テモテへの手紙T

1章「異なる教えと栄光の福音」(1998/12/02)

◇背景 
 パウロが、その第一次伝道旅行で地中海沿岸を伝道していたときに、ルステラという町で、当時少年であったテモテが救われます。父親はギリシャ人、母親はユダヤ人。ギリシャ人とユダヤ人は、水と油のように文化的な背景が異なります。ユダヤ人はただ一人の神さまを信じる唯一神、一方ギリシャ人はギリシャの神々の話がたくさんあるように多神教の国です。また価値観も違うのです。ユダヤ人は目に見えないものを大事にする傾向があるのですが、ギリシャ人は非常に現実的で唯物的なところがある。そういう両親の家庭ですから非常に複雑であったろうと推測されます。しかし父親は早く亡くなっていて、母親と祖母のロイス、この母子家庭の中で育った一人っ子、病弱でもあった、にもかかわらず、パウロ先生に出会うというきっかけがあったために、テモテは肉的な弱さ、人間関係、母親、祖父母の愛情を一心に受けるというプレッシャーの中にあっても、人間的にも偏ることがなく育っていきます。最終的には伝道者になって、パウロの後継者となり、励まされながら立派な伝道者へと導かれる。そういう背景があるわけです。

◇内容
 そのテモテを励ますために書いたのが、このテモテへの手紙です。ですからあくまでも一個人に宛てた手紙なのです。その一個人に宛てた手紙でありながら、聖典として聖書の中に含まれているということは、牧師、伝道者だけが読むものでは決してなくて、この手紙の中に大切な問題が含まれているのです。この手紙が書かれた時期は、彼の晩年、ローマで召されたであろうといわれている67,68年の直前64年〜67年くらいの間であろうと、軟禁状態の中で書かれたであろうといわれています。他の書簡が、例えばエフェソ書はキリストと交わる、教会を建て上げていく、福音宣教に関わるとはどういうことか、イエス・キリストがどんな方なのかといった問題を扱っている中で、テモテの手紙の場合は、キリスト者として生きる上で、どんなことが大事なのか、気をつけなければいけないのか、というような非常に具体的なことに言及しています。そして1章から異教、異端の問題が出てきます。今の我々が言う、異端、カルトと言われるものとあまり大差のないこと、当時はイエス・キリストを救い主と信じる福音と相対立するギリシャ的な考え方がありました。グノーシスというような、思弁的な思想、キリスト仮現論(ドケティズム)といい、神の子が目に見える人間のかたちで現れる、そんな馬鹿なことはない、目に見えるものは神ではない、という哲学があったわけです。
 その他読み進んでいくと、当時いろいろな問題と戦いながら、若いテモテがどんな牧会伝道をしていったのかが良くわかります。その意味で若い伝道者に参考になるとともに、クリスチャンが様々な問題とどう取り組んでいけばよいのかという意味で、今日的な課題にも当てはまる書簡であるということがいえます。

 大きく分けると1章は教理的なことがでてきます。2章には社会一般的なこと、3章は教会を形成していくときに大事な役員の選出ということ、この役員選任についての教え、4章あたりになると、牧会者としての注意、5章、教会員の導き方、6章、その他の警戒すべき事柄について触れています。いわば教会生活の訓練書といってもよいものです。教会に様々な問題が生じてきたときに、教会運営なり、牧会伝道なり、あるいは教会形成というようなことについていろいろな面で道を誤らないですむのではないかと思います。

 ◇3節ー4節
 エフェソにとどまって伝道活動していたであろうテモテに、本当の福音をないがしろにするような教え、それに時間を使ったり、多くのクリスチャンがそこへなびくことがないように本当の福音を明らかに示しなさい。と言っています。ある程度霊的に成長した人が、いろんな宗教、教えを聞くことは、取捨選択できますからいいのですが、生まれたばかりのクリスチャンや今から信仰に入ろうとしている求道者に対する配慮というのは、我々十分よくしてあげないといけないと思います。

