物が伝道者として特に聖別されて、そのために聖霊が躍動するようにという意味があります。パウロがここでテモテにもう一度言いたいのは、あなたのうちにすでに宿っている聖霊を、特に按手によって、伝道者としての霊をもう一度燃え立たせなさいというふうにいっているのです。聖霊をくださいではなく、聖霊を働かせて下さい、私に与えられている聖霊を再び燃やして下さい、というような祈りをこそ、私たちはするべきなのです。

 7節 この聖霊とは何かということをこういっています。聖霊というと漠然と聞こえるかもしれませんが、聖霊は具体的にどんな役割を果たすのか、どんな力、機能があるのか、それがここによくでています。まず何より聖霊は臆病の霊ではないのだということ、聖霊は私たちに勇気を与えます。聖霊に働いていただく生活を始めると、力と愛と思慮分別の霊が与えられる。この三つなしには、私たちはいい証し人にはなれないということを思います。

 @力の霊
 クリスチャンになって新しくされた人は、古い自分から変えられていきます。そのことにも聖霊は力だと思わずにはいられません。人類史上のさまざまな変革はいろんなエネルギーの発見によってもたらされてきました。最初のエネルギーは火です。その次に発見した力は蒸気でした。その次は電気、そして原子力、この四つがエネルギー革命の主役たちであるといえるでしょう。ただこの四つどれをとってみても出来なかったものが一つあります。それは人間そのものを変革する力にはなり得なかったということです。人間の持つエゴイズムを清める力にはなり得なかった。自己中心の心を愛に変える力にはなり得なかった。しかしその力を聖霊は持っているのです。「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」とコリントT4:20にあります。また使徒言行録1:8には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とあります。
 ではその力にはどんなものがあるでしょう。例えば慰める力、人間的には言葉もかけられないような苦難の中にある人が、聖霊によって慰められて再び立ち上がる、ということがあります。試練に遭ったとき絶望しないで耐える力、またイエスがキリストだと告白する力、そして大胆にイエスを証しする力という側面あります。
 A愛
 「愛は聖霊の結ぶ実である」という言葉があります。愛というのは自分の中からは出てきません。アガペーの愛は本来人間が持っているものではありません。それを下さるのは愛のお方であるキリストご自身です。ですからイエスさまにつながっていないと、その愛は私たちに流れてこないのです。
 B思慮分別の霊
 口語訳では「慎みの霊」となっていました。バランスのとれた心、といったらよいでしょうか、どちらにも極端にならないということ。中には物事を極端に捉えて、他の一切を切り捨てるということがあります。そうするとなかなか豊かな人間としての交わりがもてないものです。自分自身をコントロールできる、自制できる、相手の立場を推し量ることが出来る、健全な常識の霊といってもいいかもしれません。健全なクリスチャンは同時に常識人でもあるべきだと思います。教会の中では尊敬されるけれども、一歩外に出ると、後ろ指を差されるといったことになれば、証しにならないと思います。

8節 パウロは今の苦しみを私と共に耐えるようにとテモテに言います。テモテに対する厚い信頼が感じられます。そしてその耐える力も自分の力ではなく「神の力に支えられて」であることに注意したいと思います。その「神の力」が与えられることの源について9−12節に語られます。

 自分の力ではなく、聖霊によって、神の力によって生きること。自分たちの行いではなく、神さまの壮大なご計画と恵みによって生きること等、とくにこの第一章で学ばされます。「どうか今日も一日聖霊さま働いて下さい、導いて下さい」というお祈りをして一日を始めることを大切にしたいと思います。

2章「兵士・競技者・農夫(1999/02/24)

 この手紙は福音を伝える者、例えば牧師、伝道師、宣教師、そういう人たちに直接関わりがある内容になっています。しかし何度も申し上げますが、教会役員、あるいはその他のご奉仕に携わる方々、全ての方が、自分のことのように受け止めて読んで頂ければと思います。

