|
|
|
釣り好きで知られている芥川賞受賞作家開高健の著書「オーパ」の中に、 一時間幸せになりたかったら酒を飲みなさい と言う中国の諺が書かれている。釣りを趣味としている私にはなんとも素晴らしい諺のように思える。 私の釣りはチン(チヌ)釣りから始まったような記憶がある。私の父は根っからの釣り好きで幼い頃から私は釣りに付き合わされたものだった。その父も私が小学校6年生の時に他界した。毎年夏休みになると、らんかん山の下にある基八重子おばさんの家の裏の鬱蒼とした竹山へ5名の子供のために子供の体にあった竹を切り出しに行くのである。釣り竿は欲しいが、私はハブに噛まれるのが心配なのと、白黒の藪蚊に手足を何カ所も刺され痒いのが嫌で本心は行きたくなかった。竹山に行かなければ釣竿が手に入らない。毎年仕方なく藪蚊に手足を刺されハブに噛まれた時の死を心配しながら行ったものだった。 良質の竹を切り出した後の父は偉かった。火を起こし竹の油抜きをし曲がった箇所を丁寧に時間をかけ真っ直ぐに伸ばし見事な釣竿を作るのである。その間に私は工事現場へ行きセメント袋を縫い止めている赤と白の紐を手に入れて来た。白い紐を竿先1mのところから竿先へグルグル巻きにして竿先の補強をした。 父は桐材で作ってある道具箱(私たちは幼い頃、刑務所と言って近寄りもしなかったが昔の大島拘置所の服役者に造っていただいたそうだ。)から大切にしまってあったナイロンテグス(先糸)をもったいないような顔をして一尋(1.5m)程出してミチイトに結び付け、鉛のおもり、釣りばりを付けてくれた。ナイロンテグスは当時切り売りで、1mあたり五円だったような記憶がある。釣りばり、鉛のおもり、サルカン(ヨリモドシ)等もバラ売りで、現在からすると大変な貴重品であった。 釣り竿が出来たからといって、すぐに釣りには連れて行ってはくれなかった。永田川までソーケ(ザル)とイビラク(ビク)を持ってサイ(川エビ)、タナガ(テナガエビ)をすくいに行くのである。また、ここでも藪蚊とハブの心配をしながら父親の後を追って川に入った。昔の火葬場辺りまでびしょ濡れになりながら釣り餌のサイとタナガを捕るのである。 釣り場所を説明すると(あまり定かではないが)現在の鹿児島銀行大島支店の場所に名瀬警察署があり、その隣りには奄美群島開発基金があり、その隣に大島新聞社があったような記憶がある。私のホームグランドであり幼かった私が釣りの腕を磨いた場所である。 奄美ではミーニシ(新北風)が吹くとチン釣りが始まり、百合の花が咲く(5月初旬)とチン釣りの釣期が終わると言われている。 奄美の釣り人の中にもチン釣り専門の頑固者が多い。頑固者のことは後で書くことにする。日本各地の沿岸で最も馴染み深い釣魚のひとつである。幼魚期は全て雄で性転換を行う魚で有名でもある。砂泥の底、内湾に多く生息し、貝や幼蟹、海藻類を食し地方によってはスイカやサツマイモで釣れるという雑食性の代表的な魚でもある。 1〜3月と乗っ込み期(魚が産卵期に入り食欲もこの時期に一番旺盛になる)に入いると比較的釣りやすい魚である。とは言っても難しい。雑食性のくせに警戒心が強く、警戒心が強いわりに夜間の行動は水深1mもないような浅場に寄ってくることもあり大物が入れ食い状態になることもある。チン釣りは努力と忍耐を必要とした釣りなのである。 ここでタイトルの私の父の面白いエピソードがある。私が3歳の頃だそうだ。父が釣ってはいけない物を釣り上げてしまった。私は幼すぎて記憶が定かではないが母の話を聞き、私なりに記憶を結びつけていくと、とてもユニークな父である。 最初のうち父は魚釣りをダシにせっせと彼女の処へ通っていたらしい。嘘がばれると今度は幼い私を連れて彼女の処へ通っていたらしい。母が幼い私に「夕べは何処へ行ったの?」 ある日夕食を済ませた父が母に「今晩食べたイカの味噌漬けは残ってるか?」と尋ねた。母が「まだ食べるの?」と聞くと父は「今から釣りに行くからイカの味噌漬けを出せ!」と言ったそうだ。母が「イカの味噌漬けで魚が釣れるの?」と聞くと「釣りに行ってみらんと分からん!」と応え釣竿を持って彼女の処へ一目散に走ったらしい。ま〜今で言うところの不倫をしてしまったわけだ。 その後、父は財産の家・屋敷を売り払い釣り上げた彼女と愛の逃避行。5名の子供を抱えた母の苦労は並大抵のものではなかったらしい。 |
このエッセイは1998年8月4日付の名瀬ライオンズクラブ会報に掲載されたものです。 |