 ◇5節−7節
 パウロが目指しているものは何かというと、清い心と正しい良心と、純真な信仰から生じる愛、これを目的として、私は人々に仕えているのです、と言っています。
 清い心ーわかりやすく聖書全体からみていくと健康な情熱のある心、高い目標に目を注ぐところの心、深く掘り下げられた心、これらをすべて含めたものといえます。
 正しい良心ー日本語としては少しおもしろいのですが、聖書の中には「弱い良心」(第一コリント8章)、「汚れた良心」(テトス1章)という言葉も出てきます。日本語の「良心」に弱い、汚れたなどとつけるのは不自然に思えます。それは良心は絶対的なものだという先入観があるからです。しかし良心=神の声ではない、絶対的な基準のものでもない、変わりやすいもの、時代とともに変わってしまうものです。例えば戦時中、天皇のために命を捧げることは良心でした。周囲の環境によっても変わりうるのです。では良心とは何でしょう。それは神の声そのものではなく、神の声をキャッチするレシーバーだといえます。うまれながらに持っているもの、良くも悪くもない中性のもの、ですから良心には人を正したり、強めたり、励ましたりする力はないのです。良心に従ってさえいれば、まともな人生を送れるという考えは、良心をかいかぶっていることになります。

 ◇8節−11節
 律法というと、イコール福音ではないからダメという言い方をしてしまうことがありますが、そうではありません。律法は律法の役目があります。律法自身が私たちを清くしたりという力をもってはいませんが、自分自身が律法に照らし合わせて生きていくと、いかに罪深いものか、神から離れているかということが分かります。そういう役割を果たしているのです。
 
 ◇12節−17節
 まずパウロ自身のことを思い起こして、私のようなものをも、神さまが顧みて下さったと感謝しています。「神を冒とくする者」これは一番悪質なことです。迫害する者であった頃のパウロは、良心に従って行動していたのですが、まだ復活のイエスを知りませんでした。その後、ダマスコ途上で甦りのイエスに出会って、強い光に会い、神様の声を聞き、これが本当の救い主であると知ると、180度転換して宣教師になりました。かつては知らずして熱心であった、それを主は赦して下さった。15節をパウロが力強く言っているのは、その罪人がパウロ自身を含んでいるからなのです。「わたしはその罪人の中で最たる者でした」パウロの原点がここにあるといえるでしょう。

 ◇18節-20節
 堕落してしまったヒメナイやアレクサンドロを教会から除名した。しかしそれは彼らが悔い改めて、神に立ち返るようにという、パウロの愛ゆえの計らいなのです。除名しても門戸は開いたまま、帰ってきたら受け入れるという追放です。今日の教会においても様々な問題がありますが、そういう場合もこのパウロのように、時には厳しく、しかも悔い改めるものは常に受け入れるように、そういう対応をしていく。これはちょうど義であり、愛である神さまの人間に対する取り扱いそのものです。

 罪人の頭であったパウロが悔い改め、赦された。生涯赦されないでも不思議でないような、キリスト教徒迫害、殺害をしてきたパウロを神さまは赦して下さった。この事実だけでも充分に説得力があります。パウロの伝道と牧会の原動力はこの許しに対する感謝からきているということが良く解る箇所です。


2章「祈りに関する教え」(1998/12/09)

 2章の前半は、祈りについての勧めが記されています。牧会伝道、或いは教会を建て上げていくのは、まず祈りからだという部分では、ローマ書その他の手紙とパウロの姿勢は変わりません。

 ◇1節
 祈りに関してここでは、四つの言葉で言い表わしてあります。まず「願い」と「祈り」とありますが、「祈り」とは、神さまとの交わりで、「聴く」という面があります。「僕(しもべ)は聴きます、主よお語り下さい」と祈ったサムエルのことを思い起こします。ですから祈りには、神さまに自分の想いを訴えること(「願い」)と、神さまが教えようとする、み旨を聴くこと(「祈り」)との往復があります。
 それから「執り成し」の祈り。これは自分の事以外で神さまへお願いをする。周囲の人のため、或いは見ず知らずの人のために祈る。「執り成し」という言葉の原語を調べますと、「陳情」という意味があります。そして「感謝」の祈り。これがキリスト教の祈りの特徴です。いわゆるご利益宗教の祈りには「感謝」はありません。(払いたまえ、清めたまえ、無病息災、安心立命・・・)これらはすべて自分のための祈りです。しかし神さまのその偉大さに触れるとき、自ずと「感謝」そして讃美へと導かれていくのです。