1節「強くなりなさい」
 信仰に生きる人は弱い人だ、と考える人があります。何かに頼らなければならないから信心するのだろう、俺は自分の力で生きていけるんだ、宗教に頼る必要なんてない、という人があります。ところがむしろ逆なのです。信仰者は強い、また強くなければ信仰生活は送れない、意志の弱い人には信仰生活は送れないのです。もちろん意志の弱い人もイエスさまは救って下さいますが、イエスさまによって生かされるときにはじめて強く生きていけるのです。「強くなりなさい」は原語(ギリシャ語)では受身形になっています。「キリスト・イエスの恵みによって絶えず強められていなさい」というような意味です。自力で強くなろうとしても限界があります。私たちは強めていただく必要があります。

2節「ゆだねなさい」
 福音を他の忠実な人たちに伝えなさい、伝授しなさいといっています。私たちも聖書から語られた福音の真理を、さらに他の人々に伝える必要があるのです。

3−7節「兵士・競技者・農夫」
 キリストに仕えるリーダーとして大事なこととして3つのことを挙げています。
@兵士
 兵士というもののにはどんな性質があるでしょう。ひとつは、どんな苦難をも耐え忍ぶこと、もう一つは上官に対して服従することです。イエス・キリストという司令官に従順であること、司令官が喜んでくださることならば、どんな苦難をもだまって受け入れるということです。そして私たちのお仕えする司令官は、決して変わることのない絶対なお方であるキリストです。そこに喜びがあります。
A競技者
 様々なスポーツ選手を思い浮かべて下さい。彼らはルールを重んじて走らないと失格になります。自分勝手に競技することはできないのです。信仰生活にもルールがあります。聖書には、神さまのみ国に行くために、私たちはどのように生きるべきかということがルールとして書かれています。このルールを無視して生きるならば勝利を得ることはできません。神さまの救い与ることはできないのです。
B農夫
 農夫は勤勉で、労を惜しまない、汗を流すことをいとわない。しかし撒いた種が必ず収穫へとつながるという保証はありません。大雨や干ばつで飢饉に陥ることもあるでしょう。それでも汗水流して働くのです。たとえ地上では収穫が保証されなくとも、天国ではその労苦が必ず報われることも約束されているのです。ルソーの「エミール」には「農夫のように働き、哲学者のように思索しなくてはならない」という言葉があります。この両方が成り立つときに、人間は初めて教養のある生き方が出来るのではないでしょうか。

8節「ダビデの子孫、復活のお方」
 常にキリストを思い起こしなさい。とテモテを激励しています。コロサイ2:6−7には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」同1:23には「ただ揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」とあります。
「わたしの宣べ伝える福音」=キリスト、は二つの側面から語られます。ダビデの子孫、そして死者の中から復活された方、この二つは私たちがイエスさまを理解するときに大事な言葉です。ダビデの子孫とは、人間の歴史の中にアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫としてイエスさまが生まれたとあります。つまり旧約の予言の成就として生まれた人間としてのイエスさまという側面。もう一つ死者の中から復活されたお方は、すなわちキリストのこと、よみがえりの主、今も生けるキリスト、神の子としてのキリストという側面もあります。まさにイエスさまはこの両面を持っておられた方であり、さらに聖霊を加えて三位一体の神さまをあらわすのです。

9節「しかし、神の言葉はつながれていません」
 軟禁中の身のパウロが、自分は苦しみを受け、まるで犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。と力強い言葉です。

11−13節
「」で括られている箇所は、他の箇所のように旧約の引用ではありません。これには、当時の人々が賛美歌のようにそらんじていた歌の一節ではないか、あるいは当時の信徒たちの信仰告白ではないか、といった説があります。いずれにしろここには福音の意味がよく凝縮されています。
「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」
 イエスさまのために働き、苦労し、イエスさまと共に死ぬなら、イエスさまと共に生きるようになる。自分の存在を捨てて、キリストの存在が自分を通して見えてくるという生き方です。
「耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」
 キリストに対する迫害にあい、それに耐え忍ぶこと、それは決して負け戦ではありません。「もし(神の)子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:17)
「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」
 私たちがイエスさまを知らないというならば、イエスさまを私たちを知らないとおっしゃる。
「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」
 私たちが時々イエスさまを忘れるような生活をすることがあっても、イエスさまは決して私たちをお忘れにはならない。素晴らしい言葉です。とくに「キリストは常に真実であられる」ということ、イエスさまは常に誠実であられ、信じる者を裏切るようなことは決してされない。唯一、絶対に信頼できるお方であることを改めて知らされます。

14節以下「適格者と認められた働き手」
 ひとことでいうと、キリスト者は不義を離れよ、といっています。そして、避けるべきものと求めるべきものがあるということをはっきりといっています。求めるべきは「正義と信仰と愛と平和」(22)そしてその延長線上に「柔和」(24)があります。それが福音の働き人に要求される徳であるといえるでしょう。そして「適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。」(15)というパウロの勧めへとつながってきます。

3章「求むべきものと避くべきもの(1999/03/03)

1−9節「避くべきもの」
 3章に入り、ここは「終わりの時」という言葉から始まっていますが、1−9節を読みますと、現代の世相をそのままあらわしているような気がしてなりません。人々が自己中心になり、金銭を愛する、うそ偽りが平気でまかり通る、高慢になり、神を畏れない、こういうことを列挙しながら、パウロはこういう人々を避けなさいといいます(5)。現代の私たちに置き換えて考えるなら、これは決して俗世間から離れて山にでもこもって生活しなさい、といったことではありません。聖書のどこを開いてもこの世から離れて、逃避して生活することを理想的生活であるとはしていません。むしろこの世にあって「地の塩、世の光」であれと教えています。しかし不義を行う人々の影響、感化を受けて自分がそうなってしまわないように常に心しなければならないのは確かです。
 ヤンネとヤンブレという人物については、かつては立派な信仰を持っていたにもかかわらず、その信仰を捨てて真理に逆らっている者がある。その信仰の失格者として例をあげています。この二人は必ずしもモーセ時代の人であるということではなく、モーセに逆らった人々のように逆らうな、という意味であると思いますが、私たちもサタン(誘惑)については、ある程度関わってからではなく、最初から避ける必要があります。

10−12節「求めるべきもの」
 ここにきてテモテへの手紙の「最後の勧め」が語られます。人生に勝利するために何を追い求めるべきなのかを見ていきます。
 まずこの箇所を読んで分かるのは、キリストに従って生きようとすると迫害を受けるのは当たり前のことだということです。イエスさまが誤解されたように、キリストに従うクリスチャンが誤解を受けることがあります。聖書は、イエスさまを信じるならば、その後は障害の一切ない、人間関係もすべてうまくいく、そんな楽な人生を送れるとは決して言っておりません。いわゆるご利益主義的な約束はありません。神さまの味方として生きようとすると、サタンは必ずそれに反対します。サタンは、神さまの味方なのか、サタンの味方なのかはっきりしない人々を誘惑しません。そういう人々は放っておいても勝手に堕落するということがわかっているからです。ところが神さまに忠実に従おうとすればするだけ、サタンの力は強力に働くのです。さまざまな形をとって現れる迫害は避けることはできない。そしてその迫害に耐えてきたパウロの様子を、テモテも共に働いてよく知っていたのです。アンティオキア、イコニオン、リストラという地方での迫害のことを挙げていますが、特にリストラではパウロは石打ちにあい、半死半生の目に遭いました。そこに住んでいたのがこのテモテで、若い頃のテモテはこの師の迫害を受けるさまを見てきたのです。(使徒言行録14章)
 トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」という本には、「復活を喜ぶ者はあるが、十字架を喜ばない者が多い。しかし復活は、十字架のむこうにあるのであって、復活だけ求めてもそれは無理なのである。」とあります。十字架を避けて、楽をして復活の喜びに到達しようとすると、道を誤ります。現代の風潮として、なんでも楽をしようとする傾向があります。心しなければならないと思います。
 十字架なしに復活はない。むしろ私たちは迫害に遭うことで、困難に遭うことで、心の不純物が取り除かれ、清められ、いよいよ最後の時には、純粋な信仰をもって神さまの前に立つことができるのだ、ということを覚えたいものです。

13−17節「聖書とは何か」
 神の霊感によって書かれたこの聖書こそ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益です、といっています。霊的に無知な私たちに、正しい、神さまにむかった歩き方を教えて下さる。道を誤ろうとしたら、聖書を読んでいくとその誤りが解ってきます。しかし解っただけではいけないのです。誤りが分かったらそれを正す、そのための力をまた上からいただいて、正しい道を歩むことが出来る、そうして神の国と神の義を求める生活へと導いて下さる。聖書はそういうガイドブックであるということを教えてくれます。

4章「信仰の善き戦いをたたかえ(1999/03/10)

1節「御国を思う」
 私たちは最後のときに、神さまのみ前に立って裁きを受ける日がやってきます。そのことを改めて示すと同時に、「御国とを思いつつ」とあります。パウロがいよいよ天に召されることを感じつつ、テモテへ最後の勧めが続けられます。

2節「御言葉を宣べ伝えなさい」
 そのときのためにもみ言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさいといいます。「折が良くても悪くても」、この言葉に非常に引き締められる思いがいたします。これには二つの意味があると思うのです。一つは自分が好都合のときも、そうでない時もということ。それから逆に伝える相手が受け入れやすい時も、受け入れにくい時もという二つがあります。「忍耐強く、十分に教えなさい」ともあります。私たちがみ言葉を伝えようとするときに、必ずしも歓迎されません。むしろ煙たがられることの方が多いのが現実です。あるいは逆に反対する人々もでてきます。しかしそういう人々に対しても、祈りつつ、聖霊さまのなされるに任せて、忍耐を持って伝えていく必要があります。そのことは2章24−25節にも書いてありました。

 6節で「世を去る時が近づきました」といって、死期の迫っていることを感じさせますが、そこには悲哀といったものは感じられません。むしろ神さまのみもとに帰るときが近づいているパウロの喜びであふれています。

 7−8節「戦いを立派に戦い抜き」「今や義の栄冠を受けるばかりです」このようなことを言えるのは素晴らしいことです。そして「義の栄冠」は「わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」、このことに感謝したいと思います。私たちは決してパウロ先生のようではありませんが、信仰の旅路を全う出来て感謝です、と言えるような生涯でありたいと思います。7節は文語訳では、「信仰の善き戦いをたたかえ」となっていました。信仰生活は戦いであるということ、勝利するためには、日々戦うことが必要です。そしてその戦いは、善き戦いである、必ずや勝利に結びつく戦いであるということを忘れないようにしたいものです。

10節 デマスは、かつてはパウロの良き協力者であったのですが、日々戦うことを忘れ、世を愛し、サタンに負けて、パウロを見捨ててしまったのです。信仰生活がその途中で破線するということは非常に悲しいことです。しかしこうした自分から離れていった、なかには見捨てていった人々に対しても「彼らにその責めが負わされませんように」(16節)と執り成しをするパウロ先生の寛容さに学ばされます。

19−22節 結びの言葉
 最後のあいさつでは、逆に、最後まで忠実に従ったパウロの弟子たちのことを挙げてこの手紙を締めくくっています。

 テモテへの手紙二、最後の章での中心は、信仰生活は戦いであるということでした。そしてその戦いは、私たちを人生の勝利へと導く善き戦いです。その善き戦いを絶えず戦い続けなさい。そうすると主が備えてくださる義の冠を受けることができます。その約束を信じて生きていきたいと思います。