8月―――

 強烈な日差しで焼けたアスファルトを冷やすように小雨が降っている。

 街の音も透明な気配に吸いこまれていく静かな街で

 一人ぽつりと目的もなくうつむいて歩いていた。

 朝に姉と口論になった、理由は特になくて

 ほんの些細な事。

 口論というよりはただ一方的に罵られただけで

 それでも自分のやってきた事を考えるなら

 姉の方が正しい事を言っているのかもしれない

 だけど

 母が仲裁に入った時

 姉の側の立場で話していたのが、少し悲しい、わかってはいるけれど。

 なんだか私が家族の空気を汚しているような気になって

 髪も結うのも忘れて家を出て

 こうして今、雨の中にいる。



 ポケットの中の小銭を手の中で転がしながら

 ゆっくりと瞬きして、ためいきをひとつはく

 私がほんの少し勉強が人並みに出来れば、ほんの少し人に優しければ。

 きっとこんな重たい溜息を吐くこともなくて…。

 駅前の広場のベンチで足を止めて身を屈めて

 物憂げな表情で時折通る電車を眺めていた。

 何度目の電車を見送っただろう、茜に会いに行こうと思った。



 大陽も時計も見えないから昼過ぎかどうかわからない

 駅で隣の町まで移動したのち茜の家までついた

 玄関前でインターホンを押すのに躊躇した。

 何の連絡もしていないのに私が急に来ても

 きっと…たぶん迷惑に違いない。

 雨で服の裾も濡れているし…髪も…。

 このまま帰るかどうか、うろうろしてみたけれど

 ここまで歩くのに相当疲れて、引き返す気力はなく

 仮に茜がいなくてもほんの少しだけでも休ませてもらおうと

 申し訳ない気持ちで玄関のチャイムを鳴らした



「…あらぁ…?」

 玄関から出てきた茜は不思議そうな顔をしている

「雨降ってるのに、ここまで来るなんて、彩の家って遠いよね?
 ……あぁ、雨だからか…。」

 そう、夏の晴れた日は来れない。

 私が頷くと、茜は私を上から下まで視線を動かして

「今日は髪下ろしてるんだ…太ももの所まであるんだ〜。」

 と感慨深げに言い、おもむろに私の髪を撫でる

「あ…、髪…濡れてるから…。」

 ちょっと焦って、意味不明の手振りでそう言った。

 茜は悪い事をしたという表情をして、手を離した

 そんなつもりじゃないのに

 茜の手を濡らしたら悪いと思っただけで。

 そう伝えたくても言葉には出ないまま

 お互いに沈黙が続いていた。

 何かを話さなくては、と迫られた様な雰囲気、

 私はポケットの小銭を強く握って

「えと、少しでいいんだ、休ませて…くれない……?」

 と目を背けて、小声でそう言った。

「ん、まぁいいけど、
 でもちょっと玄関で待ってて、部屋片付けるから。」

 茜は私を家の中まで招き入れて、その後一人急ぎ足で部屋に戻っていった

 どうやら親はいないみたいだ、冷蔵庫の低い音と

 茜の部屋からガチャガチャと何かを片付けている音だけがする。

 布団を畳む音もする

 空手の大会の時も昼眠そうだったけど、やっぱり昼まで寝てるようだ

 案外怠惰な生活をしているみたいで、同じように怠惰な私は安心した

 それにしてもやっぱり急に来るのは迷惑だったなぁ。



「ごめん、急に…。」

 茜の部屋でとりあえず私は謝ってみる、今更なのはもちろんわかっている。

「本当に急でびっくりしたよ…これからは連絡してほしいな。」

 茜の素直な反応に少しショックを受けつつも

 忌憚のない言葉は同時に安心もさせてくれた。

 渡されたタオルで髪をふいて

 疲れた足をのばしてだらけた格好で床に座る

「彩さあ、その髪型で学校いけば?イメージ変わって見えるよ。」

「この髪型って…ただ何の手入れもしなかっただけだけど…。」

 別に誰に見せるわけでもないけど、どんなイメージなのかは気になる。

 私は同じクラスメイトの名前も覚えてないのに、他人のイメージなんて

 関係ないか・・・。

 そのあと、茜とは特に何を話すわけでもなく

 テレビを眺めてチャンネルをくるくる回して見たり

 机に無造作に置かれている雑誌をパラパラとめくって

 音楽を聞いて、どこか遠い所に意識を預けて

 頭の中ではたくさん、ずっとしゃべっているけど口には出ない

 そんな時間を過ごした



 外は空を覆う雨雲の速度が早くなって、雲間に光を通している