 ◇2-3節
 「王たちやすべての高官」とは、その国の政治を司っている指導者のことです。そしてこういった立場にある人々のために祈りなさいと勧めています。この当時、このような勧めをするのは大変勇気のいることでした。当時のローマの皇帝は、キリスト教徒にとって友好的というより、敵対する関係にありました。中には有名なネロのように迫害するものさえいたのです。しかしパウロは1,4,6節でも「すべての人々」のために祈りなさい、といいます。それはキリストが十字架に架かられたのは、クリスチャンの為だけではなく、異邦人のためでもあった。そして時には敵であるような存在の人々もその対象に含まれる。ですから「すべての人々」のために祈りなさい、というのです。ドイツでヒトラーがナチズムを掲げていた時にも、教会の人々は祈りました。この運動が過激になって、国家が破壊されないように、そしてクリスチャンが迫害されないように、と、しかし信仰に固く立った人々の中には投獄され、殉教する人々もいました。その中の一人ポール・シュナイダーは「教会は国家を祝福していく使命がある」といいました。それは、指導者が道を誤らないように祈る、ということも含まれるのです。権威を持つ人々のために祈ることは、私たちの大切な使命の一つであります。

 ◇8-15節
 ここは「男女平等」が叫ばれる今日では、いろいろと注文をつけられそうな箇所でありますが、パウロの主張は、男女の性差によって、それぞれ与えられた使命があるのだということがその中心を成しています。
 「男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」(8)
 「怒らず争わず」心に憤りを持ったまま祈ってはいけない。争っている人がいるならば、まずその人の所へ行って、仲直りをしてから、祭壇に供え物を捧げなさい、とマタイ5章にもあります。
 「清い手を上げて」とは、当時そういった姿勢でお祈りをしていたということと、「手を添えて」ということ。言い換えれば、口先だけのお祈りで、行動が伴わないようではいけない。祈ったことは実行するよう、日々の生活の中で努力しなさい、ということです。
 9節以下は、女性について書かれています。創世記で、アダムが造られてからエバが造られた。男性が唱え、女性がこれに呼応して従っていく。夫唱婦随という言い方がありますが、これを男尊女卑の制度だという人もあれば、男女差をよくわきまえた秩序のある生活だという人もあります。男性がイニシアチブをとり、女性がこれを補って助けていく、ここに一致が保たれれば良い。たまにその逆があったとしても、夫婦お互いに愛と信頼があれば、よしとされることではないでしょうか。パウロはその価値の差別ではなく、秩序の問題として、そうするのが最も自然なことだというのです。
 「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」(12)
 女性の教職者は認めない、というのは誤解です。中には、この箇所を根拠に女性の教職者を認めない例もありますが、私たちはそうは考えません。ここでもパウロは、先ほど触れた、アダムとエバの創造における順序からくる秩序のことを強調しているのです。
 「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」(15)
 ここも解釈の難しいところですが、二通りの受け止め方があります。ひとつは、イエスさまを産んだ、マリヤの処女降誕のことを指すのだという考え方。もう一つは、ただ産むだけでなく、信仰によって産み、育てる。それによって女性自身が救われるのだということ、すなわち、女性本来の使命は、産み、育てることにあるのだという考え方です。この手紙の受取人、テモテ自身が、母親、祖父母に信仰によって育てられたように、モーセの場合も、サムエルの場合もそうでした。そういった使命を担い、忠実に果たした母親が、聖書には数多く記されています。

3章「奉仕者への奨め」(1998/12/16)
 
 3章に入るといよいよ牧会上のすすめがなされます。まず最初に教会の役員に対するすすめです。「監督」という言葉を「長老」、またその後に出てくる「奉仕者」を「執事」と考えていただいて良いと思います。初代教会がだんだんと大きくなる過程で、さまざまな役割を担う役員が選出されました。使徒6:3には、初めて役員が選ばれたときの様子が出てきて、なぜ役員が選ばれたのかという背景が書かれています。十二弟子の差し迫った、限られた時間の中で一番しなければならなかったのは、神の言葉を充分に語ることでした。イエス・キリストから委ねられた神の国の訪れを、大胆に語り伝えることでした。ところが物質的に困った人々のお世話までするようになって、そちらに時間を割かれることが多くなってきていたのです。それで教会の働きは、祈ってみ言葉を取り次ぐ人を中心にして、その他の仕事はお互いに分担して支えていくようにしようということで、役員を選ぶようになりました。
 今日の教会にとっても、重要な箇所ですが、まずは、この世の基準で役員を選んではいけないということだと思います。み霊に満たされた人、知恵に満ちた人、評判の良い人、教会の中でも外でも信頼できる人、そういう人を選びましょう、とパウロは言います。現実にはこの三つの基準を満たすことさえ困難な弱い私たちですが、しかし、教会の中で、祈りの中で選ばれた人々は、神の召しと受け止めて欲しいと思います。

