川辺町下山田の年中行事抄(かわなべ・しもやまだ) |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME

川辺町下山田の年中行事抄

―薩摩半島川辺町下山田の年中行事・交易その他―

地図●鹿児島県川辺町●調査日 1993.12
●調査地 鹿児島県薩摩半島川辺町下山田地区下村集落・大倉野集落(かわなべちょう・しもやまだ・しもむら・おおくらの)
●初出 『川辺町民俗資料調査報告書(2)川辺町の民俗』 1994 鹿児島県川辺町教育委員会,382-387頁(原題「年中行事W 下山田の年中行事抄」)


はじめに
1.年中行事 (1)下山田下村 (2)下山田大倉野
2.交易その他 (1)下山田下村 (2)下山田大倉野


はじめに

 南さつまの地に移り住み,社会人一年生の調査に臨んだ。学生時代と違い,フィールドで自分の立場を説明するのが煩わしい。竹屋ケ尾(山名たかやがお)を挟んで川辺(鹿児島県薩摩半島かわなべ郡かわなべ町)は,加世田(かせだ市)から自転車でも行き来できる距離にある。教科書に載せてもよさそうな,典型的な台地の上に,今回の調査地はあった。そこでは竹田神社(加世田市たけだ神社)のからくり見物や,吹上浜新川海岸(ふきあげはま しんかわ海岸)での浜遊びと,興味深い資料をいくつも収集することができた。

 今回は加世田市川畑地区(かわばた)における年中行事との位相,加世田との交易・交流を視点として,川辺郡西部大字下山田(しもやまだ)での調査を行った。以下は勝目西地区下村(かつめにし地区しもむら集落)のHUさん(大正2年生まれ女性),そして大倉野(おおくらの集落)のHOさん(大正2年生まれ男性)お二方からの聞き書き資料である。

1 年中行事

(1)下山田下村

●正月準備・大正月
 門松は師走の末ごろ(日にちは決まっていない)門口の両側に松・竹・インズッノハ(ゆずりは)・シラスを使って立てる。シラスはめいめい大倉野のほうの山から,お金を払って取ってくる。最近は勝目西区でトラックを使って研修館(公民館)に持ってくるので,それを使う人もある。「昔から立てない」という家はない。

 元日の朝はアサミズを井戸から汲み,仏さんの花水や,お茶を沸かすのに使ったり,ご飯を炊くときに用いる。順番は決まっていない。また,元日にもお墓参りをして,竹屋神社(中山田地区たかや神社)などへ初詣する人もある。

●七日の節
 門松は一週間ほど経てば取ってよいという。シラスも松もすべて片付ける。

 昔は7歳になった子供があれば,近所の人がナナズシ(七草雑炊)をもって行って祝うものだった。最近は子供が少なくなってあまり聞かなくなった。ナナカンセッ,ムイカドシという言葉は聞いたことはあるが,どういうことか知らない。

 鬼火焚き行事はない。親戚のいる加世田の武田ではあるというが,こちらは何か昔防火のためにやらなくなったという。門松の処理は各家で垣根で乾かして焼く。

●小正月
 メノモチと言って,戦前まではモッドシの15日ごろ,餅を小さく切ってメノキにつないで飾った。墓にも飾る。

 また,15日は「女中の帰り日」といって,女中さんが戻る日だった。

 小正月の訪問者・削りかけの箸を使う習俗・成木攻めは無し。二才入り(にせいり)は15日だった。

●花見・農耕儀礼,その他
 花見は5,6年前まで塘之池(川辺町とものいけ)にデバッて(でかけて)踊りをしたりしていた。そのほか小組合で年に1回,夏頃加世田の新川へ遊びに行った。日にちははっきり決まっておらず,皆の都合のいい日。貝がたくさん取れていたころは貝堀をしたりして楽しんだ。戦前まで大倉野にハナミケイバを見に行っていた。南薩競馬という競馬場だった。

 終戦後5,6年過ぎまでサナラブイかサナブイということをしていた。共同の田植えが終わると,ひとところに集まって食事をしたりした。今は田植えも一人ひとりでして,機械も入っているのでやらなくなった。刈り取りが終わったときもサナブイジュイと言って,共同でやっていたころはごちそうを皆で食べたりした。

 6月ごろ田植えが終わると,ご飯を炊いて藁の中にいれ,門口に下げて水神にあげた。水神様は山から田植えの時に降りてきて,秋に帰って行くと言われている。秋は特別なお供え,飾りということはしない。ガラッパ(河童)は水神さまだともいう。

●七夕行事
 七夕には子供のいるところは,6日に竹に色紙をつけて竿を作り,7日に庭に立てる。竹を取る場所は決まっておらず,自分のところにない場合は,よそのをもらってくる。女の子が主に作ったが,男の子も作る。木戸口の方には立てない。行事後の処理は盆前の11日ころ,昔は改修前の大谷川(2級河川万之瀬川支流おおたにがわ)に流していた。今は焼いているのではないだろうか。

●盆行事
 仏様は13日にあの世を立って,14日に着くという。14日は初盆の家では仏前に灯明を灯したりする。屋外での迎え火はしない。盆の期間中は毎日,御茶,ご飯,花の水を替える。料理は昔は魚などは食べられないといって使わなかったが,戦中,戦地でなくなった人は ぜいたくができなかったからと言って,魚なども供えるようになった。お盆にはお餅をつく。墓には団子や花をあげる。

 お精霊棚・竹囲いは作らない。無縁仏祭祀なし。盆釜なし。

 仏様は16日の朝立つので、「早よう,送らにゃいかん」という。

●八月十五夜
 十五夜綱引きは西区5部落でやるが,ずいぶん前からロープを使うようになった。昔は中学生になるカシラが中心になって子供が山からカヅラを取ってきて,カヤを集め,十文字(十字路)で青年が一抱えもある綱をネッテ(撚って)いた。引きやすいように短い横綱を作る人もあった。

 綱引きは十文字の道路で引いて,その後研修館前で相撲をする。大人も子供もいっしょになって引いていた。部落内の綱引きずりはしない。相撲は最近は女の子も入るようになった。それまでにシラスを取ってきて土俵の準備をしてある。

 終わると崩して,ほしい人が堆肥用に持って帰った。

 家での供え物は,良いお米がたくさん取れるように,縁側のお月様の見えるところに花,団子,ススキ,萩,栗やごちそうなどをお供えした。昔は臼の上に箕を置いて,その中に里芋やカライモ(薩摩芋)などの初物を升に入れてお供えした。

●祭りと民俗芸能
 竹屋神社に田植え祭りがあるが,祭る人が決まっていて自分は行ったことはない。竹屋神社は加世田の竹屋神社(加世田市益山校区たかや神社)と関係があると言う。

 お米がたくさん取れた年はホゼオドリを勝目の東区・西区交替でする。青年が長い振袖を着て,花笠・丸帯をしめ,真ん中に小さい太鼓と鉦が二人ずつ,その外に大きな太鼓の人がたくさんで踊る。豊年の年に一方の区の人が両区内をおどり,また次の豊年の年にもう1つの区の人が踊る。踊る順序は竹屋神社からお寺を回り,その後申し込んでおいた家々を回って踊る。川辺(市街)・永田(川辺町ながた地区)のほうまで行くこともあった。鉦をたたいてもらうと縁起が良いという。

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