夕方の団地で陰になっている公園で

 小さい頃の私が遊んでいる

 両親に手を引かれている私の顔はとても楽しそうで

 それを見ている父と母はとても穏やかな表情をしている

 10歳の頃の私は涙目で算数の宿題のプリントを睨んでいる

 わり算がわからなくて、×ばかりのテストを貰った私は

 父の怒声を浴びながら、勉強をしている

 私以外の家族はみんな優秀で、あまり悩んだことはないのだろう

 なぜ問題がわからないのかがわからない。

 どう教えるべきかすらわからない苛立ちで、言葉は次第にきつくなっていく

 「何でこんなものもできないんだ!泣いてないでさっさとやれ!」

 険悪な雰囲気と圧迫感で頭が混乱して、余計にわからなくなっていく目の前の問題

 そのうち怒声は諦めに近い励ましになり、静かな恐怖心に包まれた…

 それからの私は頑張って勉強した

 別にトップを取りたかったわけじゃない、褒められたいわけでもなく

 家族に険悪な空気を作りたくなかった一心で頑張ってみた

 しかし、どうやら――やはり私は劣等生だったようだ

 中学に入る頃には父からは怒鳴り声、母からは金切り声しか聞くことはなかった。

 姉の目は2月の氷柱のように冷たくなっていって

 兄は無関心を決め込んだ

 家族を狂わせている自分を憎んで、それでもいつかはどうにかなるんだと

 いつの間にか一人きりになっていた学校で、私は教科書の前で勉強か

 勉強をしている ふり をした。

 そして、父が死んで――

 それから、それからは…

 私に関わってくる人々を蠅蚊のように乱暴に振り払った

 勉強をしても私の望むものはもう手に入らない

 目を背けても目の前をちらつく煩わしさと劣等感と羨望に駆られて

 私は茜を……

 ……自分自身の弱さに反吐が出る

 自分の事しか考えてない甘ったれ。

   教科書を眺めて、私はこれから何を求めているんだろう

 小学生の問題で苦心してたのに、また無為に終わってしまうのだろうか

 違う…違う

 誰か、違うって言ってくれ…………。



「………ん……?」

 どうやら夢を見ていたようだ

 涙と涎で顔にノートが貼り付いている

 勉強をして、いつの間にか寝てしまっていた

 起き上って時計を見るといつも起きる時刻より遅い午前の8時。

 深夜までにらめっこしていた所為だ

 日付は8月7日、夏休みはまだ23日もある

 夢のように曖昧で悪夢のように窮屈な夏休みが

 まだ半分以上もある

 空腹を埋めるために部屋を出て台所に出ると、姉の綾が

 フライパンで野菜を炒めていた

 姉は私を見やると、舌打ちをして

 それからは私がいないかのような素振りを見せた

 淡々と朝食の準備をしていく姉

 嫌々ながらとはいえ皿を2つ用意してくれている、さっきの夢の事もあって

 ちょっと泣きそうになった

 姉は無言のまま自分の皿だけを持って、リビングへと運んだ

 私は和室へと食事を運んでいく

 何か一言くらいいいたかったけど。

 背中を向けている姉にどうしても声をかけられなかった。

 押し黙ったまま、その部屋を出ようとしたとき

「今日の夜、私の友達が来るから、静かにしてよ。」

 と、姉は後ろを向いたままそう言った

 普段なら関わりもしない姉だが

 機嫌がいいのか、今日はちょっと優しい

「あ、あぁ…わかったよ…。」

「後…泣いたんなら顔ぐらい拭けば…?みっともない。」

 そう言われて鏡を見れば、頬には涙が流れた後が。

 目も充血して瞳の赤と見分けがつかず

 眼球全体が真赤で怖い。

 姉の作った野菜炒めは、正直なところ野菜の切り方も雑で

 味も妙に濃くておいしくはない。

 でも、なんだかんだで食事を用意してくれたから全部食べる

「……。」

 いつも後になって言いたい事が出てきて後悔してしまう

 おはよう、ごめんなさい、おやすみ…ありがとう。

 思っていても口に出せない言葉が腐って、いつも醜い事ばかり言ってる。

 嬉しい時に嬉しいと言う、ただそれだけの事が

 今の私にはひどく難しく思える。



 食べ終わってからもしばらくじっと座っていると

 リビングから電話の鳴る音が聞こえた

 騒がしい音で私の中に入っていた私の意識は

 無理やり外に引っ張り出される

 姉はとっくにリビングから自室に戻っていて

 ベルが鳴り止む気配はない

 嫌々立ち上がって電話を取る

 受話器を当てた左耳にハッキリしてはいるが小さい声が届く

「あの、月島さんのお宅でしょうか。」

 借りた猫というのか、こういうのは

 間違いなくマリアの声だが

 声のトーンに違和感を感じてしょうがない