◇監督、奉仕者の資格(3:1-13)
 初代教会の歴史を見ますと、役員には二種類ありました。「監督」(長老)と「奉仕者」(執事)です。長老(監督)には、「よく教える」ということが資格としてでてきます。霊的な指導者として、管理と教育を任されたのです。2節に「非のうちどころがなく」とあり、完璧な人間という捉え方をされそうですが、そうではなく「非難のない」という意味です。すなわち教会の中だけでなく、その外においても信頼されている人ということです。「一人の妻の夫」これは当たり前のようですが、当時は、一夫一婦制の確立していない時代でしたので、そういう中でキリスト教は、一夫一婦制が、神がお造りになった、男と女の正しい関係であると主張し続けてきました。そして今日まで、古くて新しい真理がこの一夫一婦制、そしてこれが秩序です。これが壊れるところに人間の不幸が生じてきます。
 パウロは若いテモテに、実に事細かに注意を与えています。執事(奉仕者)の機能は実践的な奉仕にありました。執事に対するすすめをみますと、「二枚舌を使わず」(8)とでてきます。これは原語の意味は、話を「持ち運ぶもの」という意味です。噂話、あるいはゴシップの好きな口の軽い人、これには気をつけなさい、というのです。教会には様々な重荷を持った人々が、その解決を求めてやってこられます。お互いに信頼を勝ちうる、何でも打ち明けてお話ができる。それが大切なのです。
 ここにあげられる条件の一つ一つを見ますと、とてもこんな生活はできないとがっかりすることも多いと思いますが、このような一つの神さまの基準があるということで、私たちは引き上げられていくのだと捉えたいものです。基準がはっきりと示されていることに、私たちは感謝して受け止めたいと思います。

◇神の家(3:14-16)
 「神の家」とは、神さまを中心とした家族・家庭です。初代教会の人々は、そのことを意識して、お互いを兄弟姉妹と呼び合っていました。今日の教会でもお互いに兄弟姉妹と言いますが、心からそう呼びいたいものです。
 「神の家とは、真理の柱であり、土台である生ける神の教会です」(15)
 「真理の柱であり、土台である」教会というところは、神さまの御国の秩序が現れる場です。ですからそこで用いられる人々は、神さまに用いられているのであって、この世の基準で考えてはならないのです。私たち、この教会の組織を考えるとき、神さまの基準によって建て上げていきたいものです。

4章 「奉仕者の務め」(1999/01/03)

 ベテランの伝道者パウロ先生が、若いテモテに宛てたこの手紙は、今日の私たち、教職に携わるものはもちろんですが、教会の様々な役割を担われる方々にも参考になるものであると思います。

◇1節 終わりの世になるといろんな誤った教えが出回るから気をつけなさいと警告しています。「惑わす霊と、悪霊どもの教え」と書いてありますが、今から2000年ほど前にもこのような警告があるとすれば、今の時代にも更にいろいろな誤った教えが横行していることを見ると、今でこそ、この言葉を注意深く聞いていかなければならないのではないかと思わされます。
 サタンが人を信仰から遠ざけるのには、ステップがあります。最初は偽預言者、或いは偽教師が現れて、快い教え、言葉をかけてくる。表面は我々にとって魅力的なことを言うわけです。初めからきちんと、「義であり愛であるキリストの福音」のようなことではなく、全て信心をすれば、明日からでも心配、悩みなどなくすべてが順調に行きますよ、というようなことで近寄ってくるのです。いつのまにかそれに魅かれていって、だんだんマインド・コントロールされていくのです。そして、その教えが絶対になっていきます。

◇2節 マインド・コントロールされている状態を、「彼らは自分の良心に焼き印を押されており」と表現しています。自分の良心で、正しく判断するということが出来ない、麻痺してしまっている状態です。その結果、偽善的生活をするようになり、それが当たり前となり、その生活をもっと徹底する中で救いがあるという考えになっていくのです。