 部屋では茜は勉強を始めている

 宿題はきっともう終わらせたのか

 それとも1日のノルマを決めて、その分は終わっているのか

 課題とは別の問題を解いている

 勉強が分からない私にとって一番難しいのは

 まず何をやればいいのかすらわからない事で

 頭のいいのは問題点を自分で見つけてそれをこなしている

 私はぼんやりとシャープペンの走る動きを眺めて、割とはっきりした声で

「勉強しなきゃ…。」

 と言った。

「……彩?」

 茜はペンを止めて私の方を見やる、素っ頓狂な顔をしている。

 なぜあんな事が口に出たのか私自身にもわからなかった

 あんまり頭の中で喋っているから、溢れて出てきた独り言なんだろうか

 なんて、無理やり自己完結させながら、今度は声に出す内容を考えてから

「そろそろ帰るよ…。」

 雲の隙間から見える色は既に青から橙に変わりつつあって

 空と窓から入ってくるぬるい風が時間を教えてくれた。

 じゃあ…と立ち上がって、乾いた服の裾を伸ばして

 そのまま玄関を出た。



 夕間暮れ、雨は止んで、濡れた地面と草木が僅かに漏れる太陽の光を受けて

 星のように光っている。

 帰りの妙に長くのびる道、傘で覆われた影も私の後ろに長く伸びて

 雨の匂いのする蒸し暑い空気が気だるさに拍車をかける。

 駅の近くの人だかりには仕事帰りの人でいっぱいになっている

 駅中央にある時計は6時15分、今日初めて時計を見た

 次の電車に乗ればほんの数分とはいえ、ほぼ満員なのが想像つく時間帯

 かといってそれを避けるとバスやタクシーに頼ることになる

 タクシーはお金がかかるし、バスはもう少し待たなくてはいけない

 朝に一悶着あった手前、それに勉強しようなんて

 柄でもない事を口に出してしまった以上、できるだけ早めに帰ろう。

 切符売り場、駅のプラットホーム

 多くの人の喧騒が夕暮れに映える

 それを遠くから眺める分には私は好きだ

 その中に入るのは心底嫌だけど。



 レールの向こう側のビルの合間から現れた電車は既に座る所はなくて

 案の定の満員

 テレビの中で見る都会の全く空間のゆとりのない

 満員電車に比べるとわけもないが

 片田舎のこの街では満員電車と言われている

 私はなんとかドアの前に場所を確保して

 顔を伏せて、気難しい顔をして次の駅までの10分をすごす

 電車の揺れでふらつく体をドア近くの銀の手すりを頼って

 体勢を整える、満員電車で隣にいる人になるべくぶつからないように

 誰にも顔を合わせないように



 家に帰ってからはシャワーを浴びて

 家族に見つからないようにこそこそと部屋に戻る

 新品のように綺麗な教科書を開いて流し読みすると

 風呂上りのさっぱりとした気持ちが消えていく

 国語はともかく、1年の問題もわからない数学、記号ばかりの謎の言語を発している物理

 ローマ字の発音じゃないのに現地の人はどうやって読んでいるんだろうと不思議になる英語

 記憶力の限界にでも挑戦したいのかというくらい物事の名前がひたすら羅列している社会

 英語の本をパラパラとめくって、めくる空虚の時間。

 どうしてこんな事をしているんだろう

 ―自分の為、他の何でもない

 私が出来るような事は今はこれくらいしか浮かばない

 何が変わるのかわからないけれど、変える方法はほかになかった

 少なくとも人に優しく付き合う、みたいな事よりも

 具体的で、ついでに余り気を使わないで済むのだから。

 理解できない本の内容を過去に遡って

 元倉庫の私の部屋の奥から見つけた中学のころの数学の本は

 中学2年のものまでは開くと蛍光のペンでラインが引いてあって

 その頃はまだ勉強をしていた形跡が伺える

 中二の数学の本の適当に開いたページの問題をやってみると

 忘れた公式を見ながらであれば、出来ない事もない

 どこまでわかっていて、どこからわからないのか

 その境界線を探す

 数学に関してはこの下線の数が減っていく頃から…

 中学2年の後半から高校2年までの大体3年分

 その上これからも新しく範囲は広がっていく

 果たして追いつけるのだろうか…

 「これは無理じゃねーか…。」中学の問題をしながら

 愚痴を心中で念仏の様に何度も繰り返していた。