鹿児島県で競技かるたが盛んになったのは、戦後のことである。戦前も、七高(現鹿児島大学)と五高(現熊本大学)が対抗戦の形でかるた競技を行っていたという話を聞いたことがあるが、関係者は既に故人であり、残念ながら確認することはできない。てすと。










 戦前からのかるた愛好者が集って昭和24年に松原神社で第1回のかるた大会が催された。男女別の個人戦で、男子の優勝者は
木之瀬茂生氏、女子は
松村文子氏の記録がある。参加者数は50名程度だったようだ。後にA級選手となる山下玲司氏(前明静会会長)は、この頃の大会に参加している。かるた大会は、昭和30年代に中止と再開を繰り返したものの、現在まで開催されている。

 鹿児島県かるた協会が発足した正確な年は不明だが、昭和20年代後半であろう。初代会長は
押川篤行氏、2代目は木藤良三氏である。当時の中心人物は、関西出身の山本正二氏(第3代会長)であった。彼は昭和23年に鶴丸高校に赴任すると同時に「百人一首同好会」を創部し、以降約30年間にわたり競技かるたを指導し、現在の鹿児島のかるた界の基礎を築いた。卒業生たちは、「もろとも会」を結成し、大会では常に好成績を収めた。先述の木之瀬氏松村氏唐牛正一氏(第4代会長)らもそのメンバーであった。

 昭和40年代に入ると、継続開催のスタイルが確立され、県協は昭和49年に鹿児島県新春かるた大会を開始した。(正確にはカウントし始めた。)平成16年には第30回大会を開催し、100名以上の参加者を得ている。

 
唐牛氏は、事務局長時代からその幅広い人脈を生かして、大会開催時のスポンサー(新聞社やテレビ局)確保に力を発揮した。普及面でも、新たに「やまざと会」を結成し、現在も定例会を行っている。鹿児島大学の学生とも積極的に交流し、全日協加盟に理解を示し、古い時代と新しい時代の架け橋となった人物である。長きにわたり、会長として若手選手の活躍を温かく見守ってきた。

 鹿児島大学百人一首同好会は鶴丸高校卒業生を中心に昭和51年に創部された。熊本の
鶴上寛治氏の紹介もあり、昭和55年に初めて全日協公認大会(第3回宗像大会)に出場し、県初の有段者が生まれた。以降、A級選手も多数輩出した。

 鹿児島県かるた協会は、これをきっかけに昭和56年に全日協に加盟し、昭和57年には第1回全国大会を開催した。全日協加盟・全国大会開催にあたっては、福岡の
原田敬次郎氏の助力もいただいた。鹿児島大会は地方大会であるが、当初から有力選手が参加することが多く、これまでに種村永世名人北野クイーン松川永世名人平田名人西郷永世名人
渡辺永世クイーン等も参加して覇を競っている。

 
鶴田究氏は昭和56年にA級入りし、昭和57年の学生選手権準優勝を皮切りに、各地大会で好成績を収めた。「全日本かるた選手権」2連覇をはじめ、30回以上の優勝経験を持つ。昭和63年と平成13年は名人位戦にも登場した。県協競技部長として、長くA級選手などの育成に取り組んできたが、平成16年に唐牛氏の勇退を受け、第5代会長に就任した。

 
小山靖司氏山本氏最後の教え子で、鹿児島大学で鶴田氏らと競技かるたに取り組み、昭和59年にA級入りした。指導力に定評があることから、県内各地のかるた会から指導依頼がある。現在、県協指導部長である。

 
杉松由紀氏(現徳島県協)は、昭和58年にクイーン位戦の西日本代表となった。門田耕作氏(現徳島県協会長)は鶴田氏の1年後輩で小山氏
杉松氏とともに初期の鹿児島大学の中心的存在であった。安藤真一郎氏は、A級優勝経験者で、就職のため一時他会に移籍したが、現在は帰鹿して県協の中心選手となっている。西剛志氏は、現在事務局長として協会運営の中核を担っており、実力的にも現在の県協を代表する選手である。

 また、鹿児島県のかるたを支えている1つに、小中学生(初心者)対象の公民館講座がある。1月には6公民館合同で約100名が参加するかるた大会を開催している。そこで興味を覚えた者は、競技かるたへと移行していくことになる。

 県協が発足して約40年、全日協に加盟して約20年余り経過するが、競技かるたの普及、競技力の向上は、まだ道半ばである。「底辺はより広く、頂点はより高く」を目標に、鹿児島県かるた協会は今後も努力を続けるつもりである。

平成16年9月 文責:鶴田究