◇3節 この誤った、偽善的な生き方にはどんなものがあるかというと、「結婚を禁じたり」とあります。当時、極端な考えから結婚を罪悪視する見方がありました。ギリシアの二元的な哲学の中にも、肉体は罪、精神は善だということで、結婚そのものが悪であると考える人々もいました、が、聖書は決して、結婚を悪、不義、不善とはいっていません。パウロ先生は決して、どちらか一方に偏るという考え方ではありませんでした。はっきりしていることは、結婚を禁じることを絶対視して、あたかも清い生活であるように教えるという生き方が誤りなのだというのです。神さまは家庭を祝福して、そして男と女を造られた、家庭は神さまの祝福の源であった、ですから結婚を禁じるということ自体が、聖書の生き方ではないのです。
 「ある種の食物を断つこと」これはその当時こういうことがあったというよりも、ユダヤ教にそれは面々と残っています。例えばレビ記11章には「清いものと汚れたものに関する規定」がありまして、食べてよい生き物のことがでてきます。汚れた動物、汚れていない動物という言い方を聖書がしているのは、神さまがイスラエルを選民としてお選びになって、特別なしるしでイスラエルを位置づけ(例えば割礼を施すこと)、他の民族と区別するようにしたように、一時的な律法として与えられたことはありますが、新約時代には、食べてよいもの、悪いものということはないのだというのが基本的な考え方です。

◇4節「神がお造りになったものはすべて良いものであり」とあります。さらに「感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」といっています。こういう自由なパウロ先生の考えには、必ず裏に条件があることだけは覚えておいて頂きたいと思います。
 「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」(コリント6:12)
 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント6:19-20)
 この二つの言葉を私たちは常に覚えておきたいものです。クリスチャンは全て許されているのです。何を食べてもよい、何を見てもよい、なんら自由な生活を束縛するものはありません。しかし同時に、私たちはキリストによって贖われた神の宮です。聖霊を宿すべきものです。だから私たちが何か別のものを摂取して、それが体を麻痺させたり、変な欲望へ駆り立てられたり、或いは自分自身の肉体を痛めつけたり、そういう不自然なものに導くようなものをとるべきではない。当然、飲食でも取るべきもの、取らざるべきものが出てきます。趣味として、していいことと、してはならいこともあるわけです。
 私たちはある意味自由な存在ですが、自由な中にも神さまに救われたものとしての栄光ある生き方を忘れてはならないのです。そのことを覚えて、ここは読んでいただけると良いと思います。

◇注意すべきことを語った後、教えの務めを述べています。。
6節 ここで奉仕者は、信仰の言葉と、よい教えの言葉で、まず自分自身が養われて、よき奉仕者になりなさい、また周囲の人たちをも奉仕が出来るように導きなさいと教えます。

◇7節 さきほどキリスト者は自由だ、といいました。しかし「信心のために自分を鍛えなさい」という言葉を覚えておきたいものです。「自己鍛錬」「克己」という言葉にも置き換えられます。霊的に祝される生活をしようと思えば、自分自身の生活を工夫しなければなりません。生活設計をきちんとしなければなりません。礼拝や諸集会を、最も価値ある時間帯として一週間の生活設計の中に位置づけて、守ることが出来るということも一つの自己鍛錬ではないでしょうか。

◇8節 世の人々は肉体の鍛錬には一生懸命です。朝晩健康のため歩く人がいます。ともすると、私たちは霊的な訓練がおろそかになってはいないでしょうか。永遠に価値ある生き方ですから、霊的な節制、鍛錬を心がけていきたいものです。

◇12節 若くても神さまの言葉をきちんと受け止めて、これを正しく人々に伝えることができるなら決して恥ずかしいことではない。年長者もきっとわかってくれる、尊敬してくれるのです。と若いテモテを励まします。そして自身が信者の模範となるようにと勧めます。