「彩さんはいらっしゃいますか。」

「……何の用だよ、わざわざ電話してくるなんて。」

「あ、サヤ、電話に出るとは思わなかったよ。」

 私自身、偶然そうなっただけで、まさか自分に用事があるなんて

 夢にも思わなかった

「サヤ、夜空いてる。」

 また急に変な事を聞く

 どこかで祭りでもやっているのか、

 仮にそうだとしたら人の多いのは嫌だから断ろう。

「用は?」

「…ほら、後輩のストーカーが星を見るとかなんとか言ってただろ
 それで展望台に行くとか何とか。」

 ああ、1週間くらい前にそう言う話が上がってたような。

 それより何故あいつじゃなくてマリアが私に伝えてるんだ?

 星…眺めるのは好きだけど

 他人と望遠鏡で覗いてまで見るような面白い様なものじゃない

 ああいうのは、一人でやってた方が…

「…サヤ〜?、何か言ってよ…。」

「あ、ああ…。」

 沈黙に耐えきれずにマリアが返事を催促する

 今日は確か快晴、天気をいい訳には出来そうもない

 そう言えば夜は姉の友達が来る予定だった

 今まで友達がいなかったから一人での夜の外出は控えていたけど

 外にいた方が都合がよさそうだし

 姉の友達が家にきた時の妙な息苦しさは精神衛生上いいものじゃなく

 マリア達と遊びに行くことと比べても大差はない。

 むしろ外の方がある程度自由に動ける分いいかもしれない

 …でも誰が来るんだろう、男もいるし。

 乗るにも断るにもリスクがあって悩む…どうしよう

「サヤ〜…黙ると困るんだってば…。」

「わかった、行くよ。」

 はずみで言ってしまった、まだ悩んでるのに。

 しょうがない、今更断るのも不自然だ。

「…は?」

「何時に何処にいればいいんだ?」

「え?」

 人の話を聞いていない、まったくマリアは何を考えてんだ

「えと、行くのか、本当に。」

「…だから何処に行けばいいんだって聞いてるじゃねーか。」

 電話の向こうで、マリアは少し悩んでいる

 何も決めてないで電話したみたいだ。

 行き先が展望台って以外は。

「じゃ、じゃあ図書館で待ち合わせしよう、時間は…5時位で。」

 今の時期、7時でようやく暗くなる、時間をどうつぶす気だろう

 食事も外食になりそうだ

「で…誰が来るんだ。」

「さぁ、今から聞いてみる。」

 一番重要な所がわからないらしい

「まだ時間あるから知ってる奴に声掛けてみるよ…それとも多いとダメだっけ。」

 私がいたって話なんて盛り上げられないから

 人数は余りに少ないと妙な雰囲気になってしまう

 前にデパート行った時くらいなら喋らなくて済むからいいんだけどな

 …実際あの時って喋った記憶が無いし…。

 皆どうやって会話を楽しんでいるんだろう

 電話で何時間もずっとどんな話をしているのか

 ともかく会話の輪に入れない私としてはある程度の人数は欲しい

「それじゃ電話切るけど、ええと…ドタキャンは勘弁してね。」

 マリアが心配そうに言う

 私はふっ、と思わず鼻で笑って、電話を切った

 静けさを取り戻したリビング、その扉の前で

 姉が私を見つめて立っていた

 電話に私が応対してるのが不思議だと、そういう表情をしている

「誰?」

 少し警戒を強めて姉は言った

 ここ最近私に来る電話は…そう、学校内外で起こるトラブルの苦情ばかりで

 もっと前だと学級連絡とやら以外は全く来なかった

「クラスメイトだよ…。」

 と答えても、信じるわけがない

「クラスメイト…?、また誰かに怪我でもさせたの?」

 姉は案の定信じていない

「遊びに行こうって…。」

 私がそう言うと姉は苦笑した

 顔を横に軽く振って、「そんな事あるわけない」というリアクションを取った

 そしてわざとらしく溜息混ざりに

「どんな人か知らないけど、相当の変わり者だわ
 アンタと居てどこが楽しいのか…。」

 と毒づくと姉は自分の部屋に戻っていった

 「どこが楽しいのか」…ね、私もそう思う。



 夜に出かけるとなると、体力を温存して

 昼はゆっくりしていたほうが賢明。

 まだ少し眠い眼をこすって、夏休みの課題でも手をつけてみよう

 英単語を書き連ねるだけの単純作業は

 悩む必要がない分、進行もはやくて、時間もあっという間に過ぎていく

 半分覚醒と半分睡眠のまだらな午後は

 意識があやふやになって

 アルファベットの文字もそれが何を示しているのか分からなくなっていた

 ふと、時計を見ると短針は、8時を示している

「8時だって…?」

 待ち合わせの時間から3時間も過ぎている、

 慌てて起き上ると―――それと同時に私は眼を覚ました

 (夢か…。)

