四国山中土佐檮原街道道中記(とさ・ゆすはら・かいどう) |四国の民俗 - 薩摩民俗HOME

つかれる旅のはなし

―四国山中土佐檮原街道道中記―

地図●高知県檮原町●初出

後藤啓子編『鹿児島大学文化人類学研究室同人誌 くばの実 第3号』1995 くばの実出版社 に所収。(原題同じ)


 土佐のはなしから始めましょう。檮原(ゆすはら)は土佐の山中,伊予との国境に近いむらです。

 高知の市街から八幡浜(愛媛県やわたはま市)をとおって,佐田岬半島(さだみさき)に抜ける道が一本あります。国道一九七号です。人呼んでイクナ国道。ゆすはら自体,土佐源氏が住んでたようなところですから,わたしが八年前(1987)に,はじめてこの道を抜けたときもすさまじいものでした。須崎(高知県すさき市)の街から布施坂(ふせざか)にかかると急につづら折りがはじまります。ただひとつ救いなのは,景色がとにかく好い。このあたりは津野山茶(つのやま茶)の産地で,ずっと上まで自分の好きなように作られた,けれども自然にとけこんだ,だんだん畑が活きいきと迫ってきます。茶畑そのものはどれも人工的でしょうが,台地の上にはるかかなたまで続く鹿児島のそれとは,ぜんぜん違ったみどりです。その急斜面にへばり付くように家があり,その前を一軒いっけんぐるぐる回りながら,名前だけの国道がのぼっていきます。10分もしないうちに「もうええわ」となってしまう。そして檮原の盆地にぽんと落ちる。ほっとします。

 ところがです。もう土佐源氏は住めなくなりました。トンネルだらけのバイパスができたのです。このあいだ,じぶんの目で見ておどろきました。うわじまからの情報によれば,わたしが四国をはなれた次の年,あの布施坂も貫かれたそうです。今は檮原から高知まで日帰りで行ってしまう。人々が暮らす茶畑のずっと上を,一直線にそれは通っています。おもしろいことにトンネルには山之神や金毘羅の名がつけられました。人の道はいつの間にか神やどる領域に入ってしまったようです。

 わたしの旅はつかれに行くようなものです。いくら道が良くなっても,鉄道に乗っていても,ハプニングやトラブルをこちらから探しているような,言葉をかえれば,台風の前夜テレビにくぎづけになってそれが来るのを心待ちに?しているような,旅はそんな気持ちにさせられます。ではなぜ,つかれる旅に出なければならないのでしょうか。わたしの考えはこうです。

”旅はあとから楽しむもの”

 大洲街道から見あげる茶畑のみどりも,斎場御嶽(沖縄本島南西端の霊場セーファウタキ)から見わたす海のあおさも,その瞬間よりずっとずっと澄みわたったいろを思い浮かべます。道がなくなったり,お金が底をついたり,地下道で野宿になったり,そのときは「早よかえって,屁ーひって寝んか!」と思っていても,今となっては楽しい珍道中。すべてわたしの経験値に,ひとつだけプラスされることになるのです。人のためではなくて。

 さて,「早よかえって・・・」ですが,わたしは人を見送るよりも見送られるほうが多いような気がします。それはわたしが,これまでの自分から少しでも遠ざかろうとしているからだと思います。吉と出るか,凶とでるか,ずっと先になってだんだんに分かってくるものなのでしょう。めくるめく感動を求めて,夕日のしずむ国から,今日もつかれる旅を続けています。
 ではの。


※土佐源氏は,宮本常一が書いた『忘れられた日本人』(岩波文庫)に出てくる素朴な ばくろう のことです。


●追記

写真●檮原町の御茶堂 2000年8月このエッセーを書いて以来5年振りに,イクナ国道を走ってみました。自分のハコバンで。国道は佐田岬まで全通していました。檮原では,鹿児島でいうバラ(丸口箕)が「サツマソーケ」と呼ばれていました。また,御遍路さんなどを接待する御茶堂も各地に残っていて風情がありました。これは集落が運営していて,今でも御茶がふるまわれるそうです。バイパスをはずれて集落まで入れば,まだまだ素朴な風景が残っています。このまちはまた,清流四万十川の源流に位置するところでもあります。
 それから佐田岬半島の部分は,わざわざ旧道を通ってみました。バスはまだ旧道です。こちらもまだまだ調査はできそうです。怠け者の私はドライブだけでしたが。

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