◇16節 「自分自身」という言葉に心を留めたいものです。牧師、伝道者は人に教える立場ですから、当然自分は救われる、自分は大丈夫だと思いやすいものです。しかし、その人たちがまず、自分自身がどうかということに注目しなければならない、自分は救いからもれて、他の人々を導くことはできません。長年伝道、牧会してきたベテラン牧師でも、何かの誘惑にあって、伝道戦線の一線から退く、否クリスチャン生活からも退かねばならない、という悲劇的な出来事も現実にあります。
 自分の救いのため、また人々の救いのため、信仰のことばと良い教えに養われること、霊的鍛錬を受けること、信者の模範となり、教えることに心を砕くこと、これらすべてに気を配りたいものです。

 5章 「尊敬を受けるやもめ・長老」(1999/01/27)

ここからはテモテに、牧会、伝道する指導者として、具体的に、どのように教会の働きをすすめればよいのかを教えています。繰り返しになりますが、牧師・伝道者だけの話ではなく、あらゆる奉仕に携わる方々にあてはまる教えです。

◇1−2節「理想的な教会は、家庭のような教会。理想的な家庭は、教会のような家庭。」という言葉があります。単に年齢層が各層あるのが理想だというだけではなく、家庭のように信仰生活を共にするべきだということです。大人もいれば子どももいる、男性も女性もといろいろな会衆がいる、というのが理想的ではないかと思うわけです。何故なら神さまの福音は、ある特定の年齢層の人だけにアピールするものではないからです。そこでの人間関係は、全く血のつながりのない他人ではありますが、教会では同じ信仰という契約によって、兄弟姉妹の関係ができるのです。3章で「教会は神の家」だとありました。父なる神さまの子どもたちである私たちは、呼び方としての兄弟姉妹であるだけでなく、その実践においても家族として交わりを深めたいものです。

◇3−16節 やもめ、即ち、未亡人についての教えがでてきます。やもめについては、聖書の中では、弱いものを象徴するものとして、このやもめと孤児については繰り返し引用されます。今のように母子家庭に対しての、社会保障といったものが一切ない時代で、生活は苦しく、周囲には白い目で見られてしまうような時代です。ですから特に「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」(3)と教えています。もし、やもめに子や孫がいたら、その子たちに、親であるそのやもめを大切にするように教えるべきである。親に恩返しをすることを学ばせなさいと教えています。もし子や孫がなかったら、神さまに希望を置いて生きなさい、昼も夜も、願いと祈りを続けなさい、とすすめます。やもめ自身には、人生の晩年、ともすれば唯物的になってしまう生き方を、常に神さまへ、信仰によって歩みなさいとすすめています。そして周囲のものには、やもめに対する世話を欠かさないように、やもめを大切にすること、それが神を愛するというこにつながるのだから、といっています。
 9節、11節に「登録」という言葉が出てきますが、これはいったい何を意味するのでしょう。当時、教会が、やもめたちを、中でも身寄りがなく、年をとって、しかも生涯立派な歩みを続けてきた未亡人を対象に、名簿を作っていた。そして教会として、この人たちのお世話をしていたのです。ですから、教会の奉仕の対象となるやもめのリストということになります。しかし決して、条件にあてはまる者だけの面倒を見て、他の人々を締め出す、ということではありません。教会の責任でお世話する対象となる人たちのリストにはこういう条件の人をまず挙げなさい、ということなのです。善い行いをして、信仰の厚い人たちを、絶対に苦労させてはいけない、というのが教会の方針であったわけです。社会保障も何もない時代に、教会がそういうことをやったのです。旧約聖書の申命記にも、その権利が守られるべき者として命令があります。
 しかしどのような人にも援助の手を差し伸べるようにとは教えていません。人間の自立ということを考えると、年の若い者はまだ登録する必要はないというのです(11)。特に若いやもめの中には、身軽であるということで、情欲にかられてキリストから離れたり、おしゃべりで詮索好きになり、手の付けられないような人も出ていたようです。ですから、良い人があれば、再婚して、温かい家庭を築き、教会の周囲から非難を浴びることのないように気をつけなさいと教えています。
 ここで気づきますのは、キリスト教は、非常に家庭的な宗教だということです。お互いに血のつながった者でない教会の会衆の中で、私たちは親兄弟のような交わりが得られる。キリストの救いは、家族への救いを望んだ救いなのです。ですから「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)こういう約束をパウロはフィリピの入信した人に言いました。一個の救いがより多くの家族の救いへと発展していくのです。