 起きて見た時計は午後3時を回ったところだった

 1日に2度も勉強しながら寝るなんて…だらしなさすぎる…

 後2時間、シャワーを浴びて着替えて…

 図書館までは歩いて3分で着く

 時間の余裕は十分にあるけど、早めに行くかな…

 例え遊びでも約束は守らなきゃ

 …いままで守ったこと無かった分も。



 図書館には入口ですでにマリアが

 暑さでバテた顔で立って待っていた、午後4時半

「サヤ、すっぽかすと思ってた。」

 少し疲れた顔のマリアが猫を抱いて言った

「……誰もいないのか?。」

 私はいやな予感がして言った

 周囲を見渡しても通りには誰もいない。

「クロはバイトで、渡辺さんは海に行って疲れてるから嫌だってさ。」

 一応進学校だからバイトは禁止のはずだが黒沢の事だから

 コネとあの性格でどうにかしてるんだろう…

 それに茜も来ないのか…昨日会ったばかりだけど。

「電話する相手が二人しかいないからどうしようもないや。」

 マリアが自虐的に笑う、転入して2ヶ月しか経っていないのだからしょうがない

 仕様がないとはいえ、紫原とマリアと私の3人…と1匹じゃ

 ずっと黙りこくっていると居た堪れない気持ちになる

 私は他人と一緒にいた時の数少ない記憶を掘り起こして考えた

 昨日茜に会いに行った時、こんな風に相手との話題を考えていたっけ

 まだ10分も経っていないのに色々考えすぎて疲れてくる

 そんなとき急に、ずしっ、と頭に何かの重さが加わる

 ふわっとして少し動いている何か…、振り向くとマリアの腕が私の上に伸びている

「あっ、急に動いたら落ちるって。」

 マリアが意味不明な事を言う

 振り向いた拍子で頭の上に乗っているものが

 ずるずると私の額の方へずれ落ちていく

 それが何かは頭に刺さるような痛みでわかった

 必死で落ちまいとして爪を立てている

 私は頭を傾けて頭の上の子猫を掌に下ろした

 手の上で可愛い鳴き声をあげている

「……久しぶり。」

 掌を覆う柔かな感触が、さっきまでの雑念を掬い上げて

 肩の力も抜けて穏やかな心地にさせてくれた。

 それにしても頭皮が痛い、右手で頭部を押さえながらマリアを睨む

「サヤがあんまり黙ってるからつい。」

 全く悪気のない顔で言う

 マリアは無視して私は子猫のルイと戯れて時間をつぶすことにした

 地面にルイをおろしてその仕草を観察しようとしたけれど

 いつの間にか猫らしい俊敏さを身につけていて、すぐに遠くに行ってしまった

 そういえば手に乗った時も出会った時よりもずいぶん大きくなって重かった

「ちょっサヤっ、あのまま逃げるよあの子。」

「あ…。」

 壁の窪みを登ってみたり駐輪所の自転車の下に逃げたり

 自由に駆け回るルイは私ではとても捕まえられないくらい

 目まぐるしく動く、手を伸ばして捕まえようとしても

 立体的な動きでするりと抜けていく。

「サヤ…わかってたけどトロい…。」

 子猫相手に苦戦する私を見てマリアは毒を吐き

 見本を見せてやるとばかりに素早く、あっさりルイを捕まえると

 また私の頭の上に乗せた、まったく性格が窺い知れる…。

 私は頭の上の猫を両手で捕まえ

 爪で引っ掻かれないようにゆっくり剥がして胸に抱いた

「……そう言えば展望台って、こいつ連れても大丈夫なのか?」

「さぁ…無理だったら外で待ってるよ。」

 マリアの考えているようで何も考えていない所は美点且つ意味不明だ

 一対一になるという最悪の状況になったら帰ろう、胃に穴が空く前に。

 建物の陰に隠れて、しばらく二人とも黙ったまま、紫原を待つ

 斜陽の町はどこか懐かしさを帯びたオレンジで染まって

 すこし感傷的な気分にさせた。