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幻の発酵茶と植物加工技術

四国山中大豊町の碁石茶づくり

地図●高知県大豊町●調査日 2000年8月
●調査地 高知県四国山中長岡郡大豊町東梶ケ内(ながおか・おおとよ・ひがしかじがうち)・高知県伊野町(いの)・愛媛県内子町(うちこ)・徳島県藍住町(あいずみ)
●初出 鹿児島民具学会2000年9月例会口頭発表稿(原題「碁石茶再考」)。未発表資料 Web書き下ろし。


●はじめに

 2000年8月,知覧中学校の小川秀直先生と四国を1週間ほど自動車でまわってきました。その2日目,学生のときに半年間通った高知県大豊町の東梶ヶ内(おおとよちょうひがしかじがうち)というところへ6年ぶりに行ってみました。私がこのムラへ自動車で入るのは,10年前に初めて友達につれていってもらって以来2回目です。自動車では麓から15分ですが,歩くと45分だったように記憶しています。数百メートル登っていくうちにぐんぐん四国の山村の素朴さと,景観の美しさが迫ってきます。よくこんな坂を毎週歩いて通ったものだなあと,怠けている今の自分を反省しながら伝承者のうちへ向かいました。そのムラに「幻の発酵茶」を作りつづけている小笠原正春さんがいらっしゃいます。
 この碁石茶の製法や民具については別の機会にお話したことがありますので,今日は四国の植物加工技術との比較の中から,碁石茶のなりたちを考えていきたいと思います。
 初めてお聞きになる方のために少しだけ碁石茶について説明しますと,碁石茶は中国のウーロン茶やプアール茶と同じように発酵させて,団茶のように固めたお茶です。地元ではウマノクソ茶などとさびしい名前でよばれ,普段飲むことはありませんが,瀬戸内の島々の船乗りさんたちには,茶粥のだしとして長年親しまれてきたものです。
 碁石茶の製法は@茶摘み,A蒸す,B寝かす,C漬け込む,D断つ,E乾す,F俵詰めという工程で作られ,むしろの中で発酵させる(寝かす)作業と漬け桶での漬けこみ作業がポイントとなっています。ちなみに碁石茶の名前は6番目の乾すという過程で,庭に広げた筵の上にこの固まったお茶を並べていくと,ちょうど碁盤に黒い碁石を並べたように見えるところから名づけられたとされています。白碁石の部分はありませんが・・・。

●山村の生業変容と碁石茶

写真●碁石茶の蒸し桶 文献史料に碁石茶の名前が登場するのは,「土陽渕岳志」という1746年の史料が最初です。私の調べた中ではこれが「碁石茶」としての最も古いものです。ただし宮本常一が『忘れられた日本人』の中で17世紀の初めに発酵させて固めたお茶を買い付けにきた商人の記録を見たことがあるとの記述があります。また,「碁石茶」という文字ではなく,「茶」とすれば,江戸前期の土佐藩藩政改革者である野中兼山の時代から和紙とともに注目され,後に専売品の一つとして発展していきますから,その「茶」のうちに含まれているとすれば宮本常一の話とつじつまが合うのかもしれません。
 ただし,碁石茶はいわゆる下級茶の類ということになっており,庶民のお茶(今もそうですが)と考えれば,茶道文化や上級茶の玉露や中級茶の煎茶などと違い,やはり近世の中後半にならないと流通しなかったのではないか,つまり18世紀で正しいのではないかと私は考えています。
 さて次に,この地域の生業の変容の中で,碁石茶はどのような位置を占めてきたのか見ていきたいと思います。江戸時代の土佐では先ほども言いましたように和紙・茶・それに葉煙草が専売品としてこの西豊永(大豊町旧西豊永村)でも史料にあがってきます。明治になると,換金作物として引続き葉煙草・和紙やその原料であるミツマタ・コウゾ,そしてお茶が産物となっていました。明治の半ばになると養蚕が始まり,タバコ畑に代わって徐々に桑畑が増えていきます。明治時代の特産品会の記録によれば,これらのほか藍・木材・しゅろ・タフ(太布―コウゾ・ミツマタの繊維であんだ布)なども産物と写真●碁石茶の漬け桶してあがっています。
 大正時代以降は養蚕がさらに活発になり,お茶と養蚕の二つが生業が主流になります。戦後は養蚕も碁石茶も下火になって,今は,この東梶ヶ内では水耕のほかに土木作業のアルバイトに出る人もいるという状況です。こうして江戸時代から長く重要な特産品であった碁石茶も高齢化・過疎化,そして人々の考え方の変化によって今では小笠原さん一人が伝承者になってしまいました。小笠原さんは「虎は死して皮を留め、人は死して名を残すということわざがあるが,自分は虎のほうで碁石茶を残していきたい。他人になんといわれようと最後まで碁石茶作りを続けていきたい」とおっしゃっていました。

●四国の植物加工技術

 この旅の中で,資料館をいくつか見てまわりました。それと,今までに訪れた資料館の図録を見返しながら,思いついたことを少しお話したいと思います。この話の最初に碁石茶は発酵させるという過程がポイントだと申しました。それにそっくりな工程のある植物加工技術が四国にあります。阿波藍です。
 藍もお茶と同じように古く日本に伝わったといわれますが,商品作物として定着するのは,やはり江戸時代のようです。阿波でも藍の起源についてはいろいろな説があるようですが,蜂須賀家が播州から1530年代にもたらしたというのが有力なようです。江戸時代には摂津や京でも藍作りは盛んでした。
 さてこのアイの葉から染料の藍を作るには,@採集・切る,A乾燥・選別,Bすくもづくり(堆積発酵),C俵詰めという工程があり,さらに古くはDすくもから藍玉が作られました。すくもでも藍玉でも染料として使うことが出来ます。ポイントは3番目のすくもづくり(寝せこみ・切り返し・ふとんかけ)です。藍住町歴史館藍の館のリーフレットに次のように記されています。「寝せこみ―9月になると,寝床に保存してある藍を俵から出し,山積みしながら水を打つ。4―5日もすると発酵して摂氏65〜70度の高温になる。寝床はアンモニア臭が立ち込め,目もあけていられないほどである。きりかえし―一つの山を1床という。そこに積んだ葉藍が万遍に発酵するように,20回ほど移動する。切り返しという重労働が100日ほどつづく。ふとんかけ―すくもの仕上げが近づくと,むしろで葉藍を覆い(ふとんかけ)平温の状態になるのを待つ。そうするとすくもが12月初旬にできあがる」

写真●土佐紙の甑 次に土佐和紙の製造工程をみていきたいと思います。土佐和紙も平安時代から始まったという説がありますが,長曾我部氏のころ,高知城下の西に位置する伊野町というところで始まったという説が有力なようです。土佐紙は今でも全国の越後紙,美濃紙と並んで産地として有名です。伊野町には現在「土佐和紙伝統産業会館 いの町紙の博物館」という紙漉体験もできる分かりやすい博物館ができています。ここでお話するのもこの資料館で勉強させていただいた内容です。
 この和紙の製法を大まかにみていきますと,@採集,A煮る(蒸す),B水洗い・水さらし,C選別(ちりを取る)・たたく,Dこぶり(水に再びさらす),E紙漉き,F脱水・乾燥,G裁断,H荷造りという流れになります。碁石茶作りとの関連で言いますと,二つ目の蒸すという作業で,高さ2メートルを越す大きな甑を屋外の竈に据えられた大釜の上で蒸すところにあります。碁石茶の蒸す作業も屋外での作業なのです。

 最後に愛媛の内子町(うちこちょう)の木蝋(もくろう)作りについて説明したいと思います。薩摩でも専売品として近世後期には盛んに作られた木蝋,ろうそくの蝋ですが,伊予の大洲藩の内子も1750年代安芸の国から技術が伝わりました。内子は今,知覧町(ちらんちょう)と同じように国の伝統的建造物群地区に指定され,古い商家の家並みが続く美しい町です。この街を発展させていった大きな要素に木蝋づくりがありました。木蝋づくりは@収穫,Aたたく,B蒸す,C搾る,Dさらす という作業になります。ここでも蒸すという工程がありますが,「蒸し場」で蒸し桶を使って粉になったハゼを蒸していきます。木蝋資料館上芳賀邸では分かりやすくハゼノキの実からさらし蝋ができるまでを紹介してありました。

●碁石茶再考

 以上,伝統的な四国の植物加工技術について紹介してきましたが,碁石茶づくりとどのようにつながるのかもう一度整理して,今日の覚え書き的なお話を終わりにしたいと思います。

@まず,碁石茶は今までプアール茶や団茶など大陸との文化交流の視点で,日本文化の伝播を解く一つのキーワードとして登場することが多かったのですが,もう少しミクロな視点で見ていくといろいろとおもしろいつながりがはっきりしてくるのではないかということです。四国の視点です。
Aではどのように見ていくかというと,技術の交流,道具の交流です。今日は体積発酵させる阿波藍と,蒸す技術のある土佐紙・内子木蝋の技術について触れてきました。その中で藍や紙は四国では近世初期から定着していったこと,内子の木蝋は近世中期に始まったことを紹介しました。すぐにこうした技術の成り立ちと比較するわけにはいきませんが,碁石茶づくりにもそうした植物加工技術との交流があったのではないか,ということを私は考えているわけです。
Bこれから進めていきたい作業としては,一つずつの民具の比較作業,蒸し桶の比較などですね,そして人の交流の視点です。碁石茶の伝承地である大豊町には四国最古の木造建築で国宝の豊楽寺というのがあります。ここでは歌垣的な伝承も聞かれますので照葉樹林文化とつなげていくことも考えられますが,ミクロに戻ってみていくと境内の柴を折って男女が語り合う「柴折お薬師さん」の異名を持つこの古寺の大祭には,阿波からも参拝者があった。しかし伊予の人は見かけなかったとのことです。木材の搬出も吉野川をいかだで流して阿波へ,明治の一時期藍自体が特産品の一つにあがっていたりします。

 四国の視点,どうも阿波とのつながりを感じます。以上,今日の発表はまだ思いつきの粋を出ませんが,ぼつぼつ整理していきたいと思います。

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