◇17−25「長老」とは現在の役員制度での「長老」を指しますが、それだけではありません。昔は福音の伝道者を、長老の一人として考えていたのです。使徒言行録を見ますと、長老の中に伝道者も含まれています。福音伝道にあたるもの、み言葉の取次ぎに当るもの、広い意味では教会の指導者といってもいいでしょうか。み言葉に仕える者、み言葉を述べ伝える者は牧師、信徒含めて指すと思っていただいてよいと思います。
「御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。」(17) み言葉を伝えるために時をささげ、力を注いでいる人は、当然尊敬されるべきだ、という「報酬」と、もう一つはその生活が支えられるべきだという「報酬」。その意味で「二倍の報酬」といえるのかも知れません、決して収入が二倍というものではないと思われます。思う存分、み言葉を取り次ぐためには、その必要が満たされるべきです。
 18節の「脱穀している牛」は旧約聖書、「働く者が報酬を」はルカ伝のイエスさまご自身の言葉です。主の業のために労苦している人を金銭的に支えるのは、信者の義務であると教えています。しかし、もし牧師が、教会員にもっと報酬を上げろと訴えるために、この言葉を用いるならば不幸です。牧師は神に召されたのだから、神さまが養って下さるのだから、我々信者が、それほど一生懸命になって、その生活のことを考えなくてもよいのでは、と教会員が考えるならば、それもまた悲しいことです。実際は、自分は神に召されていて、自分で自分を支えることも厭わない、という気持ちで伝道する。会衆は会衆として、それは済まないことなので、牧師を支えねばならないといって奉仕する。その両方の気持ちがあれば、たとえギャップがあっても温かく埋め合わせが出来てくるのではないでしょうか。逆に、それが当然の権利のように考えると、いろいろな問題が生じてくるのです。
 19−21 は、長老が間違いを犯したときの対処法について書いています。長老は、尊敬と金銭的な支えという二倍の報酬を受けるべき人ですので、その人が罪を犯したなら重大なことです。非常に難しいもので。より慎重な対応を迫られます。ですから一人で訴えるのはよくない、と言うのです。
 また犯した罪は、公で悔い改めることが望ましい、するとみんなも神を恐れることができるから、と厳しいことがでてきます(20)。
 偏見を持たずに、えこひいきをしてはなりません(21)。人を憎むと偏見になる、人を愛しているとえこひいきになる、どちらもいけないことです。偏見を持って、その罪以上の罪をかぶせて追求する、或いは、個人的情感が強いと、その罪を矮小化してしまう、公正に人を見ることは大変難しいことです。それだけに弱い私たちは、神さまに熱心に祈って、判断を仰ぐ必要が生じてくるでしょう。

 祈り深く、良い行いに励んでいることによって、尊敬されるやもめ、また御言葉と教えのために労苦して尊敬をうける長老、両者が尊敬を受けるその信仰生活は、私たちが大切なものとしていくべきものです。「神の家」の家族全員が、お互いに尊重し合い、尊敬し合う交わりを続けるならば、その評判は必ず周囲へと波及して、またより大きな「神の家」の家族へとなることでしょう。

 6章 「信仰の戦い」(1999/02/03)

 前回学んだときにも申し上げましたが、牧会・伝道をする者、また教会の指導者、或いは様々なグループのお世話をする方々、これらを含めた方々への一般的な注意、留意点というものを、具体的に与えていました。このように実際的な、忠告を与える書物は、聖書の中でも非常にユニークな存在です。いよいよ最後の章です。当時、テモテのように牧会・伝道していた人の中に途中で落伍した人も出たのかもしれません。教会の指導者といわれた人の中でつまづき、倒れた人があったのかもしれません。そういうことを頭に浮かべながら、最後の教えを聴きたいと思います。

◇1-2 当時は、奴隷の身分である方々が、非常に多い時代です。今の私たちで考えるならば、「自分の主人」とは、勤め先の先輩、或いは上司と考えればよいでしょうか。「神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないように」与えられた仕事に忠実に、熱心に努めることの大切さを教えています。そして他の信仰の諸先輩方のように、キリストの証しになるような働きをしたいものです。

