*南さつま歴史街道 - 歴史年表

南さつま歴史年表

日新寺(三国名勝図会)日新寺(三国名勝図会)

BC22000鹿児島姶良カルデラの噴火。ATと呼ばれる火山灰でシラス台地ができる
旧石器時代 BC18000春ノ山遺跡:久木野にある遊動生活の一時的キャンプ跡
縄文草創期BC11000〜志風頭遺跡(しかぜがしら):内山田校区。ほぼ完全な形の最古級の土器が見つかる。口径42・高さ25センチの隆帯文土器(りゅうたいもんどき)
栫ノ原遺跡(かこいのはら):加世田校区にある縄文時代はじめごろの夏の定住地。国内最古のくんせい施設
BC9500桜島の噴火。サツマと呼ばれる火山灰がつもる
縄文早期BC8000〜- 上ノ原遺跡(霧島市)の時代 -
BC4400薩摩半島の南で鬼界(きかい)カルデラが噴火。アカホヤという火山灰
縄文前期BC4000〜阿多貝塚:地球温暖化で海面が上昇し、阿多貝塚の付近が海岸線となる。ハマグリやマガキの貝殻や、轟式(とどろきしき)土器、鏃(やじり)、骨針などが出土するなど、安定した海辺の生活が見られる。
縄文中期BC3000〜
縄文後期BC2000〜
縄文晩期BC1000〜上加世田遺跡(うえかせだ):縄文時代終わり頃の祭りをした跡。岩偶(がんぐう)やヒスイが見つかる。
弥生前期 BC300〜高橋貝塚:田布施校区。稲作に利用したと思われる石包丁(いしぼうちょう)や石鍬(いしぐわ)が出土。南島産のゴホウラ貝の貝輪加工も行われた。
弥生中期BC100〜下小路遺跡(しもしょうじ):田布施校区。吉野ヶ里遺跡のような甕棺墓(かめかん ぼ)が出土。
弥生後期100〜松木薗遺跡(まつきぞの):田布施校区。環濠集落が見られる遺跡。
古墳前期300〜
古墳中期400〜奥山古墳(六堂会古墳):万世校区。ガラス玉・鉄剣・土師器(はじき)などが一緒に祭られた箱式石棺がある。石棺の材質は天草のもの。
古墳後期 500〜- 橋牟礼川遺跡(指宿市)の時代 -
533日本書紀にこの年「婀娜国胆殖屯倉」が置かれたとある。『三国名勝図会』では婀娜を阿多と推定し、田布施の地名の起源に引用している。
538 - 日本に仏教伝来 -
583 坊津には、この年、日羅による一乗院創建の伝説があり、これが坊津の名称の由来と伝えられる。
飛鳥時代 682- 阿多隼人・大隅隼人が朝貢をはじめる -
692- 大隅・阿多に僧侶が派遣される -
702- 大宝律令で薩摩国成立 -
奈良時代 713- 大隅国成立 -
720日本書紀が編さんされる。日向神話で「吾田の長屋の笠狭の碕」。神話にさかのぼって隼人が大和へ服従すべき理由を説いたものと考えられている。
720- 隼人の反乱。大伴旅人が征夷大将軍として派遣され平定 -
753唐僧鑑真、遣唐使船で薩摩国阿多郡秋妻屋浦(久志校区秋目)へ着く。このころは坊津も阿多郡であったことが分かる。
平安時代 808- 隼人司一旦廃止。(同年再置) -
931和名抄に阿多郡として、鷹屋・田水・葛例・阿多の4郷が見える。竹屋ケ尾(たかやがお。内山田校区にある山名)・竹屋神社(益山校区)は鷹屋の伝承地名といわれる。田水は田布施、葛例は勝目(南九州市)のことと想定されている。
1024〜28- (万寿年間)大宰府から島津荘が藤原氏に寄進される。南九州も荘園の時代へ -
1138薩摩平氏の阿多四郎忠景(あたしろうただかげ)が、私領を金峰山(きんぽうざん)観音寺に寄進。
1177〜79(治承年間)薩摩平氏の別府五郎忠明(べっぷごろうただあき)、加世田に別府城を築く。
1186金子氏が大木場(大浦校区)へ下向。
平安後期- 隼人塚(はやとづか。霧島市)が建立される -
11C〜15C 持躰松遺跡(もったいまつ):阿多校区。11〜15世紀の中国製陶器が多数出土。万之瀬川河口は大陸と日本の交易拠点であったとも考えられている。
鎌倉時代 1194鮫島宗家(むねいえ)を阿多郡(あたぐん)惣地頭に補任。
1197薩摩国建久図田帳(けんきゅうずでんちょう)に阿多郡として公領(地頭鮫島宗家)195町4反、寺社領54.6町、計250町。阿多郡は薩摩国で唯一郡全域が島津荘化していない郡。「加世田別符」には別府氏領40町、阿多地頭鮫島宗家領15町、宇佐八幡別当寺領25町、など。
1245鮫島家高(いえたか)、阿多北方=田布施郷の総地頭を解任。二階堂育久が補任。(鮫島氏は阿多南方=阿多郷のみの支配となる)
