半島文化2002年あとがき鹿児島民俗ガイド < 南さつま半島文化HOME

半島文化畢竟漫録

2002年

〔2002.7.13〕

<加世田からの集落理想論> ある集会で気になる意見がでた。「お祭りの日に,授業を取りやめて,子供たちに踊りのスケッチをさせるのはおかしい」という発言だ。
 加世田市内でも,神社の六月灯やホゼ祭りに勇ましい伝統芸能が披露される。子供たちは先生に引き連れられて見学にでかける。市役所の職員も貴重な踊り手として参加する場合が多い。ちなみに今はボランティア休暇が適用されている。
 さきほどの考えを述べた人は,むらづくり,地域活性化の名のもとに,国粋主義が再燃することを気にされていた。どうも転勤族のようだ。

 さて,この集まりで「憲法違反」の疑いもかけられた伝統行事を,地域にいるものとしてどう考えればいいのだろうか。
 まず,鹿児島の市民文化の成り立ちを見てみよう。他県では旧士族といわれた人々は一握りしかおらず,市民文化として今見られるものの大半は,旧平民層の人々が担ってきた文化である。ところが鹿児島では,その人口比率がそれほどかけ離れたものではなかったため,旧士族・旧平民双方の文化が,市民文化として継承されてきた。

 ところが現在の集落は,過疎化と高齢化によって,伝統行事を今までどおり受け継ぐことが難しくなっている。いまだに若者だけが,旧士族の家だけが担い手となっているというような行事はなくなり,年齢層をひろげ,日にちを日曜日に変え,集落全員の結びつきを第一の目的とする行事に変わってきた。一方で長老たちは,こうした現実に顔をしかめる。
 つまり,昔のすがたと少し変わった伝統「的」行事になっているのだ。

 地域社会を,全国同じものさしで測るのは思い違いだ。そこには風土(地域性)があり,その上に表れた過疎や高齢化がある。一様の社会変化ではない。さらに,加世田という小さな地域の中でさえ,地区間差がみられるのだ。
 さらに戦後は,鹿児島県がすすめた経済自立化運動の中で,集落を「振興小組合」,その自治会長を「小組合長」と呼ばせてきた。なんと今も,集落のなかではこの呼び名が生きつづけている。
 集落は経済振興だけを目的としたコミュニティーなのだろうか。集落の個性を欠く,こうした見方こそ誤りだ。

 はじめに取りあげた問題は,鹿児島の加世田の一集落の風土にねざす,習わしにのっとった「適法」なやり方ではなかろうか。戦前,全国を画一的におおった政教未分離,軍国主義の政策こそが間違いであったのであり,集落の市民文化は,芸能も含めて,明治以前からずっとあったものである。
 さらに現在では,先に述べたように伝統的といいながらもコミュニティーの結束を最大の目的とした形態に,行事が変容を遂げようとしている。子供たちに市民文化を伝えていくことは決して過ちではない。地域の視点に戻って課題を見つめ,将来を考えることも大切なことではなかろうか。(1998井上記)

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〔2002.1.23〕

<集落のアイデンティティー> 先日,加世田市上津貫(かみつぬき)の伊勢講を数年ぶりに拝見した。一番驚いたのは,宿移りを今年から軽トラックで行うようになっていたこと。高齢社会と少子化は,伝統行事を変容させるもっとも大きな要因である。ただ,これまでも(そしてこれからも)民俗行事は社会の変化とともに,移り変わりを見せてきたのである。それを憂えてはならない。人間が作り上げた文化は,変化を続けていくものである。

 私がこうした民俗の変容に触れて思うのは,地域の個性だけは残してほしいということである。テレビ,さらにはインタネットの普及につれ,全国一様の行事の簡素化,あるいはイベント化が進んできた。集落の住民が自ら選んだ「変遷」を歩むことはやむを得ないことであるが,外からの影響による「変容」には,必ず個性を残してほしいということだ。

 上津貫の伊勢講はその個性を残した。それは,第一に集落全員が公民館に集合してお祝いする点,第二に軽トラックのご神幸になっても,それは担ぎ手が自動車になっただけで,集落民は以前と変わらず列を作ってお供をする点だ。

 他の集落の伊勢講もそれぞれに個性がある。行事・生活・生業をとおした集落社会が,変容を繰り返しながらも個性を残していけば,地域社会のアイデンティティーは永遠に続いていくことができると私は思う。

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