◇3-5 本物の信仰と、誤った信仰との見分けをつけなさい、誤った信仰に心せよ、と注意を与えています。私たちは自分の信仰に確信を持っていることが大事であって、そこが基本なのですが、同時に他を知る、宗教ですと、異端とはどういうものか、カルト宗教とはどういうものであるか、そういうものを良く知らないと、道を踏み外すことがあります。まことの福音に反する教えを語る者の一つの特徴は、自分自身が絶対である、洗脳(マインド・コントロール)されていることに気がつかなくて、自分の方がいつも教える立場で、全て分かっているといった態度になってしまう、ということがあります。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。」(4)。
 キリスト教は主体性を大事にして、自分でよくものを考えるべきだという立場をとります。今の時代、ともすると、ものを考えない人が増えてきている中で、主体的に考えていく人間を育てるのが、キリスト教教育のねらいです。ところが異端的宗教の殆どは、自分で自由に考えることを妨げていくのです。
 また、「信心を利得の道と考える者」(5)とありますが、これは宗教の世界によくあることで、最も警戒しなければならないことでしょう。

◇6-10 足ることを知ることのできる人が最も豊かなのです。満足することができる、感謝できる人が豊かなのです、といっています。神さまを信じて足ることを知る人に勝る幸福はない、箴言30:8には、「貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養って下さい」という非常に謙虚な祈りがあります。またパウロは、フィリピ書でもはっきりと言っています(フィリピ4:11-13)。
 その理由は7節「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができまいからです。」
 また、金持ちになりたい、楽をして儲けたい、そういう思いが高じてきますと、人間は堕落する場合が多いのです(9)。その欲望が、その人自身を滅亡と破滅へと陥れるのだ、と注意を与えます。
 さらに10節では、金銭を愛することが、すべての悪の根源となる、といいます。ではキリスト者は、お金を持たずに暮らすのか、霞を食って暮らすのかといえば、そうではなくて、金銭が悪いとは書いているのではありません。「金銭への欲望」が悪い、といっているのです。金銭それ自体は、良く用いられればよい働きをしますし、悪く用いられれば毒にもなります。私たちは、何よりも「足ることを知る者」となりたいものです。

◇11-12 11節では求めるべきものを示しています。現状満足ではなく、信仰生活は、むしろ求める生活であります。信仰生活にこれでよい、という限界はないのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)とあるように、目標は常に高いところにあります。ですから、現状に満足はできないのです。
 12節「信仰の戦いを立派に戦い抜き」の戦いとは、サタンとの戦い、神さまとの関係を妨げようとするものとの戦い、自分中心のエゴとの戦い、ということがいえます。しかしその戦いは、人の血を流したり、命を危めるようなものではなく、人を生かす戦いです。文語訳聖書では、ここは「善き戦い」となっていました。「戦いなさい」という動詞も原語は、継続を意味する動詞で「戦い続けなさい」といった意味に捉えるべきです。キリスト者の生涯は、ある意味では常に戦う生活である、ということを心にとめたく思います。戦いですから、障害や困難が生じるのは当然です。本間俊平という石工の信仰者がおられて、小原国芳先生もその影響を受けたといわれるほどの方ですが、この方が「難有りは有難し」という言葉を残されました。私たちの生活には苦しみがある。しかし苦しみが有るということは逆にすると有難いことなのだ、困難に直面して、それを克服していく中で、私たちは成長させられる、神さまが与えてくださるものには無意味なものは何一つない、その一つひとつを通して、私たちを成長へと導いてくださっているのです。ですから「難有りは有難し」といえるのです。

◇13-16 最後に「あなたに命じます」(1)と厳かに命令を与えています。イエス・キリストの再臨のときまで、「おちどなく、(外部の人たちに)非難されないように、この掟を守りなさい」(14)と。そして定められた時に、はっきりと目に見える形で「キリストを現してくださいます」(15)といいます。その確信を持って、「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」(15-16)を心から讃美しましょう。

◇17-21 高慢になるのでなく、またこの世のものでもなく、唯一の絶対な方、神さまに望みをおきなさい、天国に行く準備のために、良い行い、惜しまない施しで、地上ではなく、天に冨を積みなさい、と教えます。
 私たち一人ひとり、家庭環境、職場環境等、それぞれ違います。また同様に、与えられた賜物も違います。しかしそのどれもが、神さまから与えられたものです。与えられたものに感謝し、満足して、その中で、私には神さまのお働きのために、何をすればよいのか、祈りつつ、その答えを求めて歩んで行きたいものです。