室町時代 1397史料に大浦の名が初見。
1406田布施の二階堂氏が、伊作島津家に降伏。
1418阿多の鮫島氏が、伊作島津家に降伏。
1420加世田の別府氏が、奥州島津家豊久(島津本宗家8代)に降伏。のち、加世田は薩州家島津国久(出水を本拠する分家)が領主となる。
1461大浦は、海老原氏に代わり、宇留島氏(うるしま)が領することとなる。(宇留島氏は、のちに島津忠良に属する)
1469〜86(文明年間)相州島津家友久が亀ケ城(田布施校区)を築城。(友久・運久・忠良の居城)
1511宇留島氏が、久志地権現宮(大浦校区)を造立(棟札)。
1512伊作島津家の忠良(ただよし)、相州家も継ぐ。
1514島津貴久(たかひさ)、亀ケ城に生まれる。
1527島津貴久、島津本宗家を継ぎ、第15代太守となる。忠良は入道し日新斉(じっしんざい)と名乗る。
1539島津氏内の内紛の一つとして伊作・相州家の島津忠良が、薩州家の加世田別府城を攻略。
1543- ポルトガル人が種子島に漂着。鉄砲を伝える -
1546このころ、島津忠良が加世田で、道徳の基本を示した「日新公いろは歌」を作る。
1549- フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。キリスト教を伝える -
安土桃山時代 1580このころ、万世校区の相星(あいほし)で二世観音(にせいかんのん)が祭られ、江戸時代にはほら穴で隠れ念仏が行われた。
1587- 島津氏は前年東・南九州を制覇したが、この年豊臣秀吉に降伏 -
1592- 島津義弘(しまずよしひろ)文禄の役で朝鮮出兵 -
万世校区小松原の鮫島宗政(むねまさ)は出兵から帰国後、海外貿易を始める。
市内各地の太鼓踊りは、このとき朝鮮から伝わったという伝承がある。
1592〜96(文禄年間)大浦新田(下玉)34町・鏡島新田5町が開かれる。
1594〜96後の関白近衛信輔(このえのぶすけ=信尹・のぶただ)が、後陽成天皇の怒りを受け、坊津に流される。坊津八景などを残した。
江戸時代 1609- 薩摩藩、琉球へ出兵 -
1615- 幕府一国一城令を発令 -
江戸時代の南さつま各地は、藩直轄地として発展。後には地方長官である地頭は鹿児島に住み、武家屋敷の麓には地頭仮屋が設けられる。薩摩藩の行政組織”外城”では、当初現在の大浦・笠沙・坊津・川辺町粋までが加世田外城の区域とされた。ほかに田布施外城・阿多外城がある。
1621久木野校区上木屋(くきのかみきや)の田中七右衛門が製鉄用水車の水神を建立。
1624中国の兵書「武備志」に、日本三津(にほんさんしん)として、坊津・博多津・伊勢安濃津(洞の津)が記されている。
1688〜04(元禄年間)大浦校区の榊川尻新田8町・鰹ケ浦新田15町・皮籠石新田16町が開かれる。
1705〜15「宝永御応書」によれば、坊津・片浦(玉林校区)に津口番所が置かれている。片浦の北の岬・高崎鼻近くには遠見番所があった。
1715下馬場(田布施校区)の田の神建立。
1716〜35- (享保年間)薩摩藩が、民間密貿易の取締りを強める。(享保の唐物崩れ) -
坊津も唐物崩れの影響を受けて、貿易港から漁港へと変化していく。
1720- このころ青木昆陽(あおきこんよう)によりサツマイモが全国に紹介される -
1725〜28阿多御神田開発(新田川―白川の用水路完成)。
1732宮崎の田の神(阿多校区)が建立される。
1753- 薩摩藩、幕府から木曽川(岐阜県)治水の土木工事を命ぜられる -
1763小松原(万世校区)の鮫島正次郎(さめしましょうじろう)が薩摩藩の見習い唐通事(中国語の通訳)となる。1773に本通事に昇格。
1768益山用水完成。(ますやまようすい。竹田神社の水車からくりはこの用水にかかっている)
1778 唐仁原(万世校区)で田の神が建立される。碑文のあるものでは加世田地区最古。
1784 薩摩藩、地方行政区分の外城(とじょう)を郷(ごう)に改める。加世田・大浦・笠沙地区は「加世田郷」。金峰地区は、「田布施郷」・「阿多郷」。坊津地区は、「久志秋目郷」・「坊泊郷」となった。郷の下に村が置かれ、現在の大字に引き継がれている。
1789〜00 (寛政年間)阿多張りキセルが、長崎から伝わる。
1802 万之瀬川(まのせがわ)大洪水。河口が相星(あいほし、万世校区)から、現在の位置になる。1844旧河川の上に、祇園社(万世校区大崎にある現在の八坂神社)が海運業者によって建立される。
1818〜30 (文政年間)大浦校区の小浜新田16町が開かれる。
1827 - 薩摩藩、調所広郷(ずしょひろさと)の藩政改革。清国との密貿易、奄美からの砂糖総買い入れ、藩の借金250年無利息変換などを断行 -
1848 宮内善左衛門が、田布施地区の吹上浜に飛砂防備林として松を植樹。
1856 - 篤姫(のちの天璋院)が第13代将軍徳川家定の御台所(正室)となる -
1858 小松原(万世校区)で加世田一揆が起こる。
1865 薩摩藩留学生として加世田からは鮫島尚信(さめしまなおのぶ)が羽島(いちき串木野市)からヨーロッパへ出発。
明治2年 1869- 廃藩置県により鹿児島県誕生。県内は廃仏毀釈が進む -
廃仏毀釈により、一乗院(坊泊校区)、日新寺(加世田校区)などが廃寺となる。のちに一乗院は坊泊小学校となり、日新寺は1873年竹田神社として再興される。
明治11年1878顕証寺・浄願寺(以上万世校区)・聖徳寺(加世田校区)の前身である説教場が開かれる。
明治22年1889町村制施行により、加世田村・東加世田村・西加世田村・西南方村(にしみなかた)・阿多村・田布施村ができる。
明治29年1896郡制の施行により、加世田村・東加世田村・西加世田村・西南方村が属する川辺郡役場が、加世田に置かれる。田布施村・阿多村が属する阿多郡は、翌明治30(1897)年に日置郡に統合。
大正3年1914南薩鉄道伊集院(いじゅういん)・加世田間開通。1931加世田・枕崎間開通。
大正12年1923西加世田村が笠砂村に改称。翌大正13(1924)年加世田村が町制を施行し、加世田町となる。さらに大正14(1925)年には東加世田村が万世町となる。
昭和2年1927南薩中央鉄道(のち南薩鉄道知覧線)川辺まで開通。昭和5(1930)年阿多 - 知覧間全通。
昭和15年1940笠砂村が町制施行・名称変更し、笠沙町となる。
昭和17年1942国営大浦潟干拓工事第一工区が着工。
昭和20年1945万世飛行場から特攻隊が沖縄へ。加世田空襲、役場の疎開。坊ノ岬沖海戦で戦艦大和が沈没。
昭和26年1951大浦村が笠沙町から分村。昭和36(1961)年に町制を施行し、大浦町となる。
昭和28年1953- 奄美群島が日本復帰 -
西南方村が坊津村に改称。昭和30(1955)年には町制を施行し、坊津町となる。
昭和29年1954「昭和の大合併」により、加世田・万世両町が合併し、加世田市が誕生(翌年田布施村新川・網揚地区編入)。昭和31(1956)年に、田布施村・阿多村が合併し、金峰町となる。
昭和38年1963坊津高校閉校。
昭和40年1965鹿児島交通知覧線廃止。
昭和45年1970国営大浦潟干拓工事第二工区完成。(第1工区1958・県営1961に完工。すべて併せて面積356.8ヘクタール)
昭和47年1972- 太陽国体。加世田では高校レスリング競技が開催される。沖縄復帰の年 -
昭和58年1983集中豪雨で加世田市街地浸水。激甚災害対策特別事業で市街地を蛇行して流れる加世田川のショートカット化。1971にも台風で水害。
昭和59年1984鹿児島交通南薩線廃止。
昭和61年1986鹿児島県立吹上浜海浜公園が開園。翌年吹上浜砂の祭典が始まる
平成5年1993- 鹿児島市街地で大水害(8・6水害) -
台風13号により田布施校区の扇山地区で土砂崩れ(死者20名)。加世田市街地が浸水。大浦では電柱が多数なぎ倒された。
平成9年1997栫ノ原遺跡(加世田校区)が国指定史跡になる。
平成12年2000国道226号線坊トンネル完成
平成13年2001世界室内自転車競技選手権日本大会が加世田で開催される。
坊津」が国指定名勝となる。
平成14年2002大浦校区の小湊干拓にマッコウクジラ14頭が座礁
平成16年2004- 九州新幹線部分開業 -
坊津町歴史資料センター輝津館開館
平成17年2005笠沙町が、核燃処分場の誘致表明(のち撤回)
「平成の大合併」により、加世田市・笠沙町・大浦町・坊津町・金峰町が合併し、南さつま市施行。
平成18年2006笠沙高校閉校

※冒頭の図版は、「三国名勝図会」を任意に着色してイメージ化したものです。考証は行っていませんのでご了